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エスカレート・アクセラレート  作者: コー


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後編


『私がこの力に目覚めたのは、小学生のとき』


 …………。


『毎日しっかり勉強して、百点を取り逃したことのなかった私に、未曽有の危機が訪れたわ』


 …………無。


『かけ算。風邪で数日学校を休んでしまったとき、算数の授業で始まっていたあの新たな概念。次の授業のとき、他の子たちが九九を当たり前のように諳んじたときの衝撃は、今でもこの胸に刻まれている』


 …………無無無。


『動揺を隠し切れないまま臨んだ小テスト。当たり前のように出てくるかけ算。助けを求めることも出来ず、身体中が壊死したように凍り付いた』


 …………無無無無無無。


『その絶望を前に、この力は発現した。いえ、元々有していた力が表面化した、と言った方が適切かしらね。時が止まったように錯覚した悠久の時の中、私は気づけた。かけ算なんて、何度も足し算を繰り返せば答えに到達できるものだということに』


 …………無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無!!


 聞くな!! 考えるな!! エージェント『死神』!!

 こんな窮地、履いて捨てるほどあったはずだ!!


 12階から20階まで止まらないエレ―ベータ―内。

 液晶パネルはようやく13を表していた。


 エレ―ベータ―内には俺と『女帝』のふたりしかない。


 彼女は念話を操り、思考強化という強力な異能を切り札に有する異能者である。

 『女帝』の異能の組み合わせによって引き延ばされた体感速度の中、俺は若くして一級エージェントとして認められた『女帝』の、ソロステージを堪能する羽目になっていた。


 彼女はこの組織の完璧なエージェントだ。

 エージェントに『死神』だの『女帝』だの名を付ける組織と感性も悲しいことに近い。


 事態は深刻である。

 後悔ばかりしても仕方が無いが、俺は悔恨を繰り返していた。


 最初に念話で話しかけられたとき、嫌悪する異能者を無視したのが最大のミスだ。

 あのせいで『女帝』の中で力の使い方がこんがらがり、この女は念話を使ったままでいることに気づいていない。

 異能者を蔑視してはならないという世論に背を向け続けていたツケをこんなところで払わされている。


『そういえばあのときの先生の名前は思い出せるのに、次の学年で変わった先生の名前はうろ覚えね。子供の記憶力というのはそういうものなのかしら。最初の先生というのは印象に残るものね』


 『女帝』は仕事のことを考えるために思考強化を使ったのだが、散々心の声を聞かされていた俺はこのオチを読んでいた。

 この女は思考速度が10倍になったら9割余計なことを考えて浪費する。

 自由時間が1時間だろうが1日だろうが、スマホを弄っていたら終わったという奴と全く同じ精神構造だ。


 無視しようと精神を集中させても限界がある。

 『女帝』が通っていた小学校の庭に在ったらしいチューリップの名前をふたつほど覚えさせられたとき、液晶パネルは14Fを表示した。


「んんっ」

「!」


 困ったときは咳払いだ。

 今から請けにいく仕事のことどころか過去にさかのぼった『女帝』の気を散らすべく、俺は軽く胸を叩いた。

 『女帝』の念話が一瞬途切れる。


『また咳? 何かのサイン……、は考え過ぎ?』


 そうだ。どれだけ愉快な頭の中身をしていても、彼女は一級エージェント。

 目の前の事象に反射的に思考してしまう。


『喉が乾燥しているのかしら。……飴、は私のイメージじゃないから持ってきてないけど。……あ、駅で買ったキャラメル、スーツのポケットに入れちゃった。膨らんでないわよね? 見られでもしたら私のイメージが……!』


 それは安心してくれ。ポケットからチョコレートが出てこようが綿あめが出てこようが、俺のお前に対するイメージが変わることはない。

 『女帝』の名に相応しく、やはりプライドは高い。こんな念話が漏れていることを知ったら、本気で死を選びかねない。

 今さら聞こえているとは言い出せない。


 『女帝』の思考は食べ物関連の方向へ進み、このビルの12階に在る飲食店におよび始めた。


 液晶パネルはようやく15Fを表示した。


 一体俺が何をした。

 何の罪でこんな罰を受けている。

 これ以上この女の念話を聞いていると、今から受ける依頼の説明が1ミリも理解できなくなりかねない。


 何でもいい。

 お前の今までの武勇伝でも構わない。

 せめて多少はマシになりそうな、仕事に関することを考えてくれ。


『……それにしても、“ひよっこ”、か』


 妙にしんみりした声色だった。


『変わってないないみたいね。……渋めの声も』


 ?

 『女帝』の声が高揚しているような気がする。

 顔を向けてしまおうとするのを必死に堪え、俺は『女帝』の念話に耳を傾けた。


 彼女は、俺と会ったことがあるのだろうか。

 まったく記憶にない。


『あのとき、あんなことがあったというのに、彼レベルだとああいう結果にできるのだと思い知ったわ。死に物狂いで一級エージェントになってみせても、特級の彼にとってまだまだ私はひよっこのまま、ってことね。……いいわ、見てなさい。今回の依頼で証明してみせるわ。いつまでもあのときのままだと思わないことね!』


 分からん分からん分からん。

 心の声なのに具体的な話が全く出てこない。


 ガチで記憶にない。

 やんわりとでもいいから、せめていつの頃の話かヒントを貰いたい。


『依頼の中、窮地を救ってみせ、そして私はこう言うの。『別に。あのときの借りを貸しただけよ』ってね』


 そういうのいいから俺とお前に過去何があったのかを教えてくれ。

 将来的にそうなっても、どや顔のお前に向けられるのは困惑の表情だ。聞き逃したことにしてしまうかもしれない。


『早速今回の依頼で何か起こらないかしら。犯罪者に刺される? ううん、無能力者とはいえそこらの奴にやられる『死神』じゃないでしょうし、難しいわね』


 おい。

 やっぱりクズ方向の思考をしているのは間違いない。

 俺の危機を望んでいるようにしか思えない『女帝』の思考に、俺は依頼中、背中に気を付けることを固く誓った。


『あ、そうよ。依頼よ依頼。要人の護衛としか聞かされていないけど、異能者が絡む可能性があり、かつこの組織に依頼が来た、というのもヒントね。来訪している国賓や不審な事件、情報が乏しくても細かなピースをつなぎ合わせれば護衛対象はある程度絞れるわ。そう、かけ算の答えが足し算の果てに到達できるものであるように……!』


 玉にひとつくらい瑕があっても許容しよう。

 俺が過去『女帝』に何をしたのか。滅茶苦茶思わせぶりなことを言いやがって気になってしまっているが、感情を殺すのもエージェントの必須技能だ。


 依頼の方に思考が向いてくれたことだけを捉えれば、事態は好転している。

 俺の苦痛も多少は軽減されるであろう。


『そして『死神』の動向も勿論ヒントになる。私より早くこのビルにいた。先にひとりで支部へ行っていた……、は考えにくいわね。すでに依頼のために動き出していた、というのも考えられる。だったら独自ルートで依頼の内容を見抜き、いち早く護衛の様子探っていた? その場合はこの近辺に護衛対象がいる可能性があるってことに? まさかコーヒーを飲むために早めに来ていたわけじゃないわよね? そういえばコーヒーって……、いえ、余計なことを考えないで、読み切るのよ、『死神』の意図を』


 頑張れ、耐えろ『女帝』。

 ちょっとでも余計なことを考えるとこの女の思考はそっちの方へぶっ飛んでいく。

 そうだ、仕事のことだけを考えろ。

 俺は無能力者だが、辛うじて踏み留まってくれた『女帝』に、祈るように念を送った。

 ちなみに早く来ていたのは、ルーティンのコーヒーを飲むためだけだが、今その話は関係ない。


『候補は出るけど、護衛対象の要人が誰か特定するまでのは困難ね。ならば逆の発想でいきましょう。仮に、私が護衛対象を知っていたとしたら、“何をするか”。それが『死神』の行動とリンクすれば、自ずと見えてくる。……コーヒーすら、何か意味が……?』


 頑張れ、耐えろ『女帝』。

 こいつの思考は高速回転する扇風機に張り付いた付箋のように頼りない。

 あと俺の行動の意図を考えるのは本気で止めてくれ。意味がないしやたらとコーヒーに引きずられている。飲みたかったのだろうか。


『やっぱりそうよ、意味がある。依頼を請けに行く直前、わざわざコーヒーを飲んだ『死神』。コーヒーには利尿作用がある。リスクがあるわ、お手洗いに行きたくなったらどうするの。……ん? このビル1階にお手洗いってあるわよね? 無いことは無いと思うけど、見当たらなかった。入ってすぐに目に入った『死神』に面食らって、探すの忘れていたわ。奥の方に行けばあったのかしら?』


 やばい雲行きが怪しい。散らかりまくっている『女帝』の思考が、また仕事のことから離れかけている。

 しかし思考強化は、やはり強力な力のようだ。

 これだけ余計なことを考えても、時間にして数秒にも満たない。

 これだけ強力な力を使って、『女帝』の意味のある思考の量が常人レベルのような気がするのが不穏だが。


『―――っ!』


 そこで、『女帝』に違和感を覚えた。

 気配には敏感だ。

 念話だけではなく、ほんの一瞬、『女帝』自身から、強い焦燥を感じたのだ。


『ま、まず……、お手洗いのことばかり考えていたら……、い、行きたく、なってきた』


 頑張れ!! 耐えろ『女帝』!!


 俺は液晶パネルを確認する。

 16F。

 『女帝』の力によって引き延ばされた時間感覚によって、未だに20階にすら到達していない。


『え、こ、こん、な、急に? い、いや、そんな馬鹿な。……で、でも、あっ、ぅぅ……!!』


 突如として発生した危機に、俺はエレベーターのボタンを睨む。

 即座に次に停まる20を押し、止まるべきだ。だが、突然そんな不自然な動きをすれば、念話が漏れていることに『女帝』は気づいてしまう。

 ならば『女帝』自ら押すしかない。


『す、すぐに降り……、だ、駄目、よ。……、ここで『死神』にお手洗いに行きたいなんて言ってエレベーターを止めたら、ひよっこどころか赤ちゃん扱い。が、我慢、我慢、よ……!!』


 一体俺は何度ミスを侵せば気が済むというのだ!!

 『女帝』の思考誘導しようとして、ヘイトを稼いだのが仇となった……!!

 今本当に何とも思わないから安心して言い出してくれ。


『待って、落ち着いて、数字でも数えていれば28階まであっという間よ。そう、あっという、間。1、2、3、4、5、……、……、……10……、……20……』


 『女帝』!! 能力を解除しろ!!


 液晶パネルが表すのは、ようやく17F。

 自分で引き延ばした時間感覚に勝手に苦しめられている『女帝』に、俺はあらん限りの心の声を送った。

 まったく届かない。無能力者の限界だ。


『どう、する……どうするの。いえ、どうするも何も、28階まで耐えるしかない。一切表情に出しちゃダメ。これ以上『死神』に舐められるわけにはいかないわ。……やれる。私ならやれるわ。ただでさえ言い出すのは……、は、恥ずかしすぎる……』


 いいから遠慮せずに言ってくれ!!


 確かに異性にトイレに行くことを伝えるのは恥じらいがあるだろう。

 そういうことを言い出せない者がいることは理解できる。いかに周囲が優しく対応したところで、自尊心は本人の問題だ。愚かなことだと思われようが、損得勘定など存在せず、他人が口を出すものではない。


 決壊するに至っても彼女は意志を変えないだろう。そこまで貫くほどのプライドのある者ほど、その後のことは絶対に耐えられないだろうが。


 『女帝』は涼しい顔をしながらも、奥歯を強く噛み、腕を抱いている指は、スーツが腕にめり込むほど力が入っている。


 だが、やはり強い意志を感じた。

 エージェントの直感だ。この女は耐え切るつもりでいる。


 しかし。


『ひっ、……ふ、…………、ひっ、……ふ……、く、くぅぅぅ……助けて助けて助けてごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』


 念話を聞けば聞くほど、とても28階まで持ちそうにない。


 このまままっすぐ28階へ行けるならワンチャンあるかもしれないが、それは20階以降このエレベーターが一切止まらない場合だ。

 可能性はあるかもしれないが、それはあり得ないと心が叫ぶ。

 12階までの移動でほぼ全階層停まったのだ。今度各駅停車になろうものなら、『女帝』は……!


 『女帝』が引き延ばした時間感覚をフルに利用し、俺は考えに考えた。


 現状を打破するための条件は次の通りだ。

 可及的速やかにトイレのある階で降りること。

 可能であれば、用足しひとつ行くにもプライドが邪魔する『女帝』の自尊心を傷つけないこと。

 そして念話がこちらに漏れていない、つまりは『女帝』の危機に俺が気づいていないようい振る舞うこと。


 特に最後の条件は最重要で、満たせなければ『女帝』の自害理由が変わるだけである。


「!」


 液晶パネルを睨み付けていた俺は、今度こそ気づけた。

 表示されているのは19F。

 階層の移動がずっと早く感じる。いや、元の速度に近くなっているだけなのだろう。


 『女帝』もようやく思い至ったらしい。

 実際の苦痛はさほどで、それを感じる時間が引き延ばされるから過剰に感じているだけなのだと。


『も……、ぅ、む……、―――、―――』


 異能の力を使うことも出来なくなっているだけだと……!?


 想像以上にピンチらしい『女帝』は、思考強化どころか念話すら途切れ途切れになってきていた。

 女帝は変わらず涼しい顔で立っているが、苦しげな声だけを聞かされていた俺には分かる。彼女はもう限界を迎えつつある。

 1階で俺に話しかける前に用を足しに行っておけばこんなことにはならなかっただろに。


 もうこうなれば運否天賦だ。

 このまままっすぐ28階へ到達することを祈るしかない。


 20F。

 エレベーターが、当たり前のように停まった。


 一体『女帝』が何をした。

 何の罪でこんな罰を受けている。


 数人のビジネスマンが乗ってきた。

 その光景よりも、12階まで大はしゃぎだった『女帝』が静まり返っていることの方が虚しく思える。


『―――、―――、……、あ、と。8……、階……!』


 僅かなノイズと共に、『女帝』の念話が届いた。

 思考強化を切ったことで、僅かばかり回復したのだろうか。


 俺は『女帝』の半死半生の声に、過去の出来事が脳裏を過る。


 『女帝』との記憶ではない。

 とある依頼中、銃弾や異能の力が飛び交う戦場、無線で呼びかけた逸れた盟友からの応答が無かった。

 奴は、数時間後、壊れた無線機のノイズ混ざりの音で応答し、無線機ごと銃で撃ち抜かれたことを伝え、集めた敵の情報を死力を振り絞って話してくれた。

 俺にとってはそんな情報以上に、最後に絞り出すように遺してくれた、やり遂げてくれというかすれ声が、最も価値があった。


 思い出す。

 今度こそ応答が無くなった無線機に、何度も何度も叫び続けた激情を。


『も、もうっ、むっ、むっりっりっ! で、でも、私はエージェント……、こ、これくらい……!』


 そして若干熱が冷める。お前は二度とエージェントって言葉を使うな。

 だがいい。頭を使うには丁度いいコンディションだ。


 実に下らないことではあるが、エージェントとしての知力を活かすときだ。


「―――、」


 『女帝』の思考強化の影響を受けるまでも無く、俺は周囲の情報を俯瞰的に捉え、即座に脳に溶け込ませる。

 特別やることはそれだけでいい。

 集まった情報をもとに、あとは知力と経験が勝手にプランを生み出してくれるのだ。


 乗り込むビジネスマンたちは、いくつかのボタンを押した。


 21,23、25、27、そして俺たちが押した28。

 こんなときに限って盛況。すべて停まればゲームオーバーだ。

 20階以降は企業オフィスが多いとはいえ、階を跨いで入っている企業もあるから、今点いているボタン以上に止まる可能性もある。


「……!」


 元気だった頃の『女帝』は何か名前を付けているだろうが、俺は23だけを見据えて薄く笑った。

 21はもうどうしようもない。

 『女帝』が限界のその先にいるのは感じているが、その階では条件を満たせない。


 俺はちらりとエレベーターの壁にある、各階の簡易説明を見据えた。

 23Fに在る、タバコのマーク。


 あの階には、喫煙所がある。


 21F。


 シナリオは出来上がった。あとは演じるだけである。


 まず、何も言わず23階で降りる。何ならただ事ではないと感じられるように、目の前のビジネスマンたちに『どいてくれ』と強い声を出してもいい。

 すると『女帝』は何事かと付いてくる。


 そこで俺は言う。

 『停まったからつい降りちまった、一服してから行くことにする。お前は適当に時間を潰しておけ』


 突然気が変わって23階で降りる不自然さも無く、あくまで『俺の都合に付き合え』というスタンスで『女帝』と別行動を取れ、用を足しに行ってもお釣りがくるくらいの時間が確保できる。

 そして合流した際、念話が聞こえれば、『ん? なんだ? 念話を使っているのか?』と一芝居打てば、『女帝』も力を抑えるであろう。一時的にでも離れれば今までの状態などうやむやにできる。


 これがすべての条件を満たした答えだ。


 精々傲慢に見える俺への不満が『女帝』の中で溜まるだろうが、そんなことはどうでもいい。

 所詮異能者だ。


 ……?


 そこで俺は、我に返った。

 何故俺は、異能者ごときのために、ここまで四苦八苦する羽目になっているのか。


「あ。……っうす」


 21Fで降りた者とすれ違うように乗ろうとした壮年の眼鏡の男に、エレベーターのボタンの前に立つ若い男が軽く頭を下げた。

 上司なのか目付け役か、傍から見ていても力関係が分かる。

 若い男は、まるで仕事をさぼっているところを何度も注意されているような畏縮具合だった。


 愛想笑いを浮かべた若い男は、開くのボタンを押しながら、眼鏡の男が入る前に、さりげなく26のボタンを押した。


 そのとき俺は、即座に、察した。

 23を押したのは、あの若い男である。仕事をさぼってタバコを吸いに行くつもりだったのだろう。


 彼は、眼鏡の男が入ると同時に、見えないように。


 23を、素早く2度押した。

 23の光が失われる。


 貴様!! 『女帝』があれだけリスクのある行為だと言っていたのを忘れたか!?


 押してはいないけど降りようと思っていて、押してあるから押さない人がいたらどうするつもりだ。

 言ってはいないが言っていて意味が分からなくなってくるが、つまりそういうことである。


 この若い男は、自分が何をしたのか気づいていない。


『10……、9……、8……』


 だって『女帝』が!! ほらもう『女帝』が!!

 上りのエレベーターなのに本日2度目のカウントダウンをしているんだぞ!?


 目付け役に見つかりそうになり、喫煙所へ向かうのを隠蔽しようとした結果、俺のプランが崩壊した。


 駄目押しとばかりに、眼鏡の男は24を押す。

 これで停まるのは、21、24、25、26、27である。


『ひとつ減って、ふたつ増えてのオッドイーブン。もう……、終わりね。『死神』にも、二度と会うことはないでしょう。せっかく、あのとき……、いえ、もう、関係ないわね。言い訳もしない。……最後の瞬間まで、私は私であり続ける』


 いやその場合は本当に迷惑だから大人しく降りてくれ。

 言い出すくらいなら我慢を選ぶ人は多いがそこまでとなるとどういう精神構造だ。


 ゆっくりと閉まるエレベーターの扉を見て、俺は考える。


 俺自ら23を押すのは容易い。タバコを吸いたかったと強く主張すればいいだけだ。

 だが、勝手に停まるだけならまだしも、能動的に俺が押して降りるのは、明確に『女帝』を救うことになるような気がする。


 他人から考えれば、ボタンを押す押さないの話だ、下らないことだろう。

 だが、その判断は、俺という存在の岐路なのだ。


 俺は異能者を嫌悪する。その力も同様だ。

 異能者は、人間のようで、人間ではない、新たな種。

 偏見なのは理解している。

 だが、それを理解した上で、偏見をするのが俺なのだ。誰に文句を言われようが、俺は俺を捻じ曲げられない。俺は俺であり続けることしかできない。


 そんな異能者を拒絶し続けてきた俺が、異能の力で得た情報で、異能者を救うことは、俺であることを否定することになる。


 今までの依頼でも、異能者からの情報を活かすことになったり、護衛対象が異能者であったりした場合もあるが、ほとんど間接的なもので、ここまで直接的なものは初だ。

 初なのがこんな下らないことで、本当に心が痛い。


 ほんの少しの、選択。

 大きな岐路は結果を作るが、目の前の小さな分岐点は過程を作る。

 自己の判定基準が曖昧になり、そう遠くない未来全く別の自分となっているだろう。


 意地や拘り。他人から見れば下らないもの。

 それにしがみつく者を、世論は頭が固いだ時代遅れだの騒ぎ立てるが、俺はそうした者の思考が誤りだとは決して思わない。

 自分の変化をいとわない者もいるように、自分がそのままでいることに拘る者もまた―――


『―――あ、あれ……? す、少し楽に? まさ、か、』


「どいてくれ! 23階で降りる!!」


 余計なことを考えている場合ではなかった。完全に『女帝』の影響である。

 思わず怒鳴るように叫んだ俺は若い男を押し退け23を押した。


 色んな意味で間に合っただろうか。

 22Fが表示されていた液晶パネルに念を送る。

 タイミングによっては止まらない可能性もある。


 必死に睨みつけていると、23Fを表示しぴたりと止まった。

 乗員たちの顔を見もせず、早くなるわけもないのに開くボタンを力の限り押し込みながら待つと、ゆっくりと扉が開く。


「……ちょっと先輩? どうしたのかしら?」


 窮地から飛び出すようにエレベーターの外に躍り出た俺に、『女帝』が怪訝な顔つきを浮かべていた。

 冷たい目をした冷徹な『女帝』だが、横からではなく正面からしっかり見ると、平静を装い額に脂汗を浮かべているのが分かった。

 ここまで表情を崩さないままでいられるのは、見上げた根性である。


 さあ。プランに合流だ。


――――――


「!」

「おや、見つかってしまったか」

「……あなたが今日の担当ですか。ご無沙汰しています」

「『死神』に『女帝』。中堅層では骨が折れると判断されたようだ」

「あなたにそう呼ばれるとくすぐったい」


 中央にカウンターがあるだけの小さな喫煙所ブースへ行くと、先客がひとりいた。

 体格のいい初老のこの男は、元はエージェントで、現在は組織の管理職。俺が組織に配属されたばかりの頃、エージェントのいろはを叩きこんでくれた恩人だ。

 ここにいるということは今日の依頼の説明はこの男がするのだろう。時間まで、喫煙所のあるこの階へ降りてきたのだろう。


 彼は。

 現役時代、『死神』と恐れられた怪物だ。


「『女帝』は?」

「化粧が崩れたとかで」

「……うむ。……吸わんのか?」

「火を忘れたので」

「使うかね?」

「煙草を切らしていまして」

「……ふ。はっは」


 懐かしい、見透かしたような笑い声。

 愛想笑いしか浮かべられなかった頃を未だに思い出す。


 『死神』はゆうゆうと煙を吹かして灰皿にこすりつけると、次のタバコに火を点けた。


「喫煙者も肩身が狭い。あらゆる場所で喫煙を禁止され、申し訳程度の小ケースに押し込まれ、そこから1歩でも出たところを見つかれば大騒ぎ。まるで飼育されているネズミのようだ」


 先代の『死神』は、申し訳程度に備えられた窓の隣に背を預けると、首だけで外を眺める。

 23階。それなりの景色であろうが、ゲージのようなエリアから見ても虚しいだけだろう。


「どうだ、新しい『女帝』は」

「どうもなにも、下で会ったばかりです。先代の『女帝』に比べれば、毛が生えたばかりの子供のようですが」


 俺と、同じだ。

 一線を退いているはずの先代の『死神』と対面すると、いつも自分の未熟さを感じる。


「今も異能者は嫌いかね?」


 限界まで吸い込んでいた煙を吐き出し、先代の『死神』はぽつりと言う。

 未熟さを、突かれたような気がした。


「おっと、異能者はまずいか、ええと、何だったか。妻が気にしないものだからつい忘れてしまう」

「俺もそう呼んでいるので、異能者で構いませんよ」


 言う割には大して気にもしていない様子の先代の『死神』に、俺は投げやりに言った。


 異能者には、世間的には別の呼称が付いている。

 人類であるのに、“異”能と表現するのが問題となったのだ。

 能力者や所持者など、様々な候補が上がり、しかし特別性を持たせると、今度は能力のない人間への中傷となる。無能力者という言葉も正式なものではない。

 結局呼び名は教科書に載る表現は当たり障りのないものに落ち着いたが、未だに人によって呼称が違う。

 様々なものに気を付けた結果生み出された、本質を捉えない無意味な言葉は無数にある。


 先代の『死神』は、今の返答で十分と思ったようで、ゆったりとしたままにやりと笑う。

 俺は僅かに視線を外した。


「何、構わんよ。君の思想だ。そして私はそんな君に聞いたんだ、遠慮せずに鼻を摘まんでくれ」


 先代の『死神』も、俺と同じく能力のない人間だ。

 それでも敵が武装していようが異能者だろうが徹底的に打ちのめし、今なお打ち破られていない依頼達成件数を誇る。

 そんな彼は当時、やはり俺と同じように、異能者の存在を嫌悪していたように思えた。


 だが、後にできた彼の配偶者のことは知っている。

 明るく、快活で、笑顔が眩しい女性だ。


 そして、異能者である。


「私も鼻を摘ままれる。喫煙者も随分数が減った」


 自分と違う部分のある存在は、疎まれる。


 たとえどれほど優れていても、世界の本質は多数決だ。

 少数派になれば排除されていく。

 だから少数は数を増やそうと躍起になる。多数はそれを阻止しようと排除する。

 ゆえに多数も少数も、自分と違うものを嫌悪するのだ。そして嫌悪するように世界に訴え数を増やす。

 生き残ってきた生物の本能にはそれがあるのだ。

 種を残して反映したり、同じ思想の者を増やそうとしたりするのも同じだ。


 例えば喫煙は、自身の健康や他者への受動喫煙が危惧される。


 だが、叩いて埃の出ないものはない。

 多様性を謳いながら、排除したいものに狙いをつけ、叩きに叩けば、いくらでも排除する理由は作れる。

 少数にする理由を、作り出せる。


 世界に訴え、声を大きくすればどのようなものでも排除可能なのだ。

 多様性という個人を認めるはずの言葉ですら、結局は多数決。それは多様性であると“多くの人に認められる”必要がある。


「いずれは無能力者もそうなるだろう。異能者上位となる流れは止まらない」


 現代社会に溶け込んだ異能者。

 その数は、発現当初とは比べ物にならないほど増加している。


 少数であった頃に見逃された彼らは、本格的に“多数”となりつつある。


「異能者の無能力者への蔑視も強まるだろう。そうなれば無能力者の異能者への不満も表面化する。やり方はどうあれ、本質的には歴史の中の差別や迫害と、全く同じことが起こるだろう」


 多数派と少数派の入れ替わりは時代の転換期だ。

 今までの常識が覆り、様々なところで、様々なものが悲鳴を上げることになる。


 異能者への規制は弱まり、無能力者の排除、ないし管理が始まることは見えていた。

 保護か何かの耳障りのいい名目で、無能力者の行動が制限される規約が生まれたら合図だろう。

 誰もが分かっている。侮るように例えに出すが、世論はもちろん賢い。誰もが目を光らせている。

 今はそのデリケートな時期だ。


 差別や迫害は、激しく加速していく。


「『女帝』の方も無能力者を蔑視しているらしい。そんなふたりでの依頼となると、上層部も流石に気を揉むということだ」


 上層部。

 管理者をひとくくりに呼ぶその言葉も、現場から生まれた不満の詰まった言葉である。


「なら何故今回、俺と彼女を?」

「君のことは私が推した」


 先代の『死神』は、灰いっぱいに煙を吸い込み、幸せそうに吐き出した。


「君にとっての何らかの機会になると思ったからだ」

「……」


 そんなそれっぽい理由で異能者と組まされた俺としてはたまったものではない。

 だがその言葉選びが、彼らしいと感じた。

 いい機会と、言わない。


「異能者と共に依頼をこなすのは、凝り固まった君にとっての刺激になる。接する機会があれば見えるものもあるだろう。結果手を取り合おうが一層溝が深まろうが、同じことだ」


 この男は人の感情や思想を肯定も否定しない。

 行動を咎めることはあっても、心の強制をしてこない。


 そして俺に、様々な経験を積ませてきた。

 肯定も否定も無く、機会だけを供給する男だった。


 組織に入ったばかりの頃、俺はあまりに脆弱だった。

 俺は元来、他人に影響されやすいようだ。

 知力や体力、技術はずば抜けていると自信があったが、それだけに、精神のみすぼらしさが自ら分かった。


 自分の頭で考えているつもりでも常に誰かの顔色伺い、格好がいいと思うものにはすぐに飛びつきそして飽き、世論には自分なりの意見を持って同意したり、逆に斜に構えて否定したりとしてみても、結局はどこかの誰かが言ったことの上辺だけの引用でしかない。

 他者の何かを噛み砕くこともせずにそのまま使い、常に不定で、自分という存在がつぎはぎだらけのような感覚に苛まれていたのだ。


 俺はそんな自分を恥じた。

 意地を張り通せるだけの知識と論理を頭に叩き込み、下手に流されぬように自分の考えに固執し、ルーティンで整え、自分という存在を確立することに躍起になった。

 頭が固いと言われようが、そうでもしなければ自分という存在が消滅するような恐怖に苛まれていたのだ。


 そんな俺に、この男は次から次へ、何かを放り込む。

 流されぬよう意地になって反抗しても、機械的に捌いて無意味としか思えない結果となっても、見透かしたように、満足そうに笑うのだ。


「あんなことがあったのだ、君が異能者を認めるのは難しいことだろう。だが、困難であることは行わない理由にならない」


 ……え?


 あんなこと。なんだそれは、本当に記憶にない。

 『女帝』も似たようなことを言っていたが、こいつらは何の話をしている。マジで知らん。


 俺が異能者を嫌う壮大な過去があるかのような匂わせをしてくる。

 普通に嫌いなだけのはずだが。


 聞き出したいが、先代の『死神』は遠い目をしている。

 今ひたらないでくれ、口を挟めなくなるだろう。


「嫌うなら、しっかり嫌え。拒絶は理解の後にしろ。それがエージェントだ」


 動揺したまま、食わず嫌いを咎められている子供の気分を味わった。

 だがこの親は、嫌悪するという結論に辿り着いても、それでいいと言っている。


「『死神』。経験不足の『女帝』の面倒を見てやれ」


 先代の『死神』が、タバコを灰皿に押し当てながら言った。


「……釘差しでしたか」


 考えていることが見透かされているような気分をいつも味わう。

 異能者がいようがいまいが、ひとりで依頼を達成するつもりでいたが、先代の『死神』は機会と捉えろと言っている。


「そう構えるな。『女帝』は完成されているようで、私には妙に幼く感じる。嫌悪していても構わんが、君にも大人の振る舞いを覚えてもらわんとな」


 先代の『死神』の慧眼に感服した。

 洞察力と先を読み切る力で、死の気配を誰よりも早く検知する、別称の所以たる貫禄があった。

 大して話してもいないであろう『女帝』の情緒を読み切ってみせている。

 当代の『死神』である俺も、彼女を言い表せと言わればそう言う。

 俺の場合は答えのページを直接開いてしまったが。


 もっとも、幼稚だと思われているのは『女帝』ばかりではないらしい。


「今回、余程重要な依頼で?」

「そうだ。……まあ、実のところ、君だけのはずだったが、先代の『女帝』に不安材料をねじ込まれた。ならば君を外せと上層部が言ってきたが、譲らない私と口論になってな。詳しくは上で話すが、絶対にしくじらないで欲しい」


 それを推したと言うのだろうか。

 それっぽい理由を話し続けていたが、今回のことは先代の『死神』にとっても不測の事態だったらしい。

 上層部か先代の『女帝』と売り言葉に買い言葉で揉めに揉め、重い責任を取る立場になってしまっているのかもしれない。

 成績だけで言えば『女帝』は完璧だ。彼女に不安材料を覚えられるのは、先代の『死神』くらいだったのだろう。


 相変わらず、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか分からない男だ。


「過程はどうあれ、君が異能者を深く知る機会とはなった。嫌悪するものこそ目を瞑るな。例えばそうだな、異能者が、どれほど脅威なのかを君の言葉で具体的に言えなければ、理解が浅いということだ」


 辛い立場に立たされているらしい先代の『死神』は、俺の意識を喚起するように言った。

 凝り固まっているらしい俺の頭に入りやすいような、ねじ曲がった言葉を選んだと感じた。


 人の思考というものは、望む望まないに関わらず変化する。


 その変化は、突然現れた異能者のように、突発的に起こるものではない。

 人を導いたやら変えたやらと豪語する者もいるが、そんなことは不可能である。

 どれほど言葉を尽くしても、どれほどの姿を見せようとも、人は本当の意味では変わらない。


 様々な機会を得て、自ずと自分を更新するものなのだ。


 今の先代の『死神』の話を聞き、その通りですと言えない俺だが、こうした経験や影響が累積し、自分の中に染みついて、人の思考は勝手に変わる。

 機会を得れば、どれほど耳を塞いでいても、自分を変え得る思考の種を受ける。

 思考を強制せず、嫌悪を覚えたり軋轢を生んだりする結果ですら認め、機会だけを供給し続けるこの男は、そのことを俺以上に経験し、理解しているだろう。


 俺は、他人の意見に流された、流されやすかった俺を嫌悪する。

 刺激を受けて勝手に変わってしまうことを理解しつつも、流されたように感じてしまう。

 自分という存在が更新されていくことを恐れるのだ。

 自分を更新するというのは前向きな言葉に聞こえるが、影響を受けて変わりに変わっていくのは、まるで既存の自分が、新たな自分に根絶やしにされるように感じてしまう。


 俺にとっての変化とは、流されないように必死になって作り上げた自分が、また吹けば飛ぶような存在になっていくような悪寒がするものなのだ。


 そんな俺は異能者を嫌悪する人間である。

 だから危機を迎えた相手が異能者でも、思わず救ってしまったことは、未だに後悔している。

 異能者は、すでに新たな差別や迫害を生み出している、人類という種を脅かす外敵なのだ。


 まあ、俺が遭遇した、依頼が始まってもいないのに遭遇した『女帝』の危機は、そんな壮大な話ではまったくないのだが。


 そう。

 壮大な話では全くない。喫煙問題にすら大きく劣る。


 俺は、世論に流されるままに世界に認められた異能者が嫌いだ。

 だからこそ、異能者を受け入れ始めた世界を許せず、異能者だからと、人類の敵だと、叩いて出てくる自分なりの埃を見つけ出した。


 何のことはない。

 俺が嫌っているのは、恐れているのは、変わってしまうかもしれない俺なのだ。


 自分の中の異能者を嫌うという思考の種が、異能者と向き合うべきという新たな思考の種に、滅ぼされることを恐れているのだ。

 エレベーターの事象に必殺技のような名を付けるような、プライドが邪魔して用を足しに行くと言えないような、他者から見ればあまりに下らなくて、幼稚で矮小な話なのだ。


 異能者と接する機会が増えれば、俺が望まなくても、俺は更新されてしまう。

 今の俺はいなくなる。


 早速今日も、変化してしまった。

 悲しいことに、難しいことを考えるのが馬鹿らしく思えてしまう、愚かな俺になってしまったようだ。


「そんな小難しい話をしなくても、望む形で決着します」

「……。いつの間にか言うようになったじゃないか、あのひよっこが」


 先代の『死神』は愉快そうに鼻を鳴らし、灰皿の塵を棄てるとスーツの襟を正した。

 気配が変わる。


「そろそろ時間だ。私と先に行くか?」

「ふたりで28階へ来いと指示を受けているので」

「うむ。ではまた後で。任せたぞ。『女帝』とは長い付き合いになるのだからな」

「……は?」


 あっけにとられた俺の前を通り過ぎて先代の『死神』が出て行く。


 不穏な言葉が聞こえた。


 『女帝』とは、今回の依頼だけ、のはず、だろう……?


 待て。

 上層部となのか先代の『女帝』となのかは知らないが、何がどういう風に決まったかを今ここで言ってくれ。


 掴みかかってでも聞き出したいが、思わず背後から詰め寄ってしまうと、あの男がすでに仕事モードになっていたら殺されかねない。

 だが、邪推してしまう。

 差別とか迫害とか大きな話で気を引いて、俺が猛反発するであろう最後の一言を滑り込ませることだけが目的だったのではあるまいな。


 結局喫煙所から出ていく先代の『死神』を見送ることしかできず、俺は息を吐いて壁に背を預けた。


 異能者。

 突如として現れた、既存の人類の上位互換。

 その変化を人類は受け入れた。その影響は、最早世界に染みついている。

 様々なものに影響を与え、過去の人の思考は滅亡、あるいは進化してく。


 だが、それでも、せっかく作り上げたのだ。

 俺はまだまだ、いずれ滅びるかもしれない今の自分の考えに固執するつもりだ。

 異能者は外敵である。

 幼稚と言われようが、頭が固いと言われようが、それが俺という存在なのだ。

 自ずと変わってしまうことを理解しつつも、必死になってしがみついてみせる。手を離す勇気は今の俺には無い。


 多数と少数が入れ替わり、異能者上位となる流れが加速する時代の転換期。

 様々なデリケートな問題が顔を覗かせる中、異能者を嫌悪するそんな俺と、無能力者を蔑視する彼女が組むことになる。


 先代の『死神』は異能者を知り、人間として認め、感情を向け、身を固めるまでに至った。

 そして俺の目の前にも、異能者を知る機会が現れている。

 聞かないことにしたかったが、短い付き合いでもないらしい。


 先代の『死神』はそうした機会を供給し、良い悪いに関わらず、俺の変化を促すつもりなのかもしれない。


 だが、俺は薄く笑った。


 異能者と関わる機会が増えれば、確かに俺は更新されていくだろう。

 同じ時間を過ごし、相手を知り、理解できれば思考も変わる。

 俺がどれほど意地になっても、俺自身、それは避けられないと理解していた。


 しかし、先代の『死神』の狙いは読めないが、すでに俺は目的地にいる。


 堅調に推移していた科学文明の中、突発的に発生した異常者によって生み出された、フィクションのような激動の時代。

 揺れ動く時代の中、忌み嫌う者同士が喧嘩でもしながら協力して依頼をこなし、愛情だか友情だかを育むという、誰にしたのか分からないお約束の展開というものにはならない。


 何しろプロローグで完結している。

 依頼の説明を聞き、顔合わせをして、それから双方の理解を深めるドラマが始まるところだっただろうに、『女帝』のポカで、一方的にだが俺は彼女の思考を知ってしまった。

 恐ろしく底が浅くてあっという間だ。

 何なら俺にとって、むしろ俺自身の方が謎になった。過去に何があったのか、本当に記憶にない。


 物語は始まらない。

 本来長い時間をかけて知るはずだった、複数の能力を持ち、用を足しに行くと言えないほどプライドが高く、普通にクズで、集中力がまるでなく、外見から出は全く予想できない程アホなことを考えているという『女帝』を、始まる前から俺は知った。

 機会を堪能し切ったのだ。

 激しく加速した俺の変化の先は、状況によっては異能者にも多少の情を持ってしまうという自分である。

 あくまでこれが俺の終点だ。これ以上の変化はきっと無い。


 まあ、あの情緒の『女帝』と組まされるという不安は尽きないし、異能者の面倒を見ろというのも、中身があれでは致し方ない。

 多少は大人になったという変化だ、これくらいなら甘んじて受け入れよう。


『―――どうする』


 『女帝』の念話が聞こえた。


 先代の『死神』から釘を差されている、お守りの時間だ。


 まずはプラン通り、念話を止めさせようと、俺は喫煙所から出た。

 第一声は、『ん? なんだ? 念話を使っているのか?』、だ。


「ん? な―――」

『限界過ぎて結構時間かかった、わよね。『いつまで待たせる気?』みたいな感じいくべきかしら。でも無駄に角が立つような振る舞いしたらむしろ子供っぽく見える? いえ、そもそも迎えに行ったらどう見ても用を足していたようにしか思われない。かと言って姿を見せなければ空白の時間が長くなり、下手をすれば長いことお手洗いに籠っていたと『死神』に思われかねない。……そうだ時間! 別れてからちょうど10分経ったら行きましょう。『10分よ。いつまで待たせる気かしら?』これでいきましょう。ずっとそこの角で立っていたかのように思わせられるかも……!』


 早い早い早い早い。

 念話を止めさせる機会をくれ。もう何か聞こえた程度じゃすまないほどの情報量だ。


 『女帝』はエレベーターの近くで、凛と立っていた。

 先代の『死神』とはすれ違わなかったのだろうか。というか思考の渦に呑まれて俺にすら気づいていない。

 いよいよエージェントであることすら疑わしくなってきた『女帝』は、ようやく俺に気づき、コンマ数秒ほど慌てたのちに不快そうな顔を作ってきた。


 だが俺は表情を変えない。

 もう俺は変化し切ったはずだ。これ以上は踏ん張ろう。

 異能者は、普段感情を向ける相手ではないと思うのは変わらない。


 今回は決して失敗は許されない依頼だそうだが、それはいつものことである。

 たかだか28階へエレベーターで昇り切ることもできないこのバディは、不安でしかないが。

 いや、俺の責任じゃない。途中で降りたのは全面的に『女帝』が悪い。


「10分よ。いつまで待たせる気かしら?」

「せっかちな女だ」


 無視でもよかったかもしれないが、予習済みの『女帝』の冷たい声に、つい返してしまう。

 嫌悪し、それでも共に歩まなければならない相手は、口元を強く結ぶ。

 表面上では隠しているが、脳内にめちゃくちゃ文句と言い訳が届いてくる。


 エレベーターでの出来事は俺にとっては変化の機会だったが、この女にとっては何の機会でもない。彼女の機会はこれからだ。それは俺の物語ではない。

 この女にもこの機会を通して変化が訪れるだろう。それはそっちで勝手にやってくれ。

 この女の脳内が変わるビジョンはまったく見えないが。


 俺は念話を徹底的に無視し、『女帝』と並び立つ。

 これが異能者に対する今の俺のスタンスだ。


 28階まであと5階。

 またどこかで念話を切らせるプランを練らなければならないが、悲しいことに、それくらいなら構わないと思える大人な俺に変化したらしい。

 変化する前の俺もここまで耐え抜いてみせたのだ、エレベーターで共に数階移動する程度のことが出来なければ、要人の護衛なんて成功しえない。本当に。


 『女帝』が呼んだエレベーターの外の液晶パネルが、23階を目指して上がってくる。

 そして、22階で一旦停まった。


『カミチャ・ロン!?』


 俺は彼女からすると渋いらしい声で、言った。


「俺は階段で行く」


 ごめんやっぱ無理。


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