悪食令嬢は五十円で女子を買う(上)
私――高屋房は江戸を知らない。だけど、東京は知っている。
御一新より以前を知っている者は、ここ数十年の変化を夜明けに例えることがある。職人街であった銀座が、赤煉瓦に瓦屋根という和洋折衷の新しい街並みに変わり。瓦斯灯や街路樹が、整然と並ぶ様子からは夜明け前の姿を想像することはできない。
飲み物もそうだ。かつては飲めば牛になるとして、誰も飲みもしなかった牛乳が、西洋人好みの飲み物だとして広がっている。女学校でも健康に良いと、しきりに奨められるが、あの独特の匂いや口の中に残るあと味の悪さから嫌う人も多い。かくいう私も牛乳が苦手である。だが、好んで牛乳を飲むものもいる。
一つは猫。そして、もう一つが同じ女学校に通う大上雪子である。
彼女の透き通るような白い肌は、咲いたばかりの百合のように楚々として艶やかである。結流された黒髪は鏡のように輝き、人の姿さえ映りそうであった。彼女を見る限り、牛乳を飲んでも牛になるということはなさそうだが、好んで私が飲むかと言われれば、否である。
「あのように真っ白な物をよく飲めるものね」
私が言うと大上は少しだけ頬を膨らませた。
「級長、何事も見た目で決めてはありません。三鳥二魚に数えられる鮟鱇は見場はたいそう悪いですが、味は良く。皮から肝にいたるまで捨てるところがない良魚です」
「そうは言うけど、鮟鱇と同じくらい美味しい魚でなおかつ見た目も良いものがいれば、そちらを食べるでしょ?」
同じ三鳥二魚に数えられる鯛がそうだ。鮟鱇と鯛を並べられれば迷わず後者を選ぶ人がほとんどだろう。
「いえ、私の場合はどちらも美味しくいただきます。まぁ、鮟鱇より牛鍋のほうがいいですけど」
大上はそう言って微笑んだ。私は彼女のその迷いのない笑みを見て天を仰いだ。そうだ、彼女はそうなのだ。彼女は『悪食令嬢』なのだ。多くの女生徒がおっかなびっくりで牛肉や豚肉に口をつけるなか、恐れる様子もなく好んで肉を喰らう。それが彼女だ。
「また、そんなこと言う。そんな風だから、大上は大噛の禽獣であるなどと陰口を叩かれるのです。前にも言いましたが、もう少し身を慎んで行動しなければなりません。良妻賢母を養成する本学の生徒としての自覚が、あなたにはあるのですか」
私が苦言を口にすると大上はひどくバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。大人びて見えて変なところで子供っぽいのである。
「級長……。お小言は十分すぎるくらいいただきましたので、それくらいでご勘弁いただけないでしょうか?」
彼女はしおらしい顔をこちらに向けているが、きっと話を打ち切ればいつもの彼女に戻るに違いない。私は甘いと思いつつ、仕方がないわね、とお説教を終えた。彼女は緊箍児から解放された孫悟空のように、すぐさま笑窪を見せた。
私は三蔵法師の気持ちがわかった気がした。
「そうです。みすてりぃなものを見つけたのです!」
大上が悪食と同じくらいに愛しているのが、西欧で人気があるという『みすてりぃ』である。彼女に薦められて私も数冊読んだ。探偵と呼ばれる人が、隠された手紙や誰にもわからないような暗号を解読する物語は、日常では体験できない面白さがあった。
「みすてりぃなものって……」
私は興奮して眼を爛々(らんらん)とさせている大上の口の前に手をかざすと、あたりを注意深く見渡した。幸いなことに教室には私たち二人しかいない。人々の手本になるべき級長である私が、人の秘密を暴く物語を好いていることは他人に言えるようなことではない。
「大上さん、私の立場も考えてください。誰かいたらどうするのよ」
「級長は考えすぎです。別に女子だからって源氏物語や詩集を愛読すべし、なんて校則はありません」
彼女は平然とした声をあげると、私の手をとると、そっとしたにおろした。そして、私の目の前に新聞をひろげた。それは三日前に発行された週刊東京新聞だった。記事をさらりとなぞってみたが大上が騒ぐような謎があるようには思えない。唯一、大上の琴線に触れそうな記事と言えば『赤坂宝石商強盗事件、共犯一名が逃亡中』というものだ。しかし、これは五日前に主犯は捕まっている。逃亡している共犯者も遠からず捕縛されるだろう。
「変なものなんてないじゃない」
「級長、わかりませんか?」
大上に促されてもう一度、紙面に目を向ける。
『馬車と荷車の衝突。瓶や缶が散乱す』
『篤志看護婦人會、日露戦争戦死者遺族を訪問』
『英国商船の鼠駆除係アビスニアン氏、失踪から五日』
といった記事が並んでいるが、やはりおかしいところはない。私が首をかしげていると大上は、新聞の一部を指差した。そこは紙面の端に数行書かれた広告だった。
『借金を踏倒す士族に天誅を。借金の取立て日給一円。連絡先――東京商業組合 渋沢組合長まで』
「借金取りの求人じゃないの?」
「そうです。ただ、この広告はおかしいのです」
「そうかしら? 忙しいから人を集めたいだけでしょ?」
広告の言葉こそ過激であるが、士族がなれぬ商売に手を出して倒れることは珍しいことではない。取立てが難しいということもあるだろう。最近でこそ聞かないが、士族の破産は私が生まれた時分には多かったと言う。
「いくら東京に士族が多いといっても、そこまで身を持ち崩す士族が多いでしょうか? なにより日給一円とはあまりに高給です。日雇いの車夫が四十五銭です。返してもらえるかわからないお金の取立てに一円も払っては赤字もいいところでしょう」
大上がお金の話をしたので、私は思い出した。
「大上さん、はい」
私は彼女の前に手を差し出した。大上は私の手を不思議そうに眺めたあと、ぽんと彼女の白い手を置いた。
「これはなんですか? わん、とか言いましょうか」
「違います。赤十字への寄付金。今日までって告知してたでしょう。あなたと齋藤さんで最後なの」
なるほど、とばかりに大上は手を叩くと、鞄から朱に染められた袱紗を取り出した。
「ささ、級長様。約束の金子でございます」
「私は悪徳代官か」
私は揉み手をする大上を睨みつけると、お金を他の生徒から集めた分と一緒にまとめた。数えてみれば五十円ある。一般的な家なら一年を十分に暮せる金額だ。私は失くさぬよう、しっかりと袱紗に包み直して懐にしまった。あとは学校を休んでいる齋藤からお金を預かれば級長としての仕事は終わりである。
「それだけあれば三日三晩洋食三昧できますね」
「大上さん、これはね、恵まれぬ人々のためにあるお金です。決して欲望を満たすためのものではありません」
本気ではございません、と大上は口を尖らせたが彼女の軽口はどこまでが本気かわからない。
「で、これからなのですが、広告を出していた東京商業組合まで参りませんか?」
「行きません。私は齋藤さんの屋敷に行かなければなりません」
「まさか、級長も取立てですか?」
大上は、鬼でも見るような眼で私を見た。別に寄付金を集めるために行くわけではない。
「お見舞いよ。齋藤さんは私と同じ東京士族だから付き合いがあるの。彼女が二日も学校を休むなんて珍しいから心配しているのです」
「安堵しました。級長が仕事熱心なのは知っておりましたが、病人の家に押しかけて金を巻き上げるような冷血な行いをされるとは考えたくありませんでしたから」
大上はわざとらしく衣の袖で目元を隠すと、泣き真似をしてみせた。
「そういうわけだから、あなたとはご一緒できないけど好奇心から東京商業組合に行ったりせぬように。何かあっては困るのです」
「……級長。随分と心配してくださるのですね」
心底驚いたとばかりに眼を見開いた。私はそこまで大上に辛くあっているだろうか、と少し不安になった。
「心配くらいするわよ。お友達ですもの」
私が言うと彼女は少しきまりが悪いように嬉しい顔をした。
「級長。私も参ります」
「あなたは齋藤さんとは親しくないでしょうに。それに齋藤さんのお屋敷は少し特殊(とくしゅ)なのよ」
「齋藤さんとは親しくありませんが、級長とは親しくしておりますから。お一人にするのは私も心配なのです」
まったく、大上はよくわからない。
「ただ、覚悟しておくのよ。齋藤の家は猫屋敷と呼ばれて有名なのだから」
猫屋敷こと斎藤家の屋敷は、女学校のある四ッ谷から半里ほど北にあがった牛込にあった。徳川の頃から大名屋敷や旗本屋敷が建ち並ぶ古い町並みが残る地域だ。齋藤家は家格こそ高くはなかったが、御一新のあと、西洋人が好むバタや牛乳と言ったものが売れると考え、牛を飼い始めて財を成した。特に江戸湾に入ってくる英国商船や駐在員が上客だという。
私と大上の乗る人力車が斎藤屋敷に近づくと猫の鳴き声の代わりに男の怒鳴り声が聞こえた。
「借りたものを返さないとは何事だ! 士分だったからと言って横暴が許されると思うなよ! 一度、事務所まできてもらおうか」
ただならぬ様子に私は人力車を止めさせると、車夫に私が呼ぶまで待機するよう言い含めて齋藤屋敷の門前に向かった。顔を真っ赤にした中年の男は、証文だと思われる紙を片手にまだ大声を張り上げていた。男の前には、背の低い女の子が今にも泣き出しそうな表情で立っている。彼女の手はきつく握り締められているが、小さく震えているのが見えた。
口をへの字にしても耐えている少女こそ、私の級友である齋藤峰子であった。
「あなた、一体なんのゆえがあって齋藤さんを怒鳴りつけているの?」
私が声をかけると男は怪訝な顔を、齋藤は唇を噛み締めたままの顔を向けた。
「なんだ、あんたは?」
「私はこの齋藤家と付き合いのある高屋と申します。あなたこそ何用なのです。人様の屋敷の前で大きな声を張り上げて」
男は私の頭から足先までを見ると「小生意気な海老茶式部が」と吐き捨てた。
海老茶式部は、女学生に対する蔑称だ。女子は仮名が読めれば良い。過分な学など必要ない、という古臭い男が、女学生のはく海老茶色の女袴を茶化していう言葉だ。
「俺はこの家が滞納している借金の取立てに来てるんだ! お前さんらのようにお遊びじゃない。邪魔をするな!」
濃紺色の着物に灰色のつば付きシャッポをかぶった男は、敵対心むき出しで語気を荒げた。その後ろでは齋藤が「違います」と、か細い声をあげた。私は男を睨みつけると齋藤に近づいて肩にそっと手を当てた。
「この方が持っている証文は父のものでも祖父のものでもありません。偽物なのです」
齋藤が怯えた声で言うと、借金取りが大声を出した。
「まだ言うか! そうやって難癖をつけて借金を踏倒そうとしてるのは、こちとら承知してるんだよ! 女だから手荒に出ないと思って舐めやがって。来い! このまま貸座敷に売っぱらってやる」
借金取りは私を強引に引き剥がすと、齋藤の腕を掴んだ。だが、その腕を押しとどめた者がいた。それはこれまでずっと黙っていた大上であった。大上は男の前に立つと静かに問いかけた。
「おいくらなのです」
「また、別の海老茶式部がしゃしゃり出やがって!」
男は齋藤から手を離すと大上を今にも殴りかかりそうな勢いで身体を震わせた。
「お耳が遠いのでしょうか。私はこの方がおいくらなのかお聞きしているのです」
大上はひどく冷たい態度で、齋藤を指差した。男は顔色を一切変えない大上を不気味に感じたのか、半歩さがると証書を彼女につきつけた。そこには『金五十円』と書かれていた。
「五十円だ! なんだいお前さんが肩代わりしてくるっていうのかい?」
「そうですね。では私が彼女を身請けいたしましょう」
私は驚いた。大上の家は確かに丹州でも一、二位を争う豪商だという。それでも大上が五十円もの大金をすぐさま払えるとは思えない。それとも彼女はいつも大金を持ち歩いているのだろうか。
「気風のいいお嬢様だが、支払いはいましてもらう。それ以外は認めない」
男は大上に気圧されていたが、強気を捨てることはしなかった。
「ええ、いいでしょう」
大上は頷いてみせると、私に向かって手を出すと指先をちょいちょいと動かしてみせた。私はそれが何を示しているかわからず、目を白黒させた。困惑を察したのか彼女は小声で「寄付金」と囁いた。
確かに五十円はあるのだ。私は懐の袱紗を確認すると齋藤と大上の顔を順番に見た。おそらく、それは横領というべき行動なのだろう。私は、目が眩む思いで袱紗に包まれた現金を大上に手渡した。
「ここに五十円あります」
大上は男に見せつけるように現金を見せた。借金取りの男は、本当に五十円が出てくるとは思っていなかったらしく、しばらく押し黙ったあと「確かに」と言って手を伸ばしてお金を受け取ろうとした。
だが、男の手は虚空をかすめただけだった。
「なんのつもりだ!」
大上が器用に現金を動かして、彼の手から避けたのである。
「私は本物で現金を用意いたしました。私がお金を払うのですから当然、証文を破いてもらわなければなりません。ですが、あなたではそれが出来ぬのではありませんか?」
「た、確かに。雇われの俺が勝手に破くわけにはいかない」
勢いを失った男に大上は余裕の微笑みを向けた。
「証文の持ち主は東京商業組合の渋沢組合長でしょう?」
「えっ? なんであんたが組合長を知ってるんです」
「私、こう見えても組合長とは昵懇の間柄なのです。御足労ですが、組合長にこちらまで来ていただけるように伝言できますか?」
男から最初の威勢は消えてしまった。借りてきた猫のように男は「へぇ、分かりました」と頷くと、足早に立ち去った。
「大上さん? あなた、例の新聞広告を出した人を知ってたの?」
私が訊ねると大上は、舌を出して「知りませんよ。嘘ですので」とすました顔を作った。私は大きな溜息とともに彼女の手からお金を取り戻すと、しっかりと数を確かめてから懐にしまった。
「あ、あのう。助けていただいてありがとうございます。高屋様に……そちらの方も」
齋藤が私の影に隠れるようにそっと大上を見つめる。この人見知りが激しいご令嬢は、大上のことが怖いのかもしれない。私は背に隠れている齋藤を大上の前にすすめた。
「級友とはいえ、交流がなかったでしょうから紹介します。こちらの清楚で可憐なのが齋藤峰子さん。あっちの嘘を平然とつくのが大上雪子さん。二人とも仲良くね」
私が言うと、齋藤ははにかんだ笑みを見せた。逆に大上は、頬を膨らませていた。
「級長。私の紹介にひどく悪意を感じるのですけど」
「それは日ごろの行いです」
「いま、いいことしました。人を救いました」
「寄付金を使ってね。あなたは私を横領犯にしかけたのですよ」
藪蛇だったと大上は身をすくめた。私たちのやり取りを聞いていた齋藤がくすくすと小さな笑い声を立てる。実に奥ゆかしい。大上にしても私にしてもこの手の可愛らしさはない。
「お二人ともどうか中へ。お話したいこともありますので……。少し騒がしいかもしれませんけど」
そう言って齋藤は私たちを屋敷の中に誘った。