28.共同研究者
あれから一年が経ち、僕らが十三歳になると、スパルーツさんの研究も目に見えて成果が上がってきました。
血清による治療、ジフテリアと破傷風についてはほぼ確立されまして、現在は学院の厩舎でジフテリアと破傷風の抗体を持った馬が飼われていて、患者の発生に備えています。患者が発生したら、この馬から血を抜いて血清を作り、投与する態勢ができたんですよ。凄いですね。
「そんなわけで、この論文にはセレア様の名前も共同研究者で入れさせてもらいました!」
「いえいえ! 私そんな大げさなことしてませんし! ちょっと知ってたことをお教えしただけですし! 共同研究者なんてとんでもない!」
久しぶりに研究室を訪問しますと、あいかわらずテンション高いスパルーツさんが研究結果を嬉しそうに次々と報告してくれるんですよ。
しかし、共同研究者にもセレアの名前を入れちゃうってのは凄いなあ!
「安全性が確立されてからにしてほしいです……。ヘタしたらそれで死ぬ人だっているんですから」
「今のところは。注意されました通り、アレルギー反応のチェックをしてから投与するようにしていますし、カルテを普及させてくれたおかげで過去の治療歴も残っていますから、アナフィラキシーも防げてます。本当にセレア様のおかげです」
医学会でのセレアの名声も上がるってもんです。僕はちょっとうれしいかな。
なによりこれでセレアの発言力が上がることが期待できます。
「それで、血清治療の応用なんですが、こちらはちょっと手詰まりです。毒ヘビの毒にも効くというのは興味深いんですが、わが国には毒ヘビ、毒グモなどがいませんから。遠い外国では冒険者がヒドラに襲われて命を落としたという例はありますが、まさかヒドラを捕まえて毒を採取するというわけにもいきませんで」
「でしょうねえ……」
モンスターを生け捕りにしなきゃいけませんもんねえ。セレアが「野口英世ってお医者様が、毒ヘビをたくさん飼って、毒を集めて血清の研究をしていました」って事例を教えてくれたんですけど、この国では出番がないみたいです。
「血清には『抗体』が含まれるというのまでは証明ができました。細菌が作る毒素を中和してくれるわけですね。毒ヘビに効くのもそのためだと思われます。免疫が移動するわけではないのです。実際に細菌を殺し、病気の治療をしているのは免疫を獲得したボクらの体そのものなんです。ボクは今、この菌そのものをやっつけることができないかを考えていますが、どーも行き詰まっているところでしてねえ……」
今でも十分な成果を出していると言えるスパルーツさんですが、医学の道は果てしないです。
研究室、大きくなって、菌を培養しているシャーレも増えました。
色とりどりの菌が保温庫の中で成長中です。
「これがジフテリア菌、これは破傷風菌、ボツリヌス菌……。顕微鏡のおかげで多くの菌を分離、培養できるようになりましてね。緑膿菌、ブドウ球菌……」
「凄いですね」
「まだまだです。狂犬病、天然痘、普通の風邪、感染性があるのに菌が発見できない病気も少なくありません。これらについては今でも発生源が全く不明なんですよ」
これにはセレアも困っちゃいます。十歳の知識ではそこまではさすがに無いのかも。
「先生! ちょっと衛生の人が来てるんですが!」
「あ、あの、ちょっと待って。今こっちに王子様が来てるからね!?」
研究員の人に声をかけられてスパルーツさんが慌てますね。
「いえ、僕らおとなしくしてますんで行ってきてあげてください。緊急でしょ?」
「はあ、いやいや王子様をお待たせするわけには……。大切な研究のパトロン様ですし」
「気にしないで」
「すみません。すぐ戻ります!」
そう言うと、研究室を出て行っちゃいました。
「……これ飲めるのかな?」
スパルーツさんがアルコールランプで沸かしたビーカーに紅茶入れてくれて出してくれたんですが、こんなに菌をいろいろ見せられた後だとさすがに飲む気が起きませんね……。アルコールはこんなふうに燃料にもなります。植物油のランプと違ってススも匂いもありませんので上流階級でのお茶会で人気になっちゃって。僕はこれ元は医療用として産業化した経緯を知ってますんで、なんだか無駄遣いしてるような気がしますけど。
セレアが研究室をフラフラ見回して、スパルーツさんの机の上に置きっぱなしになってるパンを見ます。いつのパンだよ……。カビ生えちゃってます。研究に夢中なんですね。
セレアがその古いパンをつまみあげて、菌の保温庫を開きます。
「ちょ、セレア? ダメだよ! 勝手にいじっちゃ。それに危ないよ!」
セレアが口の前に指を立てて、しーってします。
え? え? え? 何する気?
勝手にシャーレを開けて、パンの青カビを削り落として振りまきます。
ええええええええ――――!???
「(なにやってんのセレア!)」
「(実験です!)」
いたずらっぽく笑って、保温庫を戻し、アルコールランプの芯を外して、手のひらにアルコールを振りかけてよく揉み擦ってから、水場でせっけんで洗い、カビだらけのパンもアルコールを振りかけてから生ごみに捨ててます。
「誰にも言ったらだめですよ」
「先生困っちゃうよ。細菌に青カビ生えちゃうって。研究邪魔してどうすんの」
僕はセレアがなんでこんなイタズラするのか、全然意味が解りませんね。
スパルーツさんが戻ってきました。
「いやいやいや、お待たせしました。こっちに病気の馬がいるとか話を聞きつけて見に来たみたいで。まだまだ説明が面倒くさいですな」
「さっきの狂犬病と天然痘なんですけど」
セレアが話を戻すと、スパルーツさんが目を輝かせて身を乗り出しますね。
「はい!」
「それ、ウイルスって言って、菌が顕微鏡でも見えないぐらい小さいはずです。シャーレでも培養できないですし」
「ええ――――!」
スパルーツさんがガックリします。
「……そんな見つけられない菌、どうしようもないですよ……」
セレアのいた世界、医学凄いです。そんなものが存在してるってわかってるってことですからね。
帰りの馬車で、なんであんなことやったのかセレアに聞きますと、「青カビから薬ができるんです」って言うんですよ。びっくりです。
「スパルーツさんみたいにシャーレで菌を培養する実験をしていたお医者様がいたんですが、シャーレにカビが生えちゃったんですね。で、最初は失敗したと思ったんですが、よく見ると青カビが菌を溶かしちゃってるのを見つけたんです。それで、青カビには菌を殺す力があるって発見して、それを取り出したのがペニシリンって薬で、何にでも効く万能薬みたいになりました」
「よく知ってたねそんな話」
「『失敗は成功の母』ってたとえ話で必ず出てくる有名なエピソードで、私の国の人はみんな知ってる話なんですよ」
「……凄いなそれ。でもそれだったら、そうだって教えてあげればいいのに」
「スパルーツさんだったら、きっと自分で気が付くって思って」
「そんなに共同研究者にされちゃったのイヤだった?」
「イヤ!」
なんでえ? わかんないなー。
まあいいか。今後に期待しましょ。
「狂犬病と天然痘は?」
「この世界にホルマリンがあれば、ウイルスを弱毒化してワクチンが作れるんですけど、電子顕微鏡もないしウイルスの発見はまだまだ先になっちゃいますね」
ごめん何言ってんのか一言もわからない。
「そのうち牛痘にかかって治った人は天然痘にかからないって話もしてみようと思います」
ごめんそれも何だか全くわからないよセレア。
馬車で通りかかった街角にハンス商会のコンビニエンスストアがあります。
はやっているようです。これもセレアの予想どおりですね。夜や早朝だけでなく、日中もたくさんのお客さんがやってきます。弁当と飲み物がよく売れるようです。
お茶、といいますと、僕らはお湯で飲むものと決まっていましたが、冷めているお茶を瓶詰めして売れるもんかとおもいきや、これが売れるんですよね! びっくりです。お茶は温かいものという僕らの固定観念をひっくり返す大変な発想の転換と言えるかもしれません。
いつでも開いていて、いつでも買い物ができるせいで一部の市民のライフスタイルも変わりました。自分で料理をせず、弁当で済ます人が増えています。
お母さんや奥さんに弁当を作ってもらっていた人も、コンビニで済ますようになっている人がいるんです。まだ一部ですけど。
結婚しなくても独身で不自由しないということになり、これは国民の晩婚化を招くのでは? と危惧する人もいます。
もちろん、自分で作ればいい弁当をお店で買うのだから、それにはお金が余計にかかります。コンビニの弁当は市内のハンス料理店で大量生産していますから、富の集中が起こり始めています。
コンビニに依存すると生活は確かに楽になります。夜遅くまで仕事ができます。
コンビニのおかげで長時間労働ができるようになりました。でも長時間労働して稼いだお金をコンビニに吸い上げられているんです。そういう批判も出てきました。
まだ王都に二店舗だけです。大した勢力じゃありません。
でもセレアが言うように、街がコンビニだらけになり、既存の小売店、食料品店を次々に廃業に追い込むようなことになる前に規制も考えないといけないかもしれません。
「……今は七時から十一時までですけど、そのうち二十四時間営業も始めるかもしれません」
セレアが馬車の窓からお店を眺めて、そんなことを言います。
「二十四時間! そんなのお店で働いてくれる人いるの?!」
「交代で店番をやるんです」
「そんな夜遅くに買い物に来る人いるかなあ……」
「コンビニには人の生活時間を変えてしまう力があるんです」
「怖いね……」
着々と勢力拡大中。ハンス商会の娘、リンス、恐るべし。今後も監視を続けなければいけませんね。
次回「29.避暑地の出来事」