悪食令嬢と消えた灰かぶり姫(中)
神田川を越えて雑司ヶ谷に入ると風景が一気に変わる。寺社やかつての武家屋敷が時代に取り残されたように並んでいる。それは文明開化の灯りから切り離されたような暗さがある。それでも鬼子母神の参道に入ると料理茶屋と出店が立ち並んで、往時の賑わいを見せてくれる。
小さな子供を連れた母親や私たちよりもやや年上の女性が多い。彼女らの目的は鬼子母神のご加護であることは間違いない。それに対して私たちはといえば信心のしの字もない理由でここにいる。なんとも罰当たりなことである。
参道の前で私と大上は力車を降りた。
身を寄せ合っていた車上と違って表は初冬の乾いた風が嫌に寒い。大上は車夫にいくばくかの金を与えてしばらく待つように言った。この大上家の車夫は黙って頷くと早々に近くの茶屋へと向かっていった。
「さぁ、葱間を食べに参りましょう」
大上が海老茶色の袴を揺らして微笑む。彼女は笑うと年齢以上に幼く見えることがある。反対にすましている彼女はひどく大人びていて同い年とは思えぬこともある。どの表情が本当の大上なのか私には分からないが、前者の方が良いと思っている。
「違うでしょう。お詣りに来たのですから最初はちゃんと鬼子母神に行きますよ」
買い食いのお題目のためとは言え、詣でると言った以上は鬼子母神にきちんと挨拶をするべきである。少なくとも私にしても大上しても鬼子母神に願うことがない。安産と子育の神様の前に私たちに必要なのは学問の神様である天神様か、井原西鶴をもって出雲の仲人の神と呼ばれた大黒様だろう。
「級長は真面目ですね」
「あなたが不真面目すぎるのよ。願い事がないから挨拶もしないというのはあまりに失礼でしょう」
参道を進むと醤油の焦げる匂いに混じって山椒の香りがする。五、六件ほどある雀焼の屋台からは盛んに客寄せの口上が賑やかに響く。数名のご婦人が声に捕まって雀焼を買っていた。大上はそれを楽しそうに見つめているが欲しいとは言わなかった。
「あまり親しくない人から挨拶されると困りませんか?」
「そりぁ、少し困るけど挨拶しない人よりは良い人な気がするわよ」
「そんなものですか」
「そんなものよ」
真っ直ぐに伸びる参道を曲がると鬼子母神と大きく書かれた額を掲げた拝殿が見えた。額をよく見ると、鬼の一画目である点がないことが分かる。これは鬼子母神が悪鬼のような角がないことを示しているという。大上は額を見て「角など皆、隠しているでしょうに」と笑った。
どうやら婚礼の儀に使う角隠しとかけたらしいが、あまり笑える冗談ではない。
石畳の上には近くの大銀杏から落ちた葉が黄色い斑点を作っている。拝殿の前に立つと懐から一厘銅貨を取り出して賽銭箱へ投げ入れる。礼をして拍手をするが特に願い事はやはり思い浮かばなかった。隣を見ると大上がすました顔で手を合わせていたが、なにを願っているかはまったく分からなかった。最後にもう一度頭を下げて拝殿をあとにすると大上がにこにこと笑っていた。
「さぁ、これでなにも悩むことはありませんね。食べましょう」
「結局、あなたは色気より食い気なのよね」
「食べられるときに食べる。恋はすべきときにすればよいのです。葱間が私たちを呼んでいます」
きっと葱間の方は呼んではいないだろうが、高楊枝を決め込むよりは素直に食べるのが良いだろう。そそくさと参道に戻る大上の後ろをついていくと鶏と看板をあげた屋台があった。炭火が赤々(あかあか)と照る上で串に刺された鶏肉と葱がじうじうと音を立てている。ときおり、ぱちんと鶏肉から染み出した油が爆ぜる。その度に肉の焼ける匂いがこちらに向かってくる。
「二本いただけますか」
大上が声をかけると店の主人は驚いた顔をした。いかにも女学生という海老茶袴が二人並んで葱間を求めているのだ。
「……あいよ。一本三銭で六銭だよ」
短く言った店主に三銭づつ払うと「変わったもんだ」とぼそりと呟いた。それは時代が変わった、という意味なのか女学生が葱間を買うようになった、という意味なのかおそらく後者だと思えたがそれ以上は誰も言わなかった。
よく焼けた熱々の串を受け取ると私たちは境内に置かれた腰掛けに座った。大上は器用に肉にかぶりつくとタレが口元につかぬように引き抜いた。まだ肉が熱いのかほうほう、と息を吐くと大上はいかにも美味そうな表情をした。
私は少し人目を気にして片手で口元を隠して肉に口をつける。炭火であぶられた肉の香ばしさと甘辛く味付けされた鶏肉が口の中でじんわりと広がる。なるほど、確かにこれは美味しい。同じねぎまである葱鮪鍋とは異なるが、寒い時分にちょうどいい食べ物である。
弾力のある鶏肉を咀嚼していると大上はすでに葱を食べて次の肉に取り掛かっていた。
「もう少しゆっくりおたべなさい」
私が叱ると大上は少しばかりしおらしい顔を見せたが食べる勢いを緩めることはなかった。葱間を食べている間にも参道には人々が行き交ってゆく、その中の数名の子供が駄菓子屋で買ったのであろう金魚や犬をかたどった棒飴を持っていた。
縁日や大きな寺社の通りではあの手の飴屋が多くあった。私も幼いころたまに父が買ってくれた。形が可愛らしいとどうにも食べにくく、文机のうえに一輪挿しに入れて飾っていたのを蟻に食われたことも一度や二度ではない。
「級長もああいう可愛らしいものがお好きなのですね」
「そうね。嫌いじゃないわね。あなただって子供のころは好きだったでしょう?」
私が尋ねると大上は少し困ったような顔をした。
「幼いころの私は我慢強い子供でした。母と一緒のときもあまりねだるようなこともしませんでしたし、父や義兄と暮らすようになってからもあまり子供じみたことをいうと悪い気がして、言えませんでした。本当はもっと言っておけば良かったのかもしれませんが」
私は悪いことを聞いたと後悔した。大上の幼少期は恵まれたものではなかった。命の危機にも合いながら今ここにいるのである。
「……ごめんなさい。私ったら気がききませんでしたね」
謝罪を口にすると大上は「では、飴の一つでも買ってくださいな」と言った。
そう言った彼女の口元はさきほどと打って変わって喜色が見えたので私は彼女にしてやられた気がした。あるいはそうやって私の気持ちを軽くしたのかもしれない。まったく彼女の心根は未だに測り難い。
駄菓子屋は鬼子母神の境内のすぐそばにあった川口屋と書かれた古い看板に陽気なおばさんが立っている小さな店であったが数名の子供が一銭を握り締めながら菓子を選んでいる。私は棚に並んだ飴細工の中からうさぎと蝶を選んだ。
うさぎの方を大上に手渡すと彼女は少し興奮した様子で喜んだ。
「どうしましょう。食べちゃうべきでしょうか。それとも大事に置いておくべき?」
「置いておくと蟻に食われるわよ」
私が言うと大上はすぐに察した顔をして「級長は食べられたことがおありなのですね」と目を細めた。
「知りません」
蝶の飴細工を口に頬張って私はだんまりを決め込んだ。
そのときだった。男性の争うような声が響いた。その声はゆっくりと私と大上がいる方に近づいてきた。見れば背広にフロッグコート姿の男性をなだめるように年配の男性が「お待ちください」と追いすがっている。その背後には黄八丈の着物に葉絞りの染帯を結び、前掛けをつけた下女が心配そうな顔つきで付き従っている。
「なぜ、雁首揃えて夜会の君を隠し立てするのだ。愛しい女性を隠された僕の心は、愛子を隠されて狂奔した鬼子母神にしか分かるまい!」
「敏明様、お待ちください。ですから夜会の女性は芝の坂本屋のご息女である峰子様です、と申し上げているではありませんか」
年配の男性は敏明と呼ばれた男の家宰なのだろう。
「峰子があの夜会の君だと? そんな訳あるはずがないだろう。声も顔もどれひとつとってもあの夜の女性とは違う。確かに僕はあの夜、酔っていた。だが人の顔が分からぬほど酩酊したわけではない。峰子と彼女が別人だということは酔眼でも一目瞭然だ。お前たちは夜会の君と僕との仲を裂くために彼女を隠したのだろう!」
敏明は追いすがる家宰を振り払うように鬼子母神の拝殿に近づくと大きな声で願いを叫んだ。
「鬼子母神よ! 僕が愛した女性が悪辣なる家宰、家人によって隠された。彼らは彼女を隠したばかりか、別の女性を身代わりにして僕に偽りの愛を押し付けようとするのだ。この愛しきものを隠された悲哀は鬼子母神のほか理解されまい。どうか僕を哀れともうのならば、夜会の君ともう一度会わせてください」
ざっと話を聞いてみてあまり関わりたいとは思えない一団である。私は変に絡まれでもしたら堪らない、と思い大上の方を向くと彼女はひどく愉快そうな顔で彼らを眺めていた。
「行きましょうか」
私が言うと大上は何を言っているのか分からない、というように小首をかしげると「久々のみすてりぃなことなのですよ」と言った。これはどう考えても悪い病気である。謎があれば解かねばならない、という道理はないはずなのである。だが、彼女にはどうにも謎が良いものに見えるらしい。
猫が鞠を追いかけたがるのと同じなのだ。
「ご神域での諍いはまことに参詣者の邪魔。いかなる身分であれ立場であれすぐにおやめなさい」
大上はもめていた三人の前に出るといかにも分別がある女学生という顔を見せた。突然の闖入者に三人は驚いていたが年配の男性が前に出た。
「これはお見苦しいところをお見せいたしました。我が主は恋煩いにて熱があるのです。どうかお許しいただきたい」
「しかし、いまのご発言ではあなたがた家中のものがうら若き女性を捕らえているように聞こえました」
わざとらしく大上が言うと近くの屋台にいた人々が眉をひそめる。
「いや、我々はそのようなことはしてはいない」
「しかし、それではあなたの主人が嘘をついていると?」
「嘘と言われるといささか誇張がすぎるのだが……」
歯切れが悪い様子の男に大上はさらに詰め寄る。
「あまりにも腑に落ちぬ物言い。確かに私ごとき女学生には荷が重いのやもしれません。かくなるうえは官憲に事の次第を伝え、差配をいただくしかありませんね」
ふっときびすを返した大上に慌てた男は「致し方ない」とため息をつき。ことの次第を聞いていた敏明と呼ばれていた男は「ちょうど良い。僕とお前たちのどちらが正しいか彼女たちに聞いてもらおうではないか」と話を促した。




