Side-A【蛍の瞬き】
鈍い痛みとともに目が覚めた。今は何時だろう。時間を確認する。朝の6時。全身の血の気が引いた。今日の昼に締め切りの製図の図面は真っ白なままだ。連日かかりきりだった実験が昨晩やっとうまくいって安心しきった自分が恨めしい。仮眠で済ますはずが本格的に寝てしまった。頭のなかで今日の時間割を検索したら絶望は更に深まった。最悪なことに今日の午前中は座学ではなく一般科目の実習形式の必修科目である。卒業に必要な単位数は満たしているが必修科目を落とすと卒業はできなくなる。自主休講をしてやっと決まった進路を留年というかたちで棒に振るほど愚かではない。少し体を動かしまだ眠い頭を働かせる。製図の構造計算部分は終わっている。あとは図面に起こすだけだ。寮の自室にいても睡魔に勝てそうにないので学校の研究室に時間ギリギリまで篭ろう。簡単に身支度を整え研究室に向かう。残暑が続いており外には短い時間しかいなかったが服がじっとりと汗ばんだ。研究室は実習工場内の2階に併設されている。早朝にも関わらずどこかけだるげな雰囲気が漂う実習工場内の階段を昇り研究室のドアを開ける。研究室には先客がいた。先客である同級生は来客を迎えイヤホンを一旦外すが、教師ではないことを確認するとやる気がない挨拶を投げかけて製図へと戻った。同級生に対する態度としては冷たい気もしないでもないがお互いその距離感に慣れている。扇風機のモーター音とイヤホンから漏れる音楽の中、ペンを走らせた。
午後の製図をなんとか乗りきった。放課後は研究室で過ごすのが最近の日課だ。進路が決まるまでは落ち着かなかったので研究が遅れてしまい、その遅れを取り戻すために空き時間は研究に当てている。研究室は笑いで溢れていた。話の輪の中心は材料学研究室の紅一点の椎名知世さんだ。知世さんは慣れた手つきでアイスコーヒーを準備した。よく冷えたアイスコーヒーを一気に飲み干し、冷たさの余韻が残っているうちにパソコンの電源を入れる。昨日殴り書きした実験データを清書するために表計算ソフトを立ち上げる。表計算ソフトにデータを入力する。手書きのグラフがあっているか確認するためPCでもグラフを作成して、改めて理論値と照らし合わせる。理論値との整合性が取れた事が確認できたので次はプログラムによる数値シミュレーションに取り掛かる。一連の作業を機械的に行う。このような作業は好きだ。プログラムは合理化を追求していくうちに最終的には無駄なものが削ぎ落とされた美しいものになる。その美しさは一度魅了されたら癖になる。試行錯誤を重ねる作業に没頭していたらふと頬に冷たいものが触れた。その冷たさが無味乾燥な二次元の世界から現実世界に戻させた。気がつくと時計は22時を示していた。研究室には知世さんしかいなかった。通生の女性が学校にいる時間ではないが知世さんはそのことを気にせず、ジュースを片手にプログラムで埋め尽くされたパソコンのディスプレイを後ろから眺めていた。知世さんは二年前までは生態学の中でも仮想生態学を研究していた。そのため数値シミュレーションに関するプログラミングの実力はこの材料工学研究室の先生と引けを取らない。学生を指導することを半ば放棄している指導教授がボスのこの研究室にとっては彼女の存在はありがたい限りだ。そのようなことがあるから指導教員に等しい存在の知世さんのディスプレイを覗く横顔を不安な気持ちで見つめた。プログラムを眺めている時だけ見せる硬く冷たささえ感じる彼女の表情が次第に和らいでいったのを見て安堵する。「おつかれ」の一言とともにジュースを渡された。ジュースの炭酸が口の中で線香花火のように弾けるのが心地よかった。
多少の訂正を加えられたプログラムが無事に作動することを確認して、二人で研究室を後にした。暗くなった実験棟を並んで歩いていたら「蛍を見た事はある?」と問いかけられた。いきなりの質問にあっけにとられていたら知世さんは更に衝撃的な言葉を続けた。「猫成沼にいるよ。」猫成沼は学校から車で30分ほどの場所にある。生態学研究室では蛍のエサのカワニナの育成についても研究している蛍の生息がこの数年間連続して確認されたことは生態学の授業で聞いたがまさか猫成沼だとは思わなかった。卒業後は都内の大学に進学するので卒業したらこの学校から足が遠のくのは必然的だ。蛍をみるチャンスはこれで最後だろう。その思いを彼女に話した。口止めの約束を交わした後、実験棟に横付けされていた車に乗り込んだ。最初は舗装されている道路を走っていたが次第に舗装はなくなり荒地を走る。車で信号がない道の30分の距離は長く感じる。しばらくしたら車は停まった。車のドアを開け長靴に履き替える。街灯もない暗闇の中、沼まで泥道を歩いて行く。知世さんは歩き慣れているため懐中電灯がなくてもどんどん先に進んでいく。置いてけぼりにならないように必死に後を追う。知世さんがいきなり立ち止まりかがむようにと指示をする。指示通り屈むと柔らかな光が見えてきた。光は点滅し、重なり合い光が強くなる。蛍の光は電子機器のような強く暗闇をなぎ倒す光ではない。弱く儚い光。その光が周囲を照らす。少しでも力を加えたら壊れてしまうであろうこの光は暗闇を幻想的に彩る。現代社会では奇跡に近いこの淡い光の中では時間が止まってしまったかのようだ。しかし、現実は永遠を許さない。止まっていた砂時計の砂が落ちるかのように光は次第に弱くなっていく。最後には光はゆっくりと消えていった。この蛍の瞬きについてただ綺麗という感想を知世さんは求めていないだろう。言葉が見つからずただ立ちすくんでいたら知世さんが静かに彼女の今まで誰もが直接本人に聞くことをためらっていたことを語り始めた。
生態系の再生は限りなく時間がかかるが破壊は一瞬だ。いくら研究を重ねても悪意や無知の第三者による外部要因に振り回される。日本の会社社会の営利第一主義の風土に嫌気がさした。そのような中で研究をすればするほど生態系保全の限界を感じた。今までそしてこれからも継続していく研究に虚しさを覚えた。その中、進学を機に材料学研究室の先輩の研究を引き継ぐことを決めた。転籍について所属していた生態系研究室の先生と連日口論が続いた。周りの学生も彼女から離れていった。日常は荒れつくされ、まずは眠れない日々が訪れた。不眠と疲れは次第に精神を蝕み、肉体が悲鳴を上げた。研究室だけではなく学校にもいけなくなった。学校をやめることも考えたが家族のすすめで休学をして、留年した。
独白が終わり漆黒の闇に包まれた二人の空間には静寂のみが残された。彼女の表情はこの闇の中ではうかがい知ることはできない。学校までの帰路の車中ではカーステレオから流れる音楽だけが鳴り響いた。今晩のドライブの発端は蛍を見に行くことだったが彼女にとっては秘密の告白が一番の目的だったのだろうか。答えがない問を考える。車が校門にたどり着く頃には日付が変わっていた。暗がりの中で浮かぶ知世さんの顔にはいままで見たことがない疲れの色が見えた。車のドアを開けながら知世さんは「ありがとう」とただ一言、今まで聞いたことが無い掠れた小さな声で呟いた。その発せられた瞬間から消えてしまいそうな言葉に返す言葉がとっさには見つからず軽い会釈で返した。今だから分かるのだが一人では抱え込むには重たすぎることは誰にでもある。誰かと共有することで軽くなる。その誰かは誰でも良いわけではない。必ず出会えるわけではなく大半は特別な人を探し求め続ける。出会えても通じ合えるかどうかは保証されていない。表情を変えた世界で生きるために更に多くのことを望んでしまう。このことを知るには当時はまだ幼かった。寮の自室に帰りベッドに倒れ込んだ。疲労と眠気が体を支配した。それでも頭のなかでは車のカーステレオで流れていたEric・ClaptonのCHANGE THE WORLDの歌詞がリフレインしていた。王様になったら王女のために星をプレゼントする。知世さんにとっての王様になれたら良いとふと思い恥ずかしさから顔を覆った。
次の日もその次の日も知世さんは何も変わらなかった。蛍の夜に見せたような影が嘘だったかのようないつも通りの明るく優しい先輩だった。夏が終わり、秋が去り、冬が訪れた。忙しさは日に日に加速し、蛍の夜は遠ざかっていった。研究は佳境を迎え、学内の寮の自室にすら戻ることもできず研究室に寝袋を持ち込む日々が続いた。そんな日々が報われ桜のつぼみが膨らむ頃には公聴会、論文作成、学会発表を無事に終えることができた。卒業式当日を迎えた。絵の具で塗りつぶしたかのような青空と薄紅色の桜が舞い散る中、懸命に一人の女性の姿を探す。蝶々のように極彩色に彩られた袴姿の中で鉛色のスーツを纏い一足先に学び舎から去る人に捧げる花束を抱えている貴女。その貴女から笑顔がもう奪われないように。泣くことがあるならば悲しみ、悔しさではなく喜びの涙を流して欲しい。悲しみがあるならば大切な人だけに見せて下さい。その悲しみを受け止めます。いつかまた蛍を一緒に見に行きたいです。Fin.
最後まで読んでいただきありがとうございます。
この小説は初めて書いた作品です。筆者の学生生活が元になっています。
Side-Aではこの作品の主人公の悠人の視点で書いています。
Side-Bで知世さん視点でこの二人で過ごした蛍の夜について書くのでもしよろしければご覧になって下さい。
2017年2月26日 長谷川真美