悪食令嬢の婿取りと幽霊(中)
「私を娶っていただけませんか?」
大上雪子から唐突に求婚された兄の狼狽は妹である私――高屋房から見ても相当なものであった。言葉の意味の半分も頭に入っていない兄は「いや、それは」とか「僕はそんな」と会話にもならない言葉の断片を吐き出してきょろきょろと視線を動かした。
あまりの取り乱しように私が助け舟をだそうかと思っていると女中のお結が口を開いた。
「真一郎様、ご挨拶はそれくらいで良いかと」
お結の声に少しだけ落ち着きを取り戻した兄は「それでは」とだけ言い残して客間から出ていき、この日は自室に引き篭ったまま朝まで出てくることはなかった。一方の大上はと言えば仕掛けは十分だというばかりに「では、おおむね用事は終わりましたのでお暇いたします」と帰っていた。残された私は、現実に大上が我が家に嫁いでくるようなことがあればさぞ大変だろうと思い暗澹たる気持ちになった。
それは家中で働くお結にとっても同じだったらしく「あの方は一体?」と訊ねてきた。
私は幽霊うんぬんのくだりをのけて大上がどのような人間かを伝えた。伝えていて気づいたことだが、大上のことを大枠だけで話すとひどく良い人物評になるらしい。丹州でも有数の豪商の娘で女学院に通うために神田に屋敷を構えており、学業の成績は良く、和洋問わずに料理にも詳しい。さらに読書を愛する、となればなかなかのご令嬢としか言いようがない。
これを彼女の言葉を借りれば『お題目』ということになるのだろう。
「それは良い方です。真一郎様のお見合いもついに十九回で終わりそうですね」
お結はひどく喜ばしげな顔をした。家中において兄の嫁取りは長年の懸案であったため、それが片付くとなれば彼女からすれば良い話に思えるだろう。見合いが失敗するたびに、祖母や母がため息をもらす光景というのはいいものではない。
だが、それは大上をきちんと知らぬから思うことなのだ。
もし、大上が嫁いでくれば毎食に肉が振舞われ、米はパンに置き換えられるかもしれない。まだ、私は洋食を好いてこそいないがなれてはいるが、母や父、祖母はそうではない。なれぬ物だらけの食卓となれば母や祖母はため息を製造し続ける機械と化すに違いない。
場合によっては家内で戦争になりかねない。
いや、きっとなるだろう。とくに祖母は気が強いことで有名なのだ。
かつて、父が牛肉を食べようと買ってきたことがあった。そのとき祖母は頑なに牛肉を拒むだけではなく「けがれが入る」として仏壇に目張りまでして自室に篭城した。それからというもの我が家で肉が出るのは誰かが病になったときか、父の友人が土産に持ってきたときくらいである。
「お結は兄が結婚するのが嬉しい?」
「そりぁ、嬉しいですよ。奥様や大奥様がため息をつかれると家中が緊張します。働いてる私たちからすれば真一郎様が落ち着かれるにこしたことはありません」
お結はそう言って微笑んだ。このお結もいまでこそ落ち着いているが昔は気が強かった。彼女の父が事業に失敗して借金をこしらえたとき彼女は十歳だったのだが、取立てに集まった借金取りたちに向かって「いまからあたしが吉原に行くから一番高値で買い取ってくれる店を紹介してくんな」と啖呵を切った。これには借金取りも困ってしまった。
結果として騒ぎを聞きつけた父が同じ旗本の情けと借金のいくらかを立替えて、お結は我が家で働くこととなった。この話が出るたびにお結は「恥ずかしいことです」と言ってその気の強さを見せることはない。
「お嬢様はいかがですか?」
「嬉しいけど、大上がお義姉さんというのはしっくりこないわ」
私が苦笑いをするとお結はなんとも言えない表情をした。
翌日、女学校での大上は普通すぎるほどに普通であった。
「その様子だと幽霊はでなかったみたいね」
私が声をかけると大上はいつもの何を考えているか掴みにくい微笑みを向けた。
「級長。そのことなのですが早速、昨晩出ました。夜半に私が寝室で石油洋燈の明かりで読書をしているときです。窓辺にかけていた幕に髪の長い女の姿がぼんやりと浮かびじりじりと大きくなっていくのです。さすがの私も驚いてしまってしばらく眺めているとふっと消えてしまいました」
驚いた、というわりには大上の口調にはなんの抑揚もなく、また彼女が驚くような人間にも思えなかった。しかし、兄に求婚しただけで幽霊が出たとなると、大上の言うように兄を慕う女がどこぞにいて、邪魔な女のもとに生霊を飛ばしているのかもしれない。
「しかし、あの頼りない兄に好意をもつ女性が本当にいるのかしら?」
「幽霊が現れたからにはいるのでしょう。それも級長のすぐ近くに」
「また、気味の悪いことを言う。生霊なのですからすぐそばにいなくてもいいでしょ」
私が反論すると大上は人差し指をぴんと伸ばして左右に振った。
「級長。昨日、私が求婚をしてそれを知る人は、級長。級長のお兄様。女中のお結の三人です。ここから級長のご両親やお祖母様に伝わったとして、あのような夜半に他家の人間に伝わるでしょうか?」
確かに昨夜、急に起こった求婚騒ぎである。兄を慕う女性がどこかにいるとしても騒ぎを知らなければ生霊を飛ばすこともできないに違いない。私は大上の求婚を誰かに語りたいとも思っていないので両親はおろか祖母にも話をしていない。お結は仕事柄、父や母に報告する義務はあるだろうがそれをみだりに他人に話すことはないだろう。
だとすれば、犯人はすぐそばにいる事になる。
「まさか、級長が実のお兄様に恋焦がれておられるとは気づきませんでした」
本当に申し訳ないという様子で大上は頭を下げると、私の手を強く握り締めて「兄妹婚というのはあまり聞きませんが、応援させていただきます」と妙に熱のこもった声を出した。
私は大上の白い手を振り払うと、彼女の頭をぺしり、と叩いた。大上は痛そうにしたがいい気味である。
「どうして私が実の兄に恋しなければならぬのです」
「あら、違いますか。私はてっきり、私の大好きなお兄様に嫁が来るなんて耐えられない! 見合い相手なんて呪い殺してやる、というのが真相かと思ったのですが」
わざとらしい高い声色を使う大上は、それが真実だとはまったく思っていないだろう。だが、そうだったら面白いとは考えているに違いない。
「そんなわけないでしょ」
「なら、幽霊の候補はお一人ですよね」
いつもの調子で大上が言う。私はその候補をよく知っている。
「お結ね」
「級長のお母様やお祖母様でなければですが」
少なくともそのふたりは違う。だとすれば昨日の一件を知っているのはお結だけだ。私は十年ものあいだお結と一緒の家で過ごしてきたが、彼女が兄にそのような気持ちを抱いているとは微塵も気付かなかった。
確かにいま考えると思い当たる節はある。
お結はこちらが用意した縁談を断っていまも住込み女中として働いてくれている。彼女が兄を愛していたのなら話を断るのは当然なことだろう。昨夜だってお結は大上に求婚されて狼狽した兄にすぐに助け舟を出して逃がしている。だとすると、私は昨夜、彼女のひどいことを訊いている。
『お結は兄が結婚するのが嬉しい?』
私は昨日の発言をひどく恥じた。ずっと一緒にいたというのに私たち家族は彼女の気持ちに気づいてなかったのだ。
「なんていうこと。私はなにも分かっていなかったのね」
「さて、どうします?」
「それは、お兄様の気持ちもありますが、お結に嫁に来てもらえるように両親を説得します」
私が急いで帰宅しようと荷物をまとめ出すと、大上は黙って首を横に振った。
「お結は結婚したい、と思っているのでしょうか。彼女が彼のそばにいられるだけで良い、と考えていたら級長は余計なお節介をすることになります。そして、そうなればお結は級長の家を出て行くのではありませんか?」
確かにそうだ。お結が兄を好いていても結婚したい、と考えているかは別の話だ。彼女からすれば我が家は借金を肩代わりしてもらった恩がある。その恩を返すこともせずに、息子の嫁になりたいとは願いにくいだろう。
だが、どうすればいいのか。お結の思いが叶わぬかぎり兄の見合いは失敗し続ける事になるのだ。
「で、なんですが級長。今夜、私の家にお結と一緒にお泊りに来られませんか?」
「薮から棒になんですか」
「いえ、私からお結に昨日の求婚は嘘です。幽霊が見たかったのです、とお伝えしないといけません。ですが、級長の家だとお兄様がおられたときに困りますので、私の家で晩餐を囲みながら恋話をしようと思うのです」
取って付けたような理由である。だが一度、お結の腹の中を知るためにはいい案かもしれなかった。だが、なにやら大上がロクでもないことを考えているような気もしないではない。私は思案して大上の提案を受けることにした。
大上から晩餐に招待されたことを母に伝えると、昨日のハムの効果があるのかお結を連れて行くことがあっさりと許可された。逆に困り顔をしたのはお結である。
「私が同伴しても」とか「仕事も残っておりますので」という彼女をときになだめ、すかして私は彼女を連れて家を出た。彼女の屋敷は神田でも有名らしく大上の西洋館といえばすぐに案内してもらえた。
なるほど、武家屋敷が居並ぶなか三階建ての西洋館はいかにも異質であった。急勾配の屋根に八角形の塔屋が伸びている。塔屋の各階には大きなガラス窓が取り付けられている。外壁は白に統一されているが、屋根や柱、出窓などは深緑色に塗られていた。私は素直に美しい屋敷だと思った。それはお結にしてもそうだったらしく口を開けて驚いていた。
玄関前の石階段を登って扉に取り付けられた金属の金具をどんどん、と打ち鳴らす。
「お待ちしておりました。どうぞ、あがってください」
声とともに出てきた大上は普段の海老茶袴すがたではなく洋装であった。髪も日本髪ではなく複雑に髪束を編み込んだものを頭の上でくるりと回している。その姿がひどく大人びて見えて私は驚いた。だが、大上にとってはその反応さえも期待通りだったらしく「似合いますか」と笑った。
私とお結は玄関口から広間を通って食堂に案内された。広間は大きな暖炉があり、暖炉の上には絵皿が並べられ、いかにも西洋風という様子だった。食堂には十人が並らべるほど大きな卓子が置かれており、そのうちの三席だけに食器が並べてあった。それは少し物寂しいように見えた。
「今日はお招きありがとう」
私が頭を下げると後ろに控えていたお結がひどく恐縮した様子で「お嬢様方と同じ席というのは」と言った。大上はそれに対して「西洋館で食事をするときは主従関係なく席につくものです。そしてざっくばらんに語り合うものです」とあからさまな嘘をさらりと吐いた。それでもお結を騙すには十分だった。
「そういうことでしたら」
彼女が席に着くと大上は「良かった」と言った。
私たちが着座すると食堂の奥にある配膳室から中年の女性が料理を持って出てきた。彼女は着物に割烹着といういかにもな日本的な出で立ちであったが、手にしている洋食屋で見る白い平皿であった。
「カツレツでございます」
女性はそう言って私たちの前に皿を並べた。皿には球菜を刻んだもののうえにこんがりと狐色に揚げ焼きにされた肉が一口大に切り分けられていた。別皿にタレと思われる焦げ茶色の液体があり、大上はそれを金属の匙ですくって肉にかけた。
「大上さん、これは?」
「カツレツです。そこのお富さんはなかなかの料理達者なのよ」
噛み合わない会話をすると大上は肉刀と肉叉をたくみに使って料理を口に運んだ。私とお結はいささかぎこちないながらも肉刀と肉叉を使って食事をすることに成功した。いくら武家の娘といっても明治生まれである。肉に肉刀や肉叉を刺したまま頬張り、口内や唇を切るという愚行はおかしはしない。
「大上様、これはどのようにして作るのですか?」
お結が訊ねると大上は水を得た魚のように口を開いた。
「まず、豚肉が柔らかくなるように包丁で叩きます。それからメリケン粉をまぶして溶き卵にさっとつけてパン粉を着せてバタで揚げ焼きにするのです。火が強すぎるとパン粉が焦げるだけで生焼けになるし、逆に弱すぎるとべちゃべちゃになります。ほどよい火で油揚げのような色合いになるようにするのが一番です」
大上が一気にまくしあげるとお結はほとほと感心したというような表情を見せた。
「本当に大上さんはこの屋敷で一人暮らしをしているの?」
一通り、料理談義が終わったところで私が尋ねる。
「そうよ。お富は通いだから夜は私だけになるわね。日中は通いの者が二名ほどいるけど」
「よくご家族に反対されないものね」
私が呆れたように言うと大上は少し困ったような表情を作った。
「家族といっても父や母はもう亡くなっておりますし、唯一の血縁である義兄は米国に留学しているので反対するもしないもないのです」
それは初めて知ることだった。
「それは悪いことを聞きました。謝ります」
「級長、謝罪にはおよびません。私はこの一人暮らしを楽しんでいます。なにより何を食べようと文句を言われることがありませんから」
確かに彼女にとって面倒なお目付け役がいない今の状況は都合がいいのかもしれない。だが、このがらんとした食卓を見ると寂しい気がしないではない。
「あの外から見えたガラス張りのお部屋は寝室ですか?」
大方のカツレツを食べ終えたお結が訊ねた。彼女が言ったガラス張りの部屋というのは表から見えた八角形の塔屋のことだろう。
「いいえ、あれは談話室です。談話室を寝室にすれば見晴らしはいいでしょうけど窓という窓から日光が入るので朝など眩しくてたまりません。談話室はお二人に泊まっていただく客室の隣ですのでご自由にお使いください」
このとき大上はなにかに驚いた顔をした。だが、すぐに表情を消すといつもの微笑を浮かべていた。
「それにしても大上様のようなハイカラなお嬢様が真一郎様のお嫁さんに来られるとお料理も見直さなくてはなりませんね。私は洋食に明るくないのでご教示をお願いいたします」
「私こそ教えてもらうことばかりだわ。なんでも真一郎様は考古学を学ばれておられるとか?」
「そうなのです。私も詳しいことは存じませんが、古の時代に作られた銅鏡や陶器などを多く研究されているそうです。なんでも銅鏡の文様や文字を読み解くことで時代が分かるとか。陶器は釉薬の有無や縄目、ヘラ打ちでも作られた場所や時代が分かるそうです」
大上はひどく感心したように頷くと「よくご存知ですね」とお結に言った。
お結は謙遜して「そんなことありません。すべて受け売りで」と大上に頭を下げた。
私は彼女の胸中を思うと複雑な気持ちになった。それと同時に大上がなぜ、先日の求婚は嘘だった、と言わないのか不思議になった。そもそも今日はそのための晩餐ではなかったのか。私は表情だけで「はやくいいなさい」と大上に伝えたが、彼女は片目を閉じて微笑むだけでなにも言わなかった。