09_後悔の嵐
アイザックは一人、長椅子に座っていた。
扉の向こうは夫婦の寝室。今はまだイライザ一人のものだ。
『反省の気持が伝わるまで、寝室は別々のままよ』
当然の報いだと、アイザックはその仕打ちを受けていている。彼は半年も妻に一人寝を強いてきたのだから、誤解が解けてああ、良かったね、なんて虫の良すぎる話しだろう。
しかし、自分の寝室として使っていた部屋に戻るのが嫌で、こうして未練がましくグズグズとしているのだった。
出来るだけ彼女の側にいたい。
結婚を決めた時では考えられない心境の変化だった。
誰かに愛されるなんて、もう信じなくなって久しかった。
そう弁明すると、イライザはため息を吐いた。
彼女は日頃から、よく嘆息していた。その姿を目にすると、アイザックは自分との結婚を後悔している、自分に呆れていると感じて悲しい気持ちなったものだ。
勿論、そうさせるように自分がしたのだが、おそらくその頃にはもうすっかり、イライザという女性に気持ちを傾けていたのだろう。
イライザにしてみると『ごめんなさい! つい。癖なの! 駄目ね。お母さまにもいつも注意されていたわ。「イライザ、ため息を吐くと幸せが逃げて行くのよ」』ということのようだ。注意深く観察すれば、そうと分かったはずなのに、彼はそれを怠った。イライザを知れば知るほど、愛して欲しいと望んでしまうことを恐れ、本能的に避けてしまっていたのだろう。
するとイライザはやはりため息を吐いた。『あなたって馬鹿ね』
そして『ヘンリエッタもあの助けた娘も……みぃいんな、あなたのことが好きなのよ』と渋々と言った風に教えてくれた。『ヘンリエッタは言わずもがなだし、あの娘のあなたへの眼差し。別れる時の名残惜しそうな様子ときたら……』それからちょっと小鼻を膨らませた。『私のことは、すごくうらやましそうに見ていたわ』
アイザックは今でも、その言葉は信じていない。
優しいイライザが自分のことを慰めてくれているだけだ。イライザだって、すぐに『そうよね。確かにそうだわ。ヘンリエッタはあなたにとって妹みたいなものだし、あの娘はあなたにすごく感謝していたから……私、つい妬いちゃったんだわ。ほら、あなたのことを好きだから、近寄って来る女はみぃいいんな気に入らないの』と思い違いを分かってくれた。ただし『ねぇ、私があなたのことを心から愛しているのも信じてくれないって言うの!?』と抗議されたことにはすぐに謝った。『僕が君の愛情を疑うことなんてないよ』そして『嫉妬させてしまってごめんね。君をあんな嫌な気持ちに、二度とさせないから』と誓った。
するとイライザは目を丸くした。『あなたも嫉妬することなんてあるの?』
アイザックは愛情方面はその通りだし、出世欲も見せなかった。そんな彼が何に妬いていたかと言えばー-『君とジェイコブが二人で小部屋に入ってきたのを見て、窓枠から落ちそうになるほど驚いて、それから悔しくて悲しくて……とにかく嫌で嫌でたまらなかった。君に裏切られたとすら思った。けど”裏切られた?”』
当時はまだその感情の名が"嫉妬”だとは知らなかった彼は、自分の気持ちに混乱し困惑し、ただ呆然とイライザとジェイコブが寝椅子に雪崩れ込むのを見るしかなかった。
しかし、どうもイライザは嫌がっている様子で、抵抗している。無理やり襲われているののだと理解し、アイザックは"正義の味方”らしく助けに行こうとした。
その足は、二度、止まる。
一度目はイライザの言葉だ。彼女は妹だけでなくアイザックへの侮辱に怒っていた。その場にはジェイコブしかいないのに、わざわざ不仲な夫の名誉など持ち出す必要はないはずだ。
律儀な人なのだ、と思っている内に、さらに彼女は『アイザック一筋』だと言い切った。
窓を開けかけたアイザックは喜びに弾む自分の心を必死に宥める。
イライザはジェイコブに対抗しているだけなのだ。夫婦としての実態がなくても、アイザックは公に認められた夫だった。遊び人相手に持ち出す名前としてはもっとも適当な存在なだけだ。
それでも彼は嬉しさを抑えきれなかった。もし本当にイライザに夫と認められたら、どれだけ幸せだろうか。そして後悔する。その資格を得たのに、権利を手放してしまった。自分がこの黒ずくめの格好をしている限り、彼女と向き合えることは出来ない。
今、出来ることは、せめて彼女をあの穢らわしい男から引き離すことだ。
と、窓枠から室内へ踏み出そうとした時、ジェイコブの動きが止まる。アイザックも留まった。
遊び人は寝てしまったからだ。
イライザが男から離れ扉の方に行くのを見て、アイザックは慌てて窓から外へ引っ込んだ。けれどもイライザは再びジェイコブの元へ戻ってくるではないか。そればかりか男の服に手をかけたのだ。
思わず身を乗り出したアイザックの気配を感じたイライザは警戒した。そして、なぜかその場に姿のないはずのアイザックへ謝罪をはじめたのだ。
結婚したら真っ当になると誓った、と言うことは世間の噂通り、その前はそうではなかったのか。
アイザックが戸惑う間にも、イライザはジェイコブの持っている鍵の型を全て取り終わっていた。
それこそアイザックの欲しかったものでもあった。だからこそ、ジェイコブの出席するこの夜会に、イライザを誘ってきたのだ。
「ああもう……」
アイザックは頭を抱えて悲痛な声をあげた。イライザを自分の都合の良いように解釈していた。結婚の時。この夜会の時も。
ジェイコブに接触する機会をうかがっていたアイザックにとって、ある夫人からの招待状は渡りに船だったが、その為にはイライザの協力が必要だった。夜会は夫婦同伴が基本だからだ。夫婦にはなれないと拒絶した手前、きっと断られるだろう。そうしたら別な方法を探すまでだ。彼は申し込む前から、ほとんど諦めていた。
イライザは二つ返事で承諾してくれた。そして、自分のドレスだけでなく、アイザックの服も新調してくれた上に、踊りの練習をしないかと誘ってくれたのだ。
それなのに自分はなんと言うことだろうか。
招待された以上、断るのも世間体が悪いから仕方がなく受けたのだと申し訳なく思い、連れて行く“間抜け”が、少しでも恥ずかしくないように気遣ってくれていると感謝しつつも、イライザが自分との外出を楽しみにしているなんて知ろうともしなかった。
「とんだ節穴だ」
イライザが毎朝、運動しているのも、若い娘たちにの間で流行っているから。
コルセットの力だけでなく、出来るだけ細い腰を維持するため。
並の男でも音を上げそうな厳しい鍛錬にも熱心に取り組んでいるのは、真面目な彼女らしい。
そう思い込んでいたと打ち明けると、『それもあるわよ』とイライザは魅惑的な曲線を描く腰回りに手を誘ってきた。アイザックはどきまぎしながらも、言われるがままにする。あの夜、彼女を支えた時と同じく、引き締まった見事な筋肉があった。
支えた、と言っても、事実はただ手を添えただけ。
彼女はわずかな壁の出っ張りに、細く高い踵の靴で、しっかりと立っていた。素晴らしい体幹だった。
淑女に必要な筋力の度を超している。それに度胸! 落ちたらただでは済まない高所なのに、まったく臆していない。
おまけに、なぜか鍵の掛かった窓を解錠することもできた。
イライザは噂とも自分が知る彼女とも違う、もう一つの面を持っている。
混乱する中でも、アイザックはしっかりとイライザからジェイコブの鍵の型だけは抜き取ることは忘れなかった。『そういうところはあなたって、ちょっと怖いくらい冷静よね』イライザは悔しそうにため息を吐き、彼の手を自分の身から離した。
もうため息は怖くないが、あの頃はイライザに対し恐ろしさを感じはじめていた。
アイザックは膝を折ると胸元に引き寄せ、何かから守るように身体を丸めた。
***
イライザは一体、何者なのか。
大急ぎで着替え、大広間に戻ったアイザックの頭の中はイライザでいっぱいだった。
ゆっくり考えたいのに、彼女に蹴られた足は痛むし、いつの間にか隣に座っていたヘンリエッタがしきりに話し掛けてくる。集中できない。
そうこうしている内にイライザがやって来た。自分を見つけてほっとしたような顔になったのを、アイザックは気が付くことができた。これまでは見て見ぬ振りをしたり、最初から見ないようにしていたが、彼女の正体を探るために注意深くなったせいだ。
けれどもアイザックはまたもや間違った方向に思考を走らせてしまう。
帰り道でバード警部に出会したからだ。
いつになくイライザを観察していた彼は、バード警部が彼女に曰くありげに目配せをしたのを見逃さなかった。
間が悪いと言えばそうであるが、結果的にはそれが二人の関係の突破点になるのだから運命とは分からないものである。
その頃、バード警部に正体を探られているという自覚があったアイザックが思いついたのが、イライザは警察の、あるいはハルク・バードの個人的な密偵ではないかというものだった。
そうであれば、あの動き、それから自分と結婚した理由、ついでに夜な夜な出歩き男を誑かしているという噂も全て納得いくからだ。
アイザックは『やっぱりそうなんだ』と納得し、安心すらした。彼はイライザの自分に対する真意が読めずにいた。それがイライザからの心からの愛情表現だと分かれば、話はもっと簡単だったかもしれない。
端から自分が誰かに愛されているはずがないと信じるあまりの弊害だった。
イライザのため息が聞こえた気がして、アイザックは顔を上げた。
寝室へと続く扉はぴったりと閉じている。
「ごめん、イライザ。
僕は君を信じていなかったんじゃない。僕が自分を疑っていたんだ」
彼女の寝室に“ジャスティン・ジャスティン”として忍び込んだのは、馬車が屋敷に到着した時にイライザが受け取った手紙を読むためだった。
アイザックは思い出したのだ。彼女がこれまでにもその手紙を受け取っていたのを。それは他の手紙とは違い、執事が封を開けずに届ける。他の男からの秘密の手紙と邪推するには、受け取ったイライザの様子はいつも憂鬱そうだ。だが同時に待ち望んでいる風もある不可思議な手紙。
もしかしてそれが彼女を支配する人間からの命令書なのかもしれない。
ジェイコブの鍵の型から複製を作る手配をしたアイザックは、そのままイライザの手紙の内容を確認することにした。ああいった手紙はすぐに処分されるはずだ。もうされているかもしれない。
僅かな灯りの中で、寝台の上のイライザは手紙を握りしめたまま寝ているようだった。
不用心だ。
罠かもしれないと警戒しつつも、そっと手紙を抜き取った。イライザが何か呟いた。
“ジャスティン・ジャスティス”は夜に活動する。すっかり夜目が効くようになった彼には、彼女の目じりに涙が光っているように見えた。悪夢にうなされているのだろうか。
グズグスしてはいられない。一刻も早くここから去らないと。早く、早く――。
いつになく、アイザックは焦った。
彼の心を急き立てたのは、イライザがいつ起きるかという不安ではない。彼女を悪夢から起こしてあげたいという欲求から逃れたいという意識からだった。
手紙の内容は想像とは違っていた。
何か暗号が隠されているのかもしれないと考えたが、何度読んでもクロエの夫・ロジャーからの金の無心であり、それ以上の意味はない手紙と判断する。
アイザックの脳裏にジェイコブとイライザのやり取りが蘇った。イライザは妹を大事にしているのだ。
そうであれば、彼が意味のない手紙と判断したものは、ロジャーからイライザへの脅しであろうと判断する。
しかし――“ロジャー?”
ジェイコブたちの周辺を探ってる過程で、彼らに対抗する村人たちがいるのを知っていたアイザックは、その名に聞き覚えがあった。
有徳の士のはずなのに、こんな脅しのような真似をするのか。
イライザは“悪女”だから、“正義”のために必要な資金をむしりとっても構わないと思っているのか。
腹が立った。
噂だけで彼女を判断して、こんなふざけた真似をするロジャーに。そして一人耐えているイライザに。何も知らなかった自分に。
この中でもっともアイザックが怒りをぶつけたのは自分だった。当たり前だが、どんなに苦しみ悲しんでも、イライザがアイザックに相談しようと思うはずがない。
手紙と怒りに夢中になるあまり、アイザックはイライザが目を覚まし、自分の仮面を奪おうとしてるのに寸前まで気が付かなかった。
間一髪、正体がバレるのだけは免れたが、彼女の手から逃れることが出来ない。
思えばイライザこそ本物のジャスティン・ジャスティスだったのだから当然だ。
そのことをまだ知らないアイザックが咄嗟に口に出した言葉がまた酷いものだった。
結婚初夜といい、あの夜と言い、あの寝台で自分はイライザを侮辱してばかりだ。
アイザックに脅されたイライザは屈しなかった。そしてあろうことか夫、アイザック・スナイダーへの……自分への愛を語りはじめた。
彼女の真意を知ったアイザックは、自分がいかにイライザに対しひどい態度を取っていたかを知らしめられた。
“正義”のために、妻とした女性の気持ちを踏みにじって、気づきもしない。
愛して欲しいと望んでも得られない苦しみを、自分が他人に与えていた。
そうなるともう“正義の味方”どころか悪党そのものだ。
アイザックは動揺と混乱はこの一連の夜の中で最大になったと言えよう。
しかし、“ジャスティン・ジャスティス”であることを後悔しかけた時、アイザックはぞっとした。“ジャスティン・ジャスティス”であることは彼が誇れる唯一のものだったからだ。アイザック・スナイダーは“間抜け”で誰にも顧みられない存在だが、“ジャスティン・ジャスティス”は違う。彼はみんなから愛されている。
その“ジャスティン・ジャスティス”であることが恥ずかしい?
イライザの愛情が彼の価値観をめちゃくちゃにした。彼女のせいで、なにもかも台無しになってしまう。なぜ彼女は“自分”を認めてくれないのか。アイザック・スナイダーこそ偽りの自分だ。誰にも愛されない自分なんていらないはずなのに。
自分が嫌いな自分を愛している彼女は何者なのだろう。
アイザックの目の前でイライザは彼の愛情が欲しいと嘆き続けている。
ありもしない浮気を妄想し、それでも『誠実だ』だと言ってくれる。
直視できずに俯く彼の視線にロジャーからの手紙の文面が目に入った。
『そういうところはあなたって、ちょっと怖いくらい冷静よね』とイライザは評したように、混乱のさ中にもかかわらずアイザックはその手紙に隠された暗号をついに見つけた。
瞬時に全てを解決する方法も講じる。
またもやイライザを利用することになるが、それでも構わないと思った。彼女をこんなにも嘆かせた挙句、ジェイコブたちとの一件も中途半端にしたら、自分は本当にどうしようもない人間に成り果てるからだ。
たとえ本物の正義の味方じゃなくても、アイザックはそれだけは譲れなかった。
『やっぱり僕――俺は正義の味方じゃなかった。
君の力になれないみたいだ』
せめて妹との愛情だけはイライザに戻すのだ。
※次回でおわります




