悪食令嬢と赤い粥(中)
神田にある大上雪子の西洋館まで来て私――高屋房は拳をきつく握り締めた。それから大きく息を吸って扉を叩いた。乾いた木が高い音を響かせる。いつもなら緊張することもない些細なことだ。それなのに口が渇くのはなぜだろうか。
反応がない扉にもう一度、手を叩きつけようと構えたときだった。
うたた寝から目覚めたような唐突さで扉が開いた。
「いま、喧嘩の最中ですので後日にしてください」
来訪を問答無用で拒否する声を発したのは間違いなく大上であった。彼女は手を振り上げた間抜けな格好のまま固まっている私を見ると愉快そうに笑った。
「あら、級長どうなさったのですか? 赤穂浪士の討入りでももう少し真面目ですよ」
洋装に長い黒髪を編み込んだ大上は女学校で会うときよりも大人びて見えた。彼女は声を出すこともできずに惚けている私の手を取ると館の中に誘った。私はなされるがままに彼女に連れられて玄関から広間に入った。
広間には背の高い男性がただでさえ悪い目つきをさらに悪くして立っていた。
「雪子、僕の話は終わっていない。来客は帰って貰いなさい」
「実次さん、御客様を蔑ろにしてまで話すことでしたか?」
大上は眼を細く爛々(らんらん)とさせて実次を睨んだ。彼は大上に手を引かれた私を見ると、一度目を閉じて溜息を吐いた。私は歓迎をされていないことを自覚しながらも頭を下げた。
「急な来訪をお許し下さい。級友の欠席が続いておりますので、級長としてお伺いしました」
「僕は言ったはずだ。雪子と関わるな、と」
「私は級長としての仕事をしに来たのです」
私が反論すると彼は小さく舌打ちをした。
「なら、無駄足だった。雪子は女学校を退学して嫁ぐことになった。もう君を煩わせることもない。だから安心して帰りなさい」
「またそのお話ですか。私はあのような偏執狂の元に嫁ぐ気などありません、と何度も申し上げたはずです。それでも嫁にやろうとお考えなら私にも考えがあります。あの月島のペンジュン飼育場に火をかけて、あの奇態な海鳥の丸焼きを作ってみせましょう」
大上は桃色の唇をうっすらと広げて微笑んだ。
「お前はそのようなことばかり言うから女学校でも悪食令嬢などと陰口を叩かれるのだ。これでは丹州にいるのと変わらぬではないか」
「言いたいものには言わせれば良いのです。私が母を喰らって生きながらえたのは本当なのですからそれを隠してどうなるというのです。嘘をついても真実からは逃れられません。実の息子を食べた周の文王がそのことで非難されましたか。それと同じです」
大上の口から母親を食べた、と聞いて私は血に口を汚した彼女を見た気がした。
「同じものか。開き直っただけではないか」
「それの何が悪いのですか? 私が嫁いで名が変われば厄介払いできると思っている実次さんよりは向き合っていると思います。大上の家から消えて欲しい、とはっきり言えば良いではないですか」
大上は半ば楽しむような、半ば憎むような眼差しを実次に向ける。それは獲物を見つけた狼のようにであった。
「そうか、雪子。お前を助けるべきではなかったな」
「別に実次さんに助けられていません。蔵の中で死にかけていた私を救ったのはお父様です。そしてこの家に迎えられたのもお父様です。あなたは何もしていないではないですか」
実次は不躾な大上を見下すように鼻で笑う、と人の悪そうな目を彼女に向けた。その目もまた狼のそれに似ていて、私はこの二人が本当に異母兄妹なのだとわかった気がした。それほどまでに彼女たちの瞳はよく似ていた。
「いまは僕が家長だ。お前の優しいお父様はもういない。僕に従って政重に嫁げ」
政重というには九木子爵の次男のことだろう。
「一週間もよく同じことばかり言えますね。そんなにあの方がお好きなのでしたら実次さんが嫁がれてはどうですか? 大上の家は私が面倒をみますので」
「雪子。僕に衆道の趣味はない。ただお前のような不出来者を受け入れてくれるのはあいつくらいなものだ」
吐き捨てて睨み合う二人を観察していた私は控えめに訊ねた。
「もしかして、あなたたち兄妹はこの一週間そのことを喧嘩していたのですか? 女学校を休んで? ただひたすらに嫁ぐ、嫁がないと?」
私の問い掛けに二人は一度、目を合わせたあと答えた。
「そうだ」
「その通りです」
目の前が真っ暗になりそうな気持ちだった。私はてっきり大上が過去の出来事を気にして出席しないのだとばかり思っていた。だというのに実際は兄妹喧嘩で休んでいただけだったのだ。馬鹿らしい。私が気を張っていたことは徒労であったのだ。
「木部さんが言ったことを気にしたわけではなく?」
「あれは有名な話ですので今更、気にしても仕方ありません」
大上は意味が分からぬというように首を傾げ、実次はそれを目も当てられないという様子で手を額に当てた。
「あのような猟奇じみた話が事実だというのですか?」
「猟奇? 五つにもならぬ可愛らしい幼子が亡くなった母親の肉に歯を立て、血を啜る、というやつですね」
他人事のように笑う大上は、そのような暗い過去がある、とは思えない。だが、彼女はあっさりと「ほぼ正しいですよ」と肯定した。それを咎めるように実次が彼女の名を呼ぶが、大上は聞こえていないように振舞った。
「ほぼというなら違う点もあるということなの?」
「そうですね。少し、長い話になるのでお茶を用意しましょうか。」
そう言うと大上は私と実次を残して屋敷の奥へと消えていった。残された私たち二人はどちらからでもなく溜息を吐いた。目だけを動かして彼の顔色をうかがうと「ほれ、みたことか」と言いたげに細い目がこちらを覗いていた。
私はそれから逃れるように広間を見渡す。十畳ほどある広間の真ん中に六人がけの卓子が置かれており、この場でかつて大上に裁縫を教えたことを思い出した。椅子は飴色をした木彫で曲線が美しい。部屋の奥には大理石で装飾をした暖炉があり、飾り棚には写真が置かれている。幼い大上が目つきの鋭く肩幅の広い中年の男性と並んで写っている。きっとこの男性が彼女らの父親なのだと私は思った。
「座ったらどうだ」
写真を見つめていた私に声をかけると実次は、疲れ果てたように椅子に腰をかけた。
私は彼から二つ離れた席についた。流石に正面に座る勇気はないし、隣に座るというのも変な気がしたのだ。会話をすることもなく気まずい思いをしていると大上が急須と湯呑を盆に乗せて帰ってきた。一応は湯呑は三つあったのだが、茶請けの菓子は二つしかなかった。
白い平皿に乗せられた生菓子がお茶と一緒に目の前に置かれる。もう一つは当然のように大上の前にあり、実次の前には茶があるだけだった。
「さて、どこからお話しましょうか」
大上は私の前に座ると茶を一口含むと困ったような笑顔を見せた。
「いや、待て。どうして僕には菓子がない?」
「二つしかないので御客様である級長と私に出したのですが、なにかご不満ですか?」
「お前は客ではないだろ?」
「菓子のひとつやふたつで女々しいこと」
大上は目を細める。実次はそれが気に食わないとばかりに茶を煽るが、熱かったのであろう。顔をしかめた。私は自分の菓子を彼に渡すべきかと思ったが、大上が首を左右に振ったのでそのままにすることにした。
「では、昔話をしましょう」
口を開いた大上は少し遠くを見た。
「私の母方は古守と言って古いだけが取り柄の寺社でした。母はそこで退屈に健やかに育ったそうです。平和だけど変わりのない日々に母は、飽きてはいてもそれが変わることはないと思っていました。しかし、あるとき背が高く目が鋭い男性が神社にお参りに来たそうです。彼は古い商家の出でしたが時代の波に乗って財を成した商人でした。母は彼から異国の話や神戸の賑わいに大阪の喧騒を聞いて驚いたそうです」
明治になって世界は一変したわけではない。江戸が東京に変わったこの地でさえゆっくりとでも確実に西洋文化がはいってきたのだ。地方ではそれはもっとゆっくりで彼女が聞いた話は御伽噺を聞いているようなものだったに違いない。
「その商人はこの前年に妻を亡くしており、寺社への寄進や参詣はその供養のつもりだったそうです。仕事にかまけて彼は妻が病であることさえ部下から聞くまで知らなかったのです」
私が聞いた話では、正妻は生きていた。だが、大上の話では彼女が生まれるより前に亡くなっているようだった。私は話の食い違いを気にしながらも彼女の声に耳を傾けた。
「あるとき、母は商人にお願いをしたそうです。一度でいいので神戸の街を見てみたい。商人は彼女の願いを聞き入れて神戸まで連れて行ったそうです。母はそこで見たこともない異国の服や装飾品、料理、文化を見て圧倒された。そして、親や商人に頼み込んだ。どうかこの街に少しの間でいいので住まわせて欲しい、と」
それはまるで世界が新しくなったようにさえ感じられたのかもしれない。
「彼女の両親はいい顔をしませんでした。ですが、商人が説得して一年に限って神戸に住めることになったのです。母はそこで様々な体験をした。商人はそんな母の元を事あるごとに訪れては世話を焼いていた。そんな商人を母は愛したそうです。三度、愛を伝えて断られ、四度目に押し切った。母はそういう人でした」
普通は逆ではないだろうか。男が愛を伝えて女が受け入れる。だが、彼女と彼女の父はそうではなかった。
「そうして、私を身篭った母はそれを父にも自分の両親に伝えることもなく神戸から去り、大阪に移り住んだ。わがままで神戸に出て子を生した。それを両親に言いたくなかったのか。商人に迷惑をかけたことを嫌ったのか。母は最後まで語りませんでした。ですが、私と母は大阪で四年間を過ごしました。そんなある日のこと、私たちの居場所は古守に見つかり連れ戻されました。母は両親や親類からどのように訊ねられても父親のことを教えませんでした」
大上はここで息を切ると生菓子に菓子楊枝を入れて求肥を綺麗に裂いた。私もそれに釣られて菓子に菓子楊枝を入れる。求肥の中にはしっとりとしたこし餡が包まれており、口に入れると豊かな甘味と黒砂糖の香ばしさが広がる。
「あまりの頑固さに古守の人々は母と私を屋敷の中でも目立たない奥の蔵に閉じ込めたのです。しかし、母は決して口を開きませんでした。そこで彼らは兵糧攻めにすることにしたのです。一日二食だったご飯を一食に、その一食も箸が立たぬほど薄い粥にした。数日で私は餓えました。激しい喉の渇きと痛むほどの空腹でぼんやりする頭で、私はずっと蔵の小さな天窓から入る光を見上げていました」
五歳にも満たない子供にそれはきつかったに違いない。
「もしかすると彼らの狙いは私が飢えることだったのかもしれません。私を救うために母が口を開くか。私が死ねばそれで良かったのですから。母はそれをどう考えていたのか。ただ、ある日から粥が赤くなったのです。私は子供の肩幅くらいしかない小さな天窓から入る夕日のせいだと思っていました」
私はその赤が何かわかった気がした。私の顔を見て大上はすべてを見通したような色の薄い表情を見せた。
「そう。それは母の血の色でした。少しでも水と栄養を私に摂らせたかったのでしょう。蔵の中で見つけた小さな折れ釘で母は自らの手首を切って赤い粥を私に与えてくれました。そのおかげか私は十日を過ぎても生きていました。音も光もろくに分からぬ状態で、父に救われたのです」
大上は暖炉のうえに置かれた彼女と父親が写った写真を嬉しそうに見つめた。
「父は神戸から消えた母が、連れ戻されているという噂を聞くと慌てて古守の家に行ったそうです。そして、彼らが頑なに閉ざしている蔵を怪しんで、蔵の天窓を破って母と私を助けたのです。母はそのときの影響か一年後には亡くなりましたが、残りの一年は幸せだった、と思います。これが私の知っている私の話です」
話を終えると大上は皿に残っている菓子をさらえて茶を美味しそうに喉に運んだ。
なるほど、確かに私が木部から聞いた話と彼女の話は少し違う。だが、どちらが本物かと言われれば大上のものが正しいに違いない。
「辛いことを聞きました。ごめんなさい」
私が謝ると大上は首を振った。
「辛いことなどありません。これは私と母の大切な思い出です。恥じたりすれば命をつないでくれた母に申し訳がたちません」
微笑む大上はとても幸せそうで過去の不幸など感じさせなかった。だが、私にはなにか泡立つような居心地の悪さが消えなかった。その理由は分からない。だが、何か座りが悪い。
「昔話はそれで終わりでいいな」
退屈そうに話を聞いていた実次は、大上を高圧的に睨みつける。
「少し、待ってください。実次さんと大上さんは年がどれくらい違うのですか?」
私が訊ねると「八歳」とぶっきらぼうな答えが帰ってきた。
あのとき大上が四歳だというのなら彼は十二歳だったことになる。だとすれば、彼から見たこの騒動はどういうものだったのであろうか。
「実次さんはそのときのことをどれくらい知っているのですか?」
そんなこと聞いてどうする、と言いたげに彼は顔を曇らせた。
「僕は古守の連中が屋敷に父を入れる入れないで揉めているのを見ていた。あの時点で雪子の父親は古守には伝わっていなかったから連中も必死だった。蔵の入口にまで人を立たせてね。家中で非道な行いをしているんだ露見すると身の破滅だと思ったんだろう」
「では、このとき実次さんもご一緒だったのですね」
私が確認すると彼は黙って頷いた。
「級長。私の話のどこかに変なところがありましたか?」
大上は私が何を気にしているのか真意がわからないというような顔をする。
「いえ、ないのよ。ないのだけど……」
気持ちをうまく言葉にできずにいると、暖炉の上の写真立てが目に入った。それは彼女が救われたとの写真だ。尼削ぎに切りそろえた髪の幼い大上と肩幅の広い父親が並んだ写真は、あのような不幸があったとは思えぬほど明るく見えた。
「あっ……」
頭を叩かれたような衝撃だった。
落ち着かない気持ちの理由が、ようやく分かったのだ。だけど、これは言っていいのだろうか。
「級長、急に黙られて大丈夫ですか?」
心配そうに私を見つめる大上を見て私は決めた。
「大上さん、あなたとあなたのお母様を助けたのは本当にお父様でしたか?」
「薮から棒になんですか。当然、お父様です。他の誰が私たちを助けてくれるというのですか?」
そうだ。家族の窮地を助けてくれるのはやはり家族なのだ。
「言いにくいのだけど、あなたを救ったのはお父様ではなく、あなたの前にいる実次さんよ」
私が指をさすと彼は声を荒らげた。
「部外者が家族のことについてあれこれと首をつっこむな」
「いえ、私は雪子さんの御友達として言わなければならないのです」
「それはどういう意味です。私は父に助けられたはずです」
不安そうに瞳を震わす大上を私は初めて見た。
「あの暖炉の上の写真はあなたとお父様よね?」
「ええ、そうです。八歳くらいの写真だと思います。それが一体どうだというのですか?」
「雪子さんの話では監禁されていた蔵の天窓というのは随分と小さいものだったはずです。ですが、あの写真を見るとあなたのお父様は身長も高く、肩幅も立派です。あの体格では天窓をくぐることなどできない。でも、あなたたちは天窓を破って入ってきた誰かに救われた。なら、それは誰か」
口元に手を当てた大上が実次を見つめる。実次はばつが悪そうに舌打ちをした。
「あのとき、実次さんは十二歳。小さな天窓でも入れる年頃です。また、実次さんの話では、雪子さんのお父様は古守の人達と争って屋敷に入ることさえ難しかった。それなのにあなたは蔵の前に人が立っていることさえ知っていた。おかしくありませんか。蔵は屋敷の中でも奥にあったというのに」
私が言うと実次は、じっと身動き一つせずに黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「……まったく余計なことをする。そうだ。雪子たちを見つけたのは僕だ」
「なぜ、あのような嘘を?」
「助けたのが父でなければ、雪子はどこかで父に見捨てられた、と思い続けるかもしれない。だから、皆で相談して決めたのだ」
確かに大上ならそうするかもしれない。彼女は変なところで頑固だ。自分を助けたのが父ではなく義兄だと知れば、義兄に懐いても父に良い思いを持たずにずっと過ごすかも知れない。それは良くない。
「そんなこと、思うわけ無いではないですか」
大上はじっと実次を見上げると短く言った。
「そう言ってもあのとき、僕たちは皆で心配したのだ」
「私は大丈夫ですよ。お義兄様……。級長にもご迷惑をおかけしました。明日は出席しますので」
彼女の柔らかな声を聞いて私は安堵した。




