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悪食令嬢の貪欲で優雅な日常  作者: コーチャー
悪食令嬢と消えた灰かぶり姫
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悪食令嬢と消えた灰かぶり姫(下)

「まず最初に自己紹介をしておこう。僕は藤多敏明ふじた・としあき。そこにいるのは我が家の家宰かさいである菊池綱きくち・つなと女中の喜代きよだ」


 フロッグコート姿の敏明から紹介された二人はやや困った顔で私――高屋房たかや・ふさ大上雪子おおかみ・ゆきこに頭を下げた。菊池は五十代くらいであろうか。敏明ほどでないにしても立派な背広に今風に短く刈り上げた髪を髪油できっちりと固めている。その背後にいる喜代は私たちと変わらぬ年頃だと思われるがこのような言い争いに慣れていないのか瞳がきょろきょろと泳いでいる。


「私は大上雪子と申します。隣にいるのが学友の高屋房になります」


 大上は短く自己紹介をすると丁寧に頭を下げたので、私もそれに合わせて頭を下げた。敏明と菊池は私たちの名前を聞き少し考えたあと、私をまじまじと眺めた。


「高屋? どこかで聞いたことがあるな」

「敏明様。高屋と言えば逓信省の」

「ああ、もと幕臣だった」


 敏明が勝手に納得すると「君のお父上には僕の父がお世話になっていた」と言った。私の父は逓信省に出仕しているのでおそらくそのとおりなのであろう。藤多と言われて考えてみる。確かにどこかで聞いたことがある姓である。私がしっくりきていないのに気づいたのか菊池が言った。


「敏明様のお父上は衆議院議員を務めておられました」


 そう言われて私はようやく思い出した。数期前までいた議員と同じ姓だ。確か議員を辞めたあとは缶詰の会社を興して日露戦争の際は随分と儲けたと聞いている。なるほど、目の前にいる敏明は缶詰会社の次期社長といったところなのだろう。


 儀礼的に私は微笑んで見せた。


「で、どのようなことがあったのでしょうか?」


 相手の身分などどうでもいいという様子で大上が話を促した。敏明はやや気圧されたような様子で口を開いた。


「先週末のことだ。我が家で取引先や関係者を集めて夜会やかいを行った。そこで僕は運命の女性と出会ったんだ。彼女は翡翠のような澄んだ緑のドレスに身を包んでいた」


 夜会というのは最近ではあまり聞かない言葉である。鹿鳴館ろくめいかんが華やかかりし頃は、華族や資産家は夜会と称して音楽会や舞踏会、晩餐会を催した。だが、それも十数年前の話でいまでは下火になっている。


「珍しいですね。なにかのお祝い事ですか?」

「父の還暦祝いだったんだ。僕が一席設けようと言うと、父はせっかく夜会をするのなら鹿鳴館ろくめいかんのころを懐かしんで仮装舞踏会が良いというので招待客には仮装をお願いしたんだ。だが、流石に皆がそのような衣装を用意できるはずもない。そこで、こちらで仮面だけ用意して衣装を用意できない人にはそれを着用してもらうことにしたんだ」


 確かに洋装をそろえるだけでも大変であるのに仮装まで、と言われれば招待客の苦労は並ではない。そういう意味では仮面をつけるだけというのは簡単で良いに違いない。


「では、あなたの運命の女性は仮面に緑色のドレスだったのですね?」


 大上が確認するように問うと敏明は何度も頷いてみせた。


「彼女は招待客の誰よりも輝いて見えた。あのときは新派の劇団からも余興のために十人ほど参加してもらったのだがいく人かいた女流役者も彼女ほどではなかった」


 うっとりと敏明は思い出し笑いを浮かべたが、目元を隠した状態でどうやって美醜びしゅうを判断できたのか私にはさっぱりわからない。大上はやや呆れたような瞳で敏明を見ると菊池にも似たような質問をした。


「菊池さんはその女性をご覧になりましたか?」

「はい、見ております。さらに誰かもよく知っております。坂本屋のご息女である峰子様です」

「間違いないのですか?」

「はい、峰子様は当日、馬車が故障したため急遽、力車で来られたのです。ご存知のとおり力車の座席は馬車と比べると狭くドレスの裾が皺になったり、折れてしまいます。そこで着物で来られたあと屋敷の二階の衣装部屋で着替えることにしていただきました。私がご案内いたしましたので間違いございません」


 菊池は少し緊張した様子であったが、きっぱりと断言した。


「嘘だ。あれは峰子ではない。あいつはあの日、真っ赤な品のないドレスだった」


 敏明は菊池を睨みつけるが、相手の方は首を黙って横に振るだけだった。


「……女性が誰であるか、というのは一度横に置くとしましょう。夜会ではどのようなことがあったのか教えていただけますか」

「そうだな。それが大切なことだ。会が始まったとき僕は父について取引先の人々に挨拶をしたり、酒を注いだりしていて彼女には気づいていなかった。ある程度、酔いが回ったころ新派の劇団に頼んでいた余興が始まった。それは英国では有名な悲恋の男女を扱った演劇の一部であったらしいが僕は知らなかった。だが、今から思えばあの演劇は僕と彼女を表していたのかもしれない」


 いまにも泣き出しそうな表情で敏明が言うが、大上は同情の素振りさえ見せない。こういうときの表情は非常に大人びて見える。


 彼の言う有名な演劇というのはロミオとヂュリエットのことであろう。坪内逍遥つぼうち しょうようの翻訳を新派劇が興行すると少し前に話題となった。私は見たことがないが新派の演劇は男性だけではなく女性の役者もいるという。欧米ではそれが普通だというのだが、我が国で役者といえばもっぱら男性の仕事である。


「演劇が終わると舞踏だんすとなったので僕は嫌々ながら目が痛むような赤いドレスの峰子と一曲踊ったのだ」

「峰子様と敏明様のご関係は?」

「一応は許嫁となっているが、僕は彼女があまり好きではない。彼女は僕のことをひどく好いていると何度も手紙を送ってくるが正直、困っているというのが事実だ」

「それはなぜです?」

「彼女が好きなのは僕が次の社長だというだけだ。僕がどういう人間かなど理解しようともしない」


 敏明は吐き捨てるように言った。


「いえ、違います。峰子様は本当に敏明様のことを愛しておられるのです。それを知っているからこそ旦那様も彼女を敏明様の許嫁に選ばれたのです」


 菊池が必死の形相で彼女の気持ちを代弁するが、敏明の方は鼻で笑うだけだった。


「舞踏のあとは?」

「踊り終わって会場の端で葡萄酒を飲んでいると視界の端に美しい緑色が入った。それが彼女だった。仮面からうっすらと覗く美しい唇に首筋から肩へと流れる真っ白な肌の輪郭。すべてが完璧だった。僕は盃を置くとすぐに彼女の手をとり舞踏を申し込んだ」


 彼は誰もいない場所で誰かの手を取るような仕草をみせた。これが神社の境内でなければまださまになったかもしれないが、神域で舞踏の構えをする姿はひどく滑稽であった。


「彼女は僕の誘いに、舞踏は得意ではないので、と断った。だが、僕にはその控えめさ。そう謙虚な姿が僕の心を貫いた。このときだろう僕が真の意味で彼女に恋したのは」


 まったく意味がわからない。


 わかっても理解したくない。私が大上に目で訴えると彼女も目だけで天を仰いだ。


「では、舞踏はせずに、そのままお話をされたのですか?」

「いや、残念なことにそこで夜会の終わりの時間が迫り、僕は帰る招待客に挨拶をしなければならなかった。どうしても彼女ともっと話したかった僕は菊池に彼女を二階の談話室に案内させて、客を見送り終わるまで待ってもらうように言いつけたのだ」


 敏明は明らかに怒りのこもった様子で困りきった表情の菊池を睨んだ。


「あのとき私は確かに敏明様の命令を受けて彼女を二階の談話室に案内しました。一階は使用人たちやお帰りになるお客様でバタついておりましたので、お待ちいただくにはちょうど良かったと思います」

「すべての客を送り出して僕が二階の談話室に向かった。僕は彼女の声を、仮面に隠された素顔を見たかった。だが、それは叶わなかった。談話室に入ると机に彼女が付けていた仮面が置かれており、椅子には彼女を包んでいた緑色のドレスがかけられているだけでほかには何もなかった。談話室にいるはずの彼女はどこにもいなかった。このときの僕は子供を隠された鬼子母神のように慌て、騒ぎ立てて屋敷の中を探した。だが、彼女は見つからなかった」


 ぐったりと肩を落とした敏明は、大上のほうを向くと菊池を指さした。


「こいつが彼女をどこかに隠したんだ。きっと峰子から金でも貰っていて僕の心が彼女に向くように仕向けろ、と命令されていたんだ。だから、僕が違う誰かに恋したのを察して邪魔をしたんだ」


 確かに家宰である菊池なら女性一人くらい屋敷の中で隠せるかも知れない。屋敷が大きくなればなるほどあるじの目の届かない場所が増えるものだ。


「ちなみに菊池さんは緑色のドレスの女性を談話室に案内したあとどうされていたのですか?」

「私は彼女を案内したあとすぐに一階にもどって旦那様と一緒に来客者のお見送りをしておりました。それは旦那様も認めておられるのですが、敏明様だけが認めて下さりません」

「父はほかの使用人と菊池を勘違いしているんだ」


 見事なほど菊池と敏明の話は噛み合わない。どちらかが嘘をついているのか勘違いがあるのかはわからないが、どうにもわからないことが多い。それは大上も同じらしく手を頬に当てて考え込んでいる。


「そういえば、喜代さんはそのときどうしていたのですか?」


 思い出したかのように問いを振られた喜代は「ひっ」とうわずった声を出したあと怖いものでも見るような目で大上をとらえると小さな声で答えた。


「……わ、私は一階の大広間の片付けを手伝ってから、演劇をされた新派の方たちを二階の客室の方に案内しました。そこで彼らは化粧を落とされて着替えをされました。客室は階段を挟んで談話室の反対になります」

「あなたは談話室の女性を見たの?」

「見ていません。ですが、峰子様が談話室の隣にある衣装部屋に入られるのは見ました」

「ドレスの色は?」

「いえ、あの私は」


 言いよどむ喜代をかばうように菊池が大上に言う。


「喜代は色盲なのです。彼女には赤も緑も黄色もほとんど変わらぬ色に見えるそうです。ですから、彼女にはあなたの質問に答えられないのです」

「ごめんなさい。ひどいことを言いました」


 大上が頭を下げると喜代はほっとしたように微笑んだ。それから「ありがとうございます」とかばった菊池に感謝を述べた。この姿を様子を見る限り、菊池が金を積まれて峰子の恋敵になりそうな女性を隠すような人間には思えない。


「峰子様はどうして衣装部屋に入ったのかしら? 談話室で待つように言われていたのでしょう」


 私が気になったことを口にすると菊池が言いにくそうな顔をしたあと、ゆっくりと口を開いた。


「峰子様はあまり洋装に自信がないのです。ですので敏明様が戻られる前に着物に着替えたかったそうです。ですが、彼女が着替えるために席を外している間に敏明様が来られて大騒ぎになった。おかげで峰子様は敏明様の前に出づらくなり、私にこっそりと相談されました。私は帰られた方が良いと判断して彼女をこっそりと屋敷から出しました。結果として、ドレスの女性が消えたようになったのです」


 なるほど、確かに洋装に自信がない、というのは分かる気がする。洋装は足が長くすっきりした体型の女性の方がはるかに見栄えが良いのである。例えば、私と大上が同じ洋装を着れば細く背の高い彼女のほうがよく似合うに違いない。


「嘘だ。彼女が峰子であるはずがないんだ!」

「そこまで断言されるということはなにか理由がおありなのでしょうか?」


 騒ぎ立てる敏明に大上が訊ねる。


「手だ。僕の愛した彼女の手は少し硬かったんだ。手袋越しだったがすぐにわかった。彼女は峰子のように裕福な家の出ではない。峰子の手は、茶碗より重たいものなど持ったことがないように柔らかいんだ」


 彼の言葉を聞いたあと大上は口だけで笑った。


「私はいまからひどいことを申します」


 大上は一言前置きをすると敏明を絶望の淵に落とすような言葉を吐いた。


「敏明様が愛された緑のドレスを着た女性は女性ではありません。男性です。それを知った菊池さんはあなたに醜聞が立たぬようにひと芝居うったのです。そして、あなたのことを本当に愛する峰子様もそれに加担したのです」


 口をパクパクとさせて顔を赤らめた敏明が、大上を怒鳴りつける。


「そんな馬鹿な! 彼女が男性なはずがない。そもそもいくら仮装舞踏会と言っても女装をするような男がいるはずがない」

「いるでしょう。今回の夜会にはそういう格好をしていても変に思われない人がいたではありませんか?」


 男なのに女性の格好をしていても不自然ではない人間などいるのであろうか。招待客は難しいだろう。いくら仮面で顔を隠してもすぐに誰かバレてしまう。そうなれば衆道しゅうどう趣味と言われるのは目に見えている。だとすれば残るのは誰か。


「あ……、私、分かったわ」

「あら、級長はお分かりになりました?」

「ええ、そうね。それしかないもの。新派劇の女形おんながた。彼なら男でも女性の格好をしていてもおかしくない。男性だから手は硬いし、舞踏が苦手というのも分かるわ。男性だから女性の足踏み(すてっぷ)は踏み慣れていない」


 新派は男女混合の劇団ではあるが、元々男性の職場であった役者の世界にはまだまだ女形と呼ばれる女を演じる男性がいる。演劇が終わったあと役者たちは会場にいたのだ。


「そうです。敏明様が恋に落ちたのは女形だった。菊池さんは談話室に案内したとき随分とお困りになったことでしょう。なんせ若様が恋したのが男性だったのですから。もし、これが外部に漏れれば醜聞になる。慌てた菊池さんは役者にすぐに衣装を解いて男性に戻るように命じた。でもそれが失敗でした」


「替えの服がなかったのね」


 私が言うと大上が微笑んだ。


「そうです。談話室にドレスと仮面だけが残ったのは菊池さんに余裕がなかったから。役者を更衣室になっている客間に急いで放り込み、自分は一階に戻って見送りに加わらなければならない。時間が足りなかった。結果、談話室にはドレスと仮面だけが残った」


 しばらくの沈黙のあと敏明の顔は真っ青になっていた。この世の終わりを見ることがあればこんな表情になるのかもしれない。


「ドレスと仮面を見つけて敏明様が騒ぎ出したとき、菊池さんは随分と困ったはずです。なんせドレスの女性が男性だったとは言えない。だから、あなたは談話室の隣で洋装をいた峰子様に頼み込んだ。違いますか?」


 大上の言葉に観念したのか菊池は「そうです。敏明様が男色家と呼ばれぬように決めたのです」と認めた。峰子はおそらく本当に敏明を愛していたのだろう。愛する男性が、男色家あつかいされるのを止めるために彼女は嘘をついたのだ。


「嘘だ。僕は……。僕が愛したのは……」


 敏明は夢遊病患者のようにふらふらと歩き出す。菊池はいらだちを見せたが喜代に敏明に着いていくように命じた。


「話だけでよく分かるものだね」

「分からぬことだらけです。どうしてそこまで他人に尽くせるのですか?」

「私にとって敏明様、いや藤多の家が全てだ。どんなことがあっても守りたいものだ」


 大上は「そうですか」と短く答えると菊池の方を見ずにくるりと身を翻した。


「級長。帰りましょう。夕暮れが近づいてきています」


 私はじっとこちらを見ている菊池に頭を一度だけ下げると大上を追いかけた。私の位置から彼女の表情は見えなかったが私は言った。


「良かったわね。捕まっている女性がいなくて」

「……どうして分かったのですか?」


 大上は久々のみすてりぃなのです、と言ってこの話に首を突っ込んだ。でも、そうではないのだ。彼女が一番気になったのは過去の彼女のように捕らえられた女性が本当にいるのかどうか、そこにあったのだ。


「それはね……」


 お友達だからよ、と言おうとして私はやめた。かわりに「では、次はそれを推理してもらおうかしら」と言った。前を歩いていた大上はそれを聞いて笑ったのかもしれないし、怒ったのかもしれないが私からは見えなかった。だけど、きっと前者な気がした。

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