8 新しい名前
森の隠れ家を一人の旅人風の人物が眺めていた。男物の服を身に着け、短く切ったダークブラウンの髪が少年のように見えるが、ほっそりとした首と華奢な顎は乙女のものだった。
その乙女こそアメリアであり、彼女は旅立つ前に「我が家」に別れを告げにきたのだった。
アメリアは、ゆっくりと家に近づき、壁に触った。丸太を組んだときの苦労が蘇る。家の周りをゆっくり回って、入口に立つと戸口に修繕した後があった。よく見ると、窓枠や庇など新しい木材が入っている。そっと家に入ると、思った以上に綺麗だった。
(サジってば。こっそり一人で来てたのね…)
この家を最後にしたのが、6年前だった。素人の作ったあばら家なのだから、人がいなくなればすぐに朽ちてもおかしくなかった。それが今も家の姿でたたずんでいるということは、だれかが手入れを続けていたのだ。
家の中に入いると、部屋の中央に置かれた手作りのテーブルが目に入った。足の高さが揃わずに、後で継ぎ足したヤツだ。出来上がったテーブルがガタガタ揺れるのが面白くて、アークと揺らして遊んでいたのにガイウスが直したのだった。
ゆっくり奥に行くと、粗末なベッド4台並んでいる。一番小さなベッドには柵がついている。アメリアが落ちないように、ガイウスが付けてくれたのだった。
アメリアは部屋を見渡してから、ガイウスとサジュームの苦労をしみじみと感じた。二人とも「お貴族のお坊ちゃま」だったのだ。ガイウスは軍人として多少は屋外生活の訓練をしていたが、サジュームにいたっては将来は聖職者か学者になるつもりの人だった。その人たちが、こうやって一から森の中で大工作業をしたのだ。
(本当に、よくやったわ…)
彼らは、小さなアークとアメリアを守るために家を作った。彼らの愛情を疑う余地などどこにも無かった。
アメリアは奥からまた入口の方へと戻ってきた。寝るだけの小屋を作ったあと、屋外の竈にも屋根を付けたのだ。竈として組んだ石を指でなぞる。この石を採るとき、サジュームから土の破砕の魔法を教えてもらったばかりで、加減が分からずその辺一帯をクレーターのようにえぐってしまったことを思い出した。半分生き埋めになりかけたアメリアをサジュームが必死で助けてくれたのだ。
(あのときの顔ったら…)
アメリアを見つけて、土まみれの顔で心底ほっとしたサジュームの顔はなかなか拝めるものではない。
屋外に出ると、物干しの支柱を見つけた。洗濯物も干すが、太い枝を通して獣の毛皮を洗って干したりもした。隠れ家生活の当初、日銭の稼ぐため仕留めた獣の毛皮を町に売りに出たサジュームが二束三文で買いたたかれ、それで帰ってきたことにガイウスが本気で怒って、二人で大喧嘩を始めたことを思い出した。
「くふふふ」
アメリアは、思い出し笑いを堪えられなかった。
支柱の足元に視線を移すと、木桶が草の陰から見えていた。彼らは時々、アメリアとアークをお風呂にも入れてくれた。ありったけの鍋で湯を沸かすのだ。風呂は一大イベントだった。
アメリアの笑顔が次第に曇っていく。視界が悪くなった、と思ったら泣いていることに気が付いた。
どこを見ても思い出だらけだった。かけがえのない今世の記憶。
(だから、いいのよ)
とアメリアは自分に言い聞かせる。美しい思い出を、美しいままに。これが悲しいものになる前に、彼らと別れたら良いのだと言い聞かせた。
すでに政治の中枢にいる彼らは、もはやアメリアを一人の人間として扱うことはできないだろうと思っていた。アメリアは、ヘレ島の作戦に決着がついたら彼らの前から消えることにしていたのだった。
先日の戦いで、ついに自分の力の全貌を晒すことになった。国益と称してアメリアの力の行使を望む諸侯の声とアークたちとの気持ちがいつ同調するか分からないのだ。いままでは「家族」のために他者を傷つけることも仕方ないと思っていたが、現代日本の記憶のあるアメリアには、戦争は避けたい仕事だった。
(好きな人は、とんちんかんだしね)
アメリアが頑張るわけを分かっていないサジュームとは、距離を置いて無関係の存在にならねばならないと思った。そうしなければ、アメリアの心がもたなかった。美羽とアメリアの一人二役は、もう疲れてしまったのだ。
(なんで精霊だと思うかなぁ。しかも、なんでその精霊に惚れちゃうかなぁ)
ある意味ピュアなサジュームのことは憎めないのだが、ウマイヤ王国との和平の陰の立役者であり「氷の賢者」と言われるほど頭が良いのに、ここまで気がつかないのはなぜだろうとアメリアは思う。やっぱり彼とは縁がないのだろうとアメリアは思うのだった。
何より、アメリアは生まれたときからアナトリア半島から出たことがない。いっそのこと行けるところまで行ってみよう、せっかくの2度目の人生、この世の見聞を深めるのも悪くないと思うのだった。
アメリアは隠れ家の周りの野花をいくつが引きちぎると、一度、隠れ家を振り返り転移をした。
移った場所は、王領の森の端、街道近くの茂みの中だった。
「この辺だったと思うんだけど…」
アメリアは一度街道に出て、再び茂みに入って獣道を辿った。少し広くなっている場所に出て見渡すと、隅に大きな石が2つ並んでいた。
(ここだわ)
アメリアはその石に正対すると、ゆっくりしゃがみ手の花束を2つに分けるとそれぞれの石の前に置いた。
(今世のお父さん、お母さん。私を生んでくれてありがとう。私はこの世界を見るため旅に出ます)
アメリアは、無念の死を遂げた二人を思い出していた。ほんの1年弱の間だったが、惜しみなく愛情を注いでくれた人たちだった。彼らもお互いを愛しみ合っていた素敵な夫婦だった。今の幸せをかみしめるように生きていた善良な人たちだった。
今世の親が歌うように呼び掛けてくれた名、それは「レイナ」という。
(今日から、私はレイナとして生きます。ただのレイナです。天国から見守っていてください)
アメリアもといレイナは、しばらく石に頭を垂れていたが、思い切るように立ち上がると空を見上げてどこかに転移していった。
地面に残された野花の花弁が風もないのに揺れている。すでに遠く離れた場所に着地しているレイナがそれを知ることはなかった。
(了)