ホーネット町田です
25歳、会社員の哲夫は、今日も深夜残業を終えて帰宅した。疲れきった哲夫は、すぐに眠りにつく。
哲夫は、寝る時にラジオを小さくつけておく癖があった。流れるラジオの音を聞き流していると、眠りに入りやすかった。
次の日の朝、哲夫は車の大きなエンジン音で、目が覚めた。外を通る車が、空ぶかしをしたのだろう。うるさいな、と思いながら、しぶしぶ目を開けた。
すると目の前には、哲夫の家のすぐそばの町並みが広がっていた。哲夫の視界は、道路をふらふらと漂っている。いったい何がおきたのだろうか。
哲夫はもがいたが、体が動かない。というより、自分の体は無く、視界だけが空中をゆっくり漂っている感じだ。
「なんだこりゃ! 助けて!」
哲夫は叫ぶが、声も出ない。ただ、ゆっくりと自分の視界が風に流されるように、漂って行くだけである。
視界が、近所の家の前にさしかかった。
「ワン! ワン!」
その家で飼われている犬が、哲夫にむかって吠えてきた。と、同時に哲夫の視界は、犬から急激に離れて行った。哲夫の周りにワンワンという音がこだましている。まるで犬の吠え声に吹き飛ばされたようであった。
哲夫が、そのまま漂っていると一台のバイクが走ってくるのが見えた。バイクは、哲夫に向かってつっこんでくる。
ぶつかる! と思ったが、バイクは哲夫を擦りぬけて走り去ってしまった。
その代わり、哲夫の視界は「ブルルル……」というバイクの音と共に、道路を進み出した。
哲夫の周りには、バイクの音が響き、だんだんと小さくなっていくのだった。
今度は、車が走ってきた。今度も車にぶつかりそうになったが、車は哲夫を擦りぬけて、走り去った。哲夫は、「ブロロロ……」という車の音と一緒に、道を進んで行く。
――もしや……?
哲夫は、同じような事を繰り返しているうちに、一つの可能性を思いついていた。
それは突拍子のないことだった。
だが、哲夫の身に起きている状況からすると、それが一番、正しい事のように思えた。
哲夫は、寝ている間に、別の物になってしまったのではないか?
――俺は、もしかして……
形も無く、目にも見えない、曖昧なもの。
――「音」になっちまったんじゃないか……?
さまざまな音を発するものに近付くたびに、哲夫は、その音となり、空中を飛んでいるのだ。ピンボールの玉のように、哲夫は様々な音になり、はじかれていく。
車のエンジン音、クラクション、店先の有線放送、ありとあらゆる音に姿変えて、漂って行く。
そのうち、哲夫は、通学中の学生二人にぶつかった。
学生は、歩きながら話をしている。今度は哲夫は、その声になった。そのとき哲夫は、人の声になると、その人物に、哲夫の好きな言葉をしゃべらせられることに気付いた。
それから、哲夫は、学校につき、いろいろな学生の声になり、「馬鹿」「好きだ」「先生、質問」など、でたらめな事をしゃべらせて、いたずらをした。
学校が終わると、哲夫は、学生と一緒に電車に乗った。電車で都会につき、恋人の会話や、ヤクザの抗争など、いろいろな場所に紛れ込み、滅茶苦茶なことをたくさんしゃべらせた。
そのうち、哲夫はテレビ局に辿り着いた。
芸能人や、ニュースキャスターの声になると、哲夫は、面白がって、奇天烈な発言をしまくった。生放送の番組は大混乱になった。
さんざんいたずらをして、哲夫は楽しんだが、夜になると辺りは静かになり、物音が余りしなくなった。
静まり返った街の夜空を、哲夫は漂った。
このまま、自分は、ずっと音としてさまよい続けるのだろうか。
そう思うと、哲夫はむなしくなり、眠くなってきた。
空に飛行機の音が響いていた。このまま飛行機と一緒に、遠くの国へ行くのも悪くないな、と思った。
やがて、哲夫の意識は眠りに落ちていった。
ブロロロ……、とバイクの音で目が覚めた。
辺りは、朝で、相変わらず、哲夫は、バイクの音になっていた。
バイクの運転手がバイクを止めた。見ると彼は新聞配達をしている。ガチャンと、ポストに新聞が入れられた。
哲夫は、その音になり、家の方に漂っていく。なんと、そこは哲夫のアパートだった。
(おーい! 俺! 帰って来たぞ!)
哲夫は、グーグーいびきをかいて寝ている自分の体がある部屋へと漂っていった。