悪食令嬢の婿取りと幽霊(上)
散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。それがいかなる音であったか私――高屋房は耳にしたことがない。私が生まれる三十年以上前に開花しているのだから、いまは果実になっているだろう。なので、私にはその花の色を知ることはできない。
とはいえ、わずかな残り香くらいは感じることはできる。
例えば、絶滅したように見える半髪頭もいまどき流行りのシャッポ(帽子)をめくってみれば、ひょっこりと頭をのぞかせることがある。ときの内務卿が、ある開拓地の功労者十余名と面会した際、脱帽すると数名の頭に髷が乗っていて内務卿は苦笑いをしたという。我が家はといえば父上が早々に断髪したことから、兄は生まれてから一度も髷を結うことがなかった。そういう意味では、私の生まれた高屋家の夜明けは早かったのかもしれない。
夜明けはしてもお天道様がいつまでも中天に来ないとなれば問題である。この夜明けの薄らぼんやりとした明かりの中にいるのが我が兄――真一郎である。今年で二十九歳になろうという兄には嫁が来ない。
正確には縁談は来るのだが、そのすべてが実をつけないのである。
おかげで家中では、父上がため息をつけば母上がため息で返し、それを聞いたお祖母様が二度ため息を吐く、という有様で私も四方から飛んでくるため息に当てられて、ため息が漏れ出すのである。終いには兄に縁談の話が持ち上がるだけで、女中のお結までがため息をつきだす始末である。
当の兄はといえば、縁というものは奇妙なものでこちらが呼のとき、あちらも吸となるとは限るまい。無理に見合っても良縁にはならぬだろう、と物知りげに笑うだけである。この兄は師範学校から帝国大学にすすみ、ハインリヒ・フォン・シーボルトの高弟から考古学という奇態な学問を学んでいる。
この考古学というものはもっぱら土地を掘り返すものらしく、兄は鍬やもっこをよく担いでいる。おそらくこのようなところが、良縁を妨げているのだと私は思うのだが、兄はそんなこと気にする様子もない。
「級長、どうなされたのです。物憂げなお顔をされて」
鈴の音に似た声のほうを見れば、級友である大上雪子が立っていた。井戸底のような漆黒の髪を結流し、小紋に海老茶色の袴を身につけた彼女はまさに女学生であった。ただ、大上が普通と違うことがあるとすれば、牛鍋を一人で啄き、欧州でも新しい文学である『みすてりぃ』を好むということだろう。
「人の縁について考えていたのです」
「ここは乙女として、誰ぞに懸想されているのですか? という恋話をするべきですか? それとも私との友誼にしみじみと縁を感じられたとか?」
考えてみれば大上と色恋の話なぞしたことがない。そもそも、彼女はといえば口を開けば「何処其処のももんじ屋は腕が良い」だの「江戸では初鰹を敬うこと甚だしいことですが、鰹はやはり戻りの頃がよく。旬を知らずに語るというのはいけません」という具合であり乙女らしいところなどないのである。
私が苦笑いをしたのを見つけると大上は少し膨れた顔で「お疑いのようですね」と文句を漏らした。どうやら彼女が世にいう乙女か否かを思案したのがバレたらしい。この奇妙なご令嬢と表情だけで気脈を通じるようになるとは数ヶ月前までは考えつきもしなかった。そういう意味では確かに縁というものは分からぬものである。
「もし、私が恋するようなことがあれば頼むわ」
「ええ、そうしてくださいませ。なにせ級長のように面倒見が良いおなごは悪い男に捕まると相場が決まっております」
どこの相場であるのか。そもそも大上が人に愛や恋を語ることなどできるのかさえ疑わしい。
「大上さんが色恋の機微にも詳しいとは知りませんでした。あなたといえば、鍵のかかった寝室で毒殺された殿方がどのように殺されたか。とかご婦人を襲った悪漢の意外な正体、というものばかりに詳しいと思っていたわ」
「ええ、そちらが本筋でございますが、こう見えても私も乙女です。光源氏のひとつやふたつ諳んじることなど朝飯前です」
大上はすました顔で胸を張る。源氏物語といえば、およそ女の誰一人も幸せにならぬ物語である。そんなものに当てはめられればどのような女も不幸と言われよう。私は、大上の肩をとんとんと軽く叩くと「いらぬお世話です」と優しく諭した。
「ならば、どのようなことを心配していたのですか?」
「それは兄のことです」
「級長。およそこの世において兄というものほど無為なものはありません。そのようなものを心配しても石に灸。骨折り損のくたびれ儲け。爪で拾って箕で零すようなものです」
大上にしては感情的な物言いであった。彼女が感情を動かすときといえば、愛猫を撫でまわすときか『みすてりぃ』に出会ったときくらいである。あとはいつも決まってすました微笑に鉄面皮である。その彼女がここまで嫌悪を示すというのは不謹慎であるが面白い。
「あなたにも兄上がいるとは知らなかったわ」
「ええ、いるのです。本妻の子であるからと何かと偉そうにする兄がいるのです」
そういえば大上は妾の娘であると聞いたことがある。かつてはお家のため、子を絶やさぬようにと妾をもつ家は多かった。しかし、このところでは欧米のように一夫一妻の家が多い。私の父も妾は持っていない。私は少し悪いことを聞いたかと思ったが、大上は顔色さえ変えない。
「で、そのお兄様がどうされたのです? 尾形光琳のように遊興三昧で始末に負えぬ、というお話でしょうか」
尾形光琳は京都の呉服屋に生まれたが、豪奢を好み享楽的な生活のために四十歳のころには財産は借金ばかりとなった。その後、画業に転じて成功を収め、屏風や扇子に団扇、蒔絵などを幅広く手がけた。
このころでは米国の好事家が松島図屏風を購入したことから海外でも人気があるという。とはいえ、光琳のような兄を持てばいかなる兄妹でも頭を抱えただろう。筆を持てば三国一、一方で金勘定にはとんと疎い。天は二物を与えぬというが、与えなくとも人並みにしてやればよかったのではないか、と私は思う。
「幸いそちらの悩みではありません。遊興三昧というのはあなたでしょうに。牛鍋に始まり、汁粉にチース料理。まさに食道楽とはこれです。さらに和洋問わずの書籍の買いあさり。放蕩と言われても仕方ないでしょう」
「いえいえ級長、三昧というには食に書物だけでは一昧足りぬというものです。ですから私はせいぜい遊興二昧というところです。それらとて見識を広めるというお題目を唱えれば、不思議と勉強熱心と見えるはずです」
まったくよく回る舌である。彼女の舌を測れば三寸どころか四寸、五寸はあるかもしれない。
「料理は食べるだけでなく作れるようになって一人前。書籍もあなたの場合は学識を求めてではなく愉悦が目的でしょうに。雀のように鋏で舌を切って題目を唱えられぬようにしましょうか」
私が訊ねると大上は口を真横に閉じたまま黙って首を左右に振った。まったくと私がため息をつくと彼女はなに食わぬ顔で口を開いた。
「私のことはともかく。級長のお兄様がどうなされたのです?」
「……誰にも言っては駄目よ」
私が口止めをすると大上は釣り目気味の大きな瞳でこちらをじっと見つめた。
「兄の見合いがことごとく破談となるのです。その数、十と八回」
「それは十八羅漢も驚くことでしょう」
別に我が家としては羅漢のような悟りきった嫁に来て欲しいわけではない。平凡な嫁でいいのである。
「羅漢のような嫁ならいりません」
「冗談です。しかし、縁談がそこまで進まぬというのは不思議です。光琳くらいに金銭感覚に難があるとか、葛飾北斎くらいに転居好きで一つところに二日とおれぬ、というような奇矯奇天烈な御仁なのでしょうか?」
身内贔屓と言われるだろうが、兄の性格は悪くはない。顔だってそう悪いものではないはずだ。ただ一つだけ短所があるとすれば、穴掘りばかりしている考古学というものだろう。兄は「考古学は人が何を考え、何を信じて生きてきたかを知る学問だ」と言っているが私には何百、何千年前の人間がどうしていたかを知ることが何の役に立つのか分からない。
この数十年でさえ世の中は大きく変わっている。徳川様が倒れて帝が京から江戸に引っ越してくる。街では提灯が消えてガス灯やアーク灯が夜の闇を払っている。これほどまでに世の流れが早いのに昔のことなど掘り返してどうするのか。
「そんなことはありません。兄は考古学にのめり込んで、銅鏡の形がどうだこうだとか、木片や陶片にしてもさまざまな特徴があると熱弁することを除けば、性格は温厚すぎるほどで。容姿は二枚目とは申しませんが四枚目くらいの看板は張れるものです」
私が少しむきになって兄を褒めると大上はひどく驚いた様子で眼を大きくした。それは心底から珍しいものを見たという様子であったので何か変なことを言ったかと私は不安になった。
「なんですか? そんな驚いた顔をして」
私が訊ねると大上は複雑そうにはにかむんだ。
「いえ、級長はお兄様のことが好きなのだと関心致しまして」
「あなた、好きって。別に普通でしょう。家族なのですから」
「……きっとそうでしょう。ええ、そうなのでしょう」
大上は何かに言い聞かすように繰り返すとすっと何を考えているか分からない顔をした。そして、「ではなおさら分からないですね。どうして級長がそれほど褒めるお兄様の縁談が破談となるのか」と疑問を投げかけた。
「それだけど、どの家の娘さんからも兄と見合いをしたあとから女の霊が現れるというのです。障子にぼんやりと女の姿が現れてじわじわと近づいてくる。女の影が壁に映る。なにやら得体の知れない光があらわれる、とかいろいろあるけど皆が共通して言うのは幽霊が出た、ということよ」
大上の眼に輝きにも似た好奇心が宿るのを私は見逃さなかった。彼女の瞳に光が差すのは食のときと、謎が現れたときだけと言っていい。
「まるで源氏物語の六条御息所ですね。級長のお兄様は、どこぞで高貴な女性に好かれておられませんか?」
六条御息所と言えば源氏の寵愛を失い、嫉妬のあまり生霊として源氏と深い関係にある姫君らに襲いかかる女性である。だが、我が兄はおよそ高貴と言われる女性を惹きつけるような源氏の君のような甘い口上を披露できるような人間ではない。どこぞの遺跡でた銅鏡が珍しいとか、土器ひとつにしても縄目があるものやヘラで形を整えたものがある、ということは饒舌に語るであろうが、それに興味を示す女性というのは砂中の金を見つけるような難しさに違いない。
「もし、そのような方がいるなら見合いをすることもないでしょう」
「それもそうですね。では、級長のお兄様を一方的に好いている方がいるのではないでしょうか?」
「一方的に?」
「はい、あるとき級長のお兄様を見たその女性は、あの殿方こそは私の運命のお方、と一方的に懸想したのです。そして、級長のお兄様がお見合いしたという話を聞くとそれを邪魔するために生霊と化して夜な夜なお見合い相手に襲いかかるのです」
生霊うんぬんはさておきとして確かに兄に一目惚れをして見合いを邪魔するという話はないことはないかもしれない。
「仮にそういう女性があるとしてどうすればその方を見つけられるかしら?」
私が訊ねると大上はひどくいわくありげな表情をすると言った。
「ええ、とても簡単な方法があります」
この日の夕刻、大上の姿は番町にある私の屋敷にあった。
人力車で乗り付けた彼女の手にはひどく重たげな風呂敷が握られており、長屋門をくぐり、式台に着くやいなや「つまらぬものですが」と包を私に押し付けた。押し付けられた包は人の頭ほどもありずっしりとした重みがあった。
「これは?」
私が訊くと大上は「大焼けにしても味良く、日持ちも良い物です」と謎かけのようなことを言った。包を少しだけ外すと、香木のように飴色をした肉の塊が見えた。なるほど、確かにこれは公であった。
「大焼けにしては焦げるでしょう」
「そうですか。私はこれを分厚く切り、油が滴るくらいにじっくりと焼いたものが好きです」
大上が手土産に持ってきたのはハムだった。
「これは高価なものをどうも」
「級長のお宅にお呼ばれするというのに手ぶらというわけにはいきませんから」
「奥へどうぞ。客間を空けてあるわ」
玄関を左に抜けて襖を開けると客間がある。私は大上をともなって客間に入った。しばらくすると女中のお結がお茶を持ってきたので、ハムを彼女に渡した。お結はハムを見て「ご立派なものですね」と目を丸くして驚いていた。確かに我が家では肉類はほとんど食卓にのぼらない。お結にしてもハムを調理することはなかったに違いない。
「いまのは?」
「お結と言ってうちの住込み女中です。元は同じ旗本の出なのだけど、お父様が事業に失敗してしまい仕事を探していたのでうちで働くことになったのです。女中といっても私からすればお姉さんみたいなものよ」
お結が我が家に来たのは彼女が十歳で私が五歳のときであった。それから十一年、彼女はうちでも古参となっている。彼女は私に良くお手玉やあやとり、柔術を教えてくれたものである。父や母は、彼女にいくつか縁談を用意したらしいが、お結は「御恩がありますのでそれをお返しするまで」と言って断っている。
我が家からすればお結がいてくれることはたいそうありがたいが、彼女の幸せを思うと複雑な気持ちになる。
「畳敷きというのは落ち着きますね」
「大上さんの家は畳ではないの?」
「丹州の家は畳ですが、神田の屋敷は元々お雇い外国人のために用意したものですので板間ばかりです。寝室も防犯のため二階にあるので階段をわざわざ登り降りせねばならず面倒ですよ」
大上の家には行ったことがないが、話を聞く限り西洋風なのは間違いない。私は改めて彼女が丹州でも指折りの豪商の娘であることを思い出した。
「でも、私は西洋館というものに憧れるわ」
「洋館というのは存外に面倒なのですよ。履物を家の中でもはきますのでどうにも落ち着いた気にならないのです」
私たち女学生の多くは袴に革靴という服装である。この革靴というのが編上げの紐をぎゅと締め上げねばならず窮屈なものだ。それを家の中でも身につけねばならないというのは確かに落ち着かないに違いない。
「確かにそうかもしれないわね」
「靴で思い出しましたが、西欧では幽霊にも足があるそうです」
大上は両の手を前にだらりと伸ばして見せる。幽霊のつもりだろう。
「海を渡るだけで幽霊に足が生えたり、消えたり不思議なものね」
「確かにそうですね。西洋なら頭に天冠もないでしょうし、死装束も着てないでしょうから、見た目でわからないかもしれません。ひょっとすると隣の席にいた人が実は幽霊だったなんてよくあるのかもしれません」
「やめてよ、薄気味悪い」
区別がつかないというのはなんともはっきりとして気持ちが悪い。もしかするとそういう割り切れぬものが恐ろしいという気持ちの根源なのかもしれない。
「級長は怪談噺は苦手でしたか?」
「苦手とは言いませんけど好みはしません。大上さんは好きそうですね」
私が言うと大上は少し首をかしげた。
「そうでもありません。私は答えがあるものの方が好きですので」
「それはそうと、本当にやるの?」
私はあまり考えずにいたことを訊ねた。大上は私の不安など意に介さないという様子で微笑んだ。
「ここまで来て諦めるという考えは私にはありません。級長だってお兄様の見合い相手のもとに現れるという幽霊の正体が知りたいでしょう?」
「知りたいのですが、方法が……。ねぇ」
歯切れの悪い声を私が出していると、玄関の方から兄の声がした。どうやら兄が大学から戻ってきたらしい。その声を聞いて妙に楽しげに微笑む大上を見て私はため息をついた。もう、毒を食らわば皿まで、ということなのだろう。毒を食すというのはどこまでも悪食な行為だろうか。
「真一郎様、おかえりなさいませ」
玄関の方ではお結が兄を迎える声がした。
「見慣れぬ靴があるが来客か?」
「はい、お房様のご学友がお越しです。たいそう立派なハムをいただきました」
「それは珍しいものを。僕もご挨拶をしておこう」
そういうと兄は客間の襖を叩いた。
「房。お客様から良い物を頂いたと聞いた。挨拶をしたいので入るよ」
言うが早いか襖を開いた兄が客間に入ってきた。兄はいつものぼんやりとした表情で大上に丁寧に礼を述べた。
「僕は房の兄で真一郎です。妹が迷惑をかけているだろうが、よく付き合ってもらえると嬉しい。房は生真面目で融通がきかないところもあるが、許してやって欲しい」
兄が頭を下げると大上は借りてきた猫のようにしおらしい様子で微笑を兄に向けた。
「これはご丁寧に、私は大上雪子と申します。いまは女学校に通うために神田に屋敷を構えております。お房様には日頃よくしていただいております。女学校でも私たちはまるで姉妹のように仲が良いと言われております」
そんな評価があることは私は知らない。それどころか大上は他の旧友がいるところではろく話もしない。ただただ象牙で作ったような柔らかな微笑みを浮かべるばかりである。そのくせ、私が一人になれば悪戯げにやってくる。人見知りなのか、興味がないことにはとことん関わりたくないのか。
「それはいい。これからも妹を頼みます」
兄はそれだけ言うと客間から出ていこうとした。しかし、その兄の手を引いた者がいた。わかりきったことであるが大上である。急に手を掴まれた兄は、驚いた顔で彼女を見た。
「なにか?」
「はい、私からお願いがあるのです」
大上が上目遣いに兄を見つめる。兄は半歩後ろに下がりながら「どのようなことでしょう」と動揺した様子で訊ねた。
「私はお房様と本当の姉妹になりたいと思います」
「……は?」
兄の口から気の抜けた声が漏れ出す。大上はそんなこと気にならないという様子で兄を見つめ「私を娶っていただけませんか?」とぐいっと兄の手を引いた。その姿があまりに劇的だったのかお結は口に手を当てたまま動かなくなり、兄は目を白黒させてすがるように私を見た。
私はただただ頭を抱えることしかできなかった。