ゴミ箱のトロ
ゴミ箱のトロの顔を見るため、俺はアパートの裏手に回った。
辺りは深夜一時にふさわしい静けさと冷たさに満ちていた。月が雲にほとんど隠れ、柱の影に身を潜める刑事みたいだった。
五月も半ば、俺は消耗しきっていた。新入社員歓迎会を皮切りに、連日のように先輩社員たちに誘われ飲みに連れて行かれ、金曜日は決まって午前様だ。今日もその金曜日だが、どうにか朝までコースを回避し、終電ギリギリで帰ってこれた。奇跡だな。
ただでさえ慣れない会社、仕事、研修、そして人間関係に翻弄されているんだ。真っ直ぐに帰らせろよコノヤロウと言いたい。もちろん言わない。
アパートの裏に回ると、都会にしては割りと広い庭に出る。
雑草が好き放題に生え、いったいいつからそこにあるのかも分からないほどに朽ちた犬小屋やら、さび付いた自転車、果てはネックが折れたギターまで転がっている。
ここの大家の悪い癖で、ときどき粗大ゴミからかっぱらってきてしまうのだ。コレクションなのかそれともこれから修理して使うのか知らないが、耕して畑にでもしたほうがいいと思う。
そんな謎のコレクションの中に、一際大きな物体があった。
ゴミ箱だ。
部屋に置くような小さいものではない。
犬小屋なら六つぐらいは放り込めるぐらいの大きさだ。マンションの敷地内や、地域によっては道端に置いてあるところもあるけど、この辺りには本来あるはずのないものだ。
大家が例によってどこかからかっぱらってきたのだろうが、軽トラックの荷台にでも載せないと運べないだろう。その労力で庭に畑を作り、店子に食料を恵んでくれ。
そのゴミ箱はオレンジ色をしているが、もうあちこちで塗料が剥がれ、さびがこびりついて酷い有様だった。上蓋と、正面にも開閉できる扉がある。正面の扉はゴミ回収の際に利用していたものだろう。
「トロ」
「ん」
俺が呼びかけると、中から素っ気ない返事が漏れ聞こえてきた。
この関心なさそうな声音は、おそらく読書でもしているに違いない。
「開けるぞ」
「ん」
扉を開ける。ギイギイと耳障りな音が響いた。
ゴミ箱の中ではトロがちんまりと座って文庫本を読んでいた。いつの間に持ち込んだのか、キャンプ用のランタンを明かりにしていた。淡いオレンジ色の光がゴミ箱の中を満たしている。
「いつまで拗ねてるんだ」
「拗ねてなんかないもん」
トロはぷくーっと頬を膨らませた。拗ねている。
彼女は頬にかかった髪を耳の後ろにかけ、ちらりと俺のほうに目を向けたが、またすぐにページに視線を落とした。
「ケイ、また飲み会?」
トロの口調は平板だった。彼女の意識は八割がた本の世界に行ってしまって、残り二割が俺に応対しているのだ。
「あぁ。疲れたよ」
「断ればいいのに」
「できるか。俺まだ新人なんだぞ。嫌でも我慢しなきゃなんないんだよ」
「実はハゲの部長のヅラを酔った勢いで取っちゃえ」
「取れるか」
そもそも部長はハゲてない。と思う。
「なあトロ。こんなとこにいたら酸欠で死ぬかもしれないぞ」
「大丈夫。時々は蓋開けてるから」
「でもゴミ箱の中だから汚いぞ」
「掃除した」
たしかに、ゴミ箱の中は表面とは裏腹に中はとてもきれいにしてあった。
茣蓙を敷き、壁面はクリーム色の壁紙が張ってある。ニートのトロがいったいどうやってこれらのアイテムを手に入れたのかは謎だが。
「でも、ゴミ箱はゴミ箱だろ」
「違うもん。ここはわたしの国だもん」
出たよ。
と、俺は思ってしまった。
トロは出会った頃からよく『わたしはわたしの国を見つけるの』とわけのわからないことを口にしている。彼女の口癖だ。
「もっと広い国に出ろ。そのゴミ箱原理主義国家より、いささか疑問はあるが民主主義ニッポンのほうが居心地がいいぞ」
「本気で言ってるの?」
そこでトロが本から顔をあげ、俺にじっと目をやった。
「本気だ。それにほら、お前の好きなヨーグルトもあるぞ」
俺は持っていたコンビニの袋からヨーグルトを出して示した。ぴくり、と肩を動かしたトロを、俺は見逃さなかった。
「心動いたな」
「ち、違うもん。無意識にピクッとなったんだもん」
「そういうのを心動いたっていうんだ」
ほれほれ、とヨーグルトをちらつかせて誘い出すも、トロは頑としてゴミ箱から出てこなかった。
俺は溜息をついた。
「今日でもう五日目だぞ? いい加減出て来いよ。な?」
「ヤ」
「ヨーグルト食い放題だぞ」
「フン」
トロは子供みたいにプイッと首を振った。十八歳にもなってやる動作ではないが、童顔だから違和感がない。
「……俺が悪かったよ。お前のヨーグルト勝手に食っちまって。だから、ほら、買ってきたら」
コンビニの袋を振ってみせたが、やはりトロはその場から動こうとしなかった。
「ねえケイ。大事なのは、今この時なの。つまりあの時なの。わかる?」
「うん」
いや、わかんないけど。
「つまりね、あの時ヨーグルトを食べたかったー! って気持ちであの時冷蔵庫に入ってたヨーグルトを食べることに意味があったの。今この時に買ってこられても、今は今であってあの時じゃないの」
「なるほど。要するに、このヨーグルトはいらねーってことか」
「……いる」
トロは小さく呟くと、サッとスリもかくやという俊敏な動作で俺の手からコンビニの袋ごと奪った。それから彼女は前面のドアを閉ざし、俺の呼びかけにも全く応じなくなった。
今日も駄目だったか。
こうなってはもうどうしようもないのが常なので、俺は諦めてアパートの部屋に帰った。