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第1章

 夢現ゆめうつつの状態に彼はいた。

 次第に戻りつつある意識。丈夫たけおは寝床で目を少しだけ開けるとこんな事を思った。

(……今は何時頃だろうか)

 丈夫は目をより大きく開けてみた。辺りが暗いところを見ると、まだ真夜中のようであった。

「ん?」

 丈夫は掛布団の感触がいつもと違うような気がしてきた。上半身を起こして体の上を見てみると、見覚えのない掛布団がそこにあった。

「あれ」

 不思議に思った丈夫は掛布団を捲り上げた。その直後、丈夫は周囲の異変に気がついた。

「あ……え?」

 丈夫の周りには見知らぬ光景が広がっていた。そこに存在しているはずの彼の部屋の壁や家具はなかった。代わりに壁面の一つに障子があるのが辛うじて見えた。

「ここは……何処だ」

 起きてみたら見知らぬ場所に自分がいるという事実。丈夫にとっては驚愕を通り越して、衝撃ですらあった。

「何だこれは?どうなっているんだ」

 丈夫は敷布団の上に立ち上がって周囲を見回してみた。部屋の障子がある壁面以外の三面のうち、一面は襖があるのが見えてきた。他の二面は暗くてよく見えなかった。

「ここは一体……」

 丈夫は敷布団から足を踏み出してみた。しかし着地した彼の足は何やら柔らかいものに触れた。

「うわっ」

 慌てて丈夫は明るい方、即ち障子へと向かった。そして障子の一つに手をかけて開けようとした。

「く……開かない」

 丈夫は指先に力を込めて横に引いてみたが、障子は微動だにしなかった。咄嗟に反対側の障子を引いてみると、そちらは僅かに動いた。丈夫はその隙間に指を入れて力任せに引いてみた。するとそれは横滑りした。

「開いた……」

 障子の外には田舎びた光景が広がっていた。縁側があり、その先には月明かりに照らされた庭があった。

「何処なんだここは……」

 丈夫は気持ちを落ち着けようと試みたが、自分の置かれている状況を冷静に把握しようにも、圧倒的に情報量が不足していた。分かっているのは自分は今、見知らぬ家の縁側にいるという事だけだった。

「どうしてこんな所に」

 丈夫は縁側に腰掛けると思考を巡らせてみた。しかし幾ら考えても答えは見出せそうになかった。丈夫はやや強引ながらもこの状況への願望を呟いた。

「悪い夢であって欲しい……」

 だが夢ならば感触はないはずである。先程からの手や足の感触をどう解釈したらいいのか?丈夫は頭を抱えた。

「悪いと決めつけないで」

 突然、丈夫の背後で声が聞こえた。振り返るとそこには黒髪の少女がいた。

「うわっ」

 驚いた丈夫は縁側から滑り落ちた。固い土の感触が手と膝にあった後、丈夫は尻餅を着いた。

「あいたた……」

 丈夫が視線を上げると縁側には赤と白の配色の浴衣を着た少女が立っていた。いつからそこにいたのか?この家の子なのか?丈夫は焦りを感じずにはいられなかった。

「君は……誰?」

 丈夫の口からはそんな言葉が出た。

(あたし)乃美子(のみこ)。あなたの案内役」

(案内役?どういう意味?)

 動揺を抑えつつ立ち上がった丈夫は何事か言おうとしたが、その前に乃美子は言葉を続けた。

「あなたの魂はあなたの夢の世界に入り込んでしまったの」

「え?」

「つまりあなたの魂は、あなたが見ている夢の中の世界に移動したという事よ。本当のあなたの体はあなたの部屋で寝ているわ」

 更に訳の分からない発言が聞こえた。丈夫はもう唖然とする他なかった。

「あなたの魂は現実世界からの逃避を望んだの。でもあなたの体を離れてまでそれを行おうとはしなかったの……行き場に窮した魂は、夢の中の世界に居場所を移したの」

 妙ちきりんな説明に呆然としていた丈夫だったが、乃美子の話を聞いているうちに何か引っかかるものも感じた。そこで丈夫は思い切って訊いてみた。

「じゃあこの体は、僕の本当の体ではないって事?」

 その言葉に乃美子は軽く頷いて肯定を示した。

「でもそれはおかしいんじゃないの?だって……」

 丈夫は利き手でもう片方の手の手首を掴むと、言葉を続けた。

「こうして感触だってあるし」

 しかし乃美子は表情を変えずに再び語り始めた。

「信じられないのも無理はないかもね……でもあなたの場合は特殊なケースだったの」

「特殊なケース?」

「あなたの魂は体の感覚を保ったまま、夢の中の世界で活動をする事に成功したの。奇跡の産物ね」

 頭が混乱しそうになる解説であった。丈夫は動揺を隠せなかったが、心が幾分落ち着くのを待ってから再び口を開いた。

「じゃあ、これは感じるけど、実際には触れてはいないって事?」

 丈夫は手で顔を触れながらそう尋ねた。

「そうよ。あなたには区別がつかないでしょうけど、あなたの魂の記憶がそう感じさせているだけなの」

「えっ、そうなの……んー」

 丈夫の心には釈然としない部分がまだ残っていた。そこで先程の乃美子の話のうち、もう一つ疑問に思った点を質問してみた。

「仮に君の言うように僕の魂が夢の中の世界に入ってしまったんだとしたら、その際に僕の脳からも魂が抜けてしまったって事なんじゃないの?だとしたら僕の脳では夢なんか見れないんじゃないの」

「あなたの疑問も理解できるわ。今回のケースでは魂がその居場所を確保するために、夢を司る部分の魂をあなたの脳内に残してきたらしいの」

 そんな事ってあるんだろうかと丈夫は思った。しかし今の自分の置かれている状況を考えると、その話を信じるしかないようであった。

「それじゃ、どうしたらいいの」

「どうしたらって」

「どうしたら元の世界に戻れるのか訊いてるんだよ」

「その前に、あなたは本当に元の世界に戻りたいの」

 その質問の意図を丈夫がはかりかねていると、乃美子は言葉を続けた。

「よく考えてみて。これはあなたの魂が望んだ事によって引き起こされた状況なの」

「そんな……こんな辺鄙な所に来る事を、僕が望んだって言うの」

 丈夫は周囲を見回しながら尋ねた。

「いえ、ここは夢の中の世界だから、必ずしもあなたの理想ではないわ」

「そうでしょ。こんな所に来たいなんて思った覚えはないよ」

「でも少なくともあなたは、元の世界の現実から逃げたいと思っていた。そうじゃない?」

「……」

「私は知ってる。あなたは今の学校が好きになれなかった。もう辞めたいとも思っていた。でも中退する事は親に反対されるし、自分でも将来不利になると理解している。だから嫌々通い続けていた。そうじゃない?」

 図星であった。どうしてそんな事まで知っているのかと丈夫は思った。

「でも……」

 丈夫は今一度、周囲を見回してからこう言葉を続けた。

「こんな所にずっといろって言うの?暮らせって言うの?そんなの無理だよ」

「あなたはこの世界の事を何も知らないのに、元の世界よりも悪い世界だと決めつけているのね」

「……」

「戻りたいのなら、多少のお手伝いをする事はできるわ。私はそのために遣わされたのだし」

「遣わされたって、誰から?」

「それは今は言えないわ」

 乃美子は前方のやや左側を指差すと、こう言葉を続けた。

「この山を下りて、あの方角に行くと都があるわ。あなたはそこで展示された一の字を探して」

「展示された一の字?何それ」

「そこにいる人が、次の道筋を示してくれるわ。私はこれで失礼」

「えっ、君は一緒に来てくれないの」

「私は一緒には行けないわ」

 そう言うと乃美子は体の向きを横にして、顔だけ丈夫へと向けた。

「台所にある風呂敷包を持っていくといいわ。それじゃ」

 乃美子は笑顔を見せると部屋の奥の方へと消えていった。

「待ってよ!行っちゃうの?」

 丈夫は呼び止めたが、乃美子の姿はもう何処にもなかった。

(展示された一の字って何の事?もっと詳しい話を聞きたかったんだけどな)

 丈夫はそう感じた。こんな見知らぬ場所でようやく誰かに会えたと思ったら、また一人になってしまった。その事が丈夫を一層不安にさせた。

(家の中を捜せば、あの子がいるんじゃないのか)

 丈夫はそう考えた。しかし暗い家の中を捜し回るのは怖く感じた。それに他にも人がいてその人が就寝中だったら―そんな懸念も丈夫の頭を過った。

(捜すべきだろうか、それともやめておくべきだろうか)

 丈夫の思考は暫くの間、優柔不断な迷走を続けた。その時丈夫はふと、地平線が明るくなってきている事に気づいた。

「朝が来るのを待つか……」

 丈夫はそう呟いて地べたに座り込んだ。

「さむ……」

 明け方近くの時間帯は夢の中の世界であっても冷え込むらしかった。丈夫は膝を立てて抱え込んだ。

(それにしてもどうしてこんな事になったんだ?悪夢なら覚めてくれ)

 丈夫はそう思わずにはいられなかった。そしてこんな推測もしてみた。

(ここでもう一度眠って起きれば、元の世界に戻れるんじゃないのか)

 丈夫は横になって目を閉じて就寝を試みてみた。丈夫は寝つきはいい方であったが、しかし何度試みても眠る事ができなかった。

(あの子の言う通りにするしかないのかな……)

 丈夫は苦笑を浮かべると上体を起こした。この状況から抜け出すためには魂を元の状態に戻す必要があるらしいが、どうやらそれは自力では不可能なようであった。特殊な状況には特別な処置を施して貰わなければならないらしかった。


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。とても長い時間が流れたように丈夫は感じた。気がつくと辺りは明るくなっていた。よく見ると割と立派な庭で、家屋も古めかしかったがそれなりの規模の佇まいであった。

「……ん?」

 右足の甲に感触を覚えた丈夫はその箇所に目をやった。すると一匹の蟻が歩いているのが見えた。

「なんだ蟻か」

 程なくして蟻は地面へと戻っていった。思えば裸足のままであった。

「靴はないのかな……」

 丈夫は立ち上がって履物はないかと辺りを探してみた。ふと縁側の下を見てみると一足の草履が置かれていた。近寄ってみると草履の脇の地面には丈夫用と書かれていた。

「これを履けって事か」

 丈夫は草履を履くのは初めての経験であった。履いてみるとぴったりのサイズであった。

「あ、そうだ」

 程なくして乃美子の言葉を思い出した丈夫は家の玄関へと向かった。玄関の戸は開けっ放しになっていた。

「お邪魔します……」

 入ってみると玄関の中は土間になっていた。その傍らには式台があり、その奥には座敷の部屋が広がっていた。

「誰かいませんかぁ」

 丈夫はそう呼びかけてみた。しかし返事は聞こえてこなかった。

「ええと……確か台所だったよな」

 奥に進むと土間の先にも土間があり、そこが台所になっているらしかった。中は薄暗くてかまどがあり、その脇の木製台の上に紫色の風呂敷包が置かれていた。

「あった。これだ」

 丈夫が結びを解いてみると、男物の着物と丈が短めの袴がまず目に入った。

「これを着ろって事なのか」

 他には筍の皮に包まれた握り飯、水の入った竹水筒、そして小さな巾着。中には大昔の硬貨が二十数枚入っていた。

「行ってみるしかないよな」

 風呂敷で荷物を包み直すと丈夫はそう呟いた。現時点でこの世界から抜け出すための唯一の手掛り―それが乃美子の言い残した言葉であった。

(よし行こう)

 丈夫は風呂敷包を携えると台所を出ようとしたが、その際に後方から物音が聞こえた。

「えっ」

 驚いた丈夫は慌てて振り返るとこう口にした。

「誰かいるんですか」

 しかし何も聞こえてこないまま数十秒が経過した。丈夫は改めて台所を出ると、土間を通り抜ける際に座敷の方を向いて、念のために再度呼びかけをしてみた。

「誰もいませんよね?」

 しかしやはり返事は聞こえてこなかった。

(もう行こう)

 そう思った丈夫は風呂敷包をぎゅっと掴んだ。

「ありがとう。確かに受け取ったから」

 丈夫はそう言い残すと玄関を出て歩き始めた。


 その家は小高い山の中腹に建てられていた。敷地に繋がっている細い山道は落ち葉や枯れ枝がそれなりに落ちていて、お世辞にも歩きやすいとは言えなかった。しかも慣れない草履履きである。時々よろけそうになりながら、丈夫は山道を下っていった。

 やがて山道は別の山道と合流し、やや広くなり勾配も緩くなった。そして丈夫の目に麓の景色が見えてきた。作物の植えられた畑が並んでいて、奥の方には民家も見えた。この辺りは農村地帯らしかった。

(何処かで見たような風景だな)

 そんな事を思いつつ歩みを進めていると、丈夫の視線は畑でしゃがんでいる人物を遠くに捉えた。

「人だ……」

 何とも言えぬ安堵感を覚え、丈夫の歩みは自然と速まった。近づいてみるとそれは編み笠を被った農夫だった。彼は一心不乱に作業を続けていた。

「すいません」

 丈夫は畑に入って声をかけてみた。その言葉に農夫は立ち上がってこちらに顔を向けたが、その表情は驚いた様子であった。

「あのぉ、都に行くにはこの道を真っすぐでいいんですよね」

 丈夫はそう尋ねてみた。しかし農夫は丈夫の全身を舐めるように見た後、何も答えずに後退りした。

(あ、そうか)

 丈夫はこの格好のせいなんだと気がついた。元の世界の自分が寝た時の格好、洋服の寝間着姿のままであった。一方でこの農夫の着ている服は、明らかに現代人のものではなかった。だから乃美子は着物と袴をくれたのかと丈夫は思った。

「あの、僕は怪しい者じゃありません。ただ都に行きたいだけで……」

 丈夫はそう言って更に近づこうとした。しかし農夫は警戒するような表情で更に後退すると、道の先の方を指し示してこう言い放った。

「都ならあっちだ」

「ですよね。どうも」

 丈夫は農夫に一礼すると、踵を返して道へと戻った。

「この格好じゃまずいな。着替えないとな……」

 暫く歩いた後で丈夫は呟いた。周囲を見回してみるとすぐ先に道標があった。

「なんて書いてあるか読めないな……まあいいや、ここで着替えるか」

 丈夫は徐に着替えを始めた。袴を穿いて着物をまとい、布の帯を締めた。実際に着てみると着物と袴はぶかぶかで、馴染みのない着心地だった。

「少なくとも格好は、むしろ元の世界から離れる事になったな」

 丈夫は苦笑してそう呟くと、竹水筒の栓を開けて水を一口飲んだ。

「え?」

 直後に丈夫の動きが止まった。道標の脇をよく見ると小さな紙切れが落ちていた。

「何だこれ」

 丈夫が拾って見てみるとその紙切れには〝都まであと七キロメートル〟と書かれていた。

「これは……もしかしてあの子か?」

 自分が今いるこの世界は、大昔の日本のはずである。キロメートルなんて単位のなかったこの時代の人間が書いたはずがない。すると―心当たりは一人しか思いつかなかった。

(何処かで見守っててくれてるんだ)

 丈夫はその事を心強く感じ、乃美子のためにも旅を続けようと思った。風呂敷で荷物を包み直すと、丈夫は再び歩き始めた。


 やがて道幅は更に広くなり、すれ違う人の数も次第に増えてきた。しかし丈夫には一つ気になる事があった。人々は彼の姿を見ると怪訝そうな表情をするのである。

(着替えたんだけどな……何でだろう)

 丈夫はここである事実に気がついた。男達の多くは長い髪を後頭部で結ってまとめていたのである。

「そういう事だったのか」

 丈夫は自分の短髪の頭を思わず掻いた。苦笑を浮かべつつ丈夫はなおも歩き続けた。


 そのうちに慣れない場所を歩いている緊張感もあり、丈夫は空腹を感じてきた。貰った握り飯を食べたいと思ったが、適当な場所はすぐには見つからなかった。更に歩き進めてようやく茶店らしき小屋を丈夫は見つけた。

「あのぅ、すいません」

 丈夫は茶店に立ち寄ると、年配の店の男主人に声をかけた。

「らっしゃい」

 店の主人は無表情でそう口にした。

「弁当を食べたいんですが、椅子を借りてもいいですか」

 丈夫は店先の長椅子を指差して訊いてみた。

「うーん、何か注文してくれませんか」

 店の壁にはお品書きの紙が貼られていて、その最後には「茶 一文」と書かれていた。

「そうですか。じゃあお茶を」

「へい、お待ちを」

 店の主人はそう告げると店の奥へと消えた。丈夫は長椅子に腰掛けると風呂敷包から筍の皮の包を取り出し、中の握り飯に齧りついた。

「うまい……」

 腹が減っていた事もあったが、とてもおいしいと感じた丈夫はあっという間に握り飯を食べ終えてしまった。

「お茶です」

 店の主人が現れ、湯呑みを長椅子に置いた。

「どうも」

 丈夫は巾着から中の硬貨の一枚を取り出して手渡した。

「まいど」

 主人は笑顔でそれを受け取った。かなり嬉しそうであった。もしかして払い過ぎだったのか?と丈夫は内心思った。

「あの、都はこの先ですよね」

 丈夫は湯呑みを持ち上げながら店の主人に尋ねた。

「さようです。お客さん、今しがた歩いてきた道の途中で道標を見ましたか」

「え、ええ。見ました」

「ここから都までは、一番近い道標までと同じくらいです」

「そうですか」

 丈夫はお茶を飲み終えると湯呑みを置いて、立ち上がって風呂敷包を掴んだ。

「ごちそうさま」

 そう言い残すと丈夫は茶店を後にした。お腹が満たされた事もあり、丈夫は俄然やる気が出てきた。


 暫く歩くと道の両脇には家屋が増え、すれ違う人々の数も更に増えた。旅人らしき人、行商人らしき人……テレビの時代劇でしか見た事のなかった姿をした人々に丈夫は思わず見入ってしまったが、その度に怪訝な表情をされた。

(そうか。こちらが見つめるから余計に不審に思われるんだな)

 そう思った丈夫はそれ以後、すれ違う人々をなるべく見ないように努める事にして、更に歩を進めた。


 やがて丈夫の視線の先には木造の城壁と門が見えてきた。門の奥には木造建築物の立ち並ぶ町並みが見えた。

「都だ……」

 丈夫は思わず呟いた。ようやく辿り着いたという安堵感と、妙な緊張感を丈夫は覚えた。

 丈夫は門を潜り抜けて中へと入った。町並みを形成している建物は商店が多かったが宿屋や一般住宅らしき家屋も混じっていて、各建物の間には細い路地があった。それらが見渡す限り何処までも続いているように見えた。人々はそれらの建物の前を行き交い、そのうちの何割かは出入りもしていた。丈夫は町並みを眺めながら歩みを進めたが、程なくして十字路に差しかかった。

(どちらへ進んだらいいんだろう)

 丈夫は左右を見渡したが、どの通りも似たような建物が並んでいて皆目見当がつかなかった。

「あっ、あれは……」

 丈夫は暫く迷っていたが、前方の通りの一角に地図らしきものを売っている店を発見した。近づいてみるとその地図には〝都全図〟と書かれていた。

「いらっしゃいませ」

 若い男店員が笑顔で手揉みをしながら声をかけてきた。

「これ、この都の地図ですよね」

 丈夫は地図を指差して尋ねた。

「さようでございます」

「お幾らですか」

「五文です」

「これ五枚って事ですよね」

 丈夫はそう口にすると巾着を取り出して中の硬貨を店員に見せた。

「おお、これは……」

 すると店員は驚いたような表情を見せた。

「えっ、これ五枚だと払い過ぎですか」

「あ、いえ。ただその古銭は大変珍しいものでして。私も久々に見ました」

「これとは別に額面の同じ硬貨があるって事ですか」

「……さようですが」

 店員は怪訝そうな表情を見せてそう言った。常識過ぎる質問をしてしまったのか?と内心思った丈夫は、急いで代金を手渡すとこう口にした。

「とにかく一枚貰うね」

「まいどあり」

 丈夫は地図を受け取ると店を出た。改めて見てみるとそれには主要な通りや一部の建物が記されていた。

「あっそうだ」

 丈夫は訊き忘れた事を思い出して店に引き返した。

「いらっしゃ……ああ先程の方。まだ何かお要りですか」

「すいません。この場所はこの地図だと何処になりますか」

「あ……はい。ここになります」

 店員は地図の右側の一点を指して言った。

「どうもすいません」

 丈夫は苦笑して礼を言った。

「いえいえとんでもない」

 店員は顔の前で手を振って答えた。丈夫は踵を返すと店を出た。

「そうかここか……」

 丈夫は地図を見ながらそう呟いた。地図によるとこの都はほぼ正方形の形をしていて、東西南北に門が設けられていた。そして先程自分が潜ってきたのは東門である事が分かった。

「あっ」

 ここで丈夫は最も重要な用件を思い出して、再び店へと引き返した。

「おや、またですか。今度は何事で」

「何度もすいません。展示された一の字って何処かで見た事ないですか」

「展示された一の字?ですか……うーん、見た覚えはないですね」

「そうですか。どうも」

 丈夫はそう答えると逃げるように店を去った。段取りの悪さに羞恥心を覚えたが、駄目もとでも訊いておいた方がいいような気がした。どんな些細な情報でもいいから欲しいと思った。

(これは虱潰しに訊いて回るしかないんだろうか……いや、何かもっといい方法はないものか)

 丈夫は歩みを止めると考えを巡らせてみた。しかしいい方法など思いつかなかった。丈夫は今一度、地図を念入りに眺めてみた。すると都の中心辺りに大きな建物がある事に気がついた。

「何だろう、これ」

 興味を惹かれた丈夫は取りあえずここへ行ってみようと思い、再び歩き始めた。


 移動の途中でも丈夫は声をかけやすそうな人がいれば、展示された一の字を知りませんかと尋ねてみた。しかし皆一様に知らないと答えるだけだった。

(もしかしたら展示された一の字って何かの暗号なのか?)

 そんな疑念が頭を過ったものの、その仮説の真偽を知る方法も今の丈夫には分からなかった。

「あ、あれか」

 そうこうしているうちに箱形の建物が丈夫の目にも見えてきた。それは予想以上に巨大で、端から端まで優に百メートルはあった。屋根は小さめで窓が多数付いていた。

(変わった建物だな……ところで何処から入るんだろ)

 丈夫は入口を探してみた。どうやら建物の端にあるらしかった。

「あ、あった」

 端に行ってみると十分な大きさの入口があり、多くの人々が出入りしていた。丈夫は中へと入ってみた。

「うわっ」

 丈夫は思わず呟いた。建物の中には多種多様な商店が所狭しと並んでいた。大昔にこのような施設があったはずはないのであるが。

 丈夫は物珍しげに見て回った。どの店も木の壁で区切られた二メートル四方くらいの小さなスペースに、詰め込むように商品を並べて売っていた。着物を売る店、帽子を売る店、乾物を売る店……ありとあらゆる店があるようだった。

 丈夫はここでも聞き込みをしてみた。しかし反応は思わしくなかった。一応端から端まで見て回ったが、それらしい字を発見する事もできなかった。丈夫は落胆してもう片方の入口から建物を出た。

「展示された一の字なんて誰も知らないじゃないか」

 建物を後にした丈夫は小声でそう呟くと、疲れた表情で通りをぶらついた。その足取りは次第に重くなっていった。丈夫は絶望的な気分になった。

「どうすればいいんだ……」

 歩き回っているうちに丈夫は小腹が空いてきた。辺りを見回してみると近くに団子屋があり、団子三個一文との貼り紙があった。丈夫はその店に立ち寄る事にした。

「三個下さい」

「まいど」

 代金を若い女店員に手渡した丈夫は団子を包んだ紙を受け取って行こうと思った瞬間、念のために例の質問をしてみた。

「そうだ。展示された一の字ってご存知ないですか」

「展示された一の字……ですか。はて、何処かで見たような……」

 その言葉に丈夫は驚いて目を剥いた。

「えっ、知っているんですか!」

「ええと……何処だったかしら」

「思い出して下さい。お願いします!」

「ああそうだ。商店所の二階の店で見た事があるわ」

「アキナイミセドコロ?」

「あの建物よ」

 店員が指し示す先には、先程の箱形の建物があった。

「ありがとうございます!」

 丈夫は団子と巾着を風呂敷包にしまうと、それを持って走り出した。そして一目散に商店所へと向かっていった。

「おっとと」

 途中通行人にぶつかりそうになりながらも、程なくして丈夫は入口へと辿り着いた。人込みを掻き分けて再び中へ入った丈夫は建物の内部を見回してみた。すると一番手前の店に隠れるように、その裏側に階段が設けられていた。

(もっと目立つ所に階段を造ってくれよ)

 丈夫はそう思いながらも、高揚した気持ちでその階段を駆け上った。

 到着してみると二階も一階とほぼ同じ造りで、こちらにも多くの商店が並んでいた。お客さんはやや少なめではあったが。丈夫は目を皿のようにして各店をチェックして回った。時折怪訝そうな表情をされたが、もう気にしている場合じゃないと丈夫は思った。

 角を曲がった三軒目に一風変わった店があった。店の前には丸められた掛軸が並べられていて、奥の座敷では白髪の老婆が茶をすすっていた。そしてこの店の壁に一の字が書かれた掛軸が吊るされていた。

(ようやく見つけた)

 丈夫は安堵感を覚えると共に、嬉しさを隠せなかった。

「いらっしゃい。若いの」

 丈夫に気がついた老婆が声をかけてきた。

「あのぅ、その掛軸なんですが」

 丈夫は壁の掛軸を指差してそう口にした。

「ああ、これはわらわの掛軸じゃが。何か」

「あの……乃美子って子が、展示された一の字を探せって」

 その言葉に老婆の目が鋭くなった。湯呑みを傍らの盆に置くと丈夫の顔を暫く見つめていたが、やがてこう切り出した。

「そうか。お主が乃美子の言っていた風変わりな学生じゃな」

(風変わりな学生?乃美子は僕の事をそんなふうに説明したのか)

 丈夫はそう感じたが、それよりも早く元の世界へ戻る方法を知りたいと思った。

「あの、元の世界に……」

 丈夫がそこまで言いかけた時、老婆は盆を奥の方へと片付け、座敷の端へと体を寄せた。

「まあここへ座りなさい」

 老婆はそう言ってあけたスペースを指し示した。丈夫は戸惑いながらも反対側の端にある細い入口から店内に入り、草履を脱いで座敷へと上がった。そして勧められるままに老婆の対面に座った。

「わらわは彩葉(いろは)。見ての通り掛軸の商いをしておる者じゃ」

 彩葉は丸められた掛軸の一つを取ると言葉を続けた。

「お主もこれは知ってるじゃろ」

 彩葉がその掛軸を広げると文字が幾つか書かれていたが、丈夫はそれを見た事がなかった。

「あの……僕、こんなの知らないんですけど」

 その言葉に彩葉は拍子抜けしたような表情を浮かべるとこう口にした。

「お主は本当に学生であるのか?この程度の格言も知らぬとは」

「知らないものは知らないよ。そもそもこの時代の事、よく知らないし」

「何、どういう意味じゃ」

 そう尋ねられた丈夫は返答に詰まった。

(そういえば大昔の言葉は現代の言葉とは違うはずなのに、ここの人達は現代語を話している。夢の中の世界だから自動翻訳されているんだ。それにこの商業施設とか、この世界には史実とは無関係の要素も含まれているみたいだ)

 丈夫はそんな事を思った。そしてこの状況下で時代の違いを語るべきなのか、迷いが生じた。

「どうしたのじゃ。この時代とは何の事じゃ」

「あの……うまく説明できそうにありません。それよりも僕、訊きたい事があるんですが」

 丈夫の言葉に彩葉はやや不満そうな表情をしたものの、程なくしてこう言った。

「何じゃ。言ってごらん」

「彩葉さんは僕が元の世界に戻る方法を聞きませんでしたか」

「元の世界に戻る方法?わらわはそんな話は聞いておらんな」

「えっ……それじゃ僕はどうしたらいいんだ」

 彩葉の言葉に丈夫は困惑の表情を浮かべた。

「しかしこの一の字と、お主との関係については聞いておるぞ」

「えっ、本当ですか」

 丈夫は上擦った声で口にした。

「これは頓知じゃ。一の字の次は何の字じゃ」

「……二の字……ですか?」

「その通り。お主は次は折り畳まれた二の字を探すのじゃ」

「えっ」

 やっと展示された一の字を探し当てたと思ったら、次は折り畳まれた二の字か。今度は何処まで行かなければならないのか―丈夫は唖然とする他なかった。

「それじゃ……その折り畳まれた二の字というのは何処にあるんですか」

「そんな事、わらわは知らん」

「えっ、そんな……」

 丈夫は再び困惑の表情を浮かべた。

「しかし乃美子から、このような物を預かっておるぞ」

 彩葉は徐に袂の中から角型の印章を取り出すと、丈夫に手渡した。そこには北という字が彫られていた。

「これは……どういう意味なんですかね」

「恐らく北にある、という事なんじゃろう」

「なるほど……分かりました。じゃあ僕、早速行ってみます」

 丈夫は印章を握り締めるとそう言った。

「おや学生殿、そう慌てなさるな」

 彩葉はそう口にすると再び袂の中を探り、匂い袋を取り出して手渡した。そして微笑みながらこう言った。

「それも持っていきなさい」

「ありがとうございます」

 丈夫は礼を言うと印章と匂い袋を風呂敷包にしまい込んだ。

「道中気をつけなされ」

「はい。それじゃ失礼します」

 丈夫は軽く頭を下げると、草履を履いて彩葉の店を後にした。


 商店所を出た丈夫は早速北へと向かいつつ、聞き込みを開始した。

「あの、すいません。折り畳まれた二の字ってご存知ないですか」

「あのー折り畳まれた二の字って見た事ありませんか」

「……折り畳まれた二の字って知りませんか」

 何度となく同様の質問をした丈夫だったが、人々の答えは皆同じ「知らない」だった。

(これは思ったよりも難航するかもな……)

 再び空腹を感じてきた丈夫はちょっと休憩しようと思った。前方を見ると橋があり、その脇に丸太が数本転がっていた。

「あそこでちょっと休もう」

 丈夫は丸太に腰掛けると、買っておいた団子を取り出して口にした。そして竹水筒を取り出して喉を潤した。

「ふう」

 一息ついた丈夫は竹水筒をしまうと、次に地図を取り出して地面の上に広げてみた。商店所の北に橋が描かれていた。ここが現在位置なのであろう。都はこの先もまだ続いており、その先には郊外らしき地も若干描かれていた。

(北といっても、どの辺を探したらいいんだろう。それに真っすぐ北であるとも限らないよな)

 丈夫は左右を見渡してみた。似た通りは幾つもあるようだった。

(このまま進むべきなのか、それとも隣の通りも聞き込みをすべきなのか)

 丈夫は進むべき方向に窮した。

(こんな時にあの子がいてくれたらな。訊く事ができたのに)

 丈夫は彩葉が乃美子から預かったという印章を取り出すと、それを指で摘んでこう呟いた。

「こまめに聞き込みをして探すしかないのかな……」

 その時、印章の字が突然光った。

「うわっ」

 驚いた丈夫は思わず印章を離した。するとそれは真っすぐには落下せず地図の上方、即ち都の北の郊外の辺りに落ちた。

「あっ……え?」

 呆気に取られた丈夫が印章を拾い上げてみると、枝分かれした細い道がそこまで続いているようだった。

「そうか……ここへ行けって事か」

 丈夫は印章を見つめ直した。

「こんな不思議な印章だったなんて……」

 丈夫は目を輝かせ、心の中で乃美子に感謝した。

「行ってみよう」

 丈夫は印章と地図をしまうと意を決した表情で立ち上がり、橋を渡って北へと向かった。


© Inaba Takahiro 2011

全体の1/6程を投稿しています。続きを読んでみたいという商業出版社の方からのご連絡お待ちしています。

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