悪食令嬢と赤い粥(上)
何事においても大事なものというものは存在する。昔の人はそういうものに『御』をつけてそれを表してきた。大切な客人は御客様。家族の健康と食材を守る台所は御台所という具合である。なかでも大事にされていた事が分かるものがある。
それが御御御付けである。これだけ御が続くとさぞ希少で珍しいものだと思うかもしれないが、正体はただの味噌汁である。肉や魚が膳にのぼらない日はあるが、御御御付けがのぼらぬ日はない。それほどまでに生活に根付いているからこそ、ご飯につける汁物がここまで大切に扱われたのである。
とはいえ、大切なものというものは人によって大きく違う。
私――高屋房が大切にしている鼈甲の簪も別の人から見れば時代遅れに過ぎないかもしれない。先だって知り合った華族の次男坊などは、人鳥と呼ばれる短足直立の海鳥を愛玩するあまり東京湾に面した月島に彼らのための飼育施設を建てたほどである。
大上雪子に言わせれば「あれは愛玩というよりは、耽溺というべきです」という具合である。かの男性が聞けば怒りをあらわにするに違いないが、価値観とはそういうものだ。一方では価千金でも、もう片方からは二束三文と切り捨てられる。
では、その大上がなにを大切にしているのか私にはよく分からない。彼女の好みといえば牛鍋やみすてりぃと呼ばれる文学作品であるが、それだって自称であってどれほどの執心であるか底が見えない。もしかすると彼女が口で言っているだけで実際はそれほどでもないこともあるだろう。
そう。私は友達面をしながらも彼女のことを何一つ知らないのだ。
彼女がある女生徒に『実の母の血肉を貪ぼって生き残った鬼子には人の忠節が如何なるものか分からないのでしょうね』と罵られたときに止めることも怒ることもできなかった。いや、友であるのなら真偽など気にせずに反論すべきだったのだ。
だから、大上があの一件のあと女学校に現れなくなって、私は自分の薄情さに嫌悪した。級友の中には欠席を続ける大上に厳しいものをいう者もいた。その声を聞くたびに私は彼女らよりも自分のほうが醜悪だろうと思った。だから、大上を罵った木部と廊下で出会ったとき私は彼女に怒りは感じなかった。
「大上さんは今日も来ませんでしたね」
木部が言った。
「そうね。心配なことだわ」
私は自らの心に潜む感情を押し殺したまま応えた。木部はそれを聞いて不思議そうな顔をした。
「級長は本当に大上さんと親しいのではないですか?」
「そう思っていたのですけどね。私はきっと何も知らぬのです。彼女の過去も本当に好きなものも嫌いなものも。だから、あのとき私はあなたを怒ることができなかったのです」
「それについては謝りません。私にとってはああすることが正しいことだったのです」
彼女は静かだが強い調子で言った。彼女の行いは主従として正しかっただろう。だが、一人の友人としては間違っていた。そして、私も間違っていたのだ。だとすればそれは正されねばならない。そうでなければ私は彼女の友だとは名乗れない。
「行いは正しかったかもしれません。ですが、あなたが大上に向けた言葉は正しくはないでしょう」
「それは彼女の旧悪が事実ではない、という意味ですか?」
「違うわ。木部さんが大上に向けた言葉はあの場で起こったことではなくただ貶めるためだけに向けられた言葉だったという意味です。あなたは彼女の悪行を吹聴するべきではなかった」
眉を曇らせた木部は唇を少し震わせたが怒りをあらわにする事はしなかった。
「それは認めます。しかし、事実は変わりません」
「そうね。だから私は聞かねばならぬと思うのです。大上は何をしたのです? それともこう訊ねるべきでしょうか。彼女は何を喰らったのか、と」
しばらくの沈黙のあと木部は「丹州の生まれの者なら私でなくとも知っている有名な話です」と前置きをした。
「大上さんの父親は実長と言って土着の商家を神戸や大阪でも知らぬ者がいない大会社にまで成長させた一角の人物でした。先見性のある反面、とても信心深い方でもあった彼は、よく寺社仏閣に寄進を行っていたそうです」
早くから開港した神戸は外国との交易で成功した者が少なくない。綿織糸や燐寸、茶などを売って欧米の工作機械や羅紗を仕入れて利益を得る。大上の父もそういう商人だったのだろう。
「寺社への寄進というのは悪いことではないでしょう」
「寄進は悪い話ではありません。ですが、そこの娘に手を出したとなればまた別の話です。彼女の母の家はかつての有名な神社の禰宜を務める古守家でした。彼女は自分が妊娠したことを知ると家を出て神戸で大上さんを産んだそうです。それから四年、彼女は母親とたまにやって来る父親とそれなりの生活をしていたと聞いています」
大上には兄がいた。それを考えれば彼女の母親は妾と呼ばれる存在だったのだろう。
「妾がいることは最近では珍しくなりましたが、一昔前は珍しくはなかったでしょう」
「そうです。珍しくはなかった。ですが、正妻の方から見ればどうでしょう。夫が別に家を持ち子供まで生している」
「それは……」
自分がそういう立場になれば恨むかも知れない。
「不貞を憎んだ彼女は、古守の家に教えたそうです。お前のところの娘は神戸にいるぞ、と。そして、大上さんとその母親は連れ戻され、蔵に閉じ込められた。未婚のまま子を産んだ娘とその子を家の恥と思ったのでしょう。彼女たちは閉じ込められたまま食べ物さえ与えられなかった」
食料を与えなければ遅かれ早かれ餓死するのは自明だ。
「そんないくらなんでも酷い」
「酷い。そうかもしれません。ですが、古守は娘を。その子を許さなかった。閉じ込めて一週間後、彼らは二人が死んだか確かめるために蔵に入った。そして、彼らは見たのです。餓死した母親の首筋に齧り付き、血肉を喰らう童女を」
口元を真っ赤に染める大上を想像して私はどきり、とした。
「……それでも。そうしなければ彼女が死んでいたのでしょう。なら、それは」
許されるべきだ。そう思っても次の言葉を私は繋げられなかった。
「鬼子母神でさえ子を失う辛さを知って食人をやめて仏法に帰依したというのに、実の母を食べるなど孝悌の心がない禽獣と変わらぬではありませんか」
親や年長者を尊び、年少者は彼らを敬うべきだというものはある種の美徳だろう。だが、人は誤るものだ。それは血族や年齢に関係ないはずだ。
「親は子の病を憂うものです。子が死ぬことを望む親はいないでしょう。もし、自らの亡骸を糧にしてでも生きていてくれるのならそれは孝悌に反するはずがありません」
「ともかく、古守の人間は級長のようには思わなかったのです。彼らは彼女を鬼子として怖れ、大上の家に押し付けたのです。私が知っていることはそれだけです」
木部はそう言うと私の顔を見ることもなく去っていった。
私は大上について何も知らなかった。むしろ、大上は生まれ悪し、その質は貪であり。まさに大噛の禽獣である、として彼女を悪食令嬢と呼んでいた者たちの方がよほど知っていたと言える。
彼女はどう思っていたのだろう。
何も知らぬまま友達の顔をしていた私のことを何も知らぬ奴と嘲笑っていたのだろうか。それとも素直に友誼を喜んでいたのか。私はやはり彼女に会わねばならない。すべてはそこから始まるのだ。




