悪食令嬢と書きかけの小説(下)
小説を読み終えたあと私――高屋房は何とも言えぬすっきりせぬ気持ちを抱えていた。
その理由は明瞭で、作中の誰が佐竹龍興を殺したのか明らかにならなかったからだ。私は彼女――大上雪子ほどこの手の小説に含蓄があるわけではないがそれでも本作が不出来であるように感じた。
知りうる限りみすてりぃというものは事件が起こり、そこで生じた謎を探偵や官憲といった人々が証拠と推論を積上げて証明するものである。だというのにこの小説は、目撃者の独白に終始して肝心の犯人がぼやかされている。確かにこれでは続きがあると思われても仕方がない。
「これはまた面白くないお話でしたね」
大上は刷紙を卓上に投げ捨てるように置くと不満げに目を細めた。彼女の様子はあからさまに興味を失っており失望したようであった。彼女は少し辺りを見渡すと「喉が渇きましたね」と急須をもって退席した。
私はこの機会に九木重政に疑問をぶつけた。
「大上さんのことをスノウと愛称で呼ばれておりますが、随分と親しいのですか?」
九木はこの質問が可笑しかったのか押し殺したような笑い声をあげた。私はそれが勘に触り少し自分が不機嫌になったことを自覚した。彼はそれを察したのか、すまないと謝るとこちらに目を向けた。
「後見人になったのが一年前だ。彼女のことを大上と呼ぶと兄である実次と重なるので雪子と最初は呼んだのだ。だが、彼女は私はあなたと親しいわけではありませんので止めてもらえますか、と言われてた。かと言ってこちらも大上と呼ぶのは負けた気がする。だから雪だけをとってスノウと呼ぶことにした」
「さぞ嫌がったことでしょう」
私は姿が目に浮かぶようであった。彼女は飄々(ひょうひょう)として頑固である。
「ああ、半年は返事もしてくれなかった。友人の妹に何かあってはいけないとこちらが気を使っているというのにスノウはまったく気にしない。だから僕も変な気遣いはやめたのだ。僕がペンジュンを見せたい、と思えば引きずってでも連れて行った」
「猫ではないのですから……」
「猫の方がよほど楽だった。スノウは最後まで抵抗して筆や本、終いには文鎮までが飛んできた」
「その割にはいまはちゃんと返事をしていますね」
そのまま貝になっていてもおかしくない彼女が口を聞いているということは何かがあったのだろう。私が九木の返事を待っていると扉口の方で大上が微笑んでいた。
「その方の醜聞を解決するために止む終えず口をきいただけです。級長、その人が人鳥を月島で繁殖させているのは先ほど話しましたね」
急須と茶碗を一つだけ盆に載せた大上は席に戻ると私と彼女の茶碗に紅茶を注いだ。それから残った茶碗と急須を九木の前に置いた。どうやら彼の分のお茶は淹れてやる気がないらしい。
「ありがとう。写真で見たあの不思議な鳥よね」
写真に写っていた奇っ怪な生き物を思い出した。白黒の身体に極端に短い足。翼はずんぐりとしておりとても飛べるような形ではない。
「あの人鳥は魚を食べるのですが、偉そうにも鯵や秋刀魚、鰯といった人と同じものを食べるのです。丸呑みで味など気にしないくせに生意気なことです」
どれもよく食卓に並ぶものだ。先年の日露戦争のときには軍が買い占めたために鰯や秋刀魚が市場から消えた。屋敷に来る棒手振りも売るものがなければどうしようもない、とさじを投げるほどであった。
「大上さんだって先ほど餡ぱんを丸呑みしようとして失敗したでしょう」
「そんなことありません。私は食べ物に敬意を払い。美味しいあいだに食べきろうとしただけです」
上手く言い逃れるものだが、のどに詰まられているあたり大上とペンジュンは大差ないのかもしれない。私が不貞なことを考えているのを知ってか知らずか大上は咳払いをひとつすると調子を整えた。
「話がずれましたが、人鳥は一日に二斤もの魚を食べるのです。あそこには十羽ほどいた覚えがありますからおよそ三貫もの魚が毎日消費されていたのです。呆れてものも言えぬ量です」
写真で見たペンジュンの大きさは膝よりも少し大きいくらいだった。それが十羽で三貫(約十一キロ)とは大層な大食漢である。しかし、ペンジュンがいくら魚を食らおうとも九木の醜聞になるようには思われない。
「生き物が食べ物を食べるのは自然なことです。それが悪いだの言う人はいますまい」
「そうです。あの奇態な生き物が餌を食べることは何ら問題がありません。ですが、それが盗まれていた、となれば問題です」
そう言うと大上は先程から黙っている九木の方をちらりと見た。彼は口を真横に結んだまま黙っていたが、大きなため息と一緒に語り始めた。
「うちでは佃の漁師と契約をして毎日魚を三貫届けさせていた。まず飼育場の出入口で守衛が計量をして三貫あることを確認する。次に守衛から二人の飼育係が受け取った魚をペンジュンそれぞれに二斤づつ行き渡るように仕分けるのだ。だがあの日、僕とスノウが飼育場を尋ねると飼育係や守衛がひどく焦った顔をした。なにごとか、と訊くと魚が足りぬ、というのだ。帳簿をみれば確かに出入口では三貫の仕入れがあったと計量が記録されていた。だが、飼育係たちが仕分けた魚をみれば四斤(二.四キロ)ほど足りないのだ」
不思議なことである。出入口で三貫あったものが飼育係に渡るまでに四斤少なくなると言うのはありえないことだ。簡単に考えれば守衛がくすねた、と考えるべきなのだろうがそれでは飼育係にすぐに看破されるに違いない。
「もしかすると漁師が魚の重さを偽装したのでは?」
「例えばどんな風に?」
九木が無表情に訊ねる。
「魚を入れた器に海水を多く入れて誤魔化したのではありませんか」
「確かにそれならば重さを嵩増しできただろう。だが、残念なことに守衛は魚を笊に上げてから計量するようにしていた。だから海水の重さが影響したわけではない」
「では、残されているのは二人いる飼育係のいずれかでしょう」
私が言うと九木は首を左右に振った。
「二人いる飼育係のどちらかが盗んだのならもう一人がすぐに気づいたはずだ。でも彼らはそんなことはなかった、と言った。つまり四斤の魚は何処かに消えたのだ」
鳥であるペンジュンでさえ飛べぬというのに魚が飛んで消えるとは思えない。何か方法があるはずだ。だが、守衛でも飼育係でもないとすれば誰が犯人だというのだろう。まさかペンジュンが仕分け前の魚を食べたのだろうか。
私が考え込んでいると大上が意地悪げに言った。
「魚は敵から逃れるために群れをつくるのだといいます」
「まさか。だから醜聞と言ったのですね」
「そうです。守衛でも二人の飼育係でも誰か一人が行ったなら気の迷いや質の悪い者が混ざっていた、と笑い飛ばせるでしょう。ですがこのときはすべての人が魚を盗んでいたのです」
私は目を丸くして驚いた。仮にも九木子爵家に仕える人間である。それが揃いも揃って魚を盗むなど考えられないことであった。九木子爵のもとなら賃金が安いということもなかったはずだ。
「なぜですか。それほどまで彼らの懐は厳しいものだったのですか?」
「いえ、きちんと俸給は支払われていました」
「ではなぜ?」
大上は茶碗を両手で握るとゆっくりと口をつけた。私もそれに釣られて紅茶を手にとった。今度は最初からほどよい熱さで私は少しだけ気を落ち着けることができた。
「それはペンジュンにやる魚が勿体ないと思ったからですよ」
「彼らは十分な報酬を得ていたのでしょう。ならそのような悪事に手を染めずに買えばよかったではありませんか?」
「金があっても買えぬということもあります。昨年ならなおさらでしょう」
言われて私は口から声が漏れるのを押し殺した。そうだ。例年であれば東京湾で取れる魚は東京の人間の胃を満たしただろう。だが昨年だけは事情が違う。魚がなかったのだ。
「日露戦争ですね。缶詰や乾燥食材を作るために軍が魚を買付けたから彼らは魚を買えなかった」
「そうです。この国の食料の多くが戦争に傾けられた。江戸前の魚は一部を除いて軍部に向かっていたのです。そこの人のように華族でもなければ魚も満足に手に入れられなかったのです」
私は理解した。彼らは思ったのだ。どうして自分たちは魚を食えないのにこのペンジュンという生き物だけが魚を食っているのか、と。そして、皆で分けたのだ。だから、消えようのない魚がいなくなったのだ。
「そう。スノウに言われて僕も初めて気づいた」
自ら茶碗に紅茶をいれると九木は苦々しそうに紅茶をすすった。
「級長、そのあとこの人が言ったことが面白かったのです」
大上は片頬に刃のような冷笑を浮かべた。反対に九木は聞きたくもないというように顔を背けた。
「何と言ったのです」
好奇心に負けて私が訊ねると彼女はわざとらしい低い声をだした。
「消えた魚は飛魚だったのであろう。飛んで逃げたとしても可笑しくはない。佃の漁師は腕がいい。今後も活きがよくて逃げる魚がいるかもしれない。二斤ほどなら仕方がないがそれ以上は減らぬように気をつけてくれ」
台詞の後半には彼女は笑いを堪えていてひどく聞き取りにくかった。だが、この窃盗の件で誰かが裁かれたり、ということはなかったらしい。私がほっと胸をなでおろすと不機嫌な顔をしていた九木が「それはどうでもいい。いまは小説だ。こいつの謎を解いてくれ」と不貞腐れた声を上げた。
かの小説の犯人は二者択一であるがそれを特定するのはいささか難しい。
龍興を橋の上で絞め殺したのは志波園子か本居夕子のいずれかであることは疑いない。遺書の中で佐竹龍二は書いている。
『南から女の陰がたった』
作中で出てくる女性は園子か夕子のいずれかである。
だが、それ以上となると具体的な記述がない。女が来たのは南からだとあるが、園子の家がある深川も夕子の住む神田も橋の南側であり、どちらもあり得るのだ。
「園子にしても夕子にしても浅草に龍興がいることを知っていた、と思います。園子は龍二から兄がためしが橋で待っていると聞かされていましたし、夕子にしても龍興が浅草に隠れているのは使いから知らされていたでしょう。さらに家まで送ってくれた龍二のあとをつければ橋に行き当たるのは容易です。これでは特定なんて難しい、と言わざるを得ません」
私にはこの小説に明確な答えが用意されている気がしなかった。大上が言ったとおり書いた当人も犯人が分からないのではないかと思うほどだ。私の言葉を聞き終えた九木は「だが、彼は読めば明らかであると言ったのだ。なにか見落としがあるのではないか」と食い下がった。
大上はそれを他人事のように聞き流したあと薄い唇を開いた。
「級長が言うように女が来た方角からは絞りきれない、というのは事実です。ならば殺された龍興の様子から犯人が誰であるか、推察するのはどうでしょう?」
なるほど確かに龍興が殺されるにあたって不可解な行動があったのは確かだ。
「大上さんはなにか考えがあるの?」
「いえ、今の私には何もありません。級長からどうぞ」
大上は私に微笑むと卓上に投げ出されていた刷紙を開いた。
「殺された龍興は首に帯を巻かれても抵抗しなかった。そこから殺したのは夕子なのではないでしょうか? 彼女は橋の上で彼に結婚を迫った。だが、龍興は園子が忘れられない、と拒否した。それに腹を立てた夕子は彼の首に帯をまわして絞めた。龍興が抵抗しなかったのは自らの不義理を悔いたから」
刷紙をじっと睨んでいた。大上は「それも十分にあることです」と感嘆の声を上げたがさらに言葉を続けた。
「ですが、現れたのは園子であり彼女は龍興が金銭のために本居家を頼ったことを責めた。金さえ借りねば彼女たちは一緒にいられたはずだった。でも、彼が下手を打って借金をしたことで関係は崩れた。龍興はただただ謝るばかりで園子は、怒りにまかせて彼を絞めた。龍興は板挟みに苦しむよりは愛する者の手に掛かりたいと抵抗しなかった、とも考えられます」
大上は顔色一つ変えず私の考えの対案を出した。私はそれを半ば納得する形で受け入れた。それほどに彼女の話はありうるものだったからだ。だが、私のものも同じくらい起こりうることだ。それに関して私には自信があった。
「それではやはり答えは出ぬ、ということか。しかし、それではなぜ彼はあのようなことを言ったのか分からない。読めば明らかだ、といったのは強がりだというのか」
九木は頭を抱えるように額に手を押し当てた。この小説を書いた大砂金鶫という人物は随分と九木と親しいのだろう。そうでなければ彼がここまで大砂金の言葉を信じるということが理解できない。
「そこまで仰るならその大砂金氏にもう一度、お尋ねになればよろしいでしょう」
大上は完全に興味を失ったのか刷紙を閉じると、九木の手元にそれを戻した。彼は刷紙を受け取るとじっと表紙を見つめたが「いや、それはできない。彼は居らぬのだ」と深刻そうな顔をした。
もしかするとこの大砂金は亡くなっているのだろうか。だとすれば彼の遺作に何らかの答えをだしたいという九木の気持ちは分からぬではない。しかし、この小説はみすてりぃというにはいささか不出来である。答えなどいくらでもこじつけが効くのだ。
私は考えを切り替えるために紅茶を喉に入れた。ぬるくなったそれは先程よりも渋みがあったが今の気分を切り替えるには良い気がした。大上はといえば口寂しくなったのか餡ぱんの入った紙袋を見つめていた。だが流石の彼女もこの短い時間で二つ目を食べるのは難しいのか手を出す様子はない。
九木は刷紙を開くと該当の文章を穴が空くのでは心配になるほど凝視している。
「級長も紅茶に慣れたようですね。もう一杯淹れましょうか?」
「そうね。少しいただこうかしら」
私が茶碗を差し出すと大上が急須を手にした。だが、残っていないのかあまり出てこない。そこで大上がさらに急須を大きく傾けた。
「大上さん、そこまで! それ以上傾けてはいけません」
私が慌てていうと大上は持っていた急須の角度を緩めた。
「大丈夫ですよ。あともう少しいけます」
「嘘おっしゃい。もっと傾けたら逆さまになるところです」
「逆さま、というのは言い過ぎで……」
彼女は何か言いかけたまま動きを止めた。そして、急須を卓上に無造作に置くと九木から刷紙を奪い取った。「何をするんだ。スノウ」と彼は抗議の声をあげたが大上の耳には入らないのか。少しつり上がった大きな瞳で文章をさらうと、押し殺したような笑い声をあげた。
その様子を私と九木は何事かという表情で眺めた。
ひとしきり笑い終えると大上は、鮮やかな笑顔をこちらに向けると「まったくつまらぬ事を考えたものです」と刷紙を九木に突き返した。彼はそれを受け取ると何のことだと言わんばかりに首をかしげた。
「はじめから犯人は確かに示されていました」
「一体どこに書かれていたと言うんだ?」
九木は刷紙を開く。私から見ても犯人が書かれていたとは思えない。だが、大上には何かがわかったらしい。
「最初です」
「最初?」
私と九木は刷紙を覗き込んだ。小説の書き出しは『ためしが橋という橋がある』で始まっていた。これのどこが犯人に繋がるのか、私には分からない。それは隣にいる九木にしても同じらしい。
「そもそもこの小説はとてもくだらない思いつきで書かれていたのです。作者からすれば読めば明らかだ、と言いたくなるような単純な事。故に彼は解答を書きたくなかったのです。それは蛇足以外の何者でもないのですから」
「スノウ、どういう意味だ?」
「分かりませんか。この作品の表題はためしが橋、逆さまから読むとしばがしめた、志波が絞めたになります。これをやりたいがためにこの小説は書かれたのです」
いまにも鼻歌を歌いだしそうな満面の笑みで彼女は胸を張った。私と九木はそれを唖然としたまましばらく言葉が出なかった。そのような簡単なことがあるのか。読めば明らか、というのはそのような意味であったのだろうか。
「大上さん、確かにそう読めますが偶然ではないのですか?」
「偶然ではありません。意図が働いています。級長が見ていた書き出しにもそれを示すものがあります」
『ためしが橋という橋がある』
なんの変哲もない文章だ。だが、答えが一度示されれば一変する。私はようやく作者の作為に触れた気がした。
「振り仮名ですね」
「そうです。普通に考えて橋なんて漢字に振り仮名はふらぬものです。ですが、この作者は口説いくらい何度も挿入しているのです。つまり、どうしてもそうしたかったのです。そうなれば答えは自明です」
もう一度、読み直してみる。作中に出てくる橋という漢字の多くに振り仮名があり、橋をばしとしているものはためしが橋だけだった。他の橋ははしが当てられている。
「こんな安直な……」
九木は後ろから頭を殴られたように驚いていた。その様子が楽しくてたまらないのか大上はこちらを向くと口だけを動かして「やりました」と微笑んだ。私はそれを微笑ましく思った。
「さっ、答えは得たでしょう。私は忙しいのです。お帰りください」
そう言うと大上は半ば放心状態の九木を屋敷から追い出すと不敵な表情で「もし、作者にお会いすることがありましたら本当にくだらないことをなさったものですと雪子が申しておりました、とお伝えください」
玄関の扉を閉じると大上は、私の方を向くと「お茶の続きをいたしましょう」と気の抜けた声を出した。
私は一つの疑問を彼女に向けた。
「あなたはあの小説の作者を知っていたのですか?」
しばらくの沈黙のあと大上は「作者の名前は大砂金鶫。並べ変えれば大上実次になります。私の腹違いの兄です」と吐き捨てた。それはいつもの彼女と違い複雑な感情が入り混じっているように見えた。