悪食令嬢の黒い愛猫
吾輩は猫である。名前は黒子という。
生まれは牛込で、空腹でみゃーみゃーと泣いているところを牛乳屋の娘に救われて大きくなった。助けられて言うのも変な話であるが、この家で出てくるものはといえば牛乳。牛乳に次ぐ牛乳という具合でもう一生分はあの白い液体を飲んだ気さえする。
ある日、牛乳屋の娘が吾輩に謝るのである。
「ごめんなさい。あなたのことを譲ることになりました。取って喰われぬとは思います、多分……」
そう言って吾輩は藤籠に押し込められて、住み慣れた牛乳屋から神田に移り住んだのである。新しい住処はどこもかしこも板張りで畳を敷き詰めるのを忘れたのではないか、と思うほどであった。あとで知るのだがこのような家屋を西洋屋敷というらしい。
ここの主人というのが牛乳屋の娘と年頃が変わらぬ少女なのだが、吾輩の同類かそれに近い種族と思われるような眼をしている。そのうえ、ひどく肉を喰らうのである。これはもしや吾輩も食べられるのではないか、といよいよ心配になった。主人は朝夕に吾輩に食事を出してくれるのであるが、そこにも牛や豚の肉が混ぜ込んである。美味い美味いと口をつけるのだが、このまま我輩を越え太らせるのが目的ではないかと邪推してしまう。まんまるになったころに皮を剥がれて肉にされたのでは堪らない。
吾輩は仕方がないから、出来うる限り主人のそばにいることをつとめた。主人が怪しい素振りを見せようものならすぐに逃げるのだ。そう考えていたのだが、主人は女学生というものらしく朝に家を出ると夕方まで帰ってこない。その間、誰も吾輩を構ってくれぬので朝は主人の寝台の上、昼は屋敷の二階にある窓辺で寝ることとした。
夕刻になると戻ってきた主人が我輩を膝に乗せて読書をする。何が書かれているかは無学無教養の吾輩には分からぬが、愉快な物語らしく主人はいつも微笑を浮かべている。ときおり主人が吾輩の背を撫でるのでごろごろと喉を鳴らしてやる。そうすると主人は「黒子はいいですね」と褒めてくれるが、それが何を指しているかはさっぱりわからない。
そんな主人にも一応、友達がいるらしくときおりやって来る。名前を高屋房というらしいが、主人はいつも「キューチョー」と呼んでいる。人間というのはいくつも名前を持っているのであろう。難儀なことだ。
キューチョーは少し前に主人と何やら言い争っていた。かわりに最近はオニーサマと呼ばれる目つきの悪い人間がずっと居座っている。吾輩は視線を上げて向かいの席に座る彼を見つめる。オニーサマは吾輩の視線に気づいたらしく手を振った。
オニーサマの隣の席にはクキと呼ばれる人間が座っている。彼は主人からあまり好かれていない。聞けば彼はペンジュンと呼ばれる奇態な鳥に魅入られて日々、それらを愛でているらしい。彼は吾輩を見ると「頼むから飼育場には来ないでくれよ」と言った。どうやらペンジュンという奴は吾輩でも倒せるような生き物らしい。
「まぁ、でも助かったよ。スノウがうちに嫁いでくるようなことがあればペンジュンが一、二匹食われていただろうからな」
クキは心底から良かった、というように微笑んだ。オニーサマはそれを複雑そうな顔で応じた。
「だがなぁ、いずれは雪子もどこかに嫁ぐだろう。そのとき受け入れてくれる家があるものか」
「相変わらずお前は心配性だな。こういうものはなるようにしかならん」
そう言ってクキがこちらを向いて同意を求めてきたので吾輩はなーん、と一言答えてやった。
「そういう話は私がおらぬところで話してください」
彼らの後ろから部屋に入ってきたのは一口大に切り分けられた羊羹を並べた皿を持った主人であった。主人は広間の大きな卓子の上に皿を置くと「まだお茶が入ってませんから食べてはいけませんよ」と言って再び部屋をあとにした。
残されたオニーサマとクキは顔を見合わせた。
そして、すっと白い手が伸びてきて皿から羊羹をひと切れつまんでいった。吾輩は手の主をじっと見つめてやる。だが、犯人は口元に人差し指を当てただけであった。まったくすぐにばれることを何故するのか吾輩にはわからない。
「それはそうとお前はこれからどうするのだ?」
クキがオニーサマに訊ねる。オニーサマは短く言った。
「しばらくは東京にいるよ」
「それはいい。お前に頼みたいことがあったのだ」
「せめて金になる話にしてくれよ」
オニーサマは人が悪そうに口元だけをゆるめる。常に目つきだけが悪いのでひどく怪しい話をしているように見える。吾輩が興味なさそうに二人の話を聞いていると、羊羹が一つでは足りなかったのかまた手が伸びてくる。
吾輩がふたりを凝視するとオニーサマは宙に視線を逸らして、クキは「スノウはまだかな」と厨房へと続く扉の様子をうかがった。しばらくすると主人が盆に湯呑を四つ載せて帰ってきた。主人は皿を見つめると呆れたような声を出した。
「級長。どうして食べるのですか。お茶が入るまで待てないのですか」
主人がこちらを睨む。すると吾輩の身体はするすると宙に持ち上げられて頭の後ろから「にゃんのことかしら?」と聞きなれた声がした。
「黒子を盾にしないでください、級長」
「まだ、私は怒っているのよ。兄妹喧嘩に人をいいように使って」
「私だって悪いとは思っているのですよ。だから羊羹を用意したのです」
主人は得意げに羊羹を指差す。
「まさかとは思うけどあなた、私が餡子を与えれば機嫌が良くなると思っていない?」
キューチョーが低い声を出すと主人は心底から驚いたように瞳を見開いた。
「違うのですか? 初めてお話したときもお汁粉で機嫌が直りましたし、あんぱんのときも金つばのときも喜んでおられましたのでてっきり」
「違うわよ」
そう言ってキューチョーはまたさらに手を伸ばすと羊羹を摘んだ。
「ああ、また食べましたね。駄目ではないですか」
「いいじゃない。お茶なら今届いたのだし」
「昔はもっとお淑やかであったのにどうしてこんなことに」
主人がわざとらしく嘆くと「きっとあなたと会ったせいだわ」とキューチョーは言った。吾輩はいい加減に馬鹿らしくなって身体をよじってキューチョーの手から逃れると広間をあとにした。しばらくすると広間で大きな笑い声がした。それはひどく明るいものだった。




