ナスと苺タルト
バルコニーから室内へ戻り、階段を駆け下りる。すれ違う人々の視線に気づいて、慌てて歩を緩めた。もどかしく思いながらも淑女らしく歩いて場内を見て回る。
コナーの行きそうな場所を順に探したけれど……そのどこにも彼の姿は無かった。
代わりに見つけたのは――。
「あら、ごきげんよう。レイチェル様」
見て見ぬフリをしようとしたのに、はっきり声をかけられてしまった。
「……ごきげんよう。クソ味噌ナ……」
「クソミソナ?」
「ド腐れ……」
「ドグサレ?」
ん゛ん゛……取り乱した。咳払いして仕切り直す。
「ごきげんよう。カミラ・オタンコナ……オールス嬢」
引きつった笑みに、相手は余裕たっぷりの妖艶な笑みを返した。
「何かお探しですか?良ろしければ力になりますわ」
「け、結構です」
「そんなこと仰らずに。私、探し物の行方を知ってる気がいたしますの」
クソ味噌ド腐れオタンコナスが、羽の付いた豪華な扇で口元を隠し、クスクスと嫌味な笑いを漏らす。
……コナー!!女の趣味、悪すぎ!!!
暴れようとする拳を反対の手で掴み、何とか抑え込む。
「ず、随分と余裕があるのですね?私の心配より、ご自身の心配をなさるべきでは?」
「ホホホ。心配しておりますわ。強情な女が見苦しく、自分を捨てた男に縋り付かないか」
反射的に足が浮き、ドレスの裾が翻る寸前で堪えた。
ここで顔面を蹴り上げようものなら、相手の思うツボ!!落ち着いて、落ち着くのよ!!
『落ち着いて、レイチェル。ほら、今夜のデザートでも数えて受け流すと良い』
顔が歪んだ。
こんな時まで……コナーを思い出す。
「あら、いかがなさいました?もしやレイチェル様の周りにも、そんな迷惑で恥知らずな方が?」
恥知らずはおまっ………………ブラウニーが1つ、ブラウニーが2つ、ブラウニーが3つ…。
「本当、嫌ですね。そんな女は捨てられて当然なのに」
オレンジゼリーが1つ、オレンジゼリーが2つ、オレンジゼリーが3つ、オレンジゼリーが……美味しそう。
「女は引き際が肝心ですもの。追いすがる醜い姿を晒しては、男性は更に逃げて行くばかり」
苺タルトが1つ……あ、最後の1つだ。
考えるより先に皿を取り、苺タルトをキープする。
「……ねぇ、レイチェル様。聞いていらっしゃる?」
「え?あ、はい。貴女の将来が心配ですね?」
パチンと扇を閉じたナス嬢に鋭く睨まれる。
うぅん、途中から話を聞いていなかった。やっぱり、ケンカを吹っ掛けられた時はデザートに限る。
「私の将来は明るいですわ。いくら誰かさんに邪魔されても、心を決めて下さった殿方がおりますので」
「……それは、どうでしょうか」
タルトにフォークを刺し、二等分した。
少し崩れて見栄えが悪い方の、更に半分を口へ運ぶ。ほどよい甘さと酸味が広がった。美味しい……。
最近、嫌なことばかりだけれど、こういった小さな幸福の積み重ねが大事だと思う。
タルトのくれた余裕を拠り所に、言ってやりたかった事を言ってやる。
「カミラ嬢、貴女はどこまで知ってるのかしら。コナーと私との婚約に関わる、契約について」
「……契約?」
「えぇ。もし、貴女が望み通り……………………コナーと結婚したとします」
砂を噛んだような心地がした。例え話としてさえ想像したくなかった。
残り、自分の分のタルトを食べ切って口直しする。
「コナーの契約不履行により、分かりやすく言えば……多額の違約金が発生します。お二人、いえ、両家ではとてもとても払い切れない程の」
ナス嬢が再び扇を開き、羽で口元を覆い隠した。けれど眉間に寄るシワまでは隠せていない。
思った通り、彼女は何も知らなかったようだ。
「歌劇ならば愛があれば何もいらない…などと言いますが、現実はどうでしょう。私財全てを投げ打ち、路頭に迷っても、同じ事が言えるでしょうか」
好機と見て追い討ちをかける。
これを聞いて、身を引いて欲しい。ううん、きっと引いてくれる。誰だって自分が可愛い。身なりから言って、彼女は貧しい暮らしなど耐えられそうにない。
鼓動を耳元で感じながら反応を待つ。沈黙がやたら長く感じた。
「………………知りませんでした」
ぽつり零された言葉が、胸に歓喜の渦を呼び起こす。頬が一瞬で上気した。
「で、では!」
「コナーがそこまでの覚悟で、貴女と別れる選択をしたなんて」
パチンと閉じられた扇。その先にある紅い唇は、弧を描いていた。
「我が身を顧みず、愛を貫く!これこそ正に真実の愛ですわ!」
上向いて行く彼女の声色が、私を奈落の底へと突き落とす。
「ま、待って、冷静になって。コナーが破産するのよ?平民に身を落とすかも知れないし、その日生きるため働き通しになるかも……」
「構いませんわ!」
パチン、再び扇の不快音が響いた。
「労働して生きる実感を得る。良いではありませんか。それに私、身分など捨ててしまいたいのです。男爵令嬢のままじゃ、叶えられない夢もございましょう?」
あまりの前向きな反応に耳を疑う。常識がないとは思っていたけれど、ここまでなんて!
「ちょ、ちょっと!現実を甘く見過ぎてる!!絶対に後悔――」
「ホホホ。レイチェル様は、身分を捨ててまで追いかけられる恋じゃなさそうですね」
は、はぁ?!!身分を捨てて追いかける??
そんな!そんな…………の、考えた事も……なかった…。
明らかにナス嬢の主張の方がおかしいのに、閉口してしまう。彼女は構わないと即答できた。それが、真実の愛なの?
「随分と彼に執着してるようですけれど、まるでオモチャを取られて駄々をこねる子供のよう。あら失礼。レイチェル様を子供のようなどと」
扇を開きクスクスと笑われる。
私は……コナーが好き。でもそれは、愛じゃない?
「カミラ、待たせたね」
後ろから掛けられた声が、やたら澄んで聞こえた。
――コナーだ…!
近づく靴音が鼓動を速くする。
けれど、その音はあっさり私を通り過ぎた。予定調和、ナス嬢が顔を綻ばせる。
「貴方を待つのも至福の時間ですわ」
寄り添い合う二人には、私など見えてないかのよう。事実、彼は一度も私に目を向けていない。
そのまま彼女をエスコートして立ち去ろうとする。
「ま、待って、コナー!」
思わず腕を掴んだ。
幻ではない確かな感触に、胸がジンと熱くなる。彼に触れるのは随分と久しぶりだ。
「…………レイチェル」
コナーの温かな指が添えられる。
そのまま……――手を振り払われた。
「ごめんね。話があるなら、また今度聞かせて欲しい」
柔らかな微笑みに不釣り合いなほど、無感情な瞳。彼の藍色の瞳を色味通り冷たいなんて思ったのは初めてだ。
拒絶、されている。私の話は、聞きたくないと。
この人は……誰?まるで知らない人みたい。
「ホホホ、それでは失礼しますわね、レイチェル様。賢明なご判断をされると信じております」
ナス嬢だけが会釈し、去って行く。
背中を眺め続けてもコナーが振り向く事はなく、ほどなくして人混みに消えた。
知らず視線が落ちて俯くと、苺タルトが目に入った。何も考えず癖で半分こにしたタルト。これを食べてくれる人は、いない。
再認識した現実が重しとなって全身へのし掛かる。
俯いたまま、そこから一歩も動けなくなってしまった。