01_噂の悪女
イライザは危機的状況に陥っているように見えた。
彼女はある屋敷の夜会に出席していたのだが、廊下を歩いていたところ、突然、男に小さな部屋に引きずり込まれてしまったからだ。
男はイライザを自分の手中に納めたことを確認すると、嫌な笑みを浮かべた。
「ホーナー嬢、随分、久しぶりじゃないか。
ああ、今はスナイダー夫人だったかな。
俺を散々、弄んだ挙句、あの間抜けのアイザックと結婚するとは、とんだ女にひかっかったもんだよ」
「あなた!? ジェイコブ!
まだ誤解されているようですから、もう一度、訂正いたしますけど、私はあなたを誘惑した覚えはありません。
あなたが真実の愛を見つけただのなんだのって勝手なことを言い出してクロエを裏切ったせいで、あの子がどんなに嘆き悲しんだことか……分かっています?」
男――ジェイコブはイライザの怒りを鼻で嗤う。
「やけになって使用人の男と駆け落ちしたんだって?
この姉あってこの妹あり。
あんなあばずれ女だったとは、結婚しなくて正解だった」
そう言いながら距離をつめてくるジェイコブにイライザは壁に追い詰められていく。ニヤニヤした口元から吐き出される生暖かい息には葉巻と酒の臭いがした。
「おまえの結婚も失敗だったみたいじゃないか。
結婚以来、一度も旦那とは床を共にしていないって、もっぱらの噂だぞ。
いいや、本当のことを教えてくれよ。
あの間抜けのアイザックとは偽装結婚だって。
じゃなきゃ、誰があんな間抜け――」
「私のことはなんとでも言ってくれて構わないけど、妹と夫を侮辱するのは許さないわよ!」
背中が壁につく前に、なんとか男の包囲網から抜け出したイライザだったが、すぐさまジェイコブに手首を捕まれ引き寄せられてしまった。
「白々しい嘘を吐くな。
おまえが妹の婚約者を誘惑するような無類の男好きだってことは、こちとらご存知なんだよ。
未婚のままではそろそろ外聞が悪くなってきたから、都合のよい旦那を金で買っておいて、夜は他の男たちとよろしくやろうって魂胆に決まっている。
なにしろ、あの間抜けだ。妻に対して強い態度に出られるはずがないもんな。
今だって男を物色しようと抜け出してきたんだろう? 出て行く前に、俺を誘ったよな?」
本来ならば、晩餐後、男たちはシガー・ルームで葉巻を燻らせ、女たちは居間でお茶とおしゃべりに花を咲かせる時間だった。
二人は各々、そこを抜け出していた。
「だから――」と、ジェイコブはイライザの腰に手を回す。「今夜は俺と遊ぶんだろう? それでこれまでのことは許してやるよ」
***
イライザはちょっとした財産と悪名を持った娘だった。
幼い頃に母を亡くし、数年前に父を失うと、イライザと妹のクロエは父の弟、つまりは叔父の田舎にある家に引き取られる。
しかし、叔父と仲が悪かったのか、田舎が嫌だったのか――とにかく何が面白くなかったのか、イライザは成人するやいなや妹を連れて叔父の元から去った。
それはかつて彼女の父が田舎の家屋敷を弟に譲り、資産家の娘と結婚するために王都へ出て行ったのをを思い出させるような行動だった。
イライザの財産は、その資産家の娘であった母方から受け継いだものだ。これは父方の叔父には手が出せるものではなく、イライザが成人すると自由に使えるようになることに決まっていたから、彼女はそれを頼みに、もともと住んでいた王都の屋敷に戻り、独立したのである。
ただ、この国では、良家の子女ならば、たとえ成人していたとしても結婚するまでは男の保護者、もしくは後見人がいて、彼らの意に沿って新たな保護者――つまり夫を得るまでは、慎ましく生活するべきだと考えられていた。
当然のように、イライザの行動は批判の的となる。
叔父は姪に対し「もう知らん! 勝手にしろ!!」と憤り、見捨てた。
女たちは自分たちが我慢することで道理が守られると育てられてきた為、やはりイライザを非難した。むしろ自分たちが耐えているにもかかわらず、勝手な振る舞いをする彼女に対し、男たちよりも遥かに厳しい視線を向けてくるではないか。
一方で、若い男たちにとって、イライザは大層、魅力的に映っていた。
まずもって相当な財産がある。王都の屋敷、立派な馬車、見事な馬たち、地方にある豊かな土地……。
おまけに容姿も悪くない。はねっかえりのようだが、おかげで普通の娘ならば悪い虫がつかないように監督するはずの、うるさい後見人もいない。「どうせ世間知らずの小娘だ。甘い言葉を囁けば、すっかりその気になるだろう」うまいこと結婚に持ち込めれば、あとは悠々自適の毎日が待っているはずだ。
イライザの父親もそうだった。彼は粋な服装で夜の街に繰り出しは、遊び歩いていた。
ある朝、身ぐるみを剥がされ、街角に転がされてはいたが――。
若い男たちにちやほやされるイライザを見て、女たちはますます面白くない気持ちになった。
イライザは確かに美しいかもしれない。けれどもつんとした鼻や目元にある泣きぼくろ、ぽってりとした唇。しなやかな身体。「慎みの足りない、いかにも男好きのする女」ではないかと囁き合う。
そのうち、イライザから色よい返事をもらえない若い男たちからも「自分たちを手玉にとって遊んでいる」と怨嗟の声があがるようになる。
また、イライザは“一家の長”として、様々な交渉や手続きを自らおこなっていたのだが、この国、この時代の社会的構造上、その相手となるのは大抵、男であるのは仕方のないことだったが、これまたこの国、この時代の社会通念上、未婚の娘が不特定多数の異性に会いに行ったり、手紙でも相談していることは不道徳な行いと捉えられるものだった。
次第に、イライザ・ホーナーと言う娘は、「男好き」「ふしだら」「淫蕩な女」と噂されるようになっていく。
その噂を決定づけたのが、今、まさにイライザを寝椅子に押し倒そうとしているジェイコブと妹・クロエとの一件だった。
金に困っていたジェイコブはイライザを簡単には篭絡できないと見抜くと、標的を妹のクロエに向けた。姉が妹を溺愛しているのは分かっていた。その妹が結婚するとなれば、かなりの持参金を持たせてくれるはずだし、今後の援助も期待できる。なによりも、クロエはイライザよりも扱い易しと見えたのだ。
案の定、クロエはすっかりその気になってしまった。
妹の願いを聞いてあげたいと思いつつも、イライザはジェイコブの存在に不安を抱いていた。名家の生れだが、あまりいい噂を聞かない。よからぬ連中と付き合っているらしい。ただ、自身も同じような噂をされている身として、色眼鏡で彼を見るのはよくないと思った。
彼女は姉として、また“一家の長”としてジェイコブを見極めいないといけないと考え、彼が屋敷に来た時は自ら出迎え会話を交わすように心がけていたが、それが裏目に出る。
ジェイコブが「イライザは自分に気があるんじゃないか?」と自惚れるようになったからだ。
いくらイライザが自分を“一家の長”と考えていても、周りはどこまでも小娘としか見ていない。
結果、ジェイコブは「イライザこそ、俺の真実の愛を捧げるべき人だ」と言い出し、クロエの気持ちを踏みにじったのだ。
あの時と同じように、理解しがたい自信に満ちた表情の男をイライザは必死に両手を押し返す。
「お断わりよ!
私はアイザック一筋なんですからね!!」
不意にジェイコブが眉を顰めた。
それはイライザの夫への愛の宣言のせいではない。
華奢な女の腕なのに、どうやっても跳ねのけることが出来ないからだ。「なんだ……?」
次に目が霞んでくる。
イライザの力が強いのではなく、自分の身体が弛緩しているのに気づく。「くそっ、飲み過ぎたのか? いや、そんな……はずは……な」
「いーやーはなしてー」
ついに身体を押しのけられたジェイコブは、どこか遠くでイライザの声を聞いた。
***
男の拘束から逃れたイライザは一目散に扉に向かう――と思いきや、そろりと戻ってきた。
寝椅子に突っ伏したジェイコブから目を離さず慎重に歩みを進め、手に持った扇で肩のあたりを軽く叩く。
「ねぇ、あなた? 寝ちゃったの?」
身じろぎもしないジェイコブに、イライザは安堵のため息を吐いた。「……危なかったわ。この男、薬が効きにくいのかしら」
それから男の上着のボタンを外そうと手を伸ばしかけたものの、弾かれたように引っ込める。
「誰かいる……?」
急に人の気配を感じたイライザは辺りをうかがった。
夜会の行われている屋敷は広く、遠くの方で楽団が調音しているのが、かかすかに聞こえるばかりだ。
「……ぐずぐずしていたら人が大広間に集まる時間になってしまう」
盛大な会だった。大勢の人に紛れてイライザとジェイコブの不在は悟られないかもしれない。しかし、万が一、見つかれば言い訳出来ない状況である。
これ以上、不名誉な噂はご免だ。
「ああ、アイザック……」イライザは寝入った男の服に再び手をかける。「結婚したらまともな人間になるって誓ったのに。あともう一回だけ、許して――」
夫に詫びながら妻は男の腰のあたりに手を入れ、大胆にまさぐった。「あった……!」取り出したのは鍵の束だ。
「急がないと」
懐からコンパクトミラーを取り出したイライザが蓋を開けると、そこには鏡の代わりに両面、特殊な粘土が詰まっていた。
鍵を一本ずつ押し当て、型を取っていく。
音楽に混じって、男女の声が聞こえてくる。
イライザは冷静に、素早く全ての鍵の型を取り終えると、鍵の表面をハンカチで綺麗に拭きあげた。
鍵束をジェイコブのもとへ戻し、さて、部屋から出ようとしたイライザの耳に、女たちの声が聞こえてきた。こちらに向かってくるではないか。どんどんと声が近づく。
「私の下僕が見たんですって! あのイライザ・スナイダーが男を引きずり込んだのを!」
「まぁ、やっぱりこの夜会に出席したのは男を漁る為だったのね。なんて下品な女」
「夫も同伴してきて、よくもまぁ、大胆なこと」
「スナイダー氏はどこなの? 妻がいないのを気が付かないなんて」
「あの間抜けじゃしかたがないわ。私たちが代わりにあの女をこらしめてやりましょうよ!」
「そうよ、あんな女、野放しにしていたら、いつ、私たちの夫が毒牙にかかるか分からないわ」
イライザは扉から出るのを諦め、窓の方に向かった。
窓ガラスに映った大きく膨らんだドレスの存在は不利でしかないが、やるしかない。
しかし、窓枠から身を乗り出した瞬間、イライザはそこにいた黒ずくめの男と目が合った――。「誰――?」
***
小部屋の扉が開かれた時、意気込んだ夫人たちが目にしたのは男が一人、寝椅子で鼾をかいている姿だった。
着衣に乱れはない。クラバットが緩められているが、それは許容範囲であろう。
そしてお目当てのイライザ・スナイダーの姿はない。
「逃げたのかしら?」
「まぁ、あなたがあんな大きな声を出すからよ」
「そんな! あなただって――」
「いいから! 探すわよ! どこかに隠れているに違いありませんわ」
夫人たちは部屋のあちらこちらを探しはじめたが、ある者は飾り壺を持ち上げ、ある者は額縁の裏を見たり、中には手持ち無沙汰に歩いているだけの者もいた。
人が一人、隠れられるようなところは、あまりない部屋だった。おまけに夫人たちは威勢はよいが能動性に欠けていた。
そんな中、一人の婦人が声を上げる。
「窓が開いていますわよ」
それは入っていた時から分かっていたことだ。窓は大きく開け放たれており、冷たい風が吹き込んでいる。
ここは三階だ。どうせ寝椅子の男が酔い覚ましに夜風に当たるために開けたのだと、ほとんどの夫人は気にもしていない。
窓が開いていることを指摘した夫人は、少し面白くなかったのだろう。自ら窓の方に向かうと、外気に顔を出す。「おお、寒い。それに暗くて、高いわ」
夜会のドレスに細く高いヒールの女が立っていられるような足場はない。
結局、鼻先だけ出した夫人は、よく見もせずに窓を閉め、鍵をかけた。
だが、まさしくイライザはそこにいた。
外壁の僅かなでっぱりに、黒衣の男のマントにくるまれ立っていたのだ。
男は声をあげないように制したが、勿論、イライザだってそれが危険なことは承知している。
ジェイコブと一緒にいるのを見られるのも困るが、この怪しげな男にこんな所で抱き締められているのを見られる方がずっと問題ではないか。
部屋の中では早々に捜索に飽きた夫人たちがおしゃべりをしはじめた。
早く出て行って欲しいイライザは苛立ち、ため息を吐く。黒衣の男の視線を感じたので、睨みつける。男は黒の布に二つの穴を開けただけの簡素なマスクをつけていたが、そこから覗く瞳は、思った以上に深い青だった。
思わず見とれそうになったがイライザの耳に、夫人たちの会話が飛び込んでくる。
「私たちのような真っ当な人間には、あの狡猾な女狐の尻尾を捕まえるのは難しいですわね」
「そうねぇ、ああいう悪人には、やはりジャスティン・ジャスティスさまのような義賊の力が必要なんですわ」
ジャスティン・ジャスティス!
その名を耳にしたイライザは身じろぎした。
ジャスティン・ジャスティスとは王都で話題の、弱きを助け強きをくじく、正義の執行者――とされる存在だ。
神出鬼没で数十年にわたり活動を続けている正体不明の義賊。その呼び名すら、誰ともなく広まったものだ。
「あぁ、マスクで素顔を隠した正義の味方! なんて素敵なの!」
「この間、誘拐されかけたG嬢を見事に護ったそうよ」
「ええ、聞きましたわ。G嬢ったら、それ以来、ジャスティン・ジャスティスにすっかりお熱なんですって」
「――私も夫の元から救い出して欲しい!」
「まぁ!」
「……冗談よ!」
「でも分かるわぁ」
ジャスティン・ジャスティスの顔を見たものは誰もいないのに、勝手に美形の男ということになっており、未婚も既婚も問わず、女性たちの密かな憧れになっていた。ちなみに、男児にも人気である。
「ふんっ」とイライザは不満気に息を吐いた。黒衣の男はその反応に驚いたようだ。これまた睨みつける。
夫人たちはひとしきりジャスティン・ジャスティスの話で盛り上がった挙句、そろそろ大広間でダンスがはじまる頃合いだと、当初の目的を忘れたようにさんざめきながら出て行った。
イライザは今度は安堵のため息を吐く。彼女を支えている男の腕に力が入った。動こう、という合図だろうとイライザは受け取り、実際、それはそうだった。
窓まで移動すると、寝椅子の背に寝がえりをうったらしいジェイコブの腕がかけられているのが見えた。
「早くしないと起きちゃうかも」
あいつは薬が効きにくい――とイライザは声に出さずに付け加える。
黒衣の男が心得たようだが、窓には先ほど鍵がかけられた。片手に人を抱えたままでは開錠に手間取りそうだ。
イライザは「はぁっ」とため息を吐くと、髪飾りを引き抜いた。それは外に出ている部分は普通の髪飾りだったが、先端は変わった形をしているもので、窓の隙間に差し込み少し動かしただけで鍵が開いた。
彼女が落ちないように腰を支えていた男の驚いた反応を身体に感じたが、イライザは窓を開けるとさっさと室内に入る。黒衣の男も続いた。彼は寝椅子に近づくと名刺をジェイコブの胸の上に置いた。
名刺に書かれているサインは、ジャスティン・ジャスティスを表すものとして、よく知られているものだった。
「――俺が君を助けたことにした方がいいだろう?」
黒衣の男がはじめて声を発した。
ジェイコブが目覚めた時、イライザに一服もられたと疑うに違いない。しかし、こうしておけば、後からジャスティン・ジャスティスに襲われたと可能性が出て来るという寸法だ。
「そうね……」
イライザは嫌そうに、それを認めた。男は肩をすくめる。「助けてやったのに、その態度かい?」
「誰が――!」
助けて欲しいと頼んだかしら! と言いかけたイライザを男は引き寄せ、顔を寄せてきた。「お礼はこれで……痛ってぇ!」
「おあいにくさま。あなたもそこの男が目覚める前に、早くここから逃げた方がいいわよ」
脛を蹴り上げられた男がなんとか顔を上げた時には、イライザはすでに扉の所にいた。「気を付けて帰るのね、泥棒さん」廊下に出ると、上手い具合に壁に鏡がかかってたので、素早く身支度を整える。髪飾りも元通りに挿し直した。
「これでいいわ。アイザックに気付かれないといいのだけど……」
鏡に映るイライザの顔が曇る。「あの人、私のことなんて見てくれないんだもの。気が付くはずがないわね」
ため息をひとつ吐き、彼女は大広間に集まった人々の中に、何食わぬ顔をして混じった。




