第九話:父の悔恨、兄の決意
クロム・オルラウンドにとって、ベラドンナは愛情を示しづらい娘だった。
質実剛健とは聞こえは良いものの、自分が頑固者の気質だと言うのは嫌という程、わかっていた。
理解者である妻、プリムローズでもなければ女性と面と向かって話すのは苦手にしていた。
息子であるオニキスはまだ良い。しかし、娘であるベラドンナにはどんな接し方をすれば良いのかはまったくわからなかった。
更にベラドンナは将来、王家に嫁ぐことが決まっていた娘だ。愛情は確かにあった。面と向かわなければその気持ちを表すことも出来た。
しかし、娘の前ではダメであった。言葉も出ない、表情も作れない。一度、甘やかしてしまえばどこまでも甘やかしてしまいそうになる。
一度でも甘やかして、甘えることに慣れてしまったら。それは王家に嫁ぐ身では弱点にもなりかねない。だからこそ、クロムは厳格であることを己に求めた。
娘を甘やかし、導くのはプリムローズに頼む。自分は娘が進む道が少しでも健やかなであるように勤めるしかない。
政治は、はっきり言えば苦手だ。それでも政治に励まねば娘の後ろ盾は危うい。
幼い頃からの知り合いであり、信頼を預けてくれているフィリップははっきり言えば良き王ではない。有能であっても、彼は良き王とは言えないのだ。
フィリップは元々の性根が王に向いてない。道化師のようなおちゃらけた振る舞いはそんな彼の性根の表れであり、自分を保つ最後の砦でもある。
確かに優秀ではあるのかもしれない。しかし、それは人を惹き付ける類の魅力ではない。利用出来る全ては己も含めて盤上に並べ、その盤面を動かす策謀の王なのだ。
故にフィリップには人心がついて来ない。フィリップもそれをよくわかっている。自分に人望がないことも承知の上で、それを計算にいれてフィリップは王をやっている。
それはフィリップにとって苦行だ。陰謀を巡らせる智略はあっても、それに耐えられる精神を本来はしていないのだ。
だからフィリップは役を演ずる。王という役を、人に侮られる軟弱者の役を、人望なき王を。その裏で冷徹なまでに計算を巡らせながら、涙を隠して。
そんな友を見捨てることはクロムには出来なかった。自分を駒として扱われることも承知で、それでもフィリップの心が死んでしまわないように。
それが王を支えるということだと、クロムは己に課していた。その為には家族に貴族としての在り方を強要しなければならないことを理解しながらも。
生まれた定めなのだ。誰かが国を支えなければならない。支えているのはフィリップで、その在り方に思う所はあれども自分にはその治政を根底から覆すことが出来ない。
ならば、ただ誠心誠意仕えよう。無骨な自分にはそれしか出来ないのだ、と。
(……いいや。結局、言い訳にしかならないのだろう。私は、結果を出せなかった)
第一王子、クラレンスは周囲の甘言に釣られてベラドンナを廃した。平民の女子生徒を害し、王子の政務を代行するという名目で私腹を肥やそうとしていたと断罪を突きつけた。
あまりにも暴挙過ぎてクロムは言葉を失ったが、そこでベラドンナが何も言い返さず、言いなりのまま謝罪を口にしたという方がクロムにとって衝撃だった。
ベラドンナは、疲れ果てていたのだ。卑劣なまでの断罪劇に抗う程の気力もなくなってしまう程に。
王子の政務を代行していたことは知っていた。フィリップは将来、クラレンスが最悪、飾りの王でも構わないとさえ思っていたことも知っている。
誰かが国を担わなければならない。王族の伴侶という免罪符があるなら、煮え切らないクラレンスよりもベラドンナを重用すると。
それで良いのか、という疑念はあった。ただでさえクラレンスは己とベラドンナを比較して腐っていたようにクロムには見えていたからだ。
クラレンスが変わらないのなら、フィリップは容赦なく息子であろうと王太子であろうと切り捨てるだろう。それでも、フィリップには迷いがあった。
彼だって、人の親だ。王ではあっても、人の親なのだ。
(……どうしてこうなってしまったのだろうな)
クラレンスはどうして、自分の娘が気に入らなかったのだろうか。
愛想がないというのなら、それは私のせいなのだと言いたかった。遠くから見守っていた娘は、本当は静かで穏やかな暮らしを望んでいたことをクロムは知っている。
それでもオルラウンド侯爵家の看板を背負い、貴族令嬢として、次期王妃としてあらなければならないと気を張っていたことも。
クラレンスと意志疎通が叶わない中、それでもどうにか政務を滞らせないために自分が休む暇も削っていたことを。
どうして見て下さらないのだ、と。そんな血を吐く思いを心の中に隠していた。
そんな事を言って、頑ななクラレンスがもっと娘を虐げるようになったら。それこそ宮廷で肥えた雀となった貴族たちの餌となってしまう。
クロムには政治がわからない。学べども学べども、自分が向いていないことを突きつけられる。結果、黙して構えることしか出来ずにいた。
クラレンスなど拳一発を叩き込んで婚約破棄を自分から突きつけてやりたい。それが出来ないのは、身分があり、立場があるからだ。
国を継ぐ者でなければ、その首が胴体と繋がっているなどと思うことなどないと思い知らせてやれたのに。
今更嘆いても、何も戻らない。過去にそれを為した所で、何も手に入らない。なんと虚しい現実なのか。
だから、ベラドンナが傷ついて戻った時……もう何も背負わせるものかと思ってしまったのだ。
しかし、ベラドンナが背負うものを捨てたいと願ったものに……自分も含まれていたら、それを自分は咎めることが出来るのだろうか?
「……すまない、ベラ……」
ただの父親になれない私は、お前にとってやはり要らない存在だったのだろうか。
クロムはただ、返らぬ返信を待ち続けることしか出来なかった。その背はとても小さく小刻みに震えていた。
* * *
「……父上は使い物にならない、か。いや、最低限の仕事は片付けてくれているのだ。文句を言うことは出来まい」
ふぅ、と溜息を零したのはオルラウンド侯爵子息であるオニキスだ。彼は邸内の執務室で傷心の父親の代理業務を行っていた。
代理業務といってもクロムの仕事までは代行出来ない。クロムは国の軍部のトップを担う者だ。普段は両方の仕事を掛け持ち、見事なまでに回していた。だが、今は見る影もない。
せめて家のことは代わる、と代理を言い出さなければ使用人たちも困り果ててしまっただろう。昔ながら侯爵家に仕えてくれている執事がいて助かってはいるが、彼だけではいずれ潰れるのが目に見えていた。
オニキスも軍部に身を置く身ではあるが、これといった役職はまだない。オルラウンド侯爵家の子息ということで周囲が気を利かせ、融通されることはあっても親の七光りで役職を貰うつもりはオニキスには毛頭なかった。
自分よりも多忙に働いていたのが父。その仕事の片割れぐらいならば、と思っていたがこれがやはり難しい。将来は自分の仕事にもなるのだからと思って引き受けたが、疲れは隠せない。
「……恨みますよ、クラレンス殿下」
心の中で罵倒を繰り返しながら、自分の妹と我が家に泥を塗り、その出奔の原因を作って我が家を混乱させた元凶への憎悪を募らせる。
オニキスは父であるクロムに比べればまだ柔軟性があると自負している。それは父が政治の間で板挟みになっている姿を見てきた以上、二の舞を演じる訳にはいかないという思いからだった。
しかし、悲しいことにオニキスには立場がなかった。クロムには立ち回れる余裕がない。結果として妹の不遇を知りながらも二人は動けなかった。
オニキスから直接、クラレンスに言っても効果がなかった。強く咎めすぎれば、その不満は妹へと向けられた。卑劣、と思いながらも何も言えずに歯を噛みしめることしか出来なかった。
オニキスの原動力は、家族だ。思い悩み苦しむ父と、そんな父を支えながらも妹を見守る母親。そして健気にも王権の秩序を守ろうと奮闘する妹。
それを守ることが自分のすべきことだと邁進してきた。しかし、悲しいほどまでにオニキスには時間が足りなかった。自分が政治に介入出来るほどの力と立場を得る時間が。
「……くそっ」
傷ついていたことは知っていた。これからは何からも傷つけさせるものか、という思いでいた。けれど、自分たちも傷つけていた側なのだとベラドンナが出奔してから考えてしまった。
確かに口うるさく、会えば会話も王子の近況や政治の話しかしない兄となど仲が良いとは口が裂けても言えない。
そんな自分も、父も、ベラドンナにとっては関わり合いになりたくない相手になってしまったのだと思えば、もう反論も出来ない。
ベラドンナがカジノで大当たりをして、多額の配当金を手にしたという話と、その経緯を聞いて密かにオニキスは絶望した。
ベラドンナの傷を見誤っていたのだと。もっと自分は動くべきだったのだと。せめて、もっと身近になってベラドンナの話を聞いてあげるべきだったのだと。
そうすればベラドンナは身投げのようなことをせずに済んだ。たまたま運が良くて富を手に入れたが、それは偶然だ。妹が奴隷になっていたかもしれないと思えば、腸が煮えくりかえりそうになる。
「報いは受けてもらうぞ、クラレンス殿下……」
最早、忠誠を捧げる相手でも何でもない。フィリップはクラレンスを追い落とすと宣言していた。その報いに自分が手を添えても良いだろう。それがどうしようもない八つ当たりだと理解していても、この怒りの炎は沸々と燃え続けているのだ。
だからオニキスは手を回していた。クラレンスが連れていたという、ベラドンナから虐めを受けていたという平民の少女の素性を調べ上げる。
そして、あの婚約破棄の現場に至るまでに誰がどのようの動きをしていたのかを。執拗なまでに目撃証言や状況証拠を集める。
金に糸目はつけない。金で人の心が動くなら幾らでも払ってやろう。
権威に頭を垂れる者ならば、幾らでも絞り取ってやろう。
必要な情報を、必要な一手のために。
静かな復讐者と成り果てたオニキスはただ、ペンを奔らせる。これは剣にあらずども、向かう心境は戦場と同じなり。
未だ手も届かぬ仇敵を睨み据えながら、オニキスはただ淡々と情報の確認と追加の指示のために目を血走らせるのであった。