風とスープの宿屋
木造の宿屋に、小さな鈴の音が響いた。
「いらっしゃいませ、“風見のスープ亭”へようこそ」
柔らかな声に出迎えられた青年は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
けれどすぐ、帽子を目深にかぶり直し、小さく会釈しただけだった。
「…泊まれるか?」
「もちろん。ひと晩ですか?それとも…しばらく?」
「未定だ」
簡潔な返答。でも、ノアは気にしない。
こういう風の匂いをまとった人は、昔の仲間にも何人かいた。
「じゃあ、とりあえず今夜はあったかいスープでも飲んでってくださいな。
旅のほこり、洗い落とすにはスープがいちばんです」
そう言ってノアが厨房へ消えると、青年は宿の中をぐるりと見回した。
木の香り。小さな花瓶。窓際の毛糸の座布団。そして。
「…猫?」
「にゃあ」
足元にいたのは、ふわふわとした白い毛並みの猫。
名前はポタージュ。スープ亭のマスコット兼番猫だ。
ポタージュは、旅人の匂いをくんくんとかぎ、満足げに尻尾を立てて去っていった。
「…変な宿だな」
青年はぽつりと呟いた。けれど、その声にはどこか安心の色が混じっていた。
厨房では、にんじんの甘い香りが漂っていた。
ノアはスープ鍋をくるくるとかき混ぜながら、口ずさむ。
「今日はちょっと特別に、“まるごとにんじんのポタージュ”」
この村で採れるにんじんは、小ぶりで甘く、まるで果物のよう。
それを丁寧に蒸してから裏ごしし、ミルクと塩だけで仕上げる。
「余計なものはいらないの。心が疲れてる人には、まず“やさしい味”が一番」
ノアは木の器にそっとスープを注ぎ、焼きたての全粒パンを添えた。
「お待たせしました。風のにんじんスープです」
テーブルに運ばれたそれを見て、青年は一瞬だけ目を細めた。
器から立ちのぼる湯気が、まるで誰かの手のひらのように、彼の頬に触れる。
「…いただきます」
ひとくち。
とろりとした甘み。やわらかな温度。ミルクの丸さと、にんじんの優しさが溶けあって、
それが喉をすべり落ちる頃には、胸の奥に何かが灯る。
「…こんなの、久しぶりだ」
青年は、ぽつりとつぶやいた。
「ふふ。うれしいな。うちのスープは“帰ってきた味”って、言われるんですよ」
「帰ってきた…?」
「ええ。何かを思い出すような、忘れかけてた何かを、ふと取り戻すみたいな」
ノアはそう言って笑うと、ポタージュを抱き上げて窓辺に座った。
外では、風がやさしく木々を揺らしていた。
その夜、青年は自分の部屋で、荷物の中から小さな木箱を取り出した。
蓋を開けると、中には古びた手紙と、欠けたボタンが一つ。
「…探さなきゃ、まだ」
手紙を握りしめ、彼は静かに目を閉じた。
夜の帳が降り、風がざわめきを増していた。
「今夜は、ひと嵐くるかもねぇ…」
ノアはランプに灯を入れながら、ぽつりとつぶやいた。
夕方から厚い雲が村を覆い、遠くで雷の気配がしていた。
木造の宿屋「風見のスープ亭」はこういう夜がいちばん忙しい。
雨宿りの旅人、遅れて戻る村の使い、そしてなにより、気圧の変化にびっくりするポタージュの対応に追われるからだ。
「にゃぁっ!」
ごろごろ鳴る雷に、ポタージュが棚の下へすべり込む。
いつもはふてぶてしいのに、雷だけはどうにも苦手らしい。
「はいはい。ここに隠れたら大丈夫よ」
ノアはタオルを持ってきて、棚のすき間に押し込むと、
そこへふわりとポタージュがもぐり込んで、やがてふにゃっと安心した声をもらした。
「雷が怖いのは、動物も人間も一緒かもね」
そんなことを言いながら、ノアはもう一度厨房へ戻った。
スープ亭の厨房では、今夜の鍋が静かに煮えている。
ごぼう、たまねぎ、じゃがいも、セロリ、ズッキーニ――
畑の余り野菜を全部使って作る、滋養たっぷりの“嵐の野菜スープ”。
「今日は…誰か来るかな?」
窓の外では、雨がぽつぽつと音を立て始めていた。
それを見ながら、ノアは鍋の蓋を持ち上げ、湯気をひとつ吸い込む。
その香りには、どこか落ち着く匂いがあった。
土の匂いと、草の匂いと、少し焦げたパンのような。
「ふふ。昔、旅してたときの、野営の匂いに似てるなぁ」
あのころは、焚き火でよくスープを作った。
風に乗せて匂いが遠くまで流れていくと、知らない誰かがひょっこり現れることもあった。
「よぉ。なんかうまそうな匂いがするな?」
そんな風に。
がたん。
宿屋の戸が揺れた。
強くなった風にあおられているのかと思ったが、次の瞬間、こん、こん、と叩く音。
「…誰か来た?」
ノアは急いでランプを手に取り、扉へ向かう。
雷鳴の下で立っていたのは、見覚えのある青年――レトだった。
だが、その足元には、ずぶ濡れになった小さな男の子がしがみついていた。
「…すまない。道端で倒れていたんだ。見過ごせなかった」
「中へ入って!」
ノアはタオルと毛布を用意しながら、すぐにストーブを焚いた。
レトも黙って手伝い、男の子の濡れた服を脱がせ、身体をあたためる。
「名前も言わなかった。たぶん、言葉もまだ…」
「お腹、空いてるわね。…スープ、すぐ用意する」
ノアは厨房に戻ると、鍋からよそったスープに、
こっそり刻んだハーブと、とろけるチーズを加えた。
栄養も味も、子どもが好きなように仕立て直す。かつて、旅の途中で何度もやった手だ。
「さあ、どうぞ。あっついから、ふうふうして食べてね」
毛布にくるまった男の子は、おそるおそるスプーンを持ち、
ひとくち口に運んだ。
…その顔が、一瞬でほころぶ。
ふうふう。もう一口。さらにもう一口。
その様子を、レトが黙って見ていた。
その目の奥には、どこか遠い過去を見つめるような色がある。
「…よかった。生きてて」
ノアがつぶやくと、レトはふとこちらを見て、
少し戸惑ったように眉を動かした。
「あなた、子ども…苦手じゃないんですね」
「え? そう見えた?」
「うん。どことなく距離を取る人かと思ってた」
レトは言葉を探すように一呼吸置いて、そっと答えた。
「…昔、弟がいた。でも、病気で…守れなかった」
ノアは、手を止めることなく静かにスープをかき混ぜていた。
そっと、鍋の中に刻んだパセリを落としながら、言う。
「そういう時、スープって、効くのよ」
「…?」
「お腹を満たすだけじゃなくて、心の穴にも。スープって、そういうものなの」
レトは、なにかを言いかけてやめた。
その代わりに、小さくうなずいた。
その夜。嵐が過ぎ、雲が流れて、月が見えた。
スープ亭の窓の下では、ポタージュが男の子の足元でくつろいでいる。
「ふふ。仲良くなったのね、ポタージュ」
ノアが微笑みながら、最後の鍋の一杯をすくう。
今夜は、嵐の夜にぴったりのスープだった。
どしゃ降りの不安も、雷の思い出も、そっと溶かしてくれるような味。
ノアは、まだ寝ていないレトに声をかけた。
「明日は、晴れるわね。…いい匂いが風に乗って届くかもよ?」
レトは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「…ああ。そうだな」
朝日が山々を照らし、風がやさしく宿屋の庭を吹き抜ける。
昨日の嵐が嘘のように、今朝は穏やかな天気になった。
「今日はきっと、いい日になるわね」
ノアは畑を眺めながら、空を見上げる。
宿屋の裏手に広がる小さな畑では、色とりどりの野菜が育っている。
その中でも、今が収穫時期の「霧の実」がひときわ目を引く。
霧の実は、まるで薄い白い煙をまとったような実をつける植物で、果肉は甘く、爽やかな香りが特徴だ。
異世界の独特な風味で、スープにすると心地よい後味を残す。
ノアはそれを収穫し、慎重に手に取った。
「さて、今日は『霧の実のクリームスープ』にしようかな。ちょっと贅沢に、スパイスも効かせて」
ノアはそうつぶやきながら、霧の実の実をひとつひとつ丁寧に取り出し、皮をむいていく。
果肉はやわらかく、ほんのり白い煙のような香りが広がった。
「うん、今日は特別なスープにしてみよう。レトにもきっと気に入ってもらえるはず」
その頃、レトと少年は宿の前で静かに話をしていた。
少年は昨日、ノアの作ったスープに感動し、レトと共に外へ出て散歩をしていたが、少しばかりお腹が空いてきたようだ。
「ねぇ、今日は何かおいしいものを作ってくれるの?」
少年が少し期待を込めて聞くと、レトはその質問に笑いながら答える。
「きっと、ノアがまた美味しいスープを作ってくれるさ。彼女の料理は、いつも楽しみだ」
「ほんと? じゃあ、早く食べよう!」
少年は嬉しそうに駆け足で宿へ戻る。
その姿を見ながら、レトは微笑んで歩き出した。
厨房では、ノアが手際よくスープの準備を進めていた。
霧の実を刻み、白い煙のような香りが漂う。
それを鍋に入れ、少しのバターと一緒に炒める。
香りが立ち上ると同時に、異世界の香辛料を少し加えて、スープの風味を整えていく。
「さあ、これで少し煮込んだら…」
ノアは鍋を見守りながら、ふとひとりごちる。
「…レト、またどこか遠くのことを考えているのかしら?」
彼女は、レトが少年に対して無言のままでいることを、少し気にしていた。
レトには、まだ語られていない過去がある。
でも、それを無理に聞き出すことはできない。
彼の心が開くとき、その時に聞けばいい。
「でも、あの子と一緒に食事をしていると、なんだか安心するわね」
ノアは微笑みながら、鍋をかき混ぜた。
レトと少年が厨房に戻ってくると、すでに食卓にはスープが並べられていた。
ノアは、スープの香りが漂う中、二人を迎え入れる。
「お待たせ。『霧の実のクリームスープ』よ。さあ、どうぞ」
少年は目を輝かせ、スプーンを手に取る。
「わぁ、この香り! 昨日のスープもおいしかったけど、今日のはもっとすごい!」
「霧の実という食材を使ったスープよ。ちょっと珍しいけれど、さっぱりしていておいしいでしょ?」
少年は、一口食べるとそのまま目を見開いた。
「すごい! こんな味、初めて! なんだか、身体が温かくなる感じ!」
レトは静かにスープをすすりながら、言った。
「この霧の実は、村の近くの山でしか取れないんだ。昔、旅人たちがこのスープを求めて山に登っていたんだよ」
「へぇ、そんなに珍しいんだ!」
少年は目を輝かせながら、スープを飲み続ける。
レトは少しだけ過去の話を続けた。
「僕も昔、このスープを誰かに作ってもらったことがある。あの頃、旅の途中で食べたその味が、今でも忘れられない」
ノアはその話を静かに聞いていた。
レトにとって、そのスープはただの料理ではなく、大切な思い出なのだろう。
「でも、今はもうそんなことはない。今はこうして、みんなと一緒に食事をするのが嬉しい」
ノアはふと、レトに向かって微笑んだ。
「それはよかったわ。ここで過ごす日々も、きっと素敵な思い出になるわよ」
レトはほんの少し照れくさそうに笑い、またスープを一口飲みながら言った。
「…ああ、そうだな。ここでの生活も、悪くない」
その後も、二人は穏やかな時間を過ごしながら、スープを楽しんだ。
外の風景はまだ少し冷たいが、心地よい温かさが広がっている。
「霧の実のクリームスープ」――それは、ただの料理ではなく、何か大切なものを思い起こさせる味だった。
ノアはその味を作りながら、少しずつ、みんなとともに過ごしてきた日々が、自分にとっての宝物であることを感じていた。
夜の帳が下り、宿の周りは静けさを取り戻していた。
月明かりが静かに庭を照らし、風が葉を揺らす音だけが響く。
ノアは宿の裏手にある小さな池のほとりに立ち、静かに水面を見つめていた。
「今日は静かな夜だわ」
彼女はふと、手に持っていた小さなランプを灯し、池の中をじっと見つめた。
池の底には、光を放つ不思議な魚、「月光魚」が住んでいる。
その魚は、月の光を反射して、まるで水面に浮かぶ小さな星のように輝く。
「今夜は、あの月光魚を使ってスープを作ろうと思う」
ノアはぽつりとつぶやいた。
月光魚は、非常に珍しく、普通の魚とは異なり、肉がとても柔らかく、ほのかに甘い味がする。
そのまま食べても美味しいが、スープにすると、深いコクと風味が引き立つ。
「でも、あまり釣るのは良くないって言われてるけど、今夜はちょっとだけお裾分けをお願いしよう」
ノアはランプを手に、池に向かって静かに歩き出した。
月光魚が泳ぐ水面は、穏やかで美しい。
しばらくして、ノアは池の端に小さな網を仕掛け、じっとその時を待った。
一方、宿ではレトと少年が、食後のひとときを過ごしていた。
少年は昨日からのスープがあまりに美味しかったことが印象に残り、ノアがどんな料理を作るのか、今日は特に興奮している。
「ねぇ、レト。今日はまたすごい料理が出るの?」
レトは静かに少年を見守りながら、答える。
「どうだろうな。ノアが作る料理は、いつも驚くほど美味しいから、楽しみにしていていいさ」
少年はニコニコと笑い、さらにレトに詰め寄る。
「それに、あの魚のこと聞いたよ! 月光魚って、すごく美味しいんでしょ?」
「うん、月光魚はこの村の特産で、でもその釣り方にはちょっとしたルールがあるんだ。
月の光の下でしか釣れないし、あまりたくさん取ってはいけないと言われている。でも、今日は少しだけ使うみたいだ」
「へぇ~! じゃあ、今夜はすごく豪華なスープが食べられるんだね!」
少年は嬉しそうに手を叩き、レトの話を聞きながらさらに期待を膨らませていた。
ノアは静かに池の縁に腰をおろし、網を見つめた。
しばらくすると、月光魚が水面を優雅に泳ぎながら、網に引っかかってくる。
「来たわ!」
ノアは素早く網を引き上げ、月光魚を手に取った。
その魚は、まるで月光を受けて輝いているように、美しい青い光を放っている。
ノアはその光景をしばし見つめ、ふっと息をついた。
「今日も、綺麗ね」
月光魚は、その優雅な姿を静かに水面に浮かべながら、ノアの手の中で微かに揺れる。
彼女はその魚を大切に持ち帰り、すぐに料理を始めた。
厨房に戻ると、ノアは月光魚を丁寧にさばき、鍋に入れる準備を始めた。
その魚の肉は非常に柔らかく、甘みがあり、少しの塩とハーブでシンプルに味付けするだけで、深い旨みが引き出される。
「さぁ、これで準備は整ったわ」
ノアは月光魚をじっくりと煮込みながら、香りが広がるのを楽しんでいた。
その間、レトと少年は食卓で待ちながら、話を続けていた。
「レト、あの月光魚って、食べると本当に元気が出るんだって?」
「うん、月光魚には、体力を回復させる効果があると言われている。昔、疲れ果てた旅人たちが、月光魚のスープを飲んで元気を取り戻したという話もある」
少年はそれを聞いて、ますます興奮してきた。
「すごい! じゃあ、今日はもっと元気になれるってことだね!」
その後、ノアがスープを運んできた。
月光魚の肉がしっかりと煮込まれて、スープの中にその旨みが広がっている。
「どうぞ、召し上がれ」
少年は一口スープを飲むと、その味に驚きの表情を浮かべた。
「わぁ…これ、すごい! なんだか、体がポカポカしてきた!」
レトも静かにスープを飲みながら、言った。
「月光魚は、こんな風にスープにすると、身体が温まって、疲れを癒してくれるんだ。
だから、旅の疲れが取れない時にも重宝されるんだよ」
少年はその言葉に納得しながら、さらにスープを飲んだ。
「ほんとに不思議だね。このスープを飲むと、どんどん元気が湧いてくる感じがする」
ノアは微笑みながら、その様子を見ていた。
「これが月光魚の力よ。食べ物には、ただの栄養以上の力があることもあるのよ」
そして、レトは少しだけ昔のことを思い出し、言った。
「僕も、あの頃、このスープに救われたことがあるんだ。
今でも忘れられない、あの味と温かさ」
ノアは静かにうなずき、スープを飲みながら言った。
「だからこそ、こうして料理を作って、みんなに食べてもらうのが楽しいのよ。
温かい食事が、心を癒してくれるのよね」
レトはほんのり微笑んで、もう一度スープをすすった。
「うん、ほんとに。今日もまた、いい時間を過ごせたな」
月の光が静かに庭を照らし、宿の中で穏やかな夜が過ぎていく。
その夜、ノアとレト、そして少年は、温かい月光魚のスープを囲みながら、ゆっくりと心を通わせていた。
彼らの静かな時間は、きっとこれからも続いていくのだろう。
おしまい