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エスカレート・アクセラレート  作者: コー


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前編

 異能者。


 人間という種の、あるいは物理的な事象の限界を超え、科学では説明できない理解不可能な力を宿す者たちは、そう呼ばれる。


 発端としては数十年前。

 とある新生児が世界で初めて異能者と認められたのを皮切りに、同病院や同国某所、果ては地球の裏側から、異能の力を有する生後間もない子供が次々と発見されたのだ。


 規則性も無く、能力自体も不規則な異能は、物を触らずに動かせたり、未来を予知したり、空を飛んで見せたりと、あらゆる物語で多種多様に描かれたものそのものだった。


 その後も異能者たちは年々発見され続け、いずれ世界は異能者で溢れ返り、悪い異能者が暴れ回る一方、良い異能者が平和を守るために対抗するといった、漫画やアニメで散々描かれた、笑ってしまうような展開を想像した者も少なくはない。


 しかし事実、予測不能な力を持つ人間が存在することは、法整備もおぼつかず、従来の社会システムの破綻を意味する。

 公共交通機関ひとつとっても、あらゆる事故防止や防犯対策は、例えば人間が突然炎を生み出すことを想定して作られていないのだ。


 異能者の現出で、人類は重要な岐路に立たされたことは間違いない。

 つまりは異能者というものをどう捉えるかである。


 分かりやすいのは異能というものを徹底的に解析し、人類の新たな武器とすることである。

 あらゆる賢人たちが証明してきた科学的な概念を打ち破る異能という存在は、エネルギー問題や廃棄物など、世界中が抱える解決しえない課題の解消、あるいは軍事利用などの重要なキーになる可能性があるのだ。


 ただその場合、異能者の扱いは良いにせよ悪いにせよ通常の人生から大きく外れるであろう。

 誰もが想像するその可能性を前に、愛する我が子が人間とは思えない力を持ってしまった親たちの心中は察するに余りある。

 迫害に人体実験と、あらゆる悲観的な想像が頭を過ったであろう。

 しかし、実際に起こったことは、当時の世論の生温い判断だった。

 つまりは異能者たちの尊重である。


 異能という力が宿すのはあくまで人間であり、人権が保障される。

 生まれた国、血筋、美醜、性別、思想、肌の色と、様々な差別迫害を繰り返してきた人類には、異能ですら人間の多様性の一部として受け入れることができてしまったのだ。


 本来ならば即座に解剖も辞さない人体実験でも行い、異能の力を解明し尽くしたいというのが各国の本音であったであろう。


 しかし世界中の人間が監視者である中、世論を敵に回すことは死を意味する。

 国同士ですら他国に出し抜かれないために、自国も進めたい異能者研究を牽制し合ったのだ。


 そうした協調性と足の引っ張り合いの混乱の中、結局は異能というものをただの個性として認めることとなった人類は、国際レベルで一定の規則を作りつつ、異能者たちを既存の社会のレールに乗せることとなった。


 一般人には異能者を迫害しないように、異能者には異能の力を無暗に使用しないように、それぞれ調和と愛を訴え、異能者たちは“ほんの少しの特徴がある人”として世界に受け入れられたのだ。


 だが。

 その本質がどういうものか理解していた者もいたであろう。


 異能者は、とてつもなく長い年月を経て猿が人間になったように、正常な進化の結果生まれたものではなく、突発的に生じた異常である。

 人から生まれたとはいえ、過激な物言いをすれば、人間にして人間ではない、突然変異の新たな“種”なのだ。


 そんな新たな種は月日が経ち、すでに社会に溶け込み始めている。

 平和を訴えた各国の努力の賜物か、あるいはただ単に、もっと便利で、用が足り、誰もが公平に使える科学の力が存在するからか、日常生活で異能者たちがその力を行使することは確かに少ない。

 異能者であることを秘匿し、あくまで一般人として社会で生活している者もいるほどである。


 しかしふつふつと、世界各国で、異能者絡みの事件が発生し始めていた。


 現代社会に溶け込んだ異能者は、能力のない人間と同様の知識と経験を得た上で、“固有の力”を有する。

 例えば一般企業に勤める異能者からしてみれば、自らの“下位互換”でしかない能力のない人間と、待遇や賃金の“差が生まれないのがおかしい”という思想に至るのだ。


 ある日突然、異能者の不満が爆発して発生する事件は数多い。

 能力を使わず、あくまで現代社会に溶け込み、組織に入れば上司や先輩にぺこぺこと頭を下げていても、頭の中は覗けないのだ。


 そんな状況だというのに、異能者という“個性”を認めてしまった人類は、極めてデリケートな問題として扱い続けている。

 傷害や殺人事件があるたび、能力うんぬんはニュースでは伏せられており、その動機については要領を得ないものばかりになっていった。


 かつて世論に守れた異能者たちは、日に日に力を蓄え、いずれは世論すら掌握するであろう。

 そうなれば、能力のない人間と明確な待遇の差を定めるのは目に見えている。

 そしてさらに日が経てば、能力のない人間の排除が始まりかねない。


 それが、新たな種を受け入れるということである。


 仮に宇宙人が存在し、地球の侵略を企てたとしたら、UFOで襲来し、未知の兵器で暴れ回るのではなく、人類に検知されなかった秘匿性を活かし、人間に成り済ますことを選ぶであろう。

 成り切れない部分があったとしても、多様性の波に呑まれて消える。

 異能はまさにそれだ。


 人類も同様に、種というものは、外敵を排除してきたからこそ生き残っている。

 歴史の中幾度となく繰り返されてきた、“自分たちと違うもの”への差別や迫害は、生物が生き残るための本能そのものなのだ。

 それだというのに、現れた脅威を守り、育て、自らの種の生存を脅かしているのだから笑えない。


 現代、頻繁に発生する事件の中にあっても、異能者に対する差別的な思想は忌避されている。

 個性として認めた以上、平等に扱うべき人類であるのだと、世界中で認識されている。

 人類という種を脅かす新たな種を、にこにこと眺めているのだ。

 子供の教育が、異能者の差別を止めるものから、能力のない人間への差別を止めるものになればいよいよであろう。


 時を巻き戻せるのであれば、異能者が発現した当初、差別と区別の違いを付ける知恵を多くの人類が有しているべきであった。

 異能者たちを自らの同種ではなく、せめて突如現れた隣人として区別ができていれば、異能者上位となっていく大きなうねりは生まれなかったであろう。


 本能に正面から向かい合うことをせず、平和や協調性を謳ってかわし、綺麗な言葉で覆い隠した結果、異能者の現出当初のフィクションのような想像は、具体的な形を成して眼前に迫っていた。


『到着したわ』


 冷たい“声”が聞こえ、かちりとカップを机に置く。


 俺の顔は知っているらしい。エントランスに入ってきた若いスーツ姿の女性がこちらに視線も向けもせずに“囁いてきた”。


 だが俺は、落ち着き払ったまままたカップを口に付ける。

 仕事前のルーティンだ。邪魔は許さない。


 高層ビルの1階。

 エントランスに備えられたカフェの席、ゆっくりと最後のひと口を飲み干した俺は、余裕を持った動きで店を出た。

 彼女が今回の依頼のパートナーと聞いているが、顔を見たのは初めてだ。


 俺と彼女は、とある組織に属しており、俗に言えばエージェントである。

 国家権力が正義を掲げて国を守る中、手の届かない、言ってしまえば汚い仕事をする者たちだ。


 今回の仕事はどこぞの要人の護衛と聞いている。それだけなら警察を始めとする正規な組織に声をかければ済む話だろう。

 だが、俺たちに声がかかるということは、“異能者絡みの問題”となる可能性が高いということだ。


 異能の力というものは前述の通り、あくまで足が早いとか、頭の回転が早いとかいう、個性のひとつとして認められている。


 だが、綺麗ごとばかりでは世界は回らない。

 例えば人を殺害できる力を持つ者が要人の近くにいても、“異能者だから”という理由で捕縛することは“世界的に”認められてないのだ。

 銃を隠し持っているような物的証拠があれば真っ向から立ち向かえるが、異能者についてはただの個性であり、力を使うつもりはなかったと主張されれば差別だのなんだのと世論が騒ぎ立てる。


 ゆえに、実力があり、口が堅く、忠実で、仮に問題に発展しても尻尾切りされることとなる、異能者への対応組織が秘密裏に設けられるのだ。

 はっきり言えば、世論が認めなかろうが異能者の殺害すら依頼される組織である。


 同様の組織は表立ったこの国にも数多く、各国も同じことをしている。

 発言ひとつで首相すら失脚する昨今、漫画のような華々しい組織は生み出せない。


 今まで請けた依頼も、この電子社会にあって対面の口頭で1度きり。

 通信の傍受やエージェント自身のデータ保存を危惧する今の上層部のやり方である。


 この高層ビルの28階には単なるテナントに偽装された支部があり、俺と彼女は依頼の詳細な指示を受けに来たのだ。

 とはいえ、仲良しこよしをするつもりはない。

 1階で落ち合うことになっていたのも、支部にはふたりで来るようにと指令を受けていたからである。


 会ったことも無かった彼女については本名も知らず、向こうもそうだろうが、信頼も何もない。

 それは彼女に限らず、今までいたりいなかったりしたパートナーについても深くは知ろうとしていない。


 だが、彼女のことについてだけは、そんな俺の耳にも入っている。


 『女帝』。

 彼女は組織内でそう呼ばれている。


 若くしてエージェントとして完成された肉体を備え、その異常なまでの判断能力で配属間もなく高難度の依頼を成功に導いてみせた一級エージェントである。

 肩ほどまでの髪をブロンドに染め、グラマラスなスタイルを窮屈にスーツに収めている様は、さながら映画の中から飛び出して来たスーパーウーマンだ。


 完璧超人と名高い彼女だが、さらにその上で、最も注目すべき特徴がある。


 彼女は、異能者だ。


『女性を待たせるとは失礼ね』


 俺は異能者ではない。

 明確に生物として、異能者の下位互換である。


 現代、異能者は社会に溶け込んでいる。

 能力の有無に関係なく、手と手を取り合い、共に協力する姿はさも美しいだろうが、腹の内では互いにいがみ合っている場合も多い。

 異能者からすれば能力が無ければ文字通り無能でしかなく、無能力者からすれば異能者は気味の悪い力を操る人類の敵だ。


 俺も異能者を嫌悪している人間である。


 異能者はそんな者たちの声を、能力のない人間からの僻みと捉えている。

 確かにそういった面もあるかもしれないが、俺は生理的に異能者を受け入れられない。

 偏見と言われて結構。世論に晒される職業ではない。


 自分たちの仕事が証明している通り、問題を起こす異能者には実力行使以外の対応が存在しない場合が多い。

 対処方法が確立されている無能力者と違い、対処方法が確立されていない異能者は、明確に社会を脅かす外敵である。


 異能者である『女帝』が異能者対応組織に属しているように、良い異能者も悪い異能者もいるだけで、人間性の問題だと考える者も多いが、根本的に発想がずれている。


 異能者同士の戦いは、所詮内輪の話だ。人類同士が戦争を起こしたところで、他の種はどうとも思わないであろう。結果がどうあれ勝者は人類なのだから。

 異能者と無能力者の関係は、もっと原始的な、種の存亡を賭けたものである。

 無能力者がすべて淘汰されれば、人類は異能者という新たな種に敗北したこととなるのだ。

 無能力者に理解を示す異能者も存在するが、それはあくまで持つ者側からの施しでしかなく、人間がペットを飼っているだけのように同じ目線ではない。


 ゆえに『女帝』に一切の感情は向けない。

 人類ではない外敵に、理解も感情も不要である。

 仕事である以上文句は言わないが、何を考えているか分からない異能者なんぞと必要以上に接するつもりはない。


 いよいよこうした組織にも異能者という存在が入り込み始めている。

 実力主義と言えば聞こえはいいが、異能者が上位互換の存在である以上、いずれは組織のすべてが異能者だけに染め上げられるであろう。

 異能者を実力行使で排除する組織がすべて異能者だらけになれば、いよいよ異能者という種の抑止力は消失することになる。


『ちょっと。ねえ?』


 言いたいことがあるなら口で言え。


 俺は表情ひとつ変えずに彼女の横を通り過ぎた。

 偏見主義者は俺ばかりでない。

 件の『女帝』も、無能力者に対して差別的な思想を持つと聞いている。


 俺は神経を尖らせた。

 確かに異能者は人類の上位互換なのだろうが、それはベースの力が同じ場合だ。


 この依頼、どういう内容であれ俺にはひとりで完璧に達成するだけの力がある。

 何を考えているか分からん異能者の存在などノイズでしかない。



 背後の気配が鋭くなったように感じる。

 また何か“囁かれる”かと思ったが、俺は気にせずエレベーターへ向かった。


 先程から使われている通り、『女帝』の異能は“念話”である。

 数多の物語基準で考えるといささか地味に思えるが、この仕事では重宝されるのだ。

 通信器具も不要で傍受も不可能な通信方法は、盗聴や通信妨害の脅威にさらされず情報を共有可能な強力な力である。


 彼女には、電波障害の中、念話で数多くのエージェントに指示を出し、依頼を成功に収めた実績がある。

 一方的な念話で容赦なく指示を飛ばし、右から左に人を動かしたその姿は、まさしく『女帝』であったそうだ。

 外見だけ見れば熱を上げる者が多そうな彼女だが、共に仕事をした者は、冷徹な指示を出す彼女に、委縮し切っているという。

 彼女は依頼のためなら他人の命など気にもしないとも言われる。無能力者となればなおさらだろう。

 エレベーター前でボタンを押しながら、気配を尖らせる。俺も背中に気を付けた方がいいようだ。


『あの。……聞こえていないのかしら?』


 俺は念話を徹底的に無視し、俺は『女帝』から距離を取って到着を待った。

 これが俺の異能者に対するスタンスだ。


 まだ仕事も始まっていないのに、不快でしょうがない。

 28階でも、階段を利用したくなるほどだ。

 一級エージェントだろうが『女帝』だろうが、異能者に気を遣うつもりはない。


「!」


 エレベーターが到着して、中からガタイのいい男たちが出てきた。

 このビル自体は、何も特殊なものではない。

 フロッパーゲートも無いエントランスのセキュリティは甘く、各階もテナントが入っている、多目的な高層ビルだ。

 俺たちが向かう28階もボタンを押せば誰でも向かえるだろう。

 複雑な手順は支部に入るときだけだ。カモフラージュとまでは言わないが、下手に堅牢にしたところで攻められれば終わりだ。街に溶け込んでいる方が都合がいい。


 だが、そうしたことを考える、俺たちと似たような別の組織もある。

 先程すれ違った男はこのビルでたびたび見かけ、いつも違う男たちといた。

 言葉も交わしたことも無いが、俺の見立てでは俺と同じような仕事をしているのだろう。そして恐らく、俺同様に無能力者だ。


 向こうも俺の顔を覚えているようで、口元を小さく結んだ。

 自然な、会釈の範囲で、俺も顎を引く。互いに人に言えない仕事だろう。

 俺は柄にもなく少し嬉しくなる。向こうはどうかは知らないが、小さな友情は一方的でも成立する。


『……なあんだ、逆だったみたいね』

「?」


 ガタイのいい男が通り過ぎると、目の前にいた『女帝』の冷徹な瞳と目が合ってしまった。ガタイのいい男への挨拶を見られていたかもしれない。

 念話が届いた気がしたが、幻聴だろう。俺は表情を正し、エレベーターに乗る。

 『女帝』も顔色ひとつ変えず入り、俺と離れた角に腕を抱えて凛と立った。

 ただ立っているだけで、なるほどと思えるほど美しい。


 美麗で実績もある超人。その上で、異能者。

 こうした存在を前にすれば、種云々は置いておいても、人間は嫉妬する。

 多様性を認めるなどと言いながらも、その裏では劣等感でびっしりだ。


『……私の身長が、165CM……、いえ、160CMとする』


 そこで、念話が届いた。

 なにかの暗号を伝えたのかと思うも、『女帝』は冷たい瞳のまま、28階のボタンだけが押されたエレベーターのパネルを見ていた。


『全部で30階。……となると……、待って』


 なにか異変が起きたのかと思い、流石に声をかけようとするが、『女帝』は真剣な表情でパネルを見続けていた。


『やはり、そうね、150CMとしましょう。……このエントランスに私が何人積まれたら、天井に届くかといえば』


 同じような力を持つ異能者が別にいるのかと勘ぐったが、この念話は間違いなく『女帝』のものだ。


 まさか、とは思うが。

 『女帝』はエレベーターの開いた扉から覗くエントランスの天井に視線を移していた。


『4人、いえもっと? 5……だと困るわね。6人としましょう。つまり、9M。それが30で……、270M……!』


 恐ろしく雑な方法でこのビルの高さを計算していた。

 計算しやすくするためだけに少しだけ背の低くなったらしい『女帝』が積み上げられるのを幻視する。

 俺も正確には覚えていないが、絶対にそんなに高くはない。


 急に『女帝』がおかしくなった。

 俺の知らない、異能者の攻撃かと身構えるも、『女帝』の方は計算に満足したのか溜め息を吐いた。

 そこで、『女帝』と目が合う。


「何か?」

「いつまでも閉まらないと思っていただけだ」


 俺は動揺が漏れぬように強く返す。

 初めて肉声を聞いた。どういう原理か知らないが、声帯を通していないはずの念話の声と一致する。


 もしや、と思うが。


『バリアフリーのエレベーターに乗ったのは失敗ね。動きが遅い。閉まるを押せばいいけど、言われたばかりでやるのも癪ね。先輩が押してくれないかしら』


 この女―――念話を切り忘れている……!


 いや、異能者のことなど分からないから、念話がそういうものなのかは知らないが、ONとOFFを間違えている。

 俺が散々無視したせいで、彼女の中で逆になってしまったのだろうか。

 平静を装って心の中で呼びかけてみても、『女帝』には届かない。彼女の力は一方通行だ。


 言い出すか迷っていると、閉まりかけたエレベーターの外を、染めた赤毛にパーマをかけた、ちゃらついた男が通り過ぎた。


「あっぶね、間に合ったー、あざっす」


 その男が外でボタンを押したのか、ピーンという音と共に、ようやく閉じかけていた扉が開く。

 赤毛の男がへらへらと愛想笑いを浮かべて入ってきた。


『……ぐ。ここでテイクオフ・リジェクトってわけね。まあ、いいわ』


 表情ひとつ変えず、イラついたような声で、『女帝』が何か言った。


「あ、すみません」


 赤毛の男を皮切りに、ぞろぞろと、他の者たちも乗っている。

 自分たちのようにスーツ姿の者もいれば、ラフな服装な者もいる。多目的なビルの、どこかの階に用がある者たちなのだろう。

 28だけが押されていたパネルが、次々に点灯する。


『……まさかパンデミックになるとはね。これは即座に閉まるを押さなかった私の判断ミスと捉えましょう』


 次々に人が乗り込み、俺と『女帝』の間にも人が並ぶも、エレベーター内の事象に妙な呼称を付ける念話は未だに届く。


 それでも『女帝』は混雑してきたエレベーターの中でも涼しい顔をしている。

 だが深く観察すると、腕を組んで立つ『女帝』の指に力が入っていた。


 俺も頭の回転は早い方だ。危機がすぐに分かった。


 異能者など、気味の悪い力を操る、何を考えているか分からない人類の外敵だ。

 だが、知りたいとは言っていない。


 バリアフリーのエレベーターのアナウンスが、鳴り響く。


 上に参ります。


『ええ、参りましょう』


 俺はこれから、支部のある28階に着くまで、アナウンスの声と会話し出した女の心の声を聞き続けなければならないらしい。


――――――


 2F。


『我慢よ我慢。……そこのちゃらい赤毛が2を押したときからノックバックは決定していたものね。私の読みでは隣のマダムも2階ね。……ほらみなさ…………! ちょっと、どういうこと、なんで赤毛は降りないの!? お前が押したのでしょう!? スマホ弄ってても自分が押したのが次の階ってことくらい覚えているものでしょう……!? ふん、これだから無能力者は……、! 閉まってから気づいて3を押したですって!? 何人乗っていると思っているの!?』


 2~3F。


『だから今スマホを弄るんじゃないわよ! 1階で乗って2を押しただけでも万死に値するのに。マダムがいたからたまたま生かされているだけだってことを忘れないで。今は3階で即座に降りることだけを考えなさい。次にストップアニメーションしたらそのスマホと頭を粉々に砕くわよ』


 3F。


『……ふ、ふふ。3階で乗ってくる人はいない。赤毛が降りるだけ。……赤毛。その顔覚えたわ。乗ってくる人がいたら結局停まったんだから許してやろうかと思っていたのに、ダイバードだけとはね。次に私に背後を見せたら後頭部の毛をむしり取られることを覚悟するがいいわ』


 うるさい!!


 俺は『女帝』のエレベーター実況に耐えながら鋭くパネルを確認する。

 現在応答しているのは俺たちが押した28を除けば6、8、11。

 12階以降は20階の高層まで停まらず、それ以降に行く者は俺たちだけのようだ。


 少なくともあと3回、このエレベーターに動きがある。

 つまりは最低3回、冷たい眼で冷静そうに立っていながらやたらと脳内が賑やかな女の念話を聞き続けることになる。


 エレベーターのボタンや同乗者に一喜一憂する様は多少なりとも親近感が湧くが、考えていることが過激で、まあまあクズであることは間違いないないらしい。


 念話が漏れていることを注意すべきだろうか。

 だが人もいる中、異能の話をすることはよろしくない。俺たちのような仕事をしていれば特にだ。


 それに『女帝』は念話が漏れていないと思って大はしゃぎだ。

 異能者相手に気遣う必要も無いと考えたかったが、仮に俺がこんな思考をしていたことを他人に知られたら死を選ぶ。


 4F。


『4階で停まった―――ここでインジェクションなんて!?』


 駄目だもう知らん伝えよう。

 これ以上エレベーターの事象にいろんな分野から言葉を持ってきて命名した女帝語録は聞きたくない。


「あーらやだ、混んでるわ」

「乗る? 乗る?」

「じゃあお邪魔しちゃう?」

「どうしましょ?」


 俺が『女帝』に視線を向けかけたとき、エレベーターの扉が開き、外で掃除用具を持ったおばちゃんふたりがきゃっきゃきゃっきゃしていた。


 乗りかけて踏み留まり、しかし遠慮してどうするか迷いながら、しかしエレベーターの扉には足をかけて閉まらないようにしている。

 乗るならとっとと乗って欲しいし、乗らないなら足をどけて欲しい。

 そもそも業務用エレベーターを使って欲しい。


 エレベーター内の人間の全員の意見が一致しているであろうこの瞬間、俺は強い危機感を覚えていた。


 『女帝』がまずい。


『……すぞ』


 本当にまずい。語彙が消失するほどキレている。

 掃除のおばちゃんたちは結局乗ることにしたようで、騒がしく話しながら。


 当然のように次の階の5を押した。


 『女帝』!!


「んんっ」


 小さく咳ばらいをすると、掃除のおばちゃんたちの声量が下がる。

 やーね、と嫌な顔をされたが、俺はお前たちを今にも手が出そうな殺意溢れるエージェントから守ったのだ。許してくれ。


「あ、次は5階じゃないわ、ほら、あそこの院長さんから言われてたの」

「そうなの? じゃあ次は10、……12階かしらね?」

「あっ、あーら、すみません」


 おばちゃんたちが慌ててボタンを押しに行き、12と共に誤って10も押される。

 そうこうしているうちに5階に到着すると、誰も乗りも降りもしなかったエレベーターの扉が虚しく開き、そして閉じた。


 耐えてくれ『女帝』……!


「もしかして、10階間違えて押しました?」

「あ、あーら、すみません」

「大丈夫ですよ、消せますし」

「え? まあ、ありがとう」


 エレベーターのボタンのところに立っていた青年が、おばちゃんたちににこやかに笑いかけ、軽く首を振ると、10のボタンをトントンと素早く2度押した。

 すると点灯していた10が消える。


『インジェクションからのインターセプト。ノイズメーカーと罪状は揃い切ったのに、辛うじてスタッカートに救われたわね。しかしスタッカートはリスクのある行為。もしこの中に、実は10階で降りたい者がいて、押しそびれていたとしたら? 消さなくてよかったのにと、妙な気まずさを覚えることになるでしょ……、! さっき、スタッカートの前、首を振ったのは10階で降りたい者が本当にいないか確認するため……、あの一瞬で!? ……この青年、一体何者……?』


 知らん知らん知らん知らん。

 だがとりあえず『女帝』の怒りは臨界点間際で留まったらしい。


 いかん。

 俺の思考も『女帝』に騒ぎ続けられ、毒されているような気がした。言ってることは本当に訳が分からないが、こいつが何にイラつくのか瞬時に判断できてしまう。

 気をしっかり持ち続ける必要があるようだ。


 6F。


 先ほど10の光を鮮やかに消した青年が、おばちゃんたちに軽く手を振って降りていく。


『ここまでローカルトレインとなっているけど、お前なら許さざるを得ないわね。……しかし本当に人が多いわね……。…………。……。…………!』


 表情ひとつ崩れない『女帝』から、飽き飽きとしたような念話が届く。

 内面を外に出さないのはエージェントとしては必須技能だ。

 俺はお前の数倍疲弊しているが、顔には出していない。賞賛して欲しい。

 おばちゃんたちのせいで忘れていたが、いよいよ心の声が漏れていることを伝えるべきであろう。

 『女帝』も案外気にしないかもしれない。


『……ところで、こんなものでいいかしら? 知っていると思うけど、これが私の能力』

「!」


 6階の扉がゆっくりと閉まる最中、『女帝』がそう囁いてきた。


『聞こえているのでしょう? 私の声が。少しはお楽しみいただけたかしら?』


 不意を突かれ、俺は身動きが取れなかった。

 『女帝』の方に顔も向けられない。

 嫌な汗が背筋を伝う。

 様々なことが頭に浮かぶ中、エレベーターが、ゆっくりと、上がり始める。


『…………。よ、よし。大丈夫そうね。誰にも聞こえていない。あっぶな、たまにやっておかないと不安になるわ』


 千載一遇のチャンスを逃した!!

 今の心の中の言い訳に乗っておけばよかった!!


 表情を微塵にも変えなかったのが良くなかったらしい。

 エージェントとしての能力が足を引っ張るとは。


 『女帝』の念話は不安定なのだろうか。

 身をもって知る羽目になっているが。


『油断していたわね。最初にやるべきだった。……聞かれていたら私の行き先は屋上経由で1階だったわ』


 まずい『女帝』が死んでしまう。

 こうなればもうこちらも意地だ。

 一切聞こえていないように振る舞うし、すべて忘れる。

 依頼の話を聞きに来ただけなのに、その前にここまで神経を使う羽目になるとは思わなかったが、今こそエージェントの精神力の真価を見せるときだ。


 7F。


『労基違反!』


 どうする。

 インジェクションとやらだったか、また外から押されていたらしい7階で停まったエレベーターのことを気にもせずに、俺は真剣に現状の打開策を検討し始めた。


 最も望ましいのは『女帝』の念話を止めることである。

 そしてその場合、今までの思考が俺に漏れていたことに気づかないこともプラスされる。


 エージェントとしての知識と経験を総動員して検討し続けても、ひたすら耐えるか『女帝』を殺害するかしか思いつかない。

 だが後者は、これ以上恥をかかせない唯一の方法のようにさえ思えてきた。

 きっと彼女は『女帝』のまま死なせてやるのが幸せだ。


 8F。


『……ま、まあ、ここには最初から停まることは分かっていたわ。……耐えろ。耐えなさい、私!』


 事前に押されていた8については耐えられたらしい。

 だが、何かのイベントがあるようで、ほとんどの者がここで降りていく。

 いつもよりも長い停止時間の中、俺はひたすら無心になることを選んだ。


『……―――、―――………、―――』


 聞かない。考えない。意識を向けない。

 エージェントとしてはあるまじき姿と思われるかもしれないが、短い時間で脳や身体を休めるのも必須技能である。


 そう、言葉の意味を考えなければ念話ですらただの音でしかない。

 俺は深く深く意識を自分の中だけに落としていく。


 9F。


『!?』


 !?


 また押してもいない9階で停まったことについては、最早何も言うまい。

 そもそも俺は無心である。


 だが、そんな無心の状態でも、骨の髄までエージェントであるが故、目の前の光景を見逃すことはできなかった。


『お……お前、は……!?』


 表情ひとつ変えてはいないが、あの『女帝』が本気で慄いていた。

 俺も同様に、目の前の光景が信じられない。


 9階の扉の前、エレベーターに乗ろうとしていたのは。


『ばっ、馬鹿なっ、あっ、赤毛!?』


 お前は仕留めたはずだろうと言わんばかりの『女帝』の念話に、俺の動悸も激しくなる。

 見間違えではない。

 2階で降り損ね、3階で降りたはずのちゃらい赤毛が、何故か9階のエレベーターの前にいたのだ。


「12階マジ広い飯屋あんの、席空けさせてっから」

「まじで? さっすがー、てかエレベーター乗るの? あーくんのテレポートで行けばよくね?」

「ばーか、お前と一緒にゆっくりいきてーんだって、はっ、臭すぎ?」


『無能力者じゃなかったの!? その無能そうな顔で!?』


 異能者がステレオで煩い。

 でかい声で騒ぎながら、ずかずかとエレベーターに乗り込んでくる、あーくんというらしい赤毛の腕に、金髪のギャル風の女性が抱き着いていた。


「てかここまで来てんなら先飯屋行ってりゃよかったのに。俺いつもの2階にいると思っててマジ焦った。最初から飛んできゃ良かったわ」

「ゆっくりいきてーんだって、キリッ、とか言ってたのにー。疲れるってだけっしょ?」

「ぎゃはは」


 やはり異能者は滅ぼすべき人類の外敵だ。人間社会に溶け込んだ汚物だ。


 この赤毛はテレポート可能だというのか。

 3階で降りた赤毛は、俺たちの乗るエレベーターをテレポートで追い越しこの9階に来ていたらしい。

 女帝ほど辛辣なことは思わないが、この赤毛、見かけによらずめちゃくちゃ強力な異能者じゃねえか。そりゃ社会も破綻しかけるわ。


 だがそんなことは今はどうでもいい。こともあろうに、エレベーターまた止めやがった。

 こいつは同じエレベーターに乗ったことに気づいているのだろうか。


 赤毛はひとりで乗っていたとき以上に態度が大きい。彼女の前で格好をつけたいのは良いが、ここはエレベーター、格好よりも礼節を身に付けろ。


 そして。


『5……、4……、3……』


 『女帝』!! そのカウントダウンの先に何がある!?


 表情自体は変わっていないが、後頭部の毛をむしり取るどころの騒ぎではない殺気が漏れている。

 『女帝』の殺人の瞬間を見かねない状況に、俺の方はかえって冷静になってきた。


「っと、あ、おばちゃん、ごめんごめん、バケツ蹴っちゃった」

「あーもう、道具が散らばって……、まあいいからいいから、可愛い彼女さん構ってあげてて」

「おばちゃんやさしー、あーくん、ほら、拾って拾って」

「あらあら、いいのいいの、ねえ?」

「そうそう、慣れてるのよ私たち」


『4人。この騒音を止めるのに5秒もかからないわ。……お前たちが12階に到着することは無―――きゃ!?』


 !?


「おっと、さーせん」

「っ、あ、い、いえ、だいじょぶです……」

「!」


 俺には一部始終が見えていた。

 散乱した掃除道具を拾う赤毛がよろつき、事もあろうに『女帝』の足を踏みやがった。

 赤毛が軽く頭を下げた際、『女帝』から、甲高く消え入りそうな、弱々しい声が漏れる。


 赤毛は今初めて『女帝』に気づいたのか、凛と立つスーパーウーマンの姿に目を丸くする。

 彼女の手前下手なことはできないと思ったのか、すぐに視線を切ったが、まだちらちらと『女帝』を盗み見ていた。

 異能者というだけで論外だが、魅力的な容姿をしている女性というのは認めざるを得ない。

 『女帝』の美貌と完璧なスタイルを間近で見て、赤毛の心拍数も上がったであろう。


『び、び、びっくりし、した。……えっ、私、今なんて言った?』


 赤毛よりも『女帝』の方がめちゃくちゃテンパっていた。

 可能な限り顔を動かさず、俺の様子を探ってきている気配がする。


『き、聞こえてない、わよね。おばちゃんたちも喋ってるし、紛れたはず……、多分、だけど、え、大丈夫よね? 外も騒がしいし、ね』


 しっかり聞いてしまった。

 内心イキり散らかしながら出てきた、情けないかすれ声を。


『表情よ。表情さえ変えなければ仮に聞こえていても私だとは思われないわ。大丈夫。とにかく、舐められないようにしなきゃ。……ぐ、やはりこの赤毛。万死に値するわ。次に私と遭ったとき、全身赤く染め上げてあげる』


 とりあえず『女帝』が一般人を殺害するところは見ずに済むらしい。

 心の中の話だ、好きなだけ噛みつけ。


『……! 待って。これは……』


 『女帝』がびくりとした声を出した。

 動くエレベーターの中、直前まで心の中でキレ散らかしていた『女帝』は、ハッと気づいたようにまたパネルを見る。

 現在点灯しているのは、11と12だ。


『今、ここまですべての階に停まっている。もし、次の10階で停まるようなことがあれば―――クラシカル・コンステレーション、ですって……!?』


 耳を傾けるのではなかった。

 赤毛のせいで気が乱れてしまった。


 再び無に戻ろうとするが、『女帝』のせいで、俺の視線もパネル上部の液晶パネルに向く。

 9の次、10が映る。


 そして、11が映った。


『うがあっ!!』


 俺は一瞬でもいっそ止まれと思ってしまった自分を強く責めた。

 心の中だけで暴れ回っているあれと俺が同類だと。


 11F。


 降りる者はいたが、乗る者はいない。

 すべての階に停まることができなかったのがよほど堪えたのか、『女帝』の心の声は聞こえなかった。

 『女帝』の情緒について最早何も言うまいが、これで平穏を取り戻せたと思うならエージェントは務まらない。

 この女は必ずこの後も騒ぎ続ける。


 現在11階。

 目的地は28階だ。

 半分にも満たない状況でこの消費カロリーでは身が持たない。


 集中力が削り取られない今がチャンスだ。

 心を無にする一本槍で『女帝』との戦いを続けるのは心許ない。


 俺は深く深く考える。


 12F。


『ワーイズオーバー。……いえ、シスファイア、ね。……長い、戦いだったわ』


 それは俺の台詞だ。


 飲食店が並ぶ階で、件の赤毛とおばちゃんたち、そして他の乗客も降りていく。

 赤毛の背中に射抜くような殺気を放っている『女帝』を尻目に、俺は、エージェントとしては失格だろうが、気を抜いた。


 ここからは20階までエレベーターは止まらない。

 20階以降は一般向けのテナントはぐっと数を落とし、企業のオフィスの比重が上がる。

 この支部に何度も足を運んでいるが、このエレベーターが長いのはここまでで、あとは大した時間もかからない。


 ならば。


「!」


 エレベーターの中が俺と『女帝』のみとなったのを確認し、即座に閉まるボタンを押しに行こうとすると、同時に動き出した『女帝』とバッティングした。


「……! あ、すみま……、んんっ、あら。せっかちなのね」


 お前も同じ行動をしようとしていただろうが。

 その前に酷くか細い声が一瞬だけ聞こえた気がしたが、幻聴だと思い込むことにする。


『……、―――、…………、―――……! ―――』


 もっとうるさい、何か妙な言い訳じみた叫び声も、同じくだ。


 なにより。

 辿り着いた結論のための行動として、今のバッティングも望ましい。


 ミスは許されない。


「早く仕事を片付けるためだ。ひよっこ」

「!」


 俺は強く閉じるを押し、そのまま元の位置に戻る。


 考えに考えた結果、分かった。

 この女の念話を止めるのは不可能だ。


 難題を前にして心が折れる者もいるが、俺は違う。

 重要なのは目的を見失わないこと。そのためには目的の構成要素を把握することである。


 このまま『女帝』のエレベーター実況を聞き続けるのは苦行でしかない。

 だが、念話を止めることは必須の要素ではないのだ。


 この女の頭の中を、俺にとって多少はマシなものに誘導すれば事足りる。

 これが俺が辿り着いた結論である。


 まずは余計な外的要素の排除。このエレベーター内で余計なことが起こらなければ『女帝』の思考は多少の落ち着きを見せる。


 そしてその上で、キーワードの刷り込み。

 仕事という言葉を聞き、『女帝』は多少なりともこの場に依頼を請けに来ているということを思い出すだろう。


 サブプランとして挑発だ。

 強引な態度を取る初対面の相手にああ言われ、憤慨しない者はいないであろう。


 ゆえに、『女帝』の脳内は仕事、あるいは俺への非難に染まる。

 異能者から受ける罵詈雑言など、俺にとってはそよ風のようなものだ。


『……く。言い返すべき? いえ、安い挑発に乗っちゃだめね。とにかく舐められないようにしないと』


 案の定、『女帝』の思考は誘導された。たまたま目に止まった赤毛やおばちゃんにあれだけの感情を向ける奴だ、思考誘導など容易い。


『……待って。この男、もしかして今までずっと仕事のことを考えていたのかしら? 私はまだ依頼の詳細は聞いていない。合流してから依頼の説明と聞いていたけど、私と持っている情報に差がある?』


 いいぞ、見当外れの推測でも構わない。

 異能者だろうが腐ってもエージェントだ。思考が多少はマシなものになってきた。


『私がここへ来るよう言われたのは一昨日。彼もきっとそう。昨日私が動画見ながらスマホを弄っていた間、彼は独自に調査していたのかしら。……ぐ、オフだからと油断していたわ。流石特級エージェント―――『死神』。無能力者ながらあらゆる依頼を完全な形で遂行する生きる伝説。訓練校も特例で免除され、十代から最前線で活躍し続けているという噂も信憑性が増したわ。……というか落ち着いて見ると意外と若いわね。いくつなのかしら?』


 止めろ。この流れで俺のプロフィールを紹介するな。

 なんか恥ずかしいし、まさに今、お前の思考誘導に失敗したところだ。


『いえ、それより、どうしましょう。もうすぐ支部に着いてしまう。きっと彼の中でシミュレートはすでに完璧。依頼の説明を受けたあと、何か質問はと聞かれ、彼が的を射た質問をする中、私だけが何も言えない惨めさを味わうことになってしまうわ……!』


 多少はマシと思ったのは撤回する。ほぼ横移動だ。


『ならば、仕方ないわね。……“力”を上げましょう』


 ?


 そこで。

 『女帝』が何かを企てたとき。

 それとは別に、俺は、今さらになって強い違和感を覚えた。


 確かにほぼ各階に停まったが、僅か12階への移動で、ここまで時間がかかるわけはない。

 俺はさりげなく時計に目を落とし、確認する。取り立てて長時間乗っていたわけではないらしい。

 『女帝』が騒ぎ続けたせいで、体内時計が狂ったのだろうか。


『誰も知らない―――私のもうひとつの能力』


 !?


 『女帝』の声に、俺は動揺を必死に抑えた。

 今なお解析し切れていない異能者には、極稀に、複数の力を有する者がいるという。

 『女帝』は、念話以外の力を有するというのだろうか。


 涼しい顔をしたままの『女帝』は、心の中で不気味な高笑いをしている。

 ヒーロー側なのかヴィラン側なのかはっきりしてくれ。


『28階に着くまでほんの僅か。でも、その僅かな時間を引き延ばせるとしたら? いいえ、じか……、時計の針を遅くするわけじゃないわ』


 なんか格好つけようとしている。

 脳内の俺にかもしれないが、生身の『死神』にも届いている。

 もう聞かせに来ているとしか思えない『女帝』は、ノリノリで心の中で叫んでいた。


『―――“思考を加速する”。ほんの僅かな時の中、私は無限に思考できる。情報が出揃った瞬間、私は誰よりも早く最適解に到達できる』


 !

 心の中だけでテンションが上がり切っている『女帝』には気づかれなかったようだが、流石に表情が乱れた。

 思考加速。身体強化に分類される異能であるが、単純にして最も重宝される力である。


 炎を出したり空を飛んだりと夢のような異能と違い、人類の力の延長線上の異能だ。

 それはつまり、長い年月の果て構成された社会システムをそのままごっそりと使うことができる、“本当の意味”での人類の上位互換。


 現在、世界中のトレーダー、意思決定者、そして学会にいる者は、この力を有する異能者が多い。

 “単純に頭がいい”存在は、既存の人間すべてを明確に超越するのだ。


 異能者には力を隠している者も多い。

 事件防止や法整備の都合上、ある程度の検査や試験は行われるが、『女帝』は念話を操れる。


『オフィシャルには私の力は念……、シングル……、ストリーム……、ハブ、リンク……いえ、……。…………オフィシャルには私の力はワンウェイ・コネクトだけ。木を隠すなら森の中ってこと』


 どういう脳内シチュエーションで盛り上がっているのか、何度目かのリテイクの後決まったらしい技名のようなものが聞こえたが、確かに『女帝』は異能者を超えた異常者である。


 念話という力に隠れた、思考加速こそが『女帝』の切り札だ。

 これが『女帝』の異常なまでの判断能力の正体だったのだろう。

 その能力さえ使っていれば、突発的に問題が発生しても、熟考に熟考を重ねた対応策に即座に辿り着ける。

 認識能力や思考能力の向上は、常人とは違う時を生きているような感覚を味わうだろう。


 ……。……。


 待て。


 そこで俺の背筋に冷たいものが走る。

 『死神』と呼ばれた俺の首筋に、ひやりとした死神の鎌が当たっているような気がした。


 エレベーターの液晶を見ると、ずっと前に扉が閉まったはずなのに、未だに12が点いている。


『念……、ワンウェイ・コネクトとの併用すると、相手の思考も加速できる、のは、まあ、今はいいわね。って、そうよ、早く仕事のこと考えないと。これ以上『死神』に差を広げられるわけにはいかないわ』


 余計なことした余計なことした余計なことした!!


 1階にいたときから使っていやがったのかもしれない思考強化を、『女帝』はさらに強めやがった。


 俺と『女帝』しか乗っていないエレベーター。

 液晶パネルは未だに12階。

 実際の時間にして数秒。

 だが俺、女帝の思考と念話でつながる俺の思考も引き延ばされ、無限の時に感じられた。


 何もしなければもう28階に着いていたであろうに……!!


『さて、始めましょう。見るがいいわ、これが私の切り札! 思考強……、ブレイン……、バフ……、加速……、』


 もう発動しているのだろうに何か拘って脳内ではしゃぎ始めた『女帝』の殺害を本気で検討しようとしたが、身体中を支配する絶望感が億劫にさせる。

 自らの異能にそのときの気分で毎回別の名前を付けているのだろうか。

 『女帝』の様子を弱々しく確認すると、彼女は俺に気づかれないように最小限の動きで周囲を探っていた。


 愉快な心の声が聞こえてきていなければ、エージェントとしての安全確認や情報収集のように思っていただろうが、こいつは間違いなく技名のヒントを探している。


『そうね、この場所……、は。…………じゃあ、……うん。……さて、始めましょう。見るがいいわ』


 『女帝』の指に力が入ったのを感じた。


『これが私の切り札! エスカレート・アクセラレート!!』


 思考強化なのにビームか何かを放つような声が届いた。

 すべてに絶望した俺は、辛うじて残った脳のリソースを蠢かせる。


 『女帝』よ。

 こいつはエレベーターで、エスカレーターではない。


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