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少女の哲学  作者: 小娘
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イレーネのために

歌と蛍のお話です。

 彼女との出会いは奇妙なものでした。それは夏の夜、茹だるような暑さが名残惜しそうに闇の中を彷徨い、蛙が遠くで退屈な調べを奏でていた日のことです。私は人気のない道を独り歩いていました。どうして夜遅くにそうしていたのかは思い出せません。きっとレポートに使うための調べものでもしていたのでしょう。とにかく私は灯りの少なさに不安と若干の苛立ちを覚えながら歩いていて、そのうちにいつも渡っていた歩道橋が見えてきました。そして私は気が付きました。歩道橋から道路を見下ろしている人影があることに。まさか。思わず私は最悪の事態を頭に浮かべ、慌てて階段を駆け上がりました。私が一段一段を踏み鳴らす音は聞こえていたはずなのに、その人物は微動だにしなくて、自分がやって来たことで彼女が―長い髪を後ろに垂らし、華奢な体つきをしていたので、女性だとわかったのですが―意を固めてしまったとしたらと、得体の知れない恐怖を感じたのを覚えています。私は野生動物の相手をするかのように、じりじりと彼女に歩み寄っていきました。だけどやはり彼女は身動き一つ取らず、どこか一点を取り憑かれているみたいに見つめていました。私は彼女の視界に入るところまで近づくと、すぐ彼女の腕を掴めるように両手を構えながら、静かに声を掛けました。すると彼女は、突然歌い始めたのです。


If you know whatever it could be

I will stroll across, then downward flee


私の知らない歌でした。それでも何となくその意味―下へ向かって逃げる、のはずですから―はわかり、それが彼女のしようとしていることの宣言であるように思われたので、私は咄嗟に彼女を捕まえました。そして肌の感触があることに驚きました。実はそうする直前まで、私は彼女が幽霊なのではないかと思っていたのです。彼女の身体が透け、夜に溶け込んでしまう様子が容易に想像できました。しかしもちろん、そんなことはなかったというわけです。私が突然触れると、彼女もようやくこちらを振り返ってくれました。心もとない灯りがその顔をささやかに照らしたので、彼女が西欧風の顔立ちをしているのがわかりました。私はつい、彼女が日本語を話せないのではないかと考えました。しかし私の予想に反し、彼女は流暢な日本語で言いました。


「飛び降りようとしているわけじゃないの。びっくりさせたなら、ごめんなさい」


私はしどろもどろに謝りながら、彼女から手を離しました。彼女は微笑んで首を振ると、また闇のほうへと目を走らせました。私はその場を後にすることができず、何か言わなくてはと言葉を探しました。そこで、何を見ているのか尋ねることにしました。


「夜」


彼女はそう答え、私が聞き返すと、まるでおかしなことを言っているのが私であるかのように、不思議そうにこちらを覗き込んできました。


「だって今、夜でしょ」


私は曖昧に返事をするしかなく、もう帰ろうと思い始めていました。感性が合わない人も、時にはいるものですから。私が愛想笑いで誤魔化しながら立ち去ろうとすると、彼女はおもむろに言いました。


「『Yellow Sulk』って知ってる?」


私が知らないと答えると、彼女は近所の喫茶店の名前だと教えてくれました。だけど彼女はそれ以上に何も言ってくれず、私はその意図を測りかねて困惑したまま家路に就きました。



 それで終わりでも良かったのです。ひょっとしたら、そうすべきだったのかもしれません。しかし私はその出来事を次の日も、その次の日も繰り返し思い出さずにはいられませんでした。そうしてついに私は彼女の言っていた喫茶店を訪ねることにしました。探すのは難しくありませんでした。『Yellow Sulk』は街角にひっそりと佇んでいて、見たところお客さんも少ないようでした。店内は清潔なのに、どこかくたびれた感じがして、私はすぐにその雰囲気が気に入りました。


喫茶店にしては少し重い扉を押し開けて中に入ると、コーヒー豆の香りが柔らかく鼻をくすぐり、それだけで私は心が満たされていくのを感じました。カウンターの中に若い男性の店員がいましたが、いつ行っても他に店員がいなかったことからして、あの人はきっと店主なのでしょう。図書館で気だるげに司書の仕事をしているほうが似合いそうな人ですが。私は彼女を探して店内を見回しました。彼女はいませんでした。どうして彼女が当然いるものと思っていたのか、自分でもわかりません。


ですが私はどうしても諦めきれず、どこからそんな行動力が湧いてきたのか、退屈そうにコップを拭いているその若い店員に彼女のことを尋ねることにしたのです。その人が私を鬱陶しく思ったのは明らかでした。彼はぶっきらぼうに、客のことなんていちいち覚えてないと言いました。私は一か八かと思って、短い歌を歌う女性だと付け加えました。すると彼は意外にも反応を示してきました。早く会話を終わらせたかったのでしょう。彼曰く、やはり彼女は時折店を訪れるようでした。休日には来ない。彼はそう言い切りました。その日は日曜日だったので、待っていても彼女は現れないという意味でした。


私は礼を言い、そのまま帰るのも失礼だと思ってコーヒーを注文しました。出されたコーヒーを飲みながら、私は彼女の歌に思いを馳せました。あえて翻訳するなら、「何でも良い、あなたが知っているのなら 私は横切り、下へと逃げるから」といった具合だろうか、などと考えたと記憶しています。考えれば考えるほど、その歌詞は意味をなしていないように思われました。一体どこを横切るのか、「下」というのはどこなのか―私はあのとき「飛び降りる」と解釈したわけですが―、そして最も不可解な ”If you know whatever it could be” という前半部分。どれもひどく断片的でした。今思えば、私が気にかけていたのは彼女というよりもむしろ、彼女の歌だったようです。私はその謎を解き明かす必要に駆られていたのです。



 私は平日に何とか時間を見つけ、再びあの喫茶店に足を運びました。今度こそ、彼女はそこにいました。カウンター席の一番奥で雑誌のようなものを開き、そこに熱心に何かを書き込んでいるようでした。彼女に近づこうとして、私は途端に怖くなりました。彼女はもう私のことなど覚えていないかもしれないと思ったからです。それに覚えていてくれたとしても、何を話せば良いのか私には見当もつきませんでした。私はあまり外向的な性格ではないのです。私がまごつきながら店の入り口に突っ立っていると、彼女が顔を上げ、こちらに気付きました。彼女は私に小さく手招きしました。どうやら私を覚えていたようなのです。私は彼女の隣に腰掛け、例の店員にコーヒーを頼みました。彼女が真剣に取り組んでいたのはクロスワードパズルでした。今時珍しいな、と思っていたとき、彼女は言いました。


「来ないのかと思った」


私は彼女を探しに一度店に来ていたことを説明しました。彼女が私に来てほしいと思っていたのかどうかはわかりません。彼女は喜んでいるようにも、迷惑がっているようにも見える表情をしていました。だから私はなおさら何を言うべきかわからなくなり、結局閉口することを選びました。すると彼女が、雑誌の余白に何かを書きつけて私に見せて来ました。


Irene


イレーネ、だと思いました。私がその通り口にすると、彼女は微笑みました。


「そうだね」


その返事の意味するところはやはりわからず、私は困惑して彼女を見つめました。でも、それが彼女の名前であることは間違いないと思いました。後で知ったことですが、英語圏だと “Irene” はアイリーンと読まれるそうです。なので、彼女の本当の名はアイリーンなのでしょう。だけど彼女の顔からは迷惑そうな翳りは消えていました。私はすっかり安堵して、おそらくは彼女の笑顔に勇気づけられて、あの歌のことを尋ねました。


「ずっと前に適当に作ったの。意味なんかないよ」


彼女がそう言うのを聞いて、私は少しがっかりしました。あの歌が、私の心の奥底にある何かを照らし出してくれる気がしていたのかもしれません。問い詰めることもできず、私は彼女のクロスワードパズルに目を落としました。一番最初に目についたのは優美な字体で書かれた “sober” という単語でしたが、私の視線に気付くと、彼女は秘密の日記帳でも見られたかのように雑誌を閉じてしまいました。悪いことをしてしまった気分になり、私はコーヒーを飲み干して席を立ちました。彼女は私が立ち去る前に言いました。


「今日、夜を見に行こう」



 正直、迷いました。ほとんど他人である彼女と「夜を見に行く」なんて。それが何のことかもわからないというのに。だけど私はどうしても答えが欲しかったのです。あの歌を中途半端なまま忘れてしまうことなんてできないと感じていました。だから私はその夜、彼女と初めて出会った歩道橋に行きました。彼女はそこにいました。彼女は私が横に立つまで身じろぎもしませんでした。


「見たいものがあるの」


それはあくまで彼女が見たいものであって、私に見せたいものではないようでした。私はそれで一向に構いませんでした。夜道を軽やかに歩いていく彼女は、喫茶店で見たときよりも生き生きしているように見えました。私たちは森の中へ分け入りました。私は少しも警戒しませんでした。そしてそれは正解でした。彼女が見たかったものは、儚くこそあれ、まったく危険なものではなかったからです。蛍でした。暗闇の中、星のように輝く蛍たちが舞っていたのです。だけどそれが同時に、不気味に揺れる死者の魂のようでもあり、私は漠然とした恐怖を覚えてしまいました。彼女の様子を横目で見てみると、彼女は虚無感の漂う表情をしていました。私は彼女の名を呼びました。すると彼女は突然踵を返しました。歩きながら、彼女はおもむろに言いました。


「私も蛍だったら良いのに」


私はやはり彼女の言葉の意図が掴めず、今回こそはと思って、彼女に理由を尋ねました。


「名前も顔もないからだよ。どれがどんな風に光ったって、最後にはどれがどれだかわからなくなるでしょ」


蛍同士にはわかるんじゃないか、という意味のことを何も考えずに私は言いました。彼女からの返事はなく、彼女はまたあの歌を歌い始めました。


If you know whatever it could be

I will stroll across, then downward flee


本当に意味のない歌詞なのかと尋ねましたが、彼女はそのフレーズを繰り返すばかりで、結局答えはわからずじまいでした。あの歩道橋に着くと、彼女は前と同じ場所に立って物思いに耽り始めました。それでも歌うことはやめません。私は彼女の歌を聞きながら、ひたすら蛍のことを考えていました。私が間違ったことを言ってしまったのは明らかでした。だけど、彼女の言いたいことなんてわからなかったし、どうして彼女が機嫌を損ねてしまったのかもわからなかったのです。それでも私は彼女を理解したかった。


 私は彼女が答えてくれることを祈りながら尋ねました。死んでしまいたいのか、と。彼女は歌うのをやめました。


「透明が良いな」


彼女が再び口を利いてくれたのに安堵して、私は色々なことを質問してみました。年齢、家族、友達。趣味はクロスワード?夏が好き?よく蛍を見に行く?そのどれにも彼女は答えませんでした。私は直感しました。彼女を完全にがっかりさせてしまったのだと。私が質問をする間、彼女は声に出さずにあの歌を歌っていたのです。私はもう帰ることにして、彼女にもそう声を掛けました。彼女は振り向きませんでした。



 翌朝、ニュースを見ていたら、彼女が歩道橋から落ちて亡くなったことが報道されていました。私は彼女のことで頭がいっぱいでした。一日中彼女のことを考える日々を過ごしたのです。



 そうしているうちに、わかったことがあります。私が彼女に与えた「イレーネ」という名は、彼女の仮面になり得たものだったということです。そして、その仮面を奪い取ってしまったのは、他の誰でもなく私だったということです。



 他に付け足すことはありません。

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