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Side-B 【世界の輪郭】

 きっかけは些細な事だった。自分が好きなことが好きな人。結びつきはプログラムだった。土木工学専攻でも昨今は研究にはプログラムは必要不可欠なツールだ。お金をかけて大掛かりな装置や試験体を作らなくてもプログラム一つで同様の結果を得ることができる。また、過酷な条件下の試験や測定を行わなくても良い。低学年のときの必修授業でプログラムに出会いその魅力にとりつかされた。卒研で仮想生態学を専攻した当初は生態学への興味よりも指導教授の研究手法への関心が強かった。生態学研究室で仮想生態学を専攻した学生は一人だけだったのでゼミは一対一で行われた。手厚い指導のお陰で数値シミュレーションを行うのに必要な数学とプログラミング手法の取得は順調に進んだ。研究テーマは仮想空間上での魚類の物理的生育環境の作成になった。進路は研究を継続させたかったので内部進学に決めた。


 進路が決まった後は見識を広げるために生態学研究室のフィールドワークにも参加した。蛍の生育環境の再生のための水質・土質調査、ビオトープの作成、食物連鎖を見据えた生態系の把握、カワニナの育成など生態系保全に対して多方面からアプローチを試みる同級生との作業は刺激的だった。一緒の時間を過ごすうちに同じ研究室の同級生との仲は特別になった。楽しいことが多かったが、生態系保全の現実を知るほど気持ちがふさぐ事が増えていった。


 環境特に生態系保全の研究は会社の生産の二の次になっている。悪意の第三者の存在だけではなく無知の第三者の教育の問題もある。技術者のみの視点で生産を続けている限り生態系保全は永遠に実現されないだろう。指導教授と研究について話す機会があったので胸の中で抱えているざわつきを話したら一笑に付された。研究の意義を見いだせなくなってから研究を続けていくことに虚無感を抱くようになった。割り切れれば良いのだがそこまでドライになれない。卒研は最善を尽くす。ただ、進学したら材料工学研究室で卒業する先輩の数値シミュレーションを用いた研究を引き継ぐことに決めた。客観的に見たら青臭いし、甘えきった考えだったが当時はそれだけしか考えられなかった。


  卒研は学科内で主席だった。学会の支部大会だけではなく全国大会でも賞を頂いた。早くもいくつかの大学院や研究所の配属の話が出たほどだ。その度に胃にチクリと針が刺さる感触がした。研究室転籍は学科長によってあっさりと許可が出た。しかし、苦難の始まりはこれからだった。生態系研究室の教授の恨みを買ったらしく存在否定さえ含まれる悪口を毎日のように言われ続けた。内部進学だったので狭い世界は更に狭くなり、研究室転籍の理由は面白おかしく脚色され学内に流布された。次第に眠れなくなり、新しい研究室だけではなく学校にも行くことが難しくなった。フラストレーションは募るばかりでつい家族に八つ当たりばかりしていた。学校から一刻も早く開放されたいと思い退学届けを書いていたら家族によって心療内科に連れて行かされた。鬱病(うつびょう)だった。気づいたら春はとっくに終わり季節は晩夏になっていた。体調不良と準備不足で入試や公務員試験も間に合わない現実が突きつけられた。残された選択肢は休学しかなかった。医師から処方された睡眠薬のおかげで睡眠を取れるようになった。睡眠は身体を回復させ、気分の安定に繋がった。勉強は生きる気力を産んだ。春から復学することが決まった。


 この学舎で何度の春を迎えたのだろう。春の訪れのたびに背筋がピンとなる。空調が効いていて清潔感に溢れた生態学研究室とは異なり材料工学研究室は実験工場に併設されていた。埃っぽい実験工場を抜けて研究室のドアを久しぶりに開ける。プログラミングや数値シミュレーションの専門書は去年の春に図書館から持ってきたきり読まれていないようだ。他の大量にある材料工学の本と比べると扱いは雲泥の差だ。新しく研究室に配属された学生は全員男子だった。鞄にはSPIの問題集や入試の定番の参考書が入れられている。進路が決定するまでは研究を本格的にはしないことは不文律である。お互い自己紹介をしただけで研究室初日は終わった。新しい生活に馴染んだ頃には空調が扇風機しか無い研究室に熱源であるパソコンが設置されている事が恨めしくなる暑さに襲われていた。新しい研究室生たちは進路が次々と決まり、遅れを挽回するために毎日研究室に通っていた。うだるような暑さの中、連日のように長袖の作業服に身を包み懸命に実験に励んでいた。今日は昨晩までおこなっていた卒研の材料実験と専門科目の製図の課題がバッティングしたらしく疲労の色が濃かった。そんな彼らにアイスコーヒーを淹れる。彼らも冷たいものが欲しかったらしく一気に飲み干して、すぐに二杯目を注いでいた。


 熱くほてった体を冷たいものを飲んで冷やしながら雑談に興じている中で一人だけ例外がいた。河口悠人(かわぐち ゆうと)。土木工学科の学生らしい名前だったので一度で覚えた。彼は話の輪に入ることも無く、パソコンを無言で立ち上げ殴り書きの実験データをひたすら機械的に入力していった。キーボードを叩く規則的な音が鳴り響く。しばらくしたらその音は止まった。本棚からプログラムと数値シミュレーションの本を取り出しページを捲る。端正に整えられた顔をまたディスプレイに向けて今度はプログラミングを始めた。彼の研究テーマが気になった。研究テーマを確かめると鉄筋コンクリートの力学的挙動の数値シミュレーションによるOpen-GL(オープンジーエル)を用いた可視化だった。同じ研究テーマである。ついプログラムが気になり後ろからディスプレイに表示されているプログラムのコードを読む。彼はプログラミングに没頭していて気がついていなかった。プログラムは訂正箇所が多少あるがあとは完璧に等しい。普段必要最低限のことしか話さない彼の印象は炭酸飲料を飲んでいることしか残っていない。プログラミングはまだ終わりそうになかったので生協で炭酸飲料を買ってきた。時計は22時を指していた。我ながら魔が差したとしか言えない行動を取った。よく冷えた炭酸飲料を後ろから彼の頬に当てたのだ。彼の体はビクリと動いた。驚いた表情でこちらを見つめた。この場を取り尽くすために後輩が先輩に求めているのはアドバイスだということだと焦った頭で数秒のうちに判断し、プログラムの訂正箇所を指摘した。アドバイスを与えたことは正解だったらしく彼の表情が和らいだ。「おつかれ」と声をかけ、二人で研究室を後にした。


 実験棟に横付けしている車への道中で彼と初めて世間話以外の会話をした。数学とプログラミングが好きなこと、低学年のうちから材料工学に興味があって、研究で好きな材料工学と数学、プログラミングを扱うことができて嬉しいと言葉を続けた。彼の整ったどこか冷たさも感じるような外見と普段の研究室での様子からは想像できないぐらい彼の話は熱を帯びていた。もっと話しを続けたかったので手持ちのカードを検索し、蛍を見に行くことに誘った。しばらく間が空いた。あまりにも唐突なことだったので断られるかと思ったが誘いは了承された。体裁をなんとか取りつくし、車の進路を蛍の生息する沼に向けた。深夜にも関わらず蛍は瞬きを続けていた。彼の瞳にはその幻想的とも言える風景が写っていた。しばらく二人とも会話をすることを忘れ、ただ蛍の瞬きを見ていた。非日常の共有は当人にも分からない事を生み出す。気がついたら自分でも触れたくない留年の理由について告白していた。彼はただ静かに話をきいていた。話が終わった後も陳腐な励ましの言葉や嘲りの様子は見せなかった。そのことがありがたかった。


 翌日も彼は変わる様子もなく、いつもどおり静かに研究を続けていた。日常は止まること無く、加速度をまして一年の終わりへと進んでいった。蛍の夜は静かに遠ざかっていった。初めて見送る側として卒業式に出席をする。卒業生に贈る花束を車に積める。車中が花の香りに包まれる。パンツスーツに着替え化粧を整え車に乗り込む。ドライビングシューズでアクセルを踏み込み車を加速させる。通い慣れた道を走る。この道を走るのも後一年。復学してからの一年はあっという間だった。留年した理由を誰にも話さないと決めていたのにふとしたきっかけで心の中のコップの水が溢れた。一方的な告白のあとも彼は変わること無く一人の先輩として接してくれた。研究に没頭できた。その幸福を与えてくれたことは感謝の言葉をいくら尽くしても足りることはない。言葉で表せられないことは花束に託そう。花束に秘めたことは気が付かれないだろう。同じ研究に興味をいだき、打ち込んだ者どうしに抱く恋に等しい感情。その感情は新しい世界に羽ばたく彼には重たすぎるから胸のうちに秘めておくだけで満足しよう。考えを巡らせていたら式は終わっていた。学位記を片手にした卒業生が会場から去るのを見届け、式場から退出する。長身の彼を探すのには苦労をしなかった。彼がこちらに気づき手を振る。それに応じる形で手を振り返す。花束を持ち直し、彼に近づく。言葉をかける。その言葉で彼がいた研究生活の幕は閉じる。卒業おめでとう。 FIN.


悠人と知世さんの研究は私が学生時代に行った研究です。

研究に挑んだ日々は今となっては懐かしい限りです。

悠人と知世さんの物語はまだ始まったばかりです。

次の話以降はラブコメになります。二人の暴走は筆者でも止められません。

お題サイト「恋したくなるお題(配布)」さまからお題をいただきました。(http://hinata.chips.jp/)お題は「キスの詰め合わせ」です。

またお会い出来ることを楽しみにしております。


2017年2月28日 長谷川真美


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