悪食令嬢は五十円で女子を買う(下)
齋藤家の門をくぐる。
そこは門外とは別世界であった。土間や庭、縁側にまで猫、猫、猫である。齋藤家の愛猫家っぷりはこの界隈では有名である。茶寅に雉寅、白や黒のもの。まだら模様など様々な猫が我が物顔で歩いている。
座敷に案内されると、あたりを見ていた大上が、ひどく真面目な顔をしたまま「食べちゃいたい」と呟いたのを私は聞き漏らさなかった。それは齋藤も同じだったらしく怯えた顔を彼女に向けている。
欧州の限られた地域で猫を食べる習慣があるという。しかし、大上が、と思うと私は怖くて訊ねられなかった。
「齋藤さん、これは一体どう言うことなの?」
「高屋様。それが私どももよくわからぬのです。昨日から突然、父の会社や取引先。はては屋敷にまで取立ての人間が来るようになったのです。おかげで父も使用人たち、果ては母までその対応に追われて留守にしているのです」
齋藤はひどく疲れた声をだした。彼女の愛らしい瞳の下には隈が出ている。
「聞きにくいのだけど、あれは本当に偽物なの?」
「それは間違いないのです。証文に押されている印は当家のものに似せてはありますが、別物です。父の署名も筆跡が明らかに違います。ただ、あまりに取立ての方が多く、ご説明しても次から次に別の取立てが来る、という具合なのです」
真剣に私の質問に答えてくれる齋藤なのだが、その彼女の周囲には彼女を慕う猫たちが集まってきており、なんとなく緊迫感がない。
「つまり、悪質な嫌がらせということかしら。心あたりはないの?」
齋藤は黙って頭を左右に振った。
「むしろ、高屋様や大上様の方がご存知なのでは? 先ほどもうされました東京組合でしたか?」
「東京商業組合の渋沢組合長」
大上がぶっきらぼうに言う。斎藤も相当な人見知りであるが、大上もなかなかである。もう少し愛想というものがないのだろうか。
「そうです。その方です」
「それは、大上が見つけた新聞広告であって、私たちも知っているというほどじゃないの」
私が新聞広告のくだりを説明すると齋藤は、目を丸くして驚いていたが、実際に付き合いがないことを知ると肩を落とした。
「でも、どうしてあの取立ての方が広告の組合だとわかったのですか?」
「それは、私の名探偵としての才能が」
「大上さん、嘘おっしゃい。ただの勘でしょう」
名探偵がなにか分からずに小首をかしげる齋藤を放置して大上が言う。
「ですが、新聞広告を見たあとにいかにもな取立てを見つければ、私でなくとも関連を考えてしまうではないですか。少なくとも当たりでしたし」
「そうね。だけど、嫌がらせのためと言ってもひどくお金が掛かっているわ」
齋藤の言うとおりなら一円で雇われている借金取りは先ほどの男だけではないのだろう。三人、四人あるいはもっと多いこともあるだろう。そうなるとどれほどのお金が使われているのか分からない。
「最近、なにか変わったことはなかったでしょうか?」
大上が訊ねると、齋藤はひどく難しい顔をして考え込んだ。
「そういえば。五日前に捕物が近くでございました。なんでも赤坂の宝石商に押し入った強盗が近くに逃げ込んだそうで、共犯が隠れていないか、と沢山の官憲がおいでになっていたそうです。ただ、その主犯はもう捕まったみたいですが」
私はひらめいた。
「それよ。その宝石泥棒の共犯はいまだに逃亡中だというわ。もしかしたらその共犯がこの屋敷に潜んでいるのではないかしら。借金の取立ては、その共犯が逃げ出すための隙を作ろうとしているのよ」
我ながら名推理というべきではないだろうか。私は胸を張ってみせたが、大上は黙ったまま首を左右にふった。齋藤もひどく言いにくそうな表情で私を見ていた。
「級長。宝石強盗の主犯は捕まっていて、残る共犯がこの屋敷の中にいるとして誰が新聞広告をだすのです?」
「それは、共犯の共犯よ」
「仮に共犯の共犯がいたとして、共犯が屋敷から逃げる隙を作るだけなら、人を雇わずに玄関先でなにか騒ぎを起こすだけで良かったのではありませんか? 齋藤さんの会社や取引先にまで人をやるというのはあまりに派手です」
大上に言われて私はしおしおと肩を落とした。私の傷をえぐるように齋藤が言う。
「我が家はこのように猫だらけですので、軒下から屋根裏まで隠れるには向かないかと……」
彼女の申し訳なさそうな声色や伏し目がちな表情が、私に追い打ちをかける。なにも知らない茶色の猫だけが私に愛らしい声で慰めてくれる
「……なら、大上さんはどういう理由があると思うのです」
「そうですね。士族のお屋敷で取立て騒ぎを起こすことで、お節介な女学生から金を巻き上げようという魂胆かもしれません」
大上は、目の前をちらちらと横切る猫に気を取られているのか、私の問いに興味なさそうに答えた。もしかすると、どの猫が一番美味しいのか、などと不埒なことを考えているのかもしれない。
「あなた、真面目に考えてないでしょう」
私が子供を叱りつけるように怒る。
「どうにも頭が回らぬのです。ああ、なにか甘いものでもあれば頭が回るかも知れぬというのに……。ああ、どういたしましょう」
わざとらしい仕草で頭を押さえて、私にうなだれかかる大上を見た齋藤はひどく慌てた顔をした。
「これは申し訳ございません。お茶も出さず。すぐに支度してまいります」
着物の裾を掴んで足早に部屋から出ていく齋藤を見送ると、大上は白い歯を見せて笑った。
「あなたは、どうしてそう」
「いえいえ、級長。頭というのは存外に栄養を使うものです」
「まったく、他家に来て食べ物をせびるなんて」
そんなやり取りをしていると、盆を持った齋藤が戻ってきた。彼女は狐色をした香ばしいビスカウト(ビスケット)と、透明な瓶に詰められた牛乳を湯呑にそそぐと私たちの前に置いた。大上は齋藤がついでくれた牛乳を嬉しそうに眺めているが、私はどうしてお茶にしてくれなかったのかと思った。
「女中も出払っておりまして、こんなものしかありませんが」
女中もいなかったから湯が沸かせなかったのか、と私は合点した。しかし、下男から女中まで走り回らせねばならないとは、かなり齋藤家は追い詰められているのだろう。
「口が渇くから嫌いだと言う者もいるけど、私は好きなんですよ。ビスカウト」
そう言って大上はビスカウトを口に運んだ。煎餅よりも軽い音がする。これが文明開化の音なのかもしれない。美味しそうにビスカウトを食べる大上を見て齋藤は少しほっとした顔をした。そして、瓶に残されていた牛乳を平たい皿にそっと流し込んだ。
皿が畳の上に置かれると、部屋の近くにいた猫がぞろぞろと集まって、にゃーにゃーの大合唱になった。その様子を齋藤は楽しそうに眺めて言った。
「屋敷の猫は皆、牛乳が好きなのです。うちが牛乳の販売を始めたときから、売れ残ったものを野良に与えていたら、あれよあれよという間に増えてしまっていまではこの有様です。おかげで泥棒も来ません」
確かにこれほどの目があれば、泥棒も入りにくかろう。
「それにしても多いわね。どれくらいるのかしら」
私が訊ねると齋藤は指を折々(おりおり)数えていたが四巡目あたりから無理だと気づいたらしく「いっぱいですね」と言った。隣では大上が食べるのをやめて、姿勢よく座っている。珍しいこともあるものだと感心していると、彼女の膝上を黒いものが動いた。
「黒子ですね。珍しい。なかなか人に近づかない猫なんですよ」
足先から頭まで真っ黒なその猫は大上のうえが心地よいのかどっしりと座り込んでいる。齋藤はそれを微笑ましいものと見えているようだが、大上は視線を遠くに向けたまま毛ほども動かない。
「あなた、猫が苦手なの?」
「い、いえ、そんなことありませんことですわ。級長は私のどこをみてそんなことをおっしゃるのかしら」
おほほ、とうわずった声を出した彼女は、私が初めて見る大上だった。きっと自然であれば、狼のほうがよほど強いだろうに、ここでは猫の方が強いらしい。
「全部に名前をつけてるの?」
「いいえ、特徴があったり目立つものだけです。でも、この子は最近よくいるなぁ、とかあの子は最近見ないなぁ、くらいには分かります。あとは新参者はよく分かります」
わかるのか、と私は感心した。
「商家では猫をよく飼うそうね」
「そうですね。招き猫にあやかってという家は多いです。それ以上に愛猫家と言えばお公家さんです。なかでも四条家の旦那様は欧州猫の愛好家で有名です。東京住まいの外国人さんで猫を飼っておられる方は、猫の縁談をせまられて困る、と専らの噂です」
「軍人さんの家では犬をよく飼うそうね」
「独逸犬が人気だそうです。九百円を払って買われた少佐さんもおられます。なんでも、柔らかく炊いた鶏肉しか食べないそうで贅沢なことです。この子たちは、その点では安上がりなんです」
誇らしげに言う齋藤の声の後ろで「あー」と消え入りそうな大上の悲鳴が聞こえた。見てみれば動けなくなった大上の湯呑に毛の短い灰色の猫が顔を突っ込んでいた。灰色の猫は満足するまで牛乳を舐めると、大きな目で大上を一瞥しただけて去っていった。
「すごいでしょ。最近、来た猫なのよ。耳が大きくて目がクリッと大きくて。猫の中ではかなりの美男だわ。それはそれとして、そろそろ大上様の膝の上から黒子をどけましょうか」
齋藤が慣れた手つきで黒猫を抱きあげる。大上は、ふー、と息を吐いて伸びていた背を緩めた。
「で、お菓子も食べたことだし。考えはまとまったの?」
私が言うと大上は「ええ、少しだけ。それどころではありませんでしたので」と疲れた声を出した。
「さて、齋藤さんの家や会社に押しかけている借金取りの狙いとはなんでしょう」
大上が私たちに問いかける。
「それは齋藤さん一家の気を引くためじゃないの?」
「うちの家が傾いていると世間に知らしめたい、とか?」
「それは、狙いではなくて過程なのだと思います。借金取りの狙いはこの家を留守にさせることです」
齋藤が慌てた様子で辺りを見渡した。
「留守にさせてどうするの? まさか、本当に宝石強盗が潜んでいるとか?」
やはり、共犯の共犯がいて、仲間を救い出すために芝居をうっているのかもしれない。だとすれば、この屋敷のどこかに強盗犯がいることになる。
「級長。先程も言いましたが、そんなのはいません。それよりもっと簡単な犯罪があるではないですか。留守の家に入ってものを失敬する」
「空き巣ですね」
齋藤が言うと大上は微笑んだ。
「その通りです。犯人はこの家に盗みに入りたかったのです」
「大上様。でも、あまりに手間がかかりすぎではありませんか? 我が家は多少の財はありますが、現金として置いてあるものは、百円もあればいい方です」
確かに複数の人を雇ってまで空き巣に入るには手間がかかりすぎているように思われる。
「わかったわ。本当の狙いはこの屋敷ではなく隣の屋敷なのではないでしょうか。確か、大上さんからお借りした本に地下通路を掘って銀行に盗みに入る、というものがありました」
私が言うと、大上はひどく残念そうな顔をした。
「級長、それならとても良かったのですが、この屋敷の隣は武家屋敷ばかりです。銀行のように地下室があるとも思えません。なにより地下道を掘るためには時間がかかります」
「なら、何を盗むというのよ!」
「級長。猫に小判って言葉がありますけど、猫は小判の価値を知らぬから与えても意味がないのです。つまり、家人が知らないものが、狙われても家人には分からない、と言えませんか」
「つまり、この屋敷に隠れているのは強盗犯ではなく盗まれた宝石ということ?」
大上は、何を考えているかわからない表情で曖昧に頷いた。そして、「どうやら、答えの方がさきにお越しくだされたみたいです」と言った。耳を立てると玄関のほうから男性の野太い声がした。
「齋藤さん、東京商業組合の渋沢組合長がお越しくださったみたいです。せっかくですので牛乳でもお出ししましょう」
そう言うと彼女は他人の家ということも忘れたような足取りで玄関に向かっていた。
玄関では八文字髭を油でしっかりとまとめた男と先ほどのシャッポの男が立っていた。しっかりとした洋服を着ているが、上着や洋袴に細かい糸くずがついている。おそらく中古を買ったのだろう。
「あんたが、齋藤の娘さんかい?」
男は凄むような低い声を出した。
「いいえ、私は大上と申します。齋藤さんとはとても仲良しの同級生なのです。東京商業組合の渋沢組合長ですね?」
無邪気な様子で大上は微笑んだ。それは花が咲くような艶やかさがあったが、どこか怪しく恐ろしくもあった。
「そうだ。あんたが、齋藤の借金を肩代わりしてくれるっていうのは本当かい?」
「ええ、そうです。級長、お金を」
私は、もうどうにでもなれと捨て鉢の気持ちで懐からお金を取り出すと男に見せた。男は驚いたように目を見開いたが、見苦しくうろたえるような姿は見せなかった。
「確かに五十円だ。なら、この証文は破いてもいい。だが、齋藤はまだまだ金を借りている。それも全部払おうっていうのかい?」
男は証文の束を懐から取り出した。そこには齋藤某という署名と印が押されている。
「構いませんよ。ただ、私がお支払いすると、あなたの探し物は見つからなくなりますよ」
「探し物? なんのことかな」
渋沢は大上から視線を離さなかった。大上もどこか冷たい笑顔を崩さなかった。
「渋沢様は、探し物のために随分とお金を出されてますよね。日給一円。この三日間で何人に支払ったのかわかりませんが、結構な支出だと思います。偽の証文を作ってまでするのだから、恐ろしい執着です」
「結局はそれか。証文を偽物呼ばわりして踏み倒そうという魂胆だな」
男性は淡々と怒りを見せると、後ろに控えていたシャッポの男に「このお嬢さん方には事務所まできてもらう」と言った。シャッポ男は、怖い顔をして私たちに近づいてきた。私はたまらなくなって叫んだ。
「あんたが宝石強盗の共犯だってことはもうバレてるのよ! 私たちを連れてって留守になったこの家から宝石を取り出そうっていうのも全部知ってるんだから!」
八文字髭の渋沢は、初めて驚いた顔をした。
「知らん! わしはそんなことはせん!」
「しらばっくれようとしても無駄です! 私は知ってるんですから」
シャッポの男は自分の主人が犯罪者だと知ると、尻餅をついて逃げ出した。渋沢はそれを止めようとしたが、無駄だった。男の逃げ足は早くあっという間に姿を消してしまった。
「この女! わしが誰だと思っておるんだ!」
「強盗風情が偉そうに言わないで」
私が怒鳴り返すと渋沢はいよいよ顔を真っ赤にしてまるで鬼のような形相になった。その顔に向けてなにかが飛び散った。真っ白なその液体は独特の匂いを発していた。牛乳だ。私が振り返ると大上が牛乳をぶちまけていた。
彼女はひどく愉しような顔で二本、三本と瓶を空にした。そして、何事もなかったように「落ち着きなさい」と、言った。
「大上さん……」
「な、なんだこれは」
私と渋沢は困惑しながら彼女を見た。
「級長、この方は宝石強盗ではありません。というか、今回の事件と宝石強盗はまったく関係ありません。そして、そこの渋沢様は強盗ではなく誘拐犯になる予定です」
誘拐犯と聞いて私すぐさま渋沢から離れた。牛乳まみれの渋沢はなにか口をもごもごさせたが反論はしなかった。
「大上様。この方はどうして我が家に借金騒ぎなどおこされたのでしょうか?」
後ろに控えていた齋藤が訊ねる。
「この屋敷に拐かしたい相手がいるからです。そろそろ、お出でましになるころです」
大上の言葉が終わらぬあいだに大量の猫が玄関口に駆けてきた。さきほどぶちまけられた牛乳の匂いに釣られた猫たちは渋沢の服や足元、髪や顔を構わずに舐め回している。彼はそれを引き剥がそうとするが、存外に優しい性格なのか一匹一匹そっとはがしていくのでとりつかれる方がはるかに早かった。
「猫?」
「そうです。そして、こちらがその猫です」
大上は渋沢に群がっている猫の中から、灰色の猫を捕まえると首元を掴んで持ち上げた。それは先ほど大上の湯呑に顔を突っ込んでいた猫だった。大きな瞳に大きな耳は確かに齋藤が言うとおり美男子だと言えた。
「変な持ち方をするな。どれだけ貴重な猫だと思ってるんだ!」
渋沢は猫に埋もれながら騒ぎ立てるが、大上はまったく気にする素振りを見せない。
「彼こそ、失踪中の英国商船の鼠駆除係アビスニャン氏です」
その名前には聞き覚えがあった。英国の商船から消えた乗組員だ。だけど、それは私の考えていたものと違う。
「猫じゃない? あとアビスニアン。ニャンじゃない」
「そうです。アビスニャン氏はどこからどう見ても猫ですよ、級長」
私は訳がわからなかった。鼠駆除係という役職があるので人間だと思っていたが、アビスニアン氏は猫だという。あからさまに困惑していると、大上はしたり顔で笑った。
「英国の船は必ずと言っていいほど猫を雇っているのです。かの国の海上保険では猫を雇用していないと、鼠による被害が出た際に、未然に防ぐ努力を怠ったとして保険が支払われないのです。あと、とても可愛いので船員が少し優しくなります」
大上に捕まえられたアビスニアン氏は、にゃーにゃーと鳴きながら手足をバタつかせている。それを後ろで齋藤がおっかなびっくりという表情で右往左往していた。
「頼む。その猫を譲ってくれ。それは貴重な猫なんだ」
渋沢は地面に額をこすりつけて頼んだが、大上の答えは拒否であった。
「嫌ですよ。早く船に返してあげないと可哀想じゃないですか」
「馬鹿野郎! 危険な船に乗せる方がよほど可哀想なんだ! よこせ!」
拒絶された渋沢が大上に掴みかかろうとしたときだった。沢山の足音が斎藤家になだれ込んできた。黒い揃いの制服にサーベルをさした一団は明らかに警察官であった。彼らの後ろではシャッポ男が「あいつが俺を騙した宝石泥棒です」と叫んでいた。
可哀想な渋沢は、宝石強盗として捕縛されて連れて行かれてしまった。
すべてが終わったあと聞いた話である。
あの渋沢と名乗っていた男は、東京ではそこそこ名の知れた愛猫家なのだという。五日前、彼は英国船に貴重な猫が乗っていると聞き、誘拐目的で港に行ったのだという。理由は、過酷な船旅をするより陸で過す方がいいだろう、という身勝手なものであった。
しかし、そんな魔の手が忍び寄っていることを知らないアビスニアン氏は、船にバタや牛乳を卸に来た斎藤家の荷物に紛れて船から失踪。
牛乳瓶や缶と一緒に斎藤屋敷に入って牛乳三昧の日々を送っていたのだ。そのころ、渋沢はアビスニアンが斎藤家の牛乳に釣られて家出したことを突き詰めた。だが、猫だらけのあの屋敷で、人間に見つかることなくアビスニアン氏を見つけるのが難しかった。
そこで彼は、一計を案じた。
新聞広告で集めた男たちを使って偽の借金騒ぎを起こして斎藤屋敷から人間を誘い出して、空き城を物色しようとしたのである。だが、その奸計は大上の名推理によって打ち砕かれた。めでたしめでたしというわけである。恥ずかしいことに、私が考えていた宝石強盗との関係は全くなかった。
まったくもって穴があったら入りたい。
大上の好きな『みすてりぃ』の言葉を借りれば「事件の外見が奇怪に見えれば見えるほど、その本質は単純なものだ」というやつだろう。
そんなことを考えていると、齋藤がなにやら心配そうな顔で近づいてきた。手には藤籠を持っているが、羅紗がかけられており中身は見えない。
「あの、高屋様。大上様は猫をどうなさるおつもりなのでしょう。まさか、食べるようなことはなさいませんよね!」
私は彼女が何を言っているのか理解できなかったが、悪食令嬢と噂される大上だ。猫を食べるという暴挙くらいはさらりとやるかも知れない。なにより私は聞いている。齋藤の屋敷で猫を見た彼女が「食べてしまいたい」と、もらしたのを。
「齋藤さん、落ち着きなさい。何があったの?」
私が訊ねると彼女は言った。
「昨日、先日のお礼がしたいと大上様にいったのです。すると、彼女は猫が欲しい、と言われたのです。ですが、大上様を見ている限り猫の扱いは苦手ですし、猫に近づかれただけでぎこちない態度をされていました。なにより、あの方は悪食……と呼ばれておりますので、その。食べるのではないかと」
どうやら籠の中は猫らしい。
「きっと大丈夫だとは思うけど」
「本当に本当でございますか!」
齋藤はすがるように私に迫るが、うまい答えが見当たらない。私が困惑していると、背後から涼やかな声がした。
「級長。おはようございます。齋藤さんもおはようございます」
彼女はいつもどおりの無表情で私の後ろの席についた。齋藤は頭を何度も振って「おはようございます」と繰り返した。大上はそれを苦笑いで受け取ると言った。
「アビスニャン氏は無事に船に帰ったそうです」
「それは良かったわね。それはそうと大上さんは猫が苦手なの?」
大上は少し驚いたような顔をした。そして、声を詰まらせて小さな声をだした。
「苦手ではないのです。ただ、好きすぎるのです」
私と斎藤は間抜けなほど気の抜けた声で「はぁ?」と、呟いた。ならば、猫に触れられて動きを止めたのは緊張していたのか。アビスニアンの捕まえ方がぞんざいだったのは、どう触っていいか分からなかっただけだというのか。
「じゃ、聞くけど。齋藤さんに猫をねだったのは」
「飼うためです」
大上が断言すると視線を齋藤の藤籠に向けた。籠の中にいる貴人は、なにかを感じたのかもぞもぞと動くと、羅紗の布から顔を出した。それは大上の膝の上にのった真っ黒な猫だった。
「一応、聞くけど食べたりはしないわよね?」
「級長。私がそんなことするわけないじゃないですか。齋藤さん、触っても良い?」
大上が訊ねると齋藤は無言で頷いた。彼女の真っ白い指先が猫の頭に伸びる。黒猫はそれを嫌がることはなく、ゴロゴロと喉を鳴らした。大上はその様子をうっとりとした瞳で眺めると、舌なめずりをした。
「可愛らしい。食べちゃいたいくらい」