第三話:歪みを正すための涙
「貴方様がカーバンクルの創設者……それに名誉永世顧問という肩書き、やはりあの噂は本当なのですか?」
「ほう。どんな噂かな?」
「カーバンクルを支援しているのは――〝ドラゴン〟だという噂です」
ドラゴン。それは畏るべき魔物であり、最も神々に近いとされる生命種。永遠と思える時を生きる世界の覇者。
彼等は気まぐれに世界を壊し、また逆に世界を守りもする。気まぐれで世界を左右してしまえるだけの力がある存在、それがドラゴンです。
ドラゴンの他にも人の寿命を遙かに超える長命種族はいても、ドラゴンほどに力や叡智を備えた存在はなかなかいません。
「ジュエラ様、貴方様はドラゴンなのではないでしょうか?」
「如何にも。ジュエラは人に扮する際の名前、我が名はカーバンクル。玉石のカーバンクルだ」
「玉石とは、その額の宝石を指してのお名前なのでしょうか?」
「その通りだ。まぁ、ドラゴンと言えど私は人の子が可愛くて仕方がない。多少の不敬は見逃す故、自然に接するが良い」
ジュエラ様は私の対面の席に座り、足を組んで私を見つめる。ドレスのスリットから覗く足は、女性として艶美な程に魅力に満ち溢れています。
この美しさも人外であるが故なのでしょう。まさか、ドラゴンなどという天上の存在と対面することになるなんて。流石に表情筋の動きが鈍い私でも緊張が表に出てしまいます。
「さて、ベラドンナだったね? 実に見事な運をお持ちのようだ。その気配に釣られてつい顔を出してしまったよ」
「い、いえ、そんな……」
「謙遜することはない。なるほど、大金貨が十万枚か。生きて行くに困らない所か、一人で使い切るのだって難しい額だな。そんな金額が舞い込んできて戸惑っていると見える」
「……ご指摘の通りです」
感情を見せることは恥とは教えられてた身としては、感情を見抜かれると羞恥心に襲われてしまいます。
けれど、この方を相手にしては私如きの秘匿など筒抜けのように思えて仕方ありません。存在の格どころか、視点すらも遙か上すぎて見下ろされているような気分になるのです。
「成る程。君は、実に愉快だな」
「愉快……私の醜態が、でしょうか?」
「君自身が、だ。必要以上に謙遜する必要はない。いや、謙遜ではないのかな? 無理解とも言った方が正確かもしれない」
「無理解……?」
「君は君自身の価値を軽んじている。確か、この国の王子に婚約破棄を突きつけられ、家からも見放されたと言っていたかな? つまり、君は自身の価値を判断する基準を見失っているのだろう」
ジュエラ様の指摘に私は表情を取り繕うことも出来ず、情けない表情を浮かべてしまったと思います。それは完全なる図星だったからです。
私が図星を突かれて黙っていると、アッシュさんが二人分のお茶を用意してくれました。
「不躾な指摘だったかな。では、まずはお茶を飲んで心を落ち着けよう」
「……はい」
アッシュさんが淹れてくれたお茶はお見事、と賞賛を送りたくなる程に丁重に淹れられたものでした。ホッとする味と香りに私の気も少しは緩んでくれたと思います。
「話を戻すが……君は大変、興味深い。その在り方は酷く歪で、どこに転がるかわからない。まるで針の上に載せてバランスを保っている球のようだ」
「……そんなに危うく見えるということでしょうか」
「危ういな。酷く、危うい」
ジュエラ様は何でもないような口調で、私が危ういと断言されました。
「先程の例えで言ったように、君は周囲から望まれる偶像と、君本来の実像が一致していない環境にいた。その歪なバランスを無理に維持しようとすれば、歪みやすいのは人の方だ」
「……」
「しかし、人が歪めば環境もまた歪むだろう。危うい、と言ったのはそういうことだ。合わない在り方に、在り方を歪める環境。その環境はやがて、己が歪めたものによってまた歪められるだろう。歪さは積み重ねるほどに増していくものなのだからね」
……否定は、出来ません。
環境が合わないからといって、泣き言を言える訳でもない。だから諦めて、妥協して、仕方ないと言い聞かせて私は今の私になりました。
その果てに私の望まれていた偶像は無惨にも砕かれました。他ならぬ、その偶像を望まれた理由であった王子によって。
「無理に抑えて歪む程度なら良い。だが、歪んだ果てに壊れる者は危うい。環境をも壊しかねない程に。憎悪、悲哀、憤怒、そして破滅への欲求」
「……ッ」
「心当たりがあったかな? このように感情というのは正負問わずに強い力を生む。反発が強ければ、その反動もまた大きくなるだろう。だから私から見て、君は破綻寸前だ。たまたま、運が良くて、踏み止まっていられるだけだ」
わざと区切るようにして強調するジュエラ様に、私は何も言い返すことが出来ません。
もし、ルーレットで外していたら。確率的にそうなっていた方が当然なのに、私はたまたまた大当たりをして、破綻を回避してしまったから正気を保っていられると言われればそうなのでしょう。
「正気と狂気の狭間にいる者が最も危うい。君は、君自身の狂気を理解していない」
「……私は、狂っているのですか?」
「狂うとは何も荒々しいもの、目を覆うような気が触れた振る舞いを行うばかりではない。狂うとは、正常ではないということだ。破滅していいと思っていた君は、もう間違いなく気が触れる一歩手前だ。誰かに傷を残したい訳でもない、世界を憎む訳でもない。ただ自分という存在の価値を貶めたい。それは虚無だ。人は虚無に向かって生きることも死ぬことも出来ないものだ。生者である故に、な」
腕を組み、目を細めながらジュエラ様が私を見据えました。
虚無に向かって人は生きることも、死ぬことも出来ない。その言葉が私の胸にすとんと落ちて、私が望んでいたものが輪郭を得ていくようでした。
「――消えたいか?」
「…………そう、思っていました」
消えたかった。いっそ、最初からなかったことにして、苦しみも、怒りも、悲しみも、何もかもまっさらになってしまえば良かった。
誰が悪かったのでしょう。私自身? 私を育てた家族? 私を顧みることがなかった婚約者? 私が傷ついてると知っていた筈なのに私に望んだ王家? 権力を望んで陰謀を繰り返す貴族たち?
何を悪と定めるのか、何が正しいと言えるのか。それを決めるのも……疲れてしまった。私は、生きることに疲れていた。――だから、消えたかったんです。
「現実逃避、それは度が過ぎなければ生きていく上で、心を休めるためには必要なことだ。だが一度その度を過ぎれば、人は地から足を離してしまう。人は空を飛べぬのに心だけが空を舞い、やがて空に溶けて消えるか、地に堕ちるかだ」
「……仰る通りかと思います」
「だからこそ、面白い。君は愉快だとも、ベラドンナ嬢」
「はぁ……?」
一体、私の何が愉快だと言えるのでしょうか。そう思うのはドラゴンという超越者の視点だからなのでしょうか? 私はただ自分が暴かれて、肩身が狭くなる一方なのですが……。
「いいかね。君は自分の今までの人生、そしてこれからの未来、その全てすらもチップにかけて投げ放ってしまったのだ。それは生命に対する冒涜と言い換えても良い。もし、君がそのまま死んでいても私は何も感じなかっただろう。取るに足らない人間が死んだ、ただそれだけで終わる話だ。しかし、君は生き存えてしまった。いいや、言い換えよう。――君は人生をやり直す機会に恵まれた」
ジュエラ様の言葉に、私は心の奥底の芯で強固に固まっていた何かが打ち据えられたような感覚を覚えました。
「何もなかったことにしたいと望んだのは、君は君が持っていた価値を知っていたからだ。それを君が望まずとも、君が大事にすべきだと価値を見出していたからだ。その反動故に、君はなくすことを望んだ。何も持っていない者が、何かを捨てることは出来ない。君が消えたかったのは、君は価値を見出すことが出来る者だからだ」
「……無価値。価値があると思っていたから、無価値になりたかった……」
「未来を捨てるほどの絶望、価値を反転させてしまうほどの虚無だ。それは根深く、それ故に甘美なまでに抗いがたい。だからこそ、一度価値を投げ出してしまった空っぽな君は今、この瞬間に何者でもない。それは世界にまだ生まれていない赤子にも等しい。……アッシュ、グラスを二つ」
ジュエラ様はそう言った後、指を打ち鳴らしました。するとアッシュさんが恭しく一礼をした後、客人のために備え付けられていたグラスを私たちの前に出しました。
そのグラスにジュエラ様は指を向けて、爪で指先を裂いて血を垂らしました。血の勢いは増していき、ワイングラスにジュエラ様の血が満たされていきます。
「人はドラゴンの血が様々な難病にも効く素材になることを知っている。脆弱である筈の人が、獣のように知性がないとはいえ同胞をも討ち倒すことで得た知識だ。かくも生命は可能性に満ち溢れている。人もまた可能性を有している。私はその可能性こそを愛しているとも」
「……あの、まさか」
「行き先が決まるまでここに置いて欲しいという話だったな。良かろう、ならばカーバンクルに君の席を用意しよう。何者になるのか君が定めるまで、私の翼の庇護下に入ると良い。これは誓いの杯だ」
ドラゴンの血なんて、それこそ王族が抱え込むほどの秘薬の材料となり得るものです。それを直接、授かるだなんてとんでもないことです。
あまりの恐れ多さに身体が自然と震えてしまいます。そんな私の手にグラスを握らせるようにして、ジュエラ様が私の両手にそっと手を添えます。
「君は居場所を望み、私は君の価値を認めた。玉石のカーバンクルが言祝ごう。君という宝と出会えた幸運を。故に、私は君が私が認めたままでいる限り、君の守護と自由を保障することを我が血に誓う」
「――――」
「君は、その血に何を願い、何を誓いたい?」
真っ直ぐ見つめられると、ジュエラ様の瞳の美しさに魂までも魅入られそうになる。
それでも意識はしっかりしていました。手が震えて、足が竦みそうになりながら私は声を発しました。
「――生きたい。ただ、生きたいと、願えるように……なりたい……!」
生きなきゃいけない。望まれた人生があるから、与えられた役割があるから。私は生きなきゃいけない。
苦しくても、望んでいなくても、逃げてはいけないと。果たさなきゃいけないと。でも、自分から願った訳じゃなかった。
こんな人生を生きたかった訳じゃない。本当は、もっと穏やかに笑って、健やかに生きたかった。自分が欲しいと、そう思える人生が欲しかった。
そう思う人は自分以外にもたくさんいて、私は貴族で、人よりも恵まれて生きているから。だから貴族という役割を背負わなきゃいけない。でなければ許されない。
国という重みを背負うことが貴族の務め。でなければ、多くの人が苦しんでしまうから。だから、務めを果たそうとしたのです。
――そんな私が見出した価値を無惨にも否定されるぐらいなら、最初から価値などなかった方がずっと良かった。
捨てて良いと言うなら捨てさせてください。貴族の義務も、王妃の責務も、国を守るという使命も。
全部、全部、大事だからって守ったのに。頑張ったのに。せめて報われて欲しいと、そう願うことも許されないなら、私じゃなくて良かった。
最初から私じゃなくて良いなら。だったら私がなりたかった私を、私が望み歩めた筈の人生をください。
「人の子よ。瞬きの間ぐらいにしか生きられぬ儚き者よ。どうか眩く、輝かしく、星のように無明の闇に生きた証を残すのだ。それを為せた時、私は君が産まれた幸運を心より喜ぼう。私の喜びのために、自身の幸福のために――生きろ」
促されるように私はジュエラ様の血に口をつけます。それは血、けれど言葉には言い表せぬ味が口の中に広がりました。
強く、色褪せない大いなる命の恵み。それが身体に満ちていき、身体に溜まっていた澱みが洗い流されていくようでした。
思いを吐露したからなのか、それとも大いなる恵みが身体に染みたのか。私の頬に涙が何度も伝っていきます。身体の奥底から、叫び出したい衝動が溢れてきます。
「泣くといい。感情は涙を呼ぶ。だから泣いていいのだ。生まれた時から、君たちは知っている。やり直すというのなら、いっそ生まれた時からやり直せば良い」
その言葉を切っ掛けに、私はジュエラ様の手に縋るように額をつけて泣き喚きました。
感情を押し殺せぬ者、表に出す者は失格と言われていた。だから涙なんて、私には流せないものでした。
けれど、今、この涙が流れ落ちていく感触が、どうしようもないほどに心地良かったのです。抑えきれぬ声を張りあげながら、私はただ涙を流し続けました。