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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

闇に堕ちる

作者: ぷくぷく

 木々のざわめく音がする。


 ここは森だろうか。


 しかし、視界に霧がかかったように周りがよく見えず、周囲の物体を判別することができないので、あくまで推測になってしまう。

いくら目を擦っても視界が晴れることはなかった。

視界が不明瞭なので、自分の他に誰かいるのかどうかもわからない。とりあえず誰かいることを期待して、声を発した。


 「すみません、どなたかいらっしゃいますか」


 しかし、返事がない。

すると、この空間には僕以外には誰もいないということなのだろうか。

そう分かると急に怖くなってきた。

いくらこのままここにいても埒が明かない。

視界が不明瞭であることが心許なかったが、それよりもこの不気味な空間に一人取り残されたような状況が続くほうが僕にとっては怖かったので、とりあえず一歩一歩進んでいくことにした。


 どのくらい歩き続けただろうか。


歩き始める決意をし、実行に移し始めた直後からの記憶が飛んでいる。

しかも驚くべきことに、いつの間にか僕の視界にかかっていた霧が晴れ、今は目がはっきりと見える。

そして、ここは前にいた森ではなく、お花畑だ。

あたり一面にキンセンカが咲き乱れている。

この花は亡き彼女の玲香が好きだった花だ。

 その事実に気づいた刹那、僕は全力疾走していた。凄まじい形相をしていたかもしれないし、支離滅裂な言葉を発していたかもしれない。

けれど、そんなことはどうでも良かった。

ここから逃げ出したかった。


 「ねぇ、なんであの時私を一人にしたの。」


 君の声が聞こえたような気がした。

あの時の君の目が蘇って、僕はまた逃げようとする。でも今日は立ち止まって君を探す。

面と向かって伝えたいことがあるのだ。

でもその行為が無駄なことは分かっている。

だってもう、此処にはいないのだから。


 「ごめん」


 この言葉が届くはずもない相手に向かって呟いた。




 「今行くから。待ってて」




 「山本、大丈夫か?ぼーっとするんだったら、少し休憩しろよ」


 「あっ、はい。すみません」


 2年先輩の上司の内海に声をかけられて我に返った。頭がぼーっとして仕事が手につかない。

3日続けての徹夜残業でかなり疲労が溜まっているのだろう。

「家に帰れ」とは言わず「休憩しろ」と言う内海が鬼のように感じられる。

 

 僕は先月この大手商社で働き始めた。

今年は就職氷河期ということもあり、なかなか企業からの内定をもらえない就活生が多くいた。

しかし、そのような状況下に置かれていたのに、僕は大本命の企業から内定をもらったのだ。

その企業こそが今の会社だ。

内定をもらえたと分かった時、嬉しすぎて思い切り飛び跳ねたことが原因で足をくじいてしまったことを鮮明に覚えている。

これから始まるとされた社会人生活が楽しみで仕方がなかった。

良き同僚、上司に恵まれることを祈った。

入社直前は、会社で実績を上げてどんどん出世していく自分の姿を想像してしまい、可笑しくなったときもあった。

 しかし、そのような輝かしい社会人生活が想像上、妄想上のものでしかないと痛感したのは入社から1週間が経った頃だった。

とあるビッグプロジェクトを企画しているというのは以前から耳にしていたのだが、それが正式に決定したというのだ。

 仕事に忙殺されるようになったのはそれからだ。

仕事の量は入社してからの日数に比例するかのように増えていき、いつしか自分のデスクが見えなくなるほどの書類を抱えるようになってしまった。


「入社直後だというのに、こんなにたくさんの仕事をこなさないといけないなんて、今年の新入社員は気の毒だよ」


 ある上司がそう言った。

 

 また、他の女性上司が


「山本くん、仕事多そうだから手伝おうか?私でよければ微力かもしれないけれどお手伝いするよ」


とも言ってくれた。

しかし、ここで頼んだら僕は入社早々仕事のできない男というレッテルが張られてしまうかもしれない。

ここはなんとしても仕事をすべて自分の手で終えて、上司に気に入られたいなどと思ってしまい、結局丁重に断ってしまった。

その結果、入社直後でまだ仕事内容も完璧に覚えておらず、作業効率も低いので、自然と残業という形で仕事をこなすしか術はなくなってしまった。

ただ、その残業時間も日に日に長くなっていき、今では徹夜が当たり前になっている。



 もう辞めたい。



 そう思ってしまった自分を責める。

せっかく大本命であった大手商社に入社できたというのに、ここで辞めたら……。



 最近はこの繰り返しだ。

辞めたいと思っては自責をし、思いとどまる。


 嗚呼、こんなときに玲香がいたらな。

唐突に玲香への思いが募り、慌てて頭から追い出そうとするが、離れない。


 あの時、僕が玲香と一緒にいてあげれば……。

 あの時、僕が施錠しておけば……。

 あの時、僕が玲香に注意を促していれば……。


 あの時、あの時、あの時……。


 後悔だけが頭の中を堂々巡りする。

 玲香……。


でも、今の僕は玲香を思う資格がない。


 玲香は僕が大学3年の時にできた同い年の彼女だった。

最初はサークルが同じだったこともあり、お互い顔と名前は知っている程度だったが、話したことは一度もなかった。

 そんな僕たちが距離を縮めることになった契機は、サークルの飲み会だった。

その時たまたま玲香と隣席になったのだ。

僕は人見知りが割と強く、玲香と何を話せばいいいのか分からなかった。

特に女子と話すとなると尚更だ。

 とりあえず気まずさを払拭させるために、目の前においてあった肴の枝豆を黙々と食べていた。


 「枝豆好きなんですか?」


 玲香が朗らかに微笑みながら、話しかけてきた。

そこまで枝豆は好きではなかったが、気まずさを払拭させるためです、とは到底言えるはずもなく、


 「ええ、まあ」


と曖昧な返事をしてしまった。


 「私も枝豆好きなんですよ!一回手に取ると、もう止まらなくなっちゃう」



 この会話を境に、お互いのバイト先の話や単位の話などをした。

 そして、玲香と話していて一つ分かったのは、お互い映画鑑賞が趣味だということだ。


 「山本さんは、なにか趣味とかありますか?」


 「映画鑑賞が趣味なんですけど、あんまり僕の友達は映画を頻繁に見るっていう人が少なくて。だから観るときは大抵1人です」


 「えー!私も映画観るのすごい好きなんです!でも周りに同じ趣味の子いないので、映画の話ができなくて退屈していたんです。先週公開された”最期の誓い”とか観ました?」


 「観ました観ました!ラストの主人公のセリフが心に響きましたねえ」


 「そうなんですよ。私なんて感動しすぎて帰宅してからも涙が止まらなくて」


 飲み会の終了間際まで、来月公開予定の映画の話や、今まで観た中で1番良かったと思う映画の話などをして、僕たちは大いに盛り上がることができた。

 別れ際にはメールアドレスを交換し、来月公開予定の映画を観る約束をするまでに至った。


 それからは何度か一緒に映画を観に行った。

そして、いつしか自然な流れで僕たちは付き合うことになった。

 さらに、交際開始から半年が経った頃には僕の家で同棲を始めていた。


 その時には、僕は完全に玲香の虜になっていた。


 僕が愚痴を吐露しても優しく受け止めてくれる玲香。

 僕の喜びや悲しみといった感情を共有してくれる玲香。


そんな彼女が心の支えとなっていた。それは玲香も同じであったと信じたい。



 初めて関係を持った日。

緊張感が漂う空気の中で、初々しさが混ざった甘い愛を二人で分かち合った。


 「私、あなたのことが好き。何回言っても足りないくらい」


 「そんなの僕だって……。好きだよ、玲香」


 誰も介入できないような、二人だけの温度で満たされた空間。

玲香に吸い込まれるようにして、チョコレートのような甘い愛の淵に落ちていったのだった。



 幸せな日々を送っていた2月のある日、回覧板が回ってきたので確認していると、気になる紙が挟まっていた。


 『いつも見てます』


 紙の中央に、小さい文字でそう書かれていた。

不審に思った僕は、玲香に心当たりがないか聞こうとしたが、生憎、玲香はバイトで外出していた。

いたずらだろうか。

しかし、この家に回ってくる途中で、他の家の紙が紛れ込んでしまった可能性も考えられる。

玲香に聞くほどのことでもないかもしれないし、多分聞いたところで何もわからないだろう。

 結局、僕は玲香にその紙の存在を伝えずに捨ててしまった。

あの事件が起きるまで、その紙の存在を思い出すことはなかった。



 先月。

 3月7日。

 冷たい雨が降っていた夜の10時頃。


 小腹が空いたのを自覚し、家から徒歩2分で着くコンビニまで何か食べ物を買いに行こうとジャケットを羽織った。


 「こんな時間にどこ行くの?」


 玲香が不安そうな顔をして聞いてきた。


 「ちょっとお腹が空いたからコンビニまで行こうと思って」


 「それだったら今から何か作ろうか?」


 「いや、大丈夫。すぐ買って5分で戻ってくるから」


 「じゃあ私も一緒に行く」


 「雨も降ってるし、行かなくていいよ。何か買いたいものあるなら買ってくるけど」


 「……別にないけどさ。すぐ戻ってきてね。なんか心細いから」


 玲香が頬を少し桜色に染めながら言った。


 「わかった。じゃあ行ってくる」


 僕はそう言ってからドアを閉めた。

ポケットの中に手を入れて家の鍵を探したが、見当たらない。

どうやら部屋の中に忘れてきてしまったようだ。

鍵を取りに戻ろうか。

しかし、部屋まで戻り、鍵を取りに行くことを億劫に感じた僕は、鍵をせずにそのままコンビニに直行した。


僅か5分、鍵をしなくても大丈夫だろうと油断していた。



この僕の行動があの事件の元凶となった。


 

 コンビニで適当なつまみを買い、家に戻った。


 「ただいま」


 返事がない。いつもなら僕が帰宅すると、玲香が玄関まで来て


 「おかえり」


と僕を包み込むような笑顔で出迎えてくれるのだが。

直感的に何かあったのだと思った。


 「玲香……!」


 呼びかけながら小走りに廊下を進む。

リビングについた時、僕は息を呑んだ。

言葉にならない声が洩れた。

リビングの中央で玲香が胸を包丁で刺され、血まみれになって倒れていたのだ。

仰向けになって倒れているのに、目だけが僕を睨みつけるかのように向けられていた。


 まるで、玲香を置いて鍵をせずに出ていった僕を責めるかのように。


 生きている僕を責めているかのように。


 あまりの惨状を目の当たりにしてしまい、しばらく身動きを取ることができずにいた。

 その時間は刹那だったかもしれないが、僕には時が止まったように感じた。

 急いで警察に通報し、救急車を呼んだ。


 そこから先の記憶が曖昧だ。


刑事に色々と尋ねられた。

病院の医師が難しい医学用語で玲香について早口で捲し立てた。何を言っているのかよく分からなかった。ただ、この医者のある言葉だけが鮮明に僕の脳内に刻み込まれている。


 「最大限の手を施しましたが、残念ながら玲香さんは……」



 あの事件から5日後、犯人が逮捕された。

 斎藤という男だった。

僕はその男を知らなかったのだが、玲香のバイト先であるファミリーレストランで以前働いていた男だということが判明した。

 警察の説明によると、斎藤は玲香と一緒に働くうちに玲香に恋愛感情を抱くようになったが、玲香にはすでに僕がいた為、手が出せず、ストーカー行為を始めたという。

そして家を特定し、玲香のあとをつけて回るようになった。

あの日も僕の家の近くの建物の影から、玲香が家から出てこないかどうかを見ていたという。

そしたら、僕が鍵をせずに家から出てきた。

絶好の機会を逃すまいと、斎藤は鍵のかかっていない家の中に入った。

玲香は僕が帰ってきたと思ったのだろう。玄関で斎藤と鉢合わせになった。

斎藤は玲香を羽交い締めにして抱きついたという。

しかし、玲香が抵抗して斎藤の指を噛んだことで一気に気が変わってしまった。

玲香への殺意が湧いた斎藤は、叫ばれないように玲香の口を手で押さえ、リビングに移動して、持っていた包丁で玲香を刺したという。


 玲香が殺されたという事実に初めて向き合えた瞬間だった。

 涙が止めどなく溢れてくる。

悲しみ、悔しさ、怒り、憎悪……たくさんの感情が混ざりあった涙だ。

 

 斎藤が許せない。この先も許すことはないだろう。

ただ、その斎藤以上に自分を責めてやまない。


 鍵を取りに行って施錠するべきだった。

 回覧板に挟まっていたあの紙のことを玲香に伝えて、不審者に注意するように促しておけば何か変わったかもしれない。


 『僕が玲香を殺してしまったのだ』


 いつからか、そう思うようになった。



 玲香がいなくなってから、1ヶ月。

毎日同じ夢を見る。


 目が見えない状態で森と思しき場所にいる僕。

慎重に歩を進めながら見えぬ出口へ向かって歩く。

ここで森からお花畑へと場所が変わる。

そして、いつの間にか僕の目が見えるようになるのだ。

そのお花畑には、いつも玲香がフラワーショップで買ってきて生けていたキンセンカが咲き乱れている。

そこで僕は玲香を思い出し、現実から、そして玲香から逃げるのだ。


 毎回ここで、全身に冷や汗を掻きながら僕は起きる。

この夢は僕にとって苦痛でしかない。

今日は見ないだろう、そう期待しても見てしまうのだ。


 死ぬまで僕はこの夢を見る気がする。



 「まあ、でも最近ほんと仕事の量多いから疲れるよなあ。しかも君は入ってきたばかりだし、気の毒だよなあ。生きるの辛くなって死ぬとかなしだぞ」


 内海が冗談交じりに話しかけてきた。


 内海の言葉を反芻してみる。


 『生きるのが辛い』  『死ぬ』


 この1週間、僕は玲香のことを思いだす隙を脳に与えさせないように、故意に頭の中を仕事でいっぱいにして、自分を追い込み続けた。

玲香のことを忘れようとした。

 しかし、それをすることで、僕は少しの間でも楽になれただろうか。

そんなのは仮初だ。

逆に辛くなっていったではないか。



 愛する恋人の死。

生きる活力を失った。


 多すぎる仕事の量。

思い描いていた社会人lifeは入社早々に敢え無く消滅した。


 毎日見る夢。

現実逃避をしようとする僕をひたすら追い詰めた。


 嗚呼、なぜ僕はこんなにも苦しめられなければならないのだろうか。


 玲香のもとに行きたい。

 仕事から解放されたい。

 あの夢を見ないようになりたい。


 これを満たし、楽になれる何か良い方法はないだろうか。

 考えているうちに、恐ろしいほど容易な方法が思考の中でまとまった。

 なぜ今まで考えもしなかったのだろう。

 もう残された方法はこれしかない。


 

 

 僕は駆け出した。

屋上の鍵を取って廊下を抜ける。


 「どこいくんだよ、そんなに急いで」


 内海の声が聞こえたが、そのまま先へ進む。


 遥か彼方に向かって。


 屋上についた。

 柵に手をかける。


 そう、さっき僕は分かったのだ。


 楽になるには死ねばいい。


 そうすれば玲香の元へ行けるし、仕事から解放されるし、あの夢を見なくなる。

 なんて合理的な方法なのだろう。


 僕は柵を越え、14階建のオフィスビルから飛び降りた。



 堕ちていく。



 地面に到達するまでの瞬間が、僕にはスローモーションのように感じた。

 

 真っ暗な闇の中へ。


 でも、僕にはその中に一筋の光がはっきりと見える。


 玲香があそこにいる。

 玲香が僕を呼んでいるのだ。


 そして、僕は心の中で玲香に向かって叫んだのだ。


 「今行くから。待ってて」


















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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公の状況が、主人公の連想に沿って自然に提示されていて素晴らしいと思います。 玲香の死んでいるシーンが、生々しかったです。 [気になる点] 自殺を思いつくシーン以降がやけにあっさりしてお…
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