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思違  作者: 塀 ゆう
1/3

絵とは、描いた者の“思い”そのものだろう。




朝方、目を覚ました私はいつも通り仕事場であるアトリエに水の入ったやかんを持って足を運んだ。



すっかり暖かく感じる気温は、つい最近まで厳しい寒さに身構えていた私の心を……ゆるゆると解していくようだった。



あと数日もすれば、新たな環境に色めきだつ人々で世間は溢れるのだろう。



親の手に引かれ、光沢を放つランドセルを背負いながらニコニコと門を潜る子供たち。真新しい自転車を軽快に漕いで颯爽と走っていく学生たち。パリッとした白いワイシャツにまだ着慣れないスーツを身に纏って歩く社会人たち……道行く人々が皆、心なしか浮足立っているような、それでいて意気込んだように見えるのだろう。



春風が家の中を通り抜けるのを感じて、パーカーのポケットの両手を突っ込み、庭に生えた二本の木……どういうワケか、片方は桜の木で片方がイチョウの木、その二本の木を眺めながら私はせかせかと家の廊下を歩いた。



(……今年も咲きそうにないな)



街中の賑わいをよそに私はこれから引き籠る算段なのだ。と、言えば世間の方からは『不登校』やら『引きこもり』、そして『ニート』と思われる事だろうが……まあ、それと大して変わらない。



家の離れにある、家とは独立した小さな小屋の鍵を開けて中へ入る。



「宗一郎」



と。途中、声に呼び止められた。



「なんです?」



私はスッと振り返った。



白い色に桜の刺繍が施された着物を着た女が立っていた。女は私の顔を確認すると、「昼食はどうします?」 と()()いながら訪ねてきた。その表情は、もう少しで四十台になる歳だというのに会ったばかりの頃から何一つ変わっていなかった。



「いらないよ」



「あら…。それなら、夕食はくらいは取ってくださいね」



心配そうに見つめる女に罪悪感を感じて、とりあえず、ぼそぼそと承諾の意を伝えた。女は私の返事を聞いて安心してように、また()()い、「では、夕食は準備しておきますね」と言って家の中に戻って行った。



アトリエの中に入ると、すぐさま内側から鍵を閉めた。



小屋の中は外の風の匂いとは違い、石鹸水、糖蜜、松脂、テレビン油の匂いが混ざった独特の匂いで立ち込めている。



外から誰も入れない事を確認すると、近くの机に置いてある電気ポットに水を入れて電源のスイッチを押し、水が湧くまで小屋の中央にある、白い布が被せられた自分の作品―――まだ完成はしていない―――をめくり上げ、それを眺めた。



そうして、いくらかすると、ざわざわとした不快感がふつふつを湧き上がってきた。堪らず、ポケットの中を探り、つい、いつもの癖で煙草を手に取ってしまった。ハッとした私は、手に持つ煙草の箱をポケットに戻す。



アトリエで煙草を吸う事は私自身が固く禁じている。絵とは、その時の気温、湿度などによって乾いた時の出来具合は変わる。もし、ここで吸ってしまえば煙草のヤニで絵の色に影響を及ぼしかねない。素人の目からすれば大して変化はないと思われるかもしれないが、私たちにとってはその微妙な変化は死活問題なのである。



仕方がなく、コップにお湯を注ぎ、インスタントコーヒーらしい不味くて苦い泥水を啜りながら、もう一度完成途中の絵を自分が最初に思い描いた完成像と照らし合わせながら眺めた。



(…どうしてだろう)



それを眺めれば眺めるほど自分の中では納得できる出来ばえ。ただ、最初のイメージとは大分離れたモノになっていた。



今まで私は自分が納得できるモノさえ描ければ満足だった。そんな自分よがりの芸術思考のおかげで、どこかに出展して売ろうと思わず、ただただ描いては小屋の中に置きっぱなし。そろそろ、置くスペースも無くなってきている。



けれど、自分の作品を処分する、というのはなかなかに躊躇いが出る。かといって、誰かに売るのは抵抗があった。



結果として、とりあえず今描いている絵を終わらせてから考えようと、いつも問題を先送りにする始末。



「……ダメだ。集中できない」



飲みかけのコーヒーを机に置いて、アトリエから出て、気分転換のつもりでそのまま街へと繰り出した。



街中は、私が想像していたものとは違い、少しおとなしかった。



けれど、私にとっては十分は気分を悪くさせるものである。騒がしい喧騒を避けるように、裏通りを進み、ここ何年かで足を運ぶようになった知人の事務所へと向かった。



一週間ぶりに訪れた大隈探偵事務所は、相も変わらず閑散としていた。室内の奥の机には読みかけの本に突っ伏した男に、その手前にある来客用のソファーに座りながら、ノートパソコンで作業する若い女性の二人しかいなかった。



「あ、こんにちはー、田上さん」



こちらに気づいた女性は、初めて会ったのように生き生きとした声を掛けてくれた。



「久しぶりだね、真紀ちゃん」



「ですね。一週間ぶりくらいかな?」



と。彼女はふっくらとした口許に軽く笑みを含んで、パソコンを置いて立ち上がった。



「ああ、コーヒーは自分で入れるから、そのまま続けてていいよ」



「いやいや、数少ない贔屓のお客様にそんなお手数掛けるわけにはいきませんよー」



「そんな事は気にしなくていいって。それにそもそも、僕は一度だって仕事を依頼したことないだろ?」



「そんなことないですっ。こうして、何の面白味のない場所に訪れて、若い女の癖に暇を持て余している私の話し相手になってくれること自体がいわば仕事のような……そうっ、田上さんにとって義務なんです! だからー、そんな優しい田上さんへ私からせめてのお給料だと思ってください」



そう言い、キッチンへ向かおうとする私より先に彼女は奥へ消えていった。なんとも、微笑ましく、それでいて自分には無い活発さが羨ましく思えた。



「はい、田上さん」



「ああ、ありがとう」



渡されたコーヒーカップを受け取る。インスタントでは到底味わうことのできない香りを楽しみながら、一口付けた。



「うん。いつもながら美味しいよ」



「そりゃあ、そうです。私が淹れたんですから」



ふん、と胸を張る彼女の顔は誇らしげだった。



彼女の実家が喫茶店を経営していることを知っている私には彼女の態度は納得ものだった。



「まあ、まだまだお父さんの淹れるものには劣りますけど…」



「ん? …そうかなあ、真紀ちゃんのお父さんのは飲んだことないからわからないけど、この香りと味ならそこいらのヤツよりはおいしいんだけどな」



と、お世辞染みた事をつい喋ってしまった。けれど、実際な話、彼女の淹れるコーヒーは上手い。近所にある喫茶店と比べれば、わかる人にはわかる位、出来が違うのだ。



そんな思考を巡らせていると、ふと、彼女がじっとこちらを見ている事に気がついた。



「…あ、ごめんね、いきなり変なこと口走っちゃって」



「いえ、そうじゃないんです。その……前から感じてたんですけど、田上さんってお父さんみたいだなって」



「は……?」



私? 私がお父さん―――?



…なんだろう。光栄と思えばいいのか、それとも老けていると言われているのか。ジェネレーションジャップというには、まだ私と彼女ではそこまで差はないと思うのだが、時々、彼女の言う内容がわからないことがある。



「……えっと、それは何を根拠に?」



いつもなら、それとなく聞き流して話を合わせるのだが、今回のケースはいつもと違う。不安ながら彼女に聞き返す。



「なにって、田上さんの優しいところとか、無精ひげを生やしているところとか、頼りなさそうで地味なところとか、女の人に弱そうなところとか。すっごく、お父さんに似てるんです」



「…………」



急にさっきまで机で寝ていた男が肩を揺らしながら、笑い声を漏らした。



静寂に包まれなかった事がせめての救いか。私は、何とも言えない空しさに耐えるしかなかった。



「何を笑っているんですか大隈さんっ。ていうか、狸根入りしてたんですね?」



「くっ、はっ、はっ―――いや、コーヒー娘よ、それは、褒めているのか、罵っているのか?」



顔を上げて、机に両肘をつき、引くつく頬に耐えながら大吾は彼女に尋ねた。



「そんなの褒めている以外に何があるんですか? こんな男性、この辺じゃ田上さんくらいしか知りませんよ?」



「…………」



大隈は今度こそ耐えれないと、そのまま椅子の背凭れにのしかかり、天井に向かって笑い声を発した。



私は目頭に手を当て、そこから覗き見た彼女の不思議そうな顔を見て、がっくりと肩を落とした。



一人は笑い、一人は首を傾げ、一人は……言うまでもなく、そんな混沌とした空気は一分ほどで収まった。



「―――確かに、宗一郎みたいな人間は、そうそういないな。俺も初めて会った時は、このぼそぼそとした男はなんだ? と思ったからな」



「え? ぼそぼそ?」



何やら私にとって不穏な話が始まりそうになった。



「やめろ、大隈。そんな昔の話なんてつまらない」



「昔って、ほんの七年前の話じゃないか」



それのどこがほんの、なのだろうか。



「え? 七年前の田上さん? …わぁ、すごく気になります」



こちらの制止は意味なく、彼女はどうしてか興味を持たれてしまった。



「なに。今と何も変わらんよ、この男は。 存在感が薄いくせに居なければいないで何か落ち着かない。かといって、この男の中身は空洞だらけで、いわばパンのような食感をする見た目だった。だから、ぼそぼそとしたイメージを私は初めて会った時、そう感じたのだよ。まあ、今もそうだが」



「パン、かぁ。……うん、なんかわかります、その胡散臭い言い回し」



大隈はこれ見よがしと、私に対して酷い事を言ってくる。ただ、それはそれで私にも思う節があるため、大きくは反論できなかった。



「大隈こそ、今と変わってないよな。 初めて僕に声を掛ける時、自分の消しゴムをわざと僕の近くに落として、それをキッカケにしたんだからね」



「はっ。くだらないことは覚えているんだな、この男は」



「そりゃあ、あんなことを言われたら嫌でも覚えるさ」



反論はできないが、反撃はできる。あちらも昔の事を掘り出すというのなら、こちらも同じ方法を取るまでの事だ。



「えっと、消しゴムを落として、なんでそれがキッカケになるんです?」



「真紀ちゃん。授業中に消しゴムを“誤って”床に落とすことあるだろ? それで隣の席まで転がって、その席の人に取ってもらうけど、普通その後は一言二言感謝を言ってそれで終わるけど、コイツの場合、『すまない、わざとなんだ』なんてことを言って、こちらに無理矢理興味を抱かせて話をされたんだよ」



「……大隈さんらしいっていえば確かにそうですけど、なんかズッコイですね」



私の話を聞いた彼女は、冷ややかな目で大隈を見つめたが、それがどうした、と全く気にも留めなかった。



「ふん、捉え方は人それぞれだよ。第一、宗一郎氏は苦手な相手…特に初対面だとすぐに話を途切れさせる。だから、親しい人間でもない私では話が続かないと思ったから、私はその手段を講じたまでだよ。…どうせ、何もなしに話しかけたところで真面には応じようとしないだろ? これは、逆に私の優しさだと思ってほしいね」



またもや、反論できない。何か色々と釈然としないが、大隈の言っている事は的確である。長年の付き合いだが、正直、コイツとの口論で勝った試しがなかったから今度こそはと思ったが結局返り討ち。



大隈曰く、“宗一郎氏の場合、愚かなほどに猪突(ちょとつ)だから、私は手に添えた返し刃で軽く首を刎ねているだけだ” と人間どころか獣として扱われる始末。



しかし、私はそんなに突撃前進しているつもりはないのだが、おそらく、それは大隈の例えなのだろう。



「あっ。そういえば、田上さんと所長が一緒の大学だったって話を聞いた時に田上さんは絵の勉強をして、それを描いて生活しているんですよね? 田上さんの描いた絵、見てみたいです」



と、彼女の言ったことに、どうしようもない嫌悪感を抱いた。



「やめなさい。この男が描く下らない絵なんぞ見たところで何も面白くない。もし、誤って毒されてもしてみろ。おまえの一生は転落していくだけだ」



と、大隈はとてつもない毒を吐いて彼女を止めた。



酷い言われようだが、けど、大隈は大隈なりに私のことを気遣っていることは理解できた。私が自分の作品を他人に見せることに対して、ある種の抵抗感を持っていることを大隈は知っているからだ。



他人が見て、それを評価してくれる。芸術家としては、ごく当たり前のことだ。



けど、私はその評価をされるのが嫌なんだと思う。



自分の作品とは、自分の思いを込めて創るのだが、それが他人にとってどう映るのか、込めた思いとは“全く違う解釈”をされるのが怖いのだ。



大学時代も部屋の隅で誰にも見られないように作業を進め、時間になったらそれを持ち帰っていた。



ただ、例外というやつもあった。



大隈だ。コイツは私の隙をみて、作品を覗き、そして、特に思うことなく『上手いもんだな』と一言喋って終わった。



それは絵を描いた者に対する冒涜に近い。絵を描くのが上手い人間なんて、この世には掃いて捨てるほどいる。だが、絵を描く者にとって絵の上手さなんて二の次。大事なのは、絵の内容、“思い”をどうやって表現するかなのだ。



つまり、大隈が言った感想は、もし私が普通の芸術思考を持っていれば、これだから素人は、とか、おまえにはわからないなど、激怒していたに違いない。



ただ、それは仮の話であって、大隈の感想は私にとってある意味、良い評価を貰えたような気分にされたのだ。



それからは、たびたび大隈に完成した作品を見せるようになった。大隈は最初の感想と同じような評価しかしなかったが、まあ、それはそれで私は満足していたから問題なかったのである。



だからといって、私が芸術家として欠陥品である事実は変わらないが、大隈も大隈で私と同じようなペナルティーを負っていた。



人間の中身を捉えることは出来るが、物に込められた内容は理解が出来ないと大隈は、ここに事務所を構えた祝いで来た時に独白した。それが、約一年前の話である。



多分、大隈とこうして長い仲になっているのは似た者同士だからかもしれない。お互いの傷を舐め合う、なんて男同士ではなんとも気色悪い話ではあるが、私と大隈との仲はそういうものなんだろうと思う。



「じゃあ、明日でいいですね?」



「え……?」



物思いに耽っていて、彼女の声で顔を上げる。



「だから、田上さんの絵を明日、見に行きます」



「ちょ、ちょっとまって。…どうして、そういう方向になってるの? 僕、返事してないよね?」



イマイチ状況が理解できない私は、狼狽しながら訪ねた。



「えー、したじゃないですかー。ほら、行っていいですか? って言ったら、頷いてくれましたもん」



「それは―――」



全く覚えがない。どうやら、無意識に返事をしてしまったようだ。



「じゃあ、明日の午後辺りに連絡しますから。……あ、これ、私の番号とメアドです」



と、メモ書きをテーブルに置いて、彼女は事務所から出て行ってしまった。



「これぞ、まさしくゴリ押し。……いやいや、恋する乙女は強い」



「…おまえ、何で止めてくれなかった?」



「馬に蹴られたくないのでね」



大隈は両手を上げ、まるで降参のポーズを取り、首を横に振った。






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