1 辺境の地
アナトリア半島の大部分を占める「アナトリア王国」。
第12代アナトリア王国のヘンドリック王が、王弟ブライアンにより弑逆され、その国はブライアンが新王として君臨していた。
ヘンドリック王の妻子は全て殺されたと思われたが、第三王子アークは、側近と逃げ落ちて、反旗をひるがえすタイミングの狙っていた。
これは、アーク王子が「自らが正当な王位継承者」として名乗りを上げた、1年後の話である。
アナトリア半島とゾクディアナ高原の間に横たわるプハラ山脈は、またその稜線に雪を抱えていた。季節は3月も終わろうとしている。その麓に広がる羊や馬の放牧地には、幾筋もの小川が澄んだ雪解け水を湛えて流れていた。
小川に沿ってスミレやタンポポ、水仙、スズランなどが咲き乱れて、この季節特有の華やかな景色が広がっていた。
放牧地の外れにある丘に向かって、緑の絨毯を突っ切るように道が付いていた。
その道を一人の少女が手に籠を下げて歩いている。その少女は活動しやすそうなドレスに、たくさんのカラフルなシミのあるエプロンを付けて速足で歩いていた。仕立ての良いドレスと、よく汚れたエプロンがミスマッチな風貌だった。
馬を追い込んでいる馬丁が目敏くその少女を見つけて、頭を下げてきた。
少女も慣れた様子で会釈をする。春の風で、三つ編みに編んだ少女のハニーブラウンの髪のおくれ毛が揺れていた。
そのとき、少女の遠く後ろのほうで、野の一本道を駆けてくる女性がいた。
「アメリアさまー」
と、その女性は叫び声を上げている。アメリア付きのメイドのリリーであった。
少女は残念そうな顔をして立ち止まった。リリーは全速力で駆けて少女に追いつくと、
「一人で、はぁ、勝手に、はぁ、出歩いてはいけませんと、はぁ、はぁ、言われているではありませんか!」
と小言をなんとか言い切ると、呼吸を整えるため体を折り曲げている。
アメリアと呼ばれた少女は、うんざりした顔で
「なにかあったら転移魔法で帰るから大丈夫」
と言った。内心、転移魔法を使わなくとも大概の危険は避けられる自信があったが、「小さく可愛いアメリア」という周囲の期待を裏切らないように、全力の能力はひけらかさないようにしていた。そしてこの地では、全力で戦わなくても、平穏に暮らしていくことができた。
「それでも、あなた様はまだ11歳の女の子。しっかりお守りするようご主人様から言われております」
リリーは目を吊り上げて怒ったフリをしている。アメリアは、この忠実で優しいメイドが好きだった。森の奥深く男所帯で育ったアメリアには、「貴族令嬢としての適切な振る舞い」がよく分からない。その足りないところを、辛抱強く教えてくれるのだ。今日のように一人で野に出ることも、きっと帰り道で「貴族令嬢として不適切な行動」として説教されるのだろう。
「今日はどうしても、染料になる花を取りに行きたいの」
アメリアは、わがままなフリをした。時には、身勝手な少女の演技も必要なのである。
「では私や工房の人間がお供しますから、勝手に一人で出掛けるなんてことは2度としないでください」
そう言い終わるや、リリーはアメリアの背後に何かを見て深々とお辞儀をした。
アメリアが振り返ると、遠くから馬が2頭近づいてきている。前を走るのは、ひときわ大きな黒い馬で体格の良い初老の男性を背に乗せていた。その後ろをついてきているのは、先ほど会釈を返した馬丁のジルだった。
(おじい様に言いつけたわね)
アメリアは内心ジルに毒づいたが、すました顔で初老の男性が近づいてくるのを待った。
「アメリア、今日は良い日和だな。散歩か?」
声が届く位置に馬を止めると、太く大きな声で初老の男性が声をかけてきた。
彼は、ブルーノ・ペリクレス。
先代のペリクレス辺境伯であり、アメリアの養父である現ペリクレス辺境伯の父であった。数年前に家督を長男に譲ると、隠居であることを良い事に領地で馬の世話に精を出していたが、実際は気の良い息子に代わり策略を巡らす現役であった。
戦地で号令を飛ばすことで鍛えられた大きな声が、長閑な牧草地に響いた。
「ごきげんよう、おじい様。染料の材料を採りに行く途中でした」
アメリアは淑女のようにスカートの端を持ってお辞儀をした。
ブルーノは年齢を感じさせない動きで馬から降りると、
「リリーを困らせるな。ジルが慌てて儂を呼びにきた」
とアメリアに近づき、諭すように言った。
アメリアは「はい」とも「いいえ」とも言わず、頭を下げた。その様子を、ブルーノは鋭く見つめていた。言いなりにならない、という無言の態度が11歳の少女に似つかわしくなく、その姿から何か読み取れないかつぶさに観察していた。ブルーノは、アメリアが演技をしているのを見抜いていた。
「それは、今日どうしても必要か?」
「いろいろ試したいのです」
アメリアは、天気の良い日に部屋に籠っているのが嫌でフラッと出てきたとは言えず、後付けであったが抜け出した理由は染料の材料探しで押し通すことにした。嘘は言っていない。
「どこに採りに行くのだ?」
「この道の先の、丘の茂みを探します」
「では、リリーとジルを連れてゆけ。遅くならないうちに帰るんだ。いいな?」
そう言うと、ジルに何か指示を出してから一人で馬に乗って去っていった。ジルとリリーはブルーノが遠くなるまでお辞儀をしていた。彼らにとって、ブルーノはいまだ主のままだった。
アメリアは(おじい様には下手な演技は通用しないなぁ)と思った。柔和な笑顔で目だけが笑っていないのだ。もう、ブルーノには本当のことを話したほうがいいかなとまで思ってしまう。
アメリア・ペリクレス、11歳。伯爵令嬢になってまだ1年。この世界での常識になかなか慣れなかった。
アメリアには、生まれたときから明瞭な意識と記憶があった。その記憶は、平成・令和の日本で橋田美羽として32年間生きて経験したものだった。美羽は小さな商社の会社員であったが、事故で32年の生涯を終えた。気が付くと、どこか地球でない世界に転生していたのだった。
転生していることは生まれて早々に気が付いたが、元に暮らした世界と全く違うと分かったのは、魔法の存在を知ってからだった。
「では、アメリア様。参りましょう」
とリリーに促され、アメリアは物思いから覚めた。
目指した丘に着くとアセビが花をつけていた。アメリアはお目付けが2人もいるので、ブルーノに言ったとおりに染料の材料としてアセビをせっせと切っていった。
アメリアは、この地に来る前は農民のような生活をしていた。そんな彼女にとって、体は動かしているほうが楽だった。部屋でじっとしていると疲れてくるのだ。前世でも働き詰めの32年間だった。「働かないのが普通」の貴族令嬢の生活など、受け入れ難かった。
ペリクレス家にきた当初は、アメリアは深窓の令嬢であることを求められたが、無為な時間を過ごすよりはと、前世の趣味であった草木染の知識を生かして染料の研究を進め、地元の特産品の羊毛をこれまでにない色彩に染めることに成功した。また、織機の改良にも成功したので今やペリクレス領は繊維業特需で湧いていた。ペリクレス製の布の需要が高まったので供給量を増やすためバリカンも考案した。
全て前世の記憶を使って成し得たことだったが、お陰でペリクレス領は潤い、養父のペリクレス辺境伯は今回の税収に歓喜の声を上げた。
もともとはアメリアが自分の楽しみのために始めたことだったが、結果としてペリクレス家に資産が積み上がり養父と養祖父は、アナトリア半島の勢力争いを優位に運べるようになった。それは「恩返し」に繋がり、アメリアの気持ちが少し楽になるのだった。
今やアメリアに、深窓の令嬢を求めるものはいなかった。
手の届く範囲のアセビの花を採ったので、自分の背丈よりずっと高い位置のものを背伸びして採ろうとしたとき、背後から長い腕がアセビの枝をアメリアの方へ引き寄せてくれた。杉の葉のような芳しい香りがした。
「あ!」
アメリアは、すぐに背後の人が分かった。
「じじさま!」
アメリアは振り返ると、背後の人に抱き着いた。ダークブルーの瞳でアメリアを優しく見降ろしていたのは、サジューム・ペリクレスであった。
「相変わらず鮮やかな転移魔法!」
アメリアは突然の会遇にはしゃいで見せた。実際、嬉しかった。
久しぶりに昔の「家族」に会えたのだ。張りつめていたものが緩むような心地だった。
彼は、みぞおち辺りにあるアメリアの頭を撫でながら「元気だったかい?」と微笑んだ。
少し離れたところで摘んだ枝を整理していたリリーは、突然現れたサジュームに驚き、その微笑みに(あのサジューム様が…)と絶句した。ペリクレス家の人々とその使用人たちは、サジュームの無表情以外の表情を知らない。
アメリアから「じじさま」と呼ばれたサジュームは、外套のフードから豊かなダークブラウンの髪を覗かせている。少しウェーブのかかった前髪が艶やかな広い額にかかっている。「じじさま」と呼ばれるのにそぐわない、壮健な男性がそこに立っていた。
サジュームは、リリーに振り返ると
「それを持ってジルと先に帰ってなさい。私がリアを送るから」
と命じた。