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悪食令嬢の貪欲で優雅な日常  作者: コーチャー
悪食令嬢と書きかけの小説
7/20

悪食令嬢と書きかけの小説(上)

 文明開化の七つ道具というものがある。新聞に郵便、瓦斯灯がすとうといった物が最たるものだが、それらに並んで一つだけ食べ物がある。あんぱんである。西欧せいおうの主食であるぱんに餡子あんこを包んだこの食べ物はどこか懐かしいがどこか新しい味がする。


 人に言わせれば、私――高屋房たかや・ふさなども和と洋の合わせもので餡ぱんのようなものだと断じられる。しかし、どうなのであろうか。明治の東京に生まれて江戸を知らぬ私のような者の餡は和なのか洋なのか。自分で考えても不確ふたしか曖昧あいまいな気がする。


 私がそのような不安を心に抱いていても、目の前にいる少女には気にならぬらしく実に幸せそうな顔で手土産みやげの餡ぱんを頬張っている。彼女は大上雪子おおかみ・ゆきこと言う。名前のとおり白い肌は触れれば散ってしまう細雪ささめゆきのように繊細で美しい。西欧風に編上げた髪は濡鴉ぬれがらすのような深い黒で艶々としている。


 それだけに飢えたけものが肉に食らいつくように眼を爛々(らんらん)とせた彼女がぱんと向かい合う姿というのは勿体もったいないものだ。私は小さくため息を吐き出すと彼女に言い聞かせる。


「別に餡ぱんは逃げやしませんよ。足もなければ腕もないのですから」


 たしなめる私を野獣の瞳で見ると、彼女は口の中を整理してから声をだした。


「ぱんには耳があるくらいです。こちらが気づかぬうちに手足がにょきにょきとえて来るかもしれません」

「百鬼夜行ではあるまいしそのようなことありませんよ」


 私の言葉など右から左に流れていくのか大上がぱんにかぶりつく。そして一度二度と咀嚼そしゃくしたときでした。彼女の背が大きく跳ね上り押し殺したような咳が聞こえた。


「ほら、言わぬことですか。ぱんのような乾いたものを詰め込むからです」


 このまま放っておいたほうが本人のためかと思ったが、目の前で苦しむ姿というのはどうにも看過かんかできなかった。私が背をさすってやるとどうにか峠を越えたのか大上の息が楽になった。


「……やはり手足が生えていたかもしれません」


 目元に涙を浮かべていう彼女に私は呆れた。


「生えるものですか。そもそもあなたがお茶も用意せずに食べだすのが悪いのです」

「そうですね。お茶が良いですね」


 一人で納得した顔をすると大上は「用意してまいります」と言って部屋をあとにした。部屋に残された私は少しの苦笑いと可笑しみを感じながら辺りを見渡した。大上の屋敷は西洋造りでガラス窓が多い。我が家などは維新いしん前からの旗本屋敷であり外からの明かりは障子しょうじをとおして入ってくるのでここまで明るくない。


 屋敷一つにしても洋のものもあれば和のものもある。もしかすると人々が夜明けという今はまだ夜と朝の狭間はざまなのかもしれない。だとすれば狭間に産まれた私などは目覚めてもいないのだ。


 大上が出て行ってしばらくすると甘い葡萄ぶどうのような香りがした。


 甲州こうしゅうでは古くから葡萄の栽培が行われており松尾芭蕉も『勝沼や馬子も葡萄を食ひながら』とうたっている。だがこの香りはそれともどこか違うのである。そんなことを考えていると大上が急須きゅうす茶碗ちゃわんを盆に載せて帰ってきた。


「粗茶ですが」


 違和感があった。

 茶碗の中が紅い。茶碗の地がこのような色なのかとよくよく見るが、碗は萩焼はぎやきで灰色をしていた。つまり、お茶がこのような色をしているのである。どうやら先程から漂っている香りはこの液体から発せられているらしい。


「また変なものを」

「紅茶です。良い香りでしょう」

「それはそうですけど色が」


 お茶といえば緑である。それが紅いというのはどことなく抵抗がある。


「西洋ではお茶といえばこちらが主流だそうです」

「お国が違えばお茶も変わるものね」


 大上が茶碗に口をつけるのを見て私もおそるおそる口をつける。確かに香りはすこぶる良い。私にはすこし熱いが、味は普段の緑色をしたお茶と比べるといっそう渋い。だが、悪くはない。甘味がほとんどないから餡ぱんのように甘いものと一緒に飲むにはよく合うかもしれない。


「これで落ち着いて餡ぱんを食べられるというものです」


 楚々(そそ)とした仕草しぐさで大上が餡ぱんを手にする。この姿だけを切り取れば彼女は見目麗みめうるわしいご令嬢れいじょうにしか見えないに違いない。


「そもそも、あなたが食い意地をはって頬張りすぎなのです。良妻賢母りょうさいけんぼかがみになるべき女学生であるというに自覚がないからこのようなことになるのです」

「腹が減っては戦はできぬ、というではありませんか」

「武士は食わねど高楊枝、とも言います。清貧や体面を重んじるのも大切なことです」

「私はお武家様ではないので、腹八分目くらいでご容赦ください」


 大上はいたずらげに微笑むと餡ぱんを口に運んだ。確かに大上の実家は丹州たんしゅうの豪商であり武家ではない。そもそも武士というものが今の世にはない。だが、かつて士分しぶんであった家はいまだに武家と言われているのも事実である。


 かくいう私も人から言わせれば旗本のお嬢様である。もう旗本など名ばかりであるのに不思議なものだ。


「では、虎は飢えても死したる肉を食わずに変更しましょう」

「あら級長、私は虎ではなく大上です。おおかみ死肉しにくとて食べるものです。肉は腐りかけが美味しいと言うのは事実のようで、東北や蝦夷えぞでは狩りで獲れた鹿や鳥を捌いて表面の水気みずけがなくまで乾かす、枯らしという方法があるそうです」


 そういう知識をどこから持ってくるのか大上は、恍惚こうこつとした表情でまだ見ぬ肉について語った。私を含めて多くの子女は牛や豚を食べることを忌避きひはしないが、好んで食べるということはしない。その点において大上が口さがない者から『悪食令嬢』などと呼ばれるのは仕方ないことかもしれない。


「食あたりしても知らないわよ」

「大丈夫です。こう見えても私はお腹はつよい方なのです」


 たぬき腹鼓はらつづみを打つように彼女は自らの細い腰元を叩いた。あれほどの食欲があって大上はこちらが心配になるほど細い。柳の木のように吹けば揺れるそんな印象があるのだ。


「普通、食事というものはお腹が痛くなるかもと心配しながらするものではありません。食べ物に感謝して活力をえるために体に良いものを食べるのです」


 話していると口が渇いた。私は茶碗にもう一度口をつける。紅茶は温度が下がっていて私好みであった。そんな私を見て大上が何かを言おうとしたときだった。階下の玄関で大きな声がした。


「スノウ。スノウ、いるのだろう!」


 それは男性の声で張りのあるとく通るものだった。美声とは言わないが、人の気分を害すような音ではなかった。だが、その声を聞いた途端とたんに大上はひどく嫌な表情を浮かべた。彼女がこのような顔をするのは珍しい。


「気が滅入ることです」


 彼女は誰に言うでもなく小さな言葉をこぼすとすっと立ち上がった。その様子が気になり私も彼女のあとに続く、二階の談話室から螺旋階段らせんかいだんをくだり玄関前に向かうと洋装の男性が立っていた。細身で足が長いので洋装がよくにあっている。


 我が家の兄では足が短くて滑稽こっけいに見えるに違いない。


「年頃の女性の住まいに土足で上がり込む、というのはどのような要件でしょうか?」

「スノウ、息災そうだな。土足というが君の家は玄関はあっても式台しきだいがないから脱ぎようがない」


 男性は大上を見つけると喜ぶわけでもなく無感情に応えた。


「では言い方を変えます。約束もなくご訪問されたのはなぜですか?」

実次さねつぐが留学中、僕はスノウの後見人こうけんにんだ。近くを通れば顔を出すのが普通だろう」

「それはあの人と勝手にお決めになったことです。私の予定のなかにあなたとお会いすることは含まれておりません。お帰りください。いまだってお茶の最中さいちゅうなのです」


 大上が睨みつけるが男性はそんなこと一切気にしないらしく「それはいい。ちょうど喉が渇いていたのだ」とつかつかと玄関を抜けて二階へと登って行く。私はそれを唖然あぜんと見送った。大上はひどく怒った様子で男性のあとを追った。


 少し遅れて私が談話室に戻ると男性は椅子の一つにどっかりと座っていた。


「なんだ紅茶か。どうせなら珈琲こーひーはないのか、スノウ」

「あってもあなたには出しません」


 男性は「まぁいいさ」と言うと勝手に茶碗を掴むと一気に飲み干した。それは大上が使っていたものであった。この男性は物事に頓着とんちゃくしないのか、ただ粗暴そぼうなのかいまいちわからない。


「お茶も飲まれたのでしたら、早く出ていってください」


 大上が階段の方を指差していうが、男性はそんなこと気にしないように自分で急須から茶碗に紅茶を注いだ。そして、私の方を見ると初めて微笑んでみせた。


「君はスノウの友達かな。大変だろう。涼しい顔をしているくせにすぐに怒るし、妙なところで律儀りちぎだ」


 大上が直ぐに怒るかはあまり分からないが、律儀であることは間違いない。言動や行いがずれているが、大きく礼儀を外したり、気遣いを忘れるようなところを見たことがない。


「あの、あなたは?」


 私が訊ねると男性は、少し驚いたあと外国人のように右手を差すと私の手を軽く握った。


「僕は九木重政くき・しげまざだ。スノウの兄である実次とは帝大の同窓でね。彼が留学中はかわりを務めているんだ。しかし、驚きだ。本か食にしか興味がないスノウに友達がいるなんて」

「私は高屋房と申します。大上さんは良くしていただいております」


 私が答えると彼は満足したように笑い、ぱっと手を離した。


「きちんとしたお嬢さんだ。スノウも見習ったらどうだ?」

「友は第二の自己であるといいます。級長をひとかどに感じられたのでしたら、その友である私もひとかどの人物であるという証左しょうさと言えましょう。逆に言えば、あの人の友を名乗るあなたはどうなのでしょうか」

「まったく皮肉を言わずにおれないのか」


 九木が呆れたような顔で肩をすくめる。私は彼にひとつ訊ねた。


「もしかして九木様はご子爵家の九木様ですか?」


 九木という苗字はあまり多くない。維新以後、華族となった旧大名はそれぞれで生計を立てるため商売を興したものが多い。なかでも九木子爵は、明治にはいってすぐに南米に渡り交易で財産を築いたことで有名である。


「不本意ながらその九木だよ」

「級長。その方に様なんてつける必要はありません。偉いのはその方のお父上でこの方と言えば、奇矯ききょうな趣味をこじらせた挙句あげく奇態きたいな生き物を愛玩あいがんする倒錯者とうさくしゃなのです」


 九木の言葉を遮って大上が冷たい表情で言う。彼女が言うことが本当であれば彼はとんでもない人間である。私はゆっくりと彼との距離をとった。


「スノウ! 僕は倒錯者ではない」

「倒錯者という者は自分が歪んでいることを理解しないものです。なんでしたか、あの奇妙な生き物。……そう、人鳥」


 人鳥とはいかなる生き物か。文字だけを考えれば人のような鳥なのかだろう。だとすればそれは烏天狗からすてんぐのような姿をしているということになる。それを飼うというのは確かに恐ろしいものである。


「人鳥ではない。ペンジュンだ。何度も教えただろう」

「ペンジュンでも人鳥でも変わらぬでしょうに。あのように醜悪しゅうあくなものを飼うというところが最早もはやおかしいのです」


 大上は呆れたように顔を背けると私に微笑みを向けた。


「醜悪だと? スノウ、あの可愛らしいペンジュンを見てどこが醜いというのだ」

「まず、あの胴が長く足の短い姿に何を考えているかわからぬ真っ黒で大きな瞳、極めつけは魚を食らうときの貪欲な有り様です。頭から尻尾まで丸呑みにするとは味など関係なく、ただ食べることを目的にしているとしか思えません」


 私は想像する。烏天狗の胴を極端に長くして瞳は光を呑むような暗闇だ。それが魚を頭から飲み込んでゆく。それは生き物というよりもあやかしである。


「なんてことを言うのだ。ペンジュンほど愛くるしい生き物は他にいない。思い出した。スノウ、君はペンジュンを初めて見たとき何といったか覚えているか?」

「なんでしたか? 読書の邪魔をされた挙句に人鳥を見るためだけに月島つきしままで連れ出されて不機嫌だったことだけは覚えています」

「この生き物は美味しいのですか、だ。君はこれだけ醜悪と罵った生き物を食べようとしたのだぞ」


 私はいと恐ろしい妖しを食べようとする大上を想像してぞっとした。


「まさか愛玩動物とは思わなかったのです。牛にしても豚にしても食べるために牧場を作り育てるのです。月島に人鳥のために施設を用意した、と聞けば食用かと思うではありませんか。人鳥のあのぼってりとした体型をみればなおさらにです」


 どうやら話題の妖しは太っているらしい。私はなんとか想像してみようとしたができなかった。


「高屋君、君はどう思う? ペンジュンは可愛いな」

「級長、人鳥は気味が悪いですよね」


 二人から同意を求められて私は本当に困ってしまった。見たこともない物を談じろと言われても無理なのだ。私は笑顔とは受け取ってもらえないであろう歪んだ愛想笑いを浮かべたがこの二人に正しく理解してもらえるか、はなはだ不安であった。


「級長が困っておられるではありませんか」

「スノウが無理強いするからだ」


 大上と九木はお互いを睨みつけ合って動かない。私はひどく疲れた声で二人にいった。


「私はそもそも人鳥もペンジュンも見たこともなければ聞いたこともないのです」


 私が言うと九木は「そうかそうか」と満面の笑みを浮かべると自らの革鞄から数枚のが写真を取り出した。そこには尖ったくちばしにぎょろりとした瞳を持つ河童かっぱを足したような獣が二足で立っていた。これが人鳥あるいはペンジュンというものなら飛べるのだろうか。


 太りきった体から空を自由に飛行するたかわしのような鋭さは微塵みじんにも感じられない。


「これは飛ぶのですか?」

「いや、飛ばない彼らは海の中を飛ぶように泳ぐのだ」


 九木が真面目な顔で写真の生き物を指差していう。このおよそ羽に見えぬのっぺりとした手でペンジュンは水をかくのだという。だが、疑問がある鳥というものは大なり小なり飛ぶものだ。鶏だって背丈ほどは跳ねるのだ。とべぬものが鳥と名乗って良いのか私には分からなかった。


 だが、大上が言うほど醜悪とも思えない。かといって愛くるしい、とも言えない。


「まことに半端な生き物ですね」


 私が答えると九木はひどく落ち込んだ表情をし、大上は鈴を転がすような声で笑った。ひとしきり笑うと大上は九木の方を見ると勝ち誇った様子で「もうよろしいでしょう。早くお帰りになったほうが恥の上塗りをせずに済みます」とのべた。


「いやまだだ。まだ用事はあるのだ」


 九木はひどく悔しそうな表情を無理矢理に押し込めるとさきほどの革鞄に写真をしまい込み、かわりに一冊の刷紙さっしを大上に差し出した。刷紙には大きな文字で『今昔雀こんじゃくすずめ』と書かれており挿絵には革張りの本に止まる雀が一羽だけ描かれていた。


「これは?」


 大上は刷紙を掴むと不思議そうな顔をした。


「帝大生と文筆を好む有志が書いた創作雑誌だ」

「確かに素人の不味い俳句なんかが掲載されてますね」


 私も横から覗いたが確かにあまり上手くない俳句や狂歌というものが載っている。まれに驚くような優れたものも含まれている。玉石混交とはまさにこのことなのだろう。


「その頁じゃない。もっと後ろだ。そうそこ」


 九木が言うままに紙面を開くと『ためしが橋』と題された小説があった。表題の横に「本朝ほんちょう始まって初の推理小説」と書かれている。推理小説とはまさに大上の好むみすてりぃのことである。だが当の大上はなんとも言えない表情をしていた。


「どうかなさいましたか?」


 私が問うと彼女はひどく小さな声で「面白くなさそうで困っているのです」と素直にいった。


「これなのだが、ある帝大の若者が書いた推理小説なのだ。まぁ、読めばわかるのだがある男が殺されるまでが描写されているのだが、具体的な謎解きがない。僕たちはきっと次号でそれを明らかにするのであろう、と思っていた。だが、作者は犯人など読めば明らかであるのに続きを書けというのは何事だと言ったのだ」


「それは単に書いた当人も犯人が分からないのでは?」


 大上は退屈しきった微笑を浮かべた。だが、九木は首を横に振った。


「作者を僕はよく知っているが、そのような男ではない。あれがいうからには何らかの答えがあるのだ。だが、読み手である僕たちにそれが理解できていないのだ。そこでスノウにこの作品の犯人を推理してもらいたいのだ」

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