悪食令嬢の婿取りと幽霊(下)
思わせぶりな会食が終わると大上雪子は私――高屋房と我が家の女中であるお結を二階の寝室へと案内した。寝室はこの屋敷の特徴とも言える八角形の塔屋の真隣にあった。
「寝室から塔屋の談話室に抜けられるから自由に使ってくださいな」
大上は少し愉快そうに言うと私たちの寝室がある部屋とは廊下を挟んで反対側の部屋に消えていった。お結は早速、談話室に入ると歓声を上げた。
「見事なものです。神田はどころか小石川まで見えそうです」
それはいささか言い過ぎだと思ったが、東京の街を照らすガス灯やアーク灯、そして今にも消えそうな提灯の火が遠くまで見えた。我が家のような武家屋敷では屋根の上にでも登らなければこのような光景は見えない。
私とお結はしばしの間、夜景を楽しむと寝室へと戻った。
寝室には一人では持て余しそうなくらい大きな寝台が置かれていた。敷布団に掛け布団になれた私にとって寝台は初めてだったが、寝転んでみるとなるほど雲の上にいるかのように柔らかで身体が沈み込むような感覚がある。これはこれで良いものだと思うのだが、一方で寝ているうちに転落するのではないか、という恐ろしさがある。
それは隣室で眠ることになったお結も同じだったらしく、すぐに私の部屋にやってくると困った声をだした。
「何というか心細いものがありますね。柵でもあれば少し安堵できるのですが」
「お結は心配性ね。そうそう落ちるものじゃないわ」
私が強がって言うとお結は大きくかぶりを振った。
「いえ、違うのです。お房様が落ちるのではないか、と心配なのです。昔からあまり寝相がよろしい方ではありませんし、もし墜落して骨折などしたら私は奥様にお会いする顔がございません」
確かに幼いころはそうだった。天井を見上げて眠りに就いたというのに、朝になると布団から離れた畳に突っ伏していたということが少なからずあった。だがそれは私がまだ十にもならぬことである。いまはまれに左右にずれていることはあるが布団の中に収まっている。
「もう、お結。私はいつまでも子供じゃないのよ」
私が怒ったように言うとお結は「すいません」と笑っていった。
「どうにも小さなころから知ってるといけませんね」
「大丈夫よ。むしろお結こそ落ちちゃいけないわよ」
「心配ありません。私はお房様とちがって寝相が良いですから」
そう言ってお結は私の部屋から出ていった。この場に大上がいれば、ひどく楽しそうに笑ったに違いない。きっと「級長が落ぬように紐でも用意いたしましょうか」くらいは言ってからかってくる。私は彼女がいないことにひそかに感謝をした。
そして、一息をつくとこの寝室にはかなり多くの本がぎっちりと壁にこしらえられた本棚に収められていることに気づいた。四面ある壁の二面までは本棚に隠され、残る二面は窓と扉という有様だ。寝台のそばに置かれた洋燈を手に背表紙を指を当ててみる。安っぽい和紙を紐でとめだけの和書やいかにも高そうな革張りの洋書がまぜこぜで触るたびに感触が変わる。
本の中には『欧州開闢演義』や『ペロリ提督海道中』などいかにも夜明け前の時代に伝聞だけで書いたと思われる怪しげな草紙もあった。他には私が大上と出会ったときに読んでいたモルグなんとかという本も適当にしまってあった。
考えてみれば懐かしい。
洋書は難しいが和書なら寝入るまでの友に良いであろうと適当な一冊を手にとった。寝台に腰掛けるように本を開いてみる。それは頬に三日月の傷をもつ探偵小説でなかなか面白い。自然、頁をめくる手が早くなる。半時ほど本に集中していると洋燈の明かりが小さくなっていることに気づいた。
油が少なくなっているのか、芯が短くなったのかとランプを見る。油壺の中が少なかった。私は本を読むことを諦めると床に就こうと洋燈を消した。ぼっと音を立てて火が消えると、燃え滓がはっする独特の匂いが部屋に満ちた。
真っ暗になった部屋で、天井をみあげる。我が家と違う。当然だがこのときようやく私は自分が家にいないのだと思い知った。それはどこか寂しく、どこか嬉しい気持ちだった。しばらく、そのまま見えるはずもない天を仰いでいると光がすっととおった。
私は身を起こすと辺りを見渡した。部屋の中には発光するようなものはない。扉、本棚、そして窓に視線を動かす。窓には濃紺の幕がかけられているのだが、その幕に赤子を抱く女の姿があった。
女の表情は分からない。だが、それはゆらりゆらりと動いていた。
驚きのあまり私は声を出すことさえ忘れてそれを見つめていた。女の方はぼんやりとした輪郭であったが私をじっとこちらを睨んでいる様子だった。金縛りにあったように身動きもせずにじっとしていると急に女の姿が消えた。
彼女が消えたことが引き金になったのか、私はわっと叫んだ。
激しい足音を立てて隣室からお結が駆けつけた。彼女は窓を眺めたままほうけている私の肩を掴むと叫んだ。
「お房様、いかがいたしました! 賊ですか!」
彼女の手には懐剣が握られており、賊がいれば切りつけるつもりだったのだろう。私はお結の顔を見て安心したのかそのまま彼女に抱きついた。しばらくすると辺りが明るくなった。私が顔を上げると洋燈を手にした大上が微笑んでいるのか心配しているのかわからぬ顔で立っていた。
「級長。幽霊が出ましたか?」
その声はひどく落ち着いたものだった。そのせいか私も少し落ち着いた気持ちで首を縦に振った。
「それはきっと私が昨日見たのと同じものでしょう」
「幽霊!? 大上様はそのようなものが出る部屋にお房様を案内したのですか」
お結が大上に掴みかからんとばかりの様子で声を荒らげた。だが、大上はそれに動じることもなく微笑みを見せるとお結に言った。
「はい、こればかりは一度見てもらわなければ説明できぬと思いましたから」
「では、あれが大上さんが見たという幽霊? そして兄の見合い相手たちが見たというものね」
「そう。級長のお兄様のお見合いを邪魔するものです」
私の隣ではお結が大上を睨みつけている。私はお結の手を握り「大丈夫よ。それよりもお結に聞きたいことがあるの」と、声をかけた。
「……なんでしょう?」
「あなたはお兄様のことが好きなの? だから、お見合い話があがるたびに生霊をなして化けて出ているの?」
私が尋ねるとお結は目玉が落ちるのではないかというくらいに目を大きくした。
「私が真一郎様を?」
「私はあなたが見合いの邪魔をしているのではないかと考えているのです」
私が言うとお結は激しく頭を左右に振って言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「真一郎様はたいそうお優しく果断とは申せませんが、高い志を持って日夜研究に励んでおられます。どうして私のような女中がお慕いするようなことがありましょうか。ましては邪魔をするようなことは」
「身分は関係ないわ。あなたがお兄様のことを愛していて、その苦しみから生霊となっているのなら、それはそのことに気づかなかった我が家すべての者の不徳です。お父様やお母様には私からきちんと申しますので安心してちょうだい」
私は意を決してお結と兄の婚姻を成功させようと思った。
「お房様、私はそんなこと考えたこともありません」
「大丈夫です。私にお任せなさい」
やり取りを繰り返していると洋燈の灯りが小刻みに震え出す。それは洋燈をもつ大上のものだ。彼女を見ると口元を片手で押さえて笑いをこらえているようだったが、それも長くは持たず鈴が鳴るような声で彼女は笑った。
それは薄明かりの中でひどく不気味に見えた。お結が私の腕をしっかりと握り締めた。
「……大上さん?」
「あーおかしい、お腹痛い。まずお結さん、私は嘘をつきました。私は級長のお兄様と婚約などしたくないのです。ただ、幽霊というものがいるのなら見てみたかったのです」
お結は大上の言葉の真意が分からぬのかやや怯えたような表情で彼女を見つめていた。
「なぜ、幽霊を見たいなど」
「ええ、それは幽霊がいるのなら良い、と私が思っているからです。会えぬものに会うにはそれしかない、ということもありましょうから。さて、次に級長。生霊などいるとお思いですか?」
「えっ、あなたが言うように源氏物語などにも書かれているではないですか?」
「生霊が出てくる話は源氏物語や曽呂利物語などさまざまですが、どれも物語にすぎません。幽霊はいつも枯れ尾花。いないのです」
幽霊がいてほしい、と言ったその舌の根が乾かぬうちに大上はそれを否定した。
「では、あの女の幽霊も枯れ尾花だと?」
「そうです。ですが、幽霊はなくとも枯れ尾花はいます。どうでしょう。いまから枯れ尾花を見に行きませんか? いまならまだいるかもしれません」
大上は窓を指差すと私たちを夜の街に誘った。
勝手口から外に出ると、ひんやりとした夜気が襲ってきた。
私たちは大上が用意してくれた外套を寝巻きのうえに羽織る。お結は手に懐剣を握り締めたまま先を行く大上を目で追う。このままだと大上に襲い掛かりそうなので「別に大上に悪意があるということじゃないのよ」と伝える。
「ないほうがよほど達が悪いのです」
お結はほとほとあきれはてたというように吐き捨てる。確かにそうに違いない。それに気づいているのかいないのか大上は屋敷の庭から私がいたと思われる寝室の方をみあげる。
「ここが寝室のしたですから枯れ尾花はあちらの辻のほうでしょうか」
彼女は提灯も洋燈も手にしていないので少し離れるだけで見えなくなりそうだった。庭から道路にでると半町ほどさきの四つ辻でわずかな灯りが動いているのが見えた。私のそばにいたお結はそれを見るとぱっと飛び出した。
「お房様たちはそこでお待ちください」
お結が駆け出すと足音に驚いたのか灯りが大きく揺れた。そして、何かが地面に叩きつけられる鈍い音と低いうめき声が響いた。私や大上が慌てて駆け寄るとお結が怪しい男性を地面に投げ飛ばしていた。
「貴様か。真一郎様のお見合いの邪魔をしたのは!」
お結は地面に突っ伏した男の腕を掴むと後ろ手に回して締め上げる。男はひどく情けない声で「痛い痛い」と叫んだ。あたりには男のもと思われる燈籠や鞄が散らばっている。鞄は半ば空いておりなかから陶片や金属板などが見え隠れしている。大上は地面に落ちていた燈籠を拾い上げると、光を男に向けた。
そのときの驚きは私よりもお結の方が大きかっただろう。
男の顔に明かりが差すとお結はぱっと手を離して、後ろに下がった。
「お兄様!? なぜこんなところに」
「いや、房。それはその」
兄は締め上げられた腕をさすりながら何とも言えない表情で私を見た。
「級長、これが枯れ尾花というわけです」
「お兄様が枯れ尾花?」
大上は無表情にいうと言葉をさらに繋げた。
「見合いが十八回も破綻するというのは、どう考えても異常です。ですが、誰か他人が邪魔するにしては回数が多すぎます。なぜなら、お見合いをしたという情報が外に出なければ邪魔はできぬからです。だから、私は見ているものが少ない場所で求婚したのです」
大上が我が家で兄に求婚して見せたのは、最初から私の家族や家中のものを疑っていたのだ。確かに見合いは成立するまではあまり口にしないものだ。一度や二度なら外に知られることもあるだろうが、十八回となればそれはあまりに多い。
「次にお家の事を考えれば、お房様の父上や母上、お祖母様なんかは邪魔をすることなんてできないでしょう。そもそも出来るなら見合いなどさせぬでしょう。となればあとは使用人です。お結様が級長のお兄様にただならぬ気持ちを抱いておだれるならその可能性があると思いました」
「だから、私は真一郎様にそのような気持ちはないと!」
お結が叫ぶと大上は「そうですね。お結さんにその気持ちはない、と思います」と制して私のほうを向いて微笑んだ。その意味が分からず私は首をかしげた。
「それにお結さんは私の屋敷を見るのも初めて。寝室の場所も分からぬという様子でした。昨夜、私の寝室に幽霊が現れたことを思えば犯人は私の寝室を知っていなければなりません。でもお結さんを見る限りそうではない。むろん、演技であれば見事なものですが」
幽霊が現れたのは大上の寝室だという。だが、今日の幽霊は来客用の寝室に出たではないか、と思ったところで私は気づいた。
「大上さん! あの部屋は来客用の寝室ではなくあなたの寝室だったのですか?」
「あら、級長。お気づきになりましたか。そうです。今日、級長が寝ていたのが私の寝室です」
乱雑な本棚をみて気づくべきだったのだ。あの大量の本は客には不要なものだ。どこまでも部屋の主のためにあるものだと。
「だが、僕がどうやって君の寝室を知りえるというんだ。君とは昨日はじめてあったんだぞ」
兄はようやく腕の痛みも引いてきたのか落ち着いてきたのか大上に疑問を投げた。
「今夜のように来客があれば灯りは多くの部屋にともっていますが、昨夜は私一人。明かりがついている部屋は一つしかありませんでした。外から見て灯りがある部屋を狙えばいいだけでした」
大上の屋敷の使用人はすべて通いだという。ならば灯りを使うのは一人だけだ。それに西洋屋敷というものは基本的に寝室は防犯のためにも一階にはない。そう考えると外から場所を突き止めるというのは容易だっただろう。
「……仮にそうだとして僕は幽霊を使役することもできないし、君の屋敷に入ってもいない」
「そうですね。級長の家が神仙や陰陽を良くするという話はお聞きしたことはありません。ましてや偸盗の如く他家に忍び込むということもないことでしょう」
「なら、僕は君たちが見たという幽霊ではないということだね」
兄は少しほっとした様子で言うと頭をかいた。
「はい、ですがお兄様は鏡にたいそうお詳しいそうですね」
「鏡? まぁ、僕も考古学を学ぶ身だからね。鏡に刻まれた模様や文字で時期や生産地を推測するくらいはできる。それがどうだというのかな」
「その中には魔鏡もあるのですか?」
ことのときの兄は明らかに動揺した。大上の口からその言葉出るとは全く思っていなかったのだろう。
「そんな演義物に出てくるようなものはない」
「そうでしょうか。日本書紀には白銅鏡から天照大神が生まれたとという話があります。他にも隠れキリシタンには彼らの神や女神を写す鏡があったと聞きます。お兄様が使われたのはそういう鏡ではないのですか?」
大上は地面に落ちていた兄の鞄を漁るとなかから一枚の鏡を手に取った。それを私に持たせると大上は燈籠の光を照射した。鏡にあったった光は、ぼんやりとした女性の姿を写していた。私は鏡の表面を撫ぜるがつるりとした真っ平らだった。だが、像は間違いなく女の姿をしている。
「級長、鏡の裏を見てください」
鏡を裏返すと、赤子を抱いた女の姿が細かに刻まれている。
「これはさきほどの?」
「ええ、原理はよく知りませんが鏡の裏に刻まれた図面が、鏡面に人には感じられぬ程の凹凸を生み出すためにそのような現象が起こるそうです」
「君は一体なんなのだ? どうして、そんな事を知っているんだ?」
「私はただの女学生で大上雪子と申します。お兄様の妹であられる級長とは昵懇させていただいております」
大上は恭しく頭を下げたが兄にはそれがなにを意味するのか分からずただ目を白黒させていた。だが、そんな兄に怒る者がいた。お結である。
「いったいなにをお考えなのですか! 真一郎様はずっとそのような悪戯をして結婚から逃げておられたのですか! そのせいで奥様や旦那様はどれだけ心配されたことか。さらにお房様やそのご学友にまで」
「いや、その。これには訳があるんだ」
兄は両手を所在無げに振る。お結はその手を掴むとむんずと投げた。
人形が小さな子供に振り回されるように兄は、地面に倒された。その姿を見てお結はため息をついた。
「どんな訳があるというのです。どうせ真一郎様のことですから、結婚をすれば考古学を辞めねばならぬ、とかそのようなことなのでしょう。ですが、そのわがままのせいでお家がどれだけ困るか。お考えになったことがあるのですか?」
「違う。違う。そうじゃないんだ」
「問答無用!」
お結は兄の襟首を掴むとまた投げ飛ばした。砂埃をあげて兄が地面を転がる。
「お結、待て。頼む」
「なにを待つのです。すべては真一郎様の行いのためです」
兄は地面に這いつくばったまま後ろに下がるが、すぐに塀にぶつかり逃げ場を失った。お結はそれを見下ろすようにゆっくりと進むともう一度、兄の襟首をとろうとした。
「お結さん、お待ちください。そうなのです。このような行いにも理屈はあるのです」
大上は大きな声でお結の動きをとめると兄の横に立った。兄は助かったという顔をしたが、静止に入ったのが大上だと気づいて困惑した表情を見せた。
「ま、まだ何かあると?」
「はい、あります。なぜご自分の見合いを邪魔したのか。私はずっと考えてきました。婚姻の邪魔というのは古来から横恋慕というのが定番です。ですが自分に対して横恋慕というのはあまりに倒錯した感情。ならば、答えは一つです。別に愛する女性がいるからです」
大上は勝ち誇った瞳で私たちを見ると「どうでしょう。はっきりと申されては?」と兄に詰め寄った。
兄はしばらく芋虫のように倒れ込んだまま思案すると「あー」と不貞腐れた声を出した。
「お結。僕は君のことが好きなのだ。だが、お前は我が家に恩があるといって受けてくれぬだろうから黙っていた。かといってよその女を娶る気にもなれずこのようなことを繰り返してきた」
私は誰の気持ちにも気づいていなかった。
まさか、兄がお結のことを好いているとは微塵とも思っていなかったのだ。物心つくころからお結は我が家で働いていた。私からすれば姉のようなものであり、兄からすれば妹のようなものだとばかり考えていたからだ。
「……はい?」
今度はお結が目を丸くする番だった。彼女にとっても兄の思いは青天の霹靂だったのだ。
「もう一度言うぞ。僕はお結のことを愛している」
兄が大きな声で言うとお結は膝から崩れ落ちた。
「え、いえ、そんな」
頭を抱えるお結に兄はさらに一言二言を言ったが、それは聞き取れなかった。
「級長。戻りましょう。ここからは当人たちのことです」
「だけど」
「野暮はいけません」
そう言って大上は私の手を引いた。だが、その様子がとても楽しそうに見えたので、あの二人は案外うまくやるのではないか、と私も思った。それにしても大上にあのような人の機微がわかるとはいまのいままで思わなかった。
「大上さん、今回は見直しました。あなたが人の心を思いやるなど」
「ええ、そうでしょう。なぜなら私も乙女の端くれなのですから」
そう言って彼女は胸を張ってみせたが、それはとても子供じみていて私は笑ってしまった。それが不満だったらしく大上は頬を膨らました。