企画もの1:猫猫
企画ものです。
お題は、キャラ:猫猫、ジャンル:恋愛、タグ:ヤンデレです。
その日、猫猫の薬屋をたずねてきた壬氏はひどく疲れていた。元々、十日に一度、休みの日にはやってくる壬氏であるが、そのたびに目にくまをつくり、眠たそうな顔でやってくる。今日はそれがひとしおだった。
「壬氏さま、今日はお休みになられていきますか?」
猫猫の薬屋は、緑青館の一室を間借りしてやっている。娼館の昼見世は客が来ない。女郎たちが、仮眠をとっているか、茶を引いているかのどちらかで、部屋はたくさんあいている。
「……妓女はいらんぞ」
「心得ております」
以前も猫猫は、壬氏の疲れがきつそうだったので、緑青館の最上階を借りたことがある。殿方のお疲れといえば、やはりいろいろたまっていることだろうと思い、湯殿には湯女を、寝所には粒ぞろえの妓女、しかも初物を準備した。なのに、壬氏ときたら、食指を動かすどころか、怒ってさえいた。あまりの怒りように猫猫は、この男にもしかしたら衆道の気があったのではないかという勘繰りをし、陰間を準備しなかったことを悔いたくらいだ。
どうやら彼の『疲れている』は、そっちの意味での疲れているではなかったようだ。実に男とはややこしい生き物である。
猫猫はふらふらの壬氏を連れて、階段を上る。あまりにふらふらで倒れて落ちそうなので、男衆に運んでもらおうかさえ思ったが、壬氏が断固拒否した。妓女のご機嫌を損ねないために悪くない顔立ちを選んでいるのだが、どうやら衆道の気はないらしい。陰間を呼ばなくてよかった。
壬氏のお付である高順ははらはらした顔で後ろからついてきている。
緑青館の最上階ではやり手婆が柔らかい布団を敷いていた。普段、偉そうに足を崩して座り、煙管をくわえているだけの婆だが、元は売れっ子妓女である。やろうと思えば、禿の雑用から、踊りに歌、囲碁までできる。猫猫を産んだ女を妓女として育て上げたのもこの婆であり、その女の禿だった緑青館の三姫の教育を引き継いだのも彼女だ。
やり手婆は金づる、もとい壬氏が来ると、頭を下げてゆっくり下がる。部屋の隅には安眠効果のある香が焚かれていた。
(あれ?)
猫猫は、香をかぐ。いつもの調合と少し違う気がする。
(身体には害はないだろう)
やり手婆のやることには、ちと不安があるが、金づるにはすこぶる優しい人なのだ。その上、相手が権力を持っていればいわずもがな。
壬氏が失脚でもしない間は、やり手婆はこの男を最優先するだろう。もっとも、より金と権力があるものが来れば、そちらに乗り換えるだろうけど。
壬氏は、寝間着に着替えると布団の上に横になる。やり手婆は退散し、心配性の従者は隣の部屋で待機する。
猫猫は窓を開ける。風が通り、室内の空気が柔らかくなる。少々、香の匂いがきつすぎたのだ。
欄干に手をかけ、外を見る。
緑青館は花街の中でも一番高い建物である。最上階のこの部屋は花街どころか、都全体を見渡すことができる。
原色の派手な屋根が並ぶ花街、煤けた色が並ぶ民家に、上品な色あいの門前町。その向こうに、豪奢な天上人の住まいがある。
春だからだろうか、霞がかっている。遠い遠い地より運ばれた砂の粒が舞い、美しい王宮が、一段と遠く見えた。
あの場所に、自分がいたことも不思議なことだ。そして、寝息を立てている人物が、場合によってはあの城の主となる可能性があることも不思議である。
壬氏は皇弟だ。いまは、帝に息子がおり、幼い皇子が東宮として立っているが、幼子が成人まで生きられる可能性は十のうち十というわけにはいかない。そうでなくともなにかしら、皇帝に不幸があれば、帝位につくことはなくとも摂政として動かなくてはならないだろう。
(ずいぶんと安心したものだ)
布団の中で眠る青年は、そんな国の重要人物というにはいささか気を抜きすぎではなかろうか、と猫猫は思わなくもない。
花街に休みごとに来るなんて、よからぬ噂が立とうものだが。
もちろん、壬氏はお忍びでやってきているため、最低限の護衛と変装をしている。もし、素顔で現れようものなら、その飛ぶ鳥でも目線で射抜きそうな無駄な色香と、それをようやく半減させている顔の刀傷を持つ男が誰であるか一目瞭然だ。
女ならば国を傾ける、男でもそれさえ不可能ではなくほどの美形である。
猫猫も花街、後宮と美女が集まる場所に住んでいたが、彼よりも美しい人に未だ出会ったことがない。
(実に無駄な顔だ)
皇帝もいっそ、これが妹だったら外交なりなんなりいくらでも使い道があっただろうに。男に生まれて、残念で仕方なかろう。いや、平和な世に波を立てないためだったら、むしろ男であったほうが好都合か。
そんなこんな失礼なことを考えながら、猫猫は部屋を出ようとした。
「……」
壬氏の口から寝言のようなものが聞こえてきた。そのまま、無視しようかと思ったが寝苦しかったらいけないと、猫猫は壬氏のもとに近づいて座り込んだ。
壬氏は眉間にしわを寄せて苦しんでいた。
(なにか悪い夢を見ているのだろうか)
唇が渇いているようだと猫猫は脱脂綿に果実水を含ませて、壬氏の口に吸わせる。形のよい唇が綿を食む姿は、どこかいけないもののような気がした。おそらく、猫猫以外の緑青館の誰かにやらせようものなら、頭の中のなにかがぶちりと千切れ、壬氏に馬乗りになっていることだろう。
(この男は、本当に生きているだけで罪深い)
長年、使えている高順ですら、ときおり慌ててしまうほどに、彼の色香は濃い。獣の中には、異性を引き付けている体臭があるというが、この男は見た目だけでなくそれも濃いのではなかろうかと思う。
(これは、凝縮させて香として売り出せば売れるかも)
くだらないことを考えてしまう。とりあえず、彼の使った寝間着をあとで物好きたちに競りにかけようかと考えたが、そんなことやり手婆がすでにやっていたので駄目か。
こういうことを考えている時点で猫猫は周りからおかしいと言われる。特に、緑青館の三姫たちに口を酸っぱくして言われる。
猫猫には、女としての情緒がないのだと。
そんなことを言われても、生まれたときから、男女のあれこれを商売としてしか見たことがなく、なおかつ母親というものを体感したことがないので仕方ないことだ。もし、親父殿が猫猫を育てなかったらもっとひどい人格になっていたことだろう。義父である羅門は、猫猫が人としてあるべきことをしっかりと教えてくれた。もし、薬学の知識だけ教えていれば、どうなっていただろうか。
猫猫は、目の前に眠るものを見て思う。
布団からはみ出した手には、欠けた指が見える。多少、伸びたのだが完全に元に戻ることはないだろう。
(私の薬は本当に効いているのだろうか)
対照となるものがないので、実際、効用があるかどうか自信がない。左手と同じように右手も指をそいでくれたらわかりそうなものを。
そんなこと頼んでやってくれる人間なんているものではないだろう。ゆえに、猫猫は自分を使って薬物の効用を試しているのだ。
もし、目の前に自分の身体を好きなように使っていいという人間が現れたらどうするだろうか。そして、その時、自分の人としてあるべき意味を作る親父殿がいなかったら。
きっと、人として非ざる道へと進むだろう。それだけ、猫猫の好奇心は強い。そうなれば、もう堂々と日の当たる道を歩くことはできない。
そして、猫猫の好奇心の犠牲になるものもまた、人として五体満足に動くことはできなくなるだろう。布団の中で、傷と投薬を交互に受け、時に強すぎる薬効に眠ることができなくなる。歩くこともままならず、匙から粥を食むことすら難しくなる。
そうなればきっとこのように綿に水を含ませて丁寧に飲ませることをしなくてはならない。それくらい、軽いものだ。自分のおさえきれない好奇心をその身を持って満たしてくれる存在、どれだけ大切なものだろうか。愛おしいという感情のそれと同じものを抱いてしまうだろう。
全身に包帯を巻き、床ずれを起こさぬように身体をずらし、汚れた身体は毎晩丁寧にふきあげよう。乾いた唇を濡れた布で潤し、粥をひと匙ひと匙口に運ぼう。匙から食む力が失せれば、口移しで食事を与えようか。
代わりなどいない、もっとも愛おしきものとして、尽くすことだろう。
そのとき、本当に愛情というものがわかるのかもしれない。
(悪いことを考える)
ひどく歪んだ願望を眠る人物の前で抱くなど、と猫猫は笑った。もし、心の声が聞こえていたらきっと不敬罪で一太刀に殺されてもしかたないことである。
そんなときだった。
うっすらと壬氏の目が開いていた。
思わず声が漏れたのだと、猫猫は心臓が飛び跳ねた。
壬氏の欠けた指がまっすぐ猫猫に近づき、そのまま着物の衿を掴んだ。そのまま、勢いよく引っ張られた。
「……」
気が付けば、猫猫は布団一枚を挟んで壬氏に抱きすくめられた形になっていた。
艶やかな絹の髪が猫猫の頬に触れ、首筋に温かい息がかかる。
猫猫の視線の先には、白い敷き布団が見える。菰を重ねた安物ではなく、綿をふんだんに使った高級品だ。
その柔らかい敷物の下には、護身用の刀が置いてあるはずだ。
壬氏は羽交い絞めにするだけで、そこに手を伸ばすことはない。どうやら、このまま押さえこんで首にぐさりと刀を突き刺すことはないらしい。
どうやら、壬氏はただ単に寝ぼけているだけのようだ。高鳴った心臓がだんだんゆっくりとなる。
猫猫は丸くなった目を平静に戻すが、現状は変わらない。動けないまま温かい息が耳朶にかかっている。もっともその息遣いは落ち着いた眠りの呼吸だったが。
猫猫は半眼にすると、鼻をすんと鳴らす。上品な香りは壬氏の香の匂い、そしてもう一つ、やり手婆が焚いたもの。
安眠効果とともに人恋しくなる香が焚かれている。猫猫が妙に感傷ぶったことを考えてしまったのもこれの効用があったかもしれない。
(あいかわらずろくでもない婆だ)
やはり念のため、妓女を呼んでおけばよかったと考えながら目を閉じた。どうにも抜け出せそうにないと気づいたためである。こういうときこそ、高順がででしゃばってくれたらよいものなのに、あの豆な男はやり手婆にたのまれて茶を臼でひいている可能性もある。
それにしても、本当に罪深い男だ。
漂う香は心地よい、眠りを誘う香と相乗し、猫猫もまた規則正しい寝息をつくのはそう時間のかからないことであった。
起きたら不敬罪で首をかっきられないかひやひやしながらも、猫猫は意識をとばした。