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悪妻は、正義の味方なのです  作者: さぁこ/結城敦子


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03_正義の味方?

 メイドの手でドレスから寝間着姿になったイライザは寝台の上であおむけになっていた。本来ならば夫婦の寝室ではあるが、結婚以来、彼女一人の寝台である。

 手には先ほどの手紙。妹の夫となった元使用人の男からのものだ。

 内容はもう何度目かのお金の無心だった。『クロエが幸せに暮らすためのお金です』『まさか出し惜しみなどしないでしょうね』


 イライザにとって、クロエは誰よりも愛する肉親だった。

 クロエにとっても、イライザはそうであるはずだった。


「でも違った。クロエは私のことをずっと疎ましく思っていた」


 蝋燭の炎が大きく揺らめく。



***



 いつの間にか寝入ってしまったようだ。イライザは夢を見ていた。なぜ夢なのか分かったかと言えば、イライザの隣にジェイコブが立っているからだ。そして、その周りには大勢の見物人。叔父もいたし、旧知の人たちや結婚後に出会った人たちもいる。

 ヘンリエッタまでいるのに、アイザックの姿はない。


 ああ、夢の中まで会えないのだわ、という失望と、夢だとしてもこんな場面を見られたくないという思いがせめぎ合う。

 それはあの不愉快な婚約破棄の場面だったからだ。


 ジェイコブがイライザに跪き、クロエの前で永遠の愛を誓う。


「やめて、何を言っているの!」

「俺は君を愛しているんだ! 真実の愛に目覚めたんだよ!」

「裏切者! ひどいわ、お姉さま! 彼を誘惑したのね!」


 周囲の人々はひそひそと囁き合う。「妹の婚約者を」「最低な姉だな」「噂通りの男好き」


「違うわ! 私はそんな女じゃない。

クロエ! クロエは信じてくれるでしょう?」


 姉の訴えに妹は冷たく返した。


「信じるわ」


「クロエ……!」


「私、知っているのよ。お姉さまの部屋に夜な夜な男が出入りしているの」


「――!」


 知り合いの知り合いの伝聞ではなく、同じ屋敷に住む実の妹からの証言を得て、周囲のざわめきが大きくなる。イライザが言葉に詰まっているのも噂に真実味を与えていた。

 クロエはさらにイライザを追い込んだ。


「お姉さま自身が夜に部屋にいない時もあったわ」


 人々は口々にイライザを非難する。「部屋を抜け出して男を漁っているんだ」「はしたない」「妹の婚約者くらい簡単に奪うはずだ」


「違う――それは!」


「それは何?」


 クロエはせせら笑うように言った。「ほら今夜も、あの黒ずくめの男がお姉さまの寝室にいるわ!」



***


 

 目が覚めたイライザの視界の端に、夢の中でクロエが指摘した通り、黒ずくめの男がいた。彼女の寝台の端に座って、燭台の、今にも消えそうな灯りで何かを熱心に読んでいる。

 こちらが起きているにまだ気づいていない。

 

 イライザはゆっくり身を起こし、男に手を伸ばす。あともう少しで届くという時に気付かれた。


「なっ!嘘だろう!? 全然、気配が――」


 男は驚愕の声を上げながらも、イライザが仮面を奪おうとしているのをなんとか阻止した。


「あなた誰なの!? 人を――夫を呼ぶわよ!」


 寝台の上で、二人の男女が組み合う。黒ずくめの男はどうしてもイライザを振りほどけないことに困惑し、別の手段に訴える。


「呼びたければ呼んでも構わないけど――いいのかい? 困るのは君だぞ?」


 イライザは男の言わんことが分かった。

 乱れた寝台の上、乱れた髪の毛、乱れた着衣。

 普通の夫人ならば、知らない男が寝室に侵入したと騒ぎ立て、「怖かったわ」と夫にすがりつけばいい。しかし、悪名高きイライザ・スナイダーがそれをすれば、とんだ茶番だと思われるだろう。そう言うことだ。

 そう言うことなのだが――イライザは息を吸った。


「え? 待って、待って!」


 人を呼べばいいと言った男が慌てた。まさか本当に呼ばれそうになるとは思わなかったのだろう。


「旦那に知られても?」


「いいわ! もしかしたらアイザックは信じてくれるかもしれない!

もし、もし、そうじゃなかったら……」


「なかったら?」


「終わりよ。離婚する」


 離婚――結婚して以来、何度も過ったその言葉を口に出した瞬間、イライザの身体から何かが抜けた。

 はじめての夫婦での外出とその結果。ジェイコブとの再会と対峙。ヘンリエッタ。妹。

 様々な顔と声が浮かんでは消える。

 おまけにこんな不審者にまで脅しのネタにされるとは。

 彼女は男から手を離し、寝台に伏して声もなく泣いた。


「君は……アイザック・スナイダーを愛しているの?」


「――そうよ」


 寝台が大きく軋んだ。男が勢いよく立ち上がったからだ。

 しかし、イライザはもうそんなことには興味もなく嘆いた。「最初から間違っていたんだわ。こんな結婚。私は曰くつきの女で、アイザックのような真面目な人間の妻には相応しくない」


 男は黙ったまま部屋の中を歩き回る。


「でもあの人、私との縁談を受けたのよ?

だから期待したの。あの人も私のことを少しは好きなんじゃないかって。少なくとも世間の噂なんかには惑わされず、本当の私のことを見てくれるかもしれない……」


 けれども結婚初夜で新妻は失望することになる。


「それでも私、まだ希望を持っていたわ。一緒に暮らして、ちゃんとした生活を送っていることを知ってもらったら誤解も解けるんじゃないかって」


 もっとも夫はほとんど家におらず、妻と顔も合わせず会話もない。分かり合える時間も機会もないまま、ずるずると半年も過ぎていた。


 「私……」イライザは身を起こした。いつの間にか窓から月の光がさしこんでおり、彼女の頬に流れた涙が光った。「私の愛を受け止めてくれる人なんて、いないんだわ」


 ようやく雲から顔を出した月の光が今度は黒い影に遮られる。黒ずくめの男がイライザの前に立ったせいだ。泣いたおかげで冷静さを取り戻したイライザが、怯えることなく眼前の男を諭す。


「今夜は見逃してあげるから、早くここから出て行った方がいいわ。あなた、誰だか知らないけど、こんな月の明るい夜に出歩くなんて“間抜け”な賊ね」


 イライザに“間抜け”呼ばわりされた男が、かすれた声で聞く。


「君は本気でアイザック・スナイダーなんて“間抜け”を愛しているって言っているのか?」


「あなたと話す必要はないわ」


 イライザは男を遮った。男は食い下がる。


「君の……何か助けになれるかも」


「あなたが? どうして?」


「――正義の、味方だから?」


 男の返答にイライザはため息を吐く。「正義の味方はか弱い女性の寝室に忍び込んで、脅したりはしないのよ」


「――ごめん。これを……そう! これを返そうと思って」


 男はコンパクトミラーをイライザに渡した。開けてみると、型はすっかり壊されていた。「ひどいわ」けれども「これ、母の形見なの。ありがとう」と付け加える。


「そうだったんだ。

ジェイコブのことは俺に任せてくれないか?」


「あなたが……あの男を追い詰めるって言うの? なぜ?」


「――正義の味方だから」


「また、それ。

あなたなんて正義の味方でもなんでもないわ」


 度重なる拒絶だったが、男は苛立ったり怒ったりはしなかった。「じゃあ、君が知っている正義の味方って誰なの?」


「アイザック・スナイダー」


 男が絶句した。

 それもそうだろう、とイライザは思った。アイザック・スナイダー。彼女の夫。世間に言わせればあの“間抜け”のアイザック。

 

「私は知っているもの」


「知っている……な、何を?」


 そう問いかけられて、イライザは言い直す。「知っていると思っていた、と言うべきだったわね」諦めの笑みが浮かんだ。

 その答えを聞き、床に視線を落とした男は、足元に落ちている手紙に気が付いた。先ほどの争いで手から離れたものだ。彼はすっかり草臥れたそれを拾い上げようとして、再び取り落とす。


「きっとアイザックには他に好きな人がいるのよ」


「なんだって?」


「ジェイコブが言っていた。私とアイザックは偽装結婚だって。

私が夫を持つことで好きに夜遊び出来るのならば、アイザックだってそうでしょう?」


「どうしてそんな突拍子もない考えに至ったのか、俺にはさっぱり分からないね」


「あの人の父親、スナイダー氏は虚栄心と自尊心が強くて、ついでに言えば、お金も大好きだからよ」


 唐突に持ち出されたスナイダー氏への厳しい評価に対し、黒ずくめの男はその意図をはかりかねつつも、それ自体には同意を示した。


「なんだって? ――いや、その通りだけど」


 スナイダー氏は期待外れの息子をなんとかして一人前にしたいと望んでいた。彼の考える一人前とは、かつては就職であり、それをコネで叶えた後は、結婚することになった。

 しかし、受け継げる財産などない三男の上に、自ら稼ぐ才能もなく、出世を目指すような覇気もない“間抜けのアイザック”との縁談をどの家が受けるというだろう。だからと言ってスナイダー氏は末の息子にびた一文たりともやりたくはなかった。

 そこで婚約者といざこざがあったクロエに白羽の矢を立てたのだ。

 スナイダー氏にしてみれば、こんな傷物の娘、結婚できるだけでもありがたいだろうという考えが透けて見えていた。恩着せがましくすらあった。イライザに『申し分のない持参金をつけてくれれば、おたくの妹さんを引き取ってやってもいい』と申し込んできたのだ。


「そう、縁談を持ち込まれたのはクロエだった」


 黒ずくめの男は改めて拾った手紙を見た。「妹さんは嫌がった――」


「話を聞いたクロエはアイザックのことを散々、けなしたわ」

 

 そこで姉妹ははじめて喧嘩した。


「もっとも、そう思っていたのは私だけだったみたい。私は姉として、時に厳しいことも言っていたけど、妹の意見を尊重しようと心がけていた。

私たちは仲の良い姉妹で、だから喧嘩なんてしないんだって。

けど、妹はずっと私のことを煙たく思っていた。自分の意見は軽視され、握りつぶされるだけだと、とっくに諦めていた」


 しかし、結婚という一大事を前に、クロエは敢然と姉に反旗を翻した。


『お姉さまは、いつもいつも、そうやって私を自分の思い通りにしようとする! うんざりだわ! 

アイザック・スナイダーとは絶対に結婚しない! そんなにおススメならお姉さまが結婚すればいいんだわ!』


 クロエに投げつけられたその言葉に、イライザは衝撃を受けた。

 妹の自分への評価。アイザックとの結婚の可能性。その二つの相反する感情は『自分がアイザックと結婚すればいい。そうすれば妹も納得するのだから』という結論へと導いたのだ。


「今思えば、売り言葉に買い言葉よ。

だけど勿論、アイザックのことを憎からず思っていたし、彼の意思も尊重するつもりだったわ」


 スナイダー氏も、もったいぶってだったが『一応、息子の意見も聞かないとな』と一旦、持ち帰っていた。

 そこでアイザックは自分の意見を表明する機会があったはずだ。


「嫌なら断るべきだった。アイザックはそれが出来る人だと信じていた。

だから彼が結婚を受け入れてくれると知った時、嬉しかった。私と夫婦になってくれるんだって」


 しかし、そうではなかったのだ。

 ではなぜなのか――。

 

「アイザックには恋人がいる。その女性はスナイダー氏には決して認められない立場と身分の人なのでしょうよ。

彼女と添い遂げる為に、表向きは私と結婚したんだわ。

私は男遊びに夢中だから、放っておいても構わないと思ったのよ。

私が他の男と遊んでいるのを見逃す代わりに、自分も他の女と不貞を働く。

スナイダー氏は結婚さえすれば、息子の浮気なんてどうでもいいでしょう。それどころか、男の甲斐性だって喜ぶような男よ。あいつは!

……ただアイザックは自分の恋人に対して誠実だった。

正式な妻である私とは決して床を共にしない」


 「羨ましいわ」と小さくイライザは呟いた。“彼女”は愛されている。


「か、考えすぎだよ。

父親の言いつけで――」


「父親の言いつけで結婚するような人間が、新婚の妻に向かって『君と夫婦にはなれない。子どもが欲しければ他の男と作ればいい。僕の子どもと認めるから。それで許して欲しい』なんて言うの?」


 イライザはその時のことを思い出して怒りに震えた。そうだ、自分はもっと怒るべきだったのに、あまりのことに言い返すこともできずに受け入れてしまった。その頃はまだ、やり直せると思っていたこともあった。


「それとも何よ。父親には逆らえないけど、妻になった女になら、どんな粗略に扱ってもいいと思っているとか? だったらアイザックなんて所詮、他の男たちと同じ……!」


「君があんまり魅力的だから、“間抜け”はどうしたらいいのか分からなかっ……」


「正義の味方が聞いて呆れるわね」


 ばっさりと言い切られた黒ずくめの男は言葉に詰まったものの、なんとか絞り出す。「でも実際……君のように()()()()()()()()が、なんで自分と結婚したいと思ったか……アイザック・スナイダーは分からないんじゃないかな?」


「だから?」


「だから……何か裏があると疑っている……とか?」


 イライザは組んだ足の上に両手を置いた。それから頬杖をつく。「ふーん、つまり互いに誤解し合っていたという訳ね。私はアイザックを本当にいい人だと思っていた。妹に勧めたくらいだもの」


「……うん」


「妹は正しかったわ。

私――あの子のことも見誤っていたわ。

クロエは正しかった」


 「私って駄目ね」とイライザは笑った。目じりに新たな涙が生まれた。「クロエのことを勝手に決めつけていた。自分が姉として教え導かないと、なんて思いあがっていた」

 男が手に持ったままの手紙に目を落とす。しばらく考え込んだ後、イライザに不思議な質問をしてきた。


「……この手紙って、妹さんが書いているよね」


「ロジャーは字が書けないから……妹に書かせたのよ」


 夫に脅され、震える手で手紙を書く妹の姿を想像したイライザは身震いする。「可哀想なあの子。私のせいだわ――」きっと苦労しているに違いない。自分がもっと妹と向き合っていれば、不幸な目に合わなくて済んだはずだ。


「君、さっきアイザック・スナイダーは父親に認められないような立場と身分の恋人がいるって言った?」


「言ったけど……」


「君は妹さんには厳しい存在と思われていた?」


「……ええ」


 「なるほどね」と男が一人で合点したように頷いた。


「何? なんなのよ」


「ところで妹さんがどこに住んでいるか分かる?」


「小切手を送る住所は知っているけど……」


 イライザは王都の近郊にある村の名を上げた。

 元使用人の地元なので、十中八九、実家かその周辺に戻っているはずだ。

 男はその村の名に反応を示した。


「行ってみたことは?」


「――ない」


「なぜ?」


 男からの問いかけにイライザは言い淀んだ。

 答えは知っている。怖いからだ。

 これまで仲の良い姉妹だと思っていた。それがどうだ。妹は姉を深く恨んでいた。


「私、臆病者なんだわ」


 こみ上げてくる涙をぐっと堪えて、イライザは続けた。


「自分の愛情を否定されるのが怖いの。

それも自分が相手の気持ちなんてお構いなく押し付けている愛だったのにね」


 視線が寝室を彷徨ったのは、それが妹だけでなく夫に対しても投げかけられた言葉だったからだ。

 アイザックへの愛情も一方的なものだった。


「――っ」


 男が何か言いかけて止める。

 うつむいてしまった男に、イライザは理由の分からない不安を抱いた。

 けれどもそれが育ちきるまえに、男は唐突に言った。


「やっぱり僕――俺は正義の味方じゃなかった。

君の力になれないみたいだ」


 いいえ、助ける価値のない女なの。正義の味方もお手上げよ。

 イライザは黒ずくめの男を見送ると、寝台の上に身を投げ出す。

 いつも長い夜が、今夜はもっと長く感じる。永遠と終わらない闇の中で、けれどもいつしか月は沈み、太陽が上がっていた。

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