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初めての恋は、5回目の目覚めの時だった。
当時の当主はもうよぼよぼのお爺さんで会うのはもう三回目だったけど、人はこうして老けていくんだな、という感想くらいしか持てなかった。
それよりも気になったのは、彼の孫と紹介された二人の男。その、弟の方。
利発そうな顔だった。切れ長なのに、何故か優しそうに見える目をしていた。笑うとえくぼが出来た。くせのある栗毛は撫でると柔らかくて、お日様のような匂いがした。
5回目の目覚めの時だった。
一目で私は恋に落ち、その後の二年間は彼との思い出以外は何もないと言って良くて。
そして、気持ちだけは一つも彼に伝えることが出来なかった。
§◆§
恥ずかしい話だけど、私は主観として十四年、実態として百五十四年を過ごしたこのアトルマークのお屋敷で、未だに迷子になることがある。
監視が付いているのにおかしな話のように思えるけど、彼らは私の屋敷内の自由行動を束縛するようなことはしない。実験の目的が、私の精神的な成熟に伴う変化を記録することだから、必要以上の干渉は御法度ということらしい。
だから私は、屋敷の中で迷っても、屋敷の中の顔見知りに会うか自力で見知った場所にたどり着くまでは、延々と迷子のままだ。
ついでだから言ってしまおう。この屋敷はおかしい。
部屋数は三桁、使用人のものも含めれば食堂だけで十四、おまけに同じ階の部屋に行くために階段を昇って降りたり。迷宮と呼んでも差し支えない。
そんなことをアゼリアに文句たらたらに言ってみたら、「ここは武門の家だからな、敵への備えも必要ということだろう」なんて答えが返ってきた。誰と戦ってるんだか。
お陰で私は、自室で食べるお茶菓子を取りに行くだけの用で迷子になっている。こんな間抜けな話は私に限ったことではなく、この屋敷の使用人の第一の試練は迷わず目的の部屋に行けるようになること、というのだから呆れるを通り越して笑えてしまう。
何か、自室へたどり着くための目印は無いものか。
外を見れば、これまた面白いくらいに広大な敷地の向こうに正門。そこから真っ直ぐ、丁寧に刈り取られた芝生を貫く石畳の道と、街路樹として並ぶ白樺の木。
そこから、屋敷内の大体の位置は判る。迷ううちに私は、自室のある東館から本館に足を踏み入れていたらしい。
さすがに歩き続けて二十分と少し、いつもは使わない禁じ手すら頭をよぎる。格好悪いとか考えることすら面倒くさい。
外は物凄く良い天気。視界を転じて廊下に目を向ければ、照明が煌々と灯っているのにどこか辛気臭く、薄暗い。
もう一度言おう、ここは迷宮と呼んでも差し支えない。
そして、この比喩は決して的外れではないと思う。ただし、その目的はアゼリアの言う、侵入者への備えなんてもんじゃない。
この迷宮は、私を外に出さないために有る。
例えば、この窓から外に出ようとする。窓枠に手を掛けて開けようとしたその瞬間、今まで欠片もその姿を現さなかった監視が、私を窓から引き剥がし、自室に閉じ込めるだろう。
アトルマーク家も、伊達や酔狂でこんな遠大な実験に付き合おうとしたわけじゃない。彼らにも見返りがあるからこその協力だった。
聞いたところだと、私の実験に付き合わせる代わりにバイナルから得た手付け金代わりは三つ。一つは、惑星改造用自律機械の高度な平衡機構技術。二つ目が、フレーム強度を飛躍的に高める合金素材のレシピ。三つ目に、大電力兵器の使用を可能にする大容量高出力な化学コンデンサの制御ノウハウ。
三つ併せて兵器開発に使えば他の勢力に対する大きなアドバンテージになるし、商売に使えば巨万の富に化けるそれらは、私の棺、シルフィネスにしか今のところ使われていない。
実験成功の暁にはその十倍の技術提供を約束されているものだから、先ずは私の身の安全と成功裏な実験遂行にのみ使おうということなんだろう。屋敷の改築やシルフィネスの開発、おまけで私に掛かる諸経費を考えても、リターンは十分なのだから。
ともあれ、一瞬考えた脱出というプランは却下だ。捕まれば一週間は屋敷内の自由も許されない、というのは重すぎるペナルティだ。
となれば次善策、これも格好良いものではないが、どこかの部屋に入って使用人を捕まえて、私の部屋への案内を頼もうか。
あれこれと考えていると、周囲が目に入らなくなるのは私の悪い癖だ。いきなり目の前から声が掛かった。
「リンカ? こんな所で何をしている?」
アゼリアだ。
一番見つかりたくない人に見つかったなぁ、と心底思う。
「えーっと、」
使用人に迷子のところを見つかるのはまだいい。でも、友達に見つかるのはどうにも気まずい。百五十四年も屋敷にいる古株なのに、お菓子探しで遭難とはいい笑い物だ。
何か適当な理由は。例えば、そう、西館の図書室に本を探しに行ったとか。右手に持ったお菓子なんてそのついでとでも、
「お茶菓子を取りに行っていると、マリーからは聞いていたんだが」
マリーとは、迷子になるちょっと前に話し相手にしていた使用人だ。おのれ。
見ればアゼリアの顔には、ちょっと意地の悪い笑みが浮かんでいる。これはまたしばらく話の種にされてしまう。
「……いじわる」
「ま、次からは誰か共に付けるか、使用人に言うことだな」
「そう言うアゼリアは何してるの。学校は?」
「急な用でな。ディーネスから叔父上が来訪されて、港に出迎えに行っていた」
ぴんときた。
「叔父って、レイルズ?」
尋ねるとアゼリアは、きょとんとした顔でこう言った。
「……知っているのか?」
そりゃ知っているに決まっている。
前回目覚めたときの当主の孫二人、その兄は現当主であるマイルズ。その弟がレイルズ。
二十年ごとに目覚めるということは、各時代のこの家の人間のほとんどを見知るということだ。
「いや、それは知っているはずだな、……すまん、失念していた」
「いいよ、別に。私がアゼリアのこと好きなのは、そうやって私のこと普通の人として扱ってくれるからだもん」
そうなのだ。
アゼリアは、あんな出会い方をしたと言うのに、私のことをただの一個人として扱ってくれる。
今までのこの屋敷の人間は、私のことを腫れ物のように扱うか、または違う生き物だとでも言うように明らかな嫌悪感を以て接するかのどちらかだった。だから、アゼリアの接し方は、私の来歴を時折すっかり忘れるところも含めて心地が良かった。
「そうはいかない。リンカは我が一族の使命の体現であり、大事な客人だからな」
……こういう堅苦しいところが無くなれば、もっと素敵なんだけど。
「それで、レイルズはどこ?」
「父上とサロンで会談中だ。人払いしていたし、重要な話なんだろう。もうしばらくは掛かると思った方がいい」
「そっかぁ」
つぶやいた言葉は、自分でも驚くほど浮ついたものだった。
今から学校に戻ったところでほとんど授業は終わってしまっているから、とお茶の同席を申し出たアゼリアと一緒に、中庭のウッドデッキまで足を延ばした。
なにしろ広いお屋敷のこと、風雨に晒されていい具合に味が出た色合いの木目が敷き詰められたここは、暖かい気候の頃には屋外パーティの会場にもなるくらい広い。
移動の道すがらで侍女室から連れ出したマリーに、紅茶を入れてもらった後で席に着くことを促し、ティーカップに口を付ける。
お茶請けは私が確保したバタークッキーと、
「それで、レイルズ叔父とはどんな関係だったのだ?」
と面白そうな口調で引き出される、私の恥ずかしい過去話のようだ。
勿論、私だっていいように話題を提供するつもりは無く、
「何のこと?」
「とぼけることは無いよ。さっきの弛みきった顔と声で、大抵のところは察している」
あっさりと切って返された。
「……アゼリアがそんなに醜聞好きとは思わなかった」
「失礼だな、これでも婦女子の端くれだ。色恋沙汰にはそれなりに興味はあるぞ」
だから、そういう口調で色恋沙汰とか言っちゃうところからして意外性満点なんだけど。
アゼリアは、私が居候するアトルマーク家の嫡子にして一人娘だ。
アトルマークは武門の家。このエヒト市の武力を司り、高度に組織化された警備軍において、世襲制ではなく門外不出の戦術理論を以て、実力から軍司令を代々排出してきた筋金入りの職業軍人だ。
とは言えさすがに女性であるアゼリアまで軍人をやらせる気は無かったらしいけど、その意に反してアゼリアは家風に見事に染まり、ミドルスクールの卒業レポートでは幾らかの指摘点はあるものの見事な兵站運用理論を語りと、今ではエヒト市始まって以来の女性軍司令となる日も近いと言われているとかいないとか。背に届く金髪に十六歳という年齢にしてすらりとした長身という、母親から受け継いだ貴族の佳人然とした容姿には不似合いな言葉遣いは、しかし各所で密かな人気を呼んでいるらしい。
その口から私の惚れた腫れたをせっつく台詞が聞けるとは思いもしなかった。
「アゼリア様、あまり急かすとリンカ様も困ってしまいますよ」
と、アゼリアを横から窘めるのはほとんど私専属みたいなメイドのマリーだ。
本当は客室のハウスメイキングや一族の人間が不在の間の接客を担当しているんだけど、目覚めてから名目上客人扱いとなった私の世話を主に行っている。
マリーはマリーで、アゼリアとはまた違ったタイプの美人だ。アゼリアは何というか、触れれば切れそうな鋭利な美しさだけど、マリーは優しく包み込んでくれるような、柔らかな美しさ。
この二人は、背も小さく髪だって癖っ毛気味な私のコンプレックスをいたく刺激してくれる。
「そうは言うがな、気にならないか?」
「ええ、気になりますとも。だからこそ、リンカ様には気持ちよく思い出を語って頂きたいではありませんか」
そしてこの通り、私をからかうことに喜びを見出すとても良い趣味を持っている。
まぁ、私もそれが嫌というわけでもないけれど。
「言っておくけど」
と前置きして、私は続ける。
「特別なことなんて、何も無かったんですからね」
これは事実だ。
同い年の男女が一つ屋根の下に居たのは確かだけど、そしてそのおかげで私の心は千々に乱れたけど、でもそれだけだ。
「そんな事は百も承知している」
「そうです。私たちがお聞きしたいのは、リンカ様が何も出来ずにどう悶々とした気持ちにいたか」
本当にこの二人はよい趣味をしている。
今こうして、どう返すかを考えあぐねている間も、この二人は興味津々とばかりに私の顔を覗き見ている。そんなにおもしろい顔をしているだろうか。
と、二人の視線が私の顔から外れた。
さらにマリーは何時もの笑みで形作られた口を、下品にはならないように、でも明らかにぽかんとした感じで開いた。アゼリアに至っては、ばつが悪そうな顔でさらにあらぬ方角に顔を背ける。
こんな話を聞き出そうとしておいて、明らかに挙動不審だ。
「ちょっと。二人とも、私から恥ずかしい話を聞き出そうとしておいて、何よその態……」
「ごめん、お邪魔だったかな?」
突然背後そんな声がかかり、目の前の二人とは比較にならないくらいに挙動不審になった。
随分と声が低くなって、大人びた感じになった。
でも、忘れようにも忘れられない。この、どこかふわふわした感じの声。
何だろう、私には出会いの度に背中から声を掛けられる呪いでも掛かっているのか。
私はひどく狼狽して、なのに、やはりこの名前を口に出すときは、どうしても浮ついた声になってしまった。
「レイルズ……?」
「久し振りだね、リンカ」
振り返り、顔を見て、ようやくの実感だ。
私は、また一人、二十年の時を飛び越えてしまった。それが、今このときに、ようやく理解できてしまった。