トロがやって来た日
*
トロが俺の部屋に転がり込んできたのは一ヶ月ほど前のことだ。
その頃の俺は終わってしまった大学生活に戻りたいと思いつつ始まってしまった社会人生活に戦々恐々とし、激烈に忙しい日々を過ごしていた。今と変わらないな。うん。
今でも覚えている。四月の十五日だ。
その日も俺は先輩に連れられて飲み会という合法的な拉致の被害に遭い、酩酊寸前までアルコールを注入され、二十万キロ走った車みたいにくたびれた態で帰宅した。
アパートのドアを開けようと思ってポケットから鍵を出そうとするが、鍵はなかった。落としたのか、それとも酔っているせいで手元がおぼつかないのか。
俺は一億円賭けてもいいぐらいに確信を持って落としたと思ったのだが、答えはどちらでもなかった。
どうしたもんかと考えをめぐらせていると、ドアがひとりでに開いた。いや、何者かが内側から開けたのだ。
「あ、おかえりなさい。君が家主のケイだね」
知らない女の子が俺のサンダルをつっかけて三和土に立っていた。
色白で、そのせいか黒髪が漆黒と言ってもいいぐらいに黒々として見えた。目がリスのように大きい。
黒いワンピースに身を包み、堂々としたふうに腕を組んでいる。
「……誰?」
俺は当然の疑問を口にした。いくら酔っていてもそれぐらいの判断はできる。
「ええと」
彼女は簡単に答えられるはずの答に窮した。俺は携帯を手にした。
「どこにかけるの?」
「警察」
「とりゃっ」
気がつくと、俺の携帯が彼女の手に収まっていた。プロの仕事だと思った。
「どうして俺の部屋に入れたんだ?」
「鍵が開いてたから。ほら、卓袱台の上に鍵が置いてあったよ」
その女の子はそう言うと、掌を出した。鍵がちょこんと載っていた。どうやら俺は今朝鍵をかけ忘れたらしい。なんてこったい。
「ていうか、なんで俺の名前知ってるんだよ。表札なんか出してないのに」
「鍵と一緒に結婚式の招待状も放り出してあったから。宛名を見て、君がケイって名前だってわかったの」
「あ」
そう。今朝なんで鍵をかけ忘れたのかと言うと、その結婚式に行くか行かないかで悩んでいたからだ。
大学時代の苦手だった先輩の結婚式で、はっきり言って行きたくない。悩んでいるうちに家を出る時間をとっくに過ぎていることに気付き、慌てて部屋を飛び出したのだ。やれやれだ。
「まあとりあえず入ってよ。掃除しといたから」
彼女は自分の部屋であるかのように言った。
「うぅ……」
「どうしたの?」
「ばぎぞー……(訳:吐きそう……)」
「げっ」
彼女は両手で口を覆って青ざめた俺の顔を見て察したらしい。すぐに俺の手を引いて部屋に入り、トイレで俺を吐かせた。
背中をさすってくれている。俺は飲み会で食べた焼き鳥やら枝豆やらをぶちまけた。
その後すぐにシャワーを浴びて部屋に戻ると、彼女が畳の上で寝っ転がってテレビを見ていた。テレビでは見たことのないお笑い芸人がマグロ漁船に乗って一本釣りに挑戦していた。
「スッキリした?」
彼女がテレビを見たまま言った。まるで昔からそこに住んでいるかのように馴染んだふうだった。
「まあなんとか」
「めでたしめでたしだね」
「そうだな」
俺は卓袱台の上に携帯を見つけた。それをさりげなく手にする。
「どこにかけるの?」
「けいさ――」
「とうっ」
気味の悪い素早さで彼女は起き上がり、俺の手から携帯をかすめとった。やはりプロか。
「なーんで命の恩人を警察に突き出すの」
「仮に一人だったとしても、俺の命は健在だったと思うぞ」
「さて」
「無理やり話を終わらせるな。大体、お前何者だ?」
「ええと」
「そこで悩むのがまずおかしい」
俺の突っ込みを無視して、彼女はきょろきょろと部屋を見回し、テレビでその首の動きを停止させた。無名のお笑い芸人が吊り上げられた大トロに驚愕してみせていた。
「トロ。わたしの名前はトロ」
「今考えた名前だろ」
「違うもん。本当にトロだもん」
「名前の由来は?」
「わたしがあんまりにもトロそうな顔してたからトロにしたってお母さんが言ってた」
「酷い親だなっ」
「今日から一緒に住むことになりましたトロです。十八歳です。よろしくお願いします」
「唐突なんだよっ」
頭を抱えたくなった。アルコールが六割、トロが四割の割合で。
「とりあえず出てけ」
「おやすみなさい」
こてん、とトロはベッドの上で横になった。そしてものの数秒で寝入ってしまった。
「おいおいマジかよ……」
どんなに揺り動かしてもトロは起きなかった。それに起きたとしても、もう午前二時を過ぎている。こんな夜遅くに女の子を追い出すというのも、騎士道精神に反するか。
などと現代の騎士であるサラリーマン俺は考える。
けれど、何かを考えるには俺の体にはアルコールが染みこみすぎていた。
これが夢でありますよーに、と捨て鉢な願いを胸に、俺は雑魚寝した。
もちろん夢ではなく、その後もトロは俺の部屋に住み続けた。
トロはその存在自体は宇宙的規模の意味不明さを放っていたものの、行動はとても実際的で庶民規模に収まっていた。
炊事を始め、掃除、洗濯を完璧にこなした。
俺は入社してから一人暮らしを始めたのだが、毎日のメシや洗濯物には頭を悩ませていた。とにかく時間がなかったからだ。
けれどトロが来てからは俺の着るシャツにはいつもパリッとアイロンがかかり、メシは白米に味噌汁、焼き魚に納豆、煮物など、栄養のバランスに富んでいた。日に日に俺の体調は良くなっていった。
そしていつの間にか俺はトロが自分の部屋に住んでいることを疑問に思わなくなった。それどころか、いないと困る存在にまでトロを昇格させていた。
もちろんトロが本当はどこの誰でどういった経緯で浮浪のニート状態になっているのかは気になったが、俺はあえてそれを訊ねなかった。
この生活が、壊れてしまいそうだったから。
けれど、結局俺は壊してしまった。思いもかけない下らない理由で。
五日前、俺が冷蔵庫の中に入っていたあいつのヨーグルトを食ってしまったからだ。
なんでもないことだと思ったのだが、トロにとっては重大なことだったらしく、珍しくプリプリと怒って、そのまま部屋を出て行って、裏庭のゴミ箱に篭もってしまったのだ。
転がり込んできた時も突然だったが、出て行くときも同じぐらい唐突だった。何が彼女のスイッチになっているんだか、わけがわからない。