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悪食令嬢の貪欲で優雅な日常  作者: コーチャー
悪食令嬢と小人の裁縫屋
12/20

悪食令嬢と小人の裁縫屋(下)

「どうして、木部きべさんは着物を裂いたのでしょう?」


 私――高屋房たかや・ふさが疑問を口にすると大上雪子おおかみ・ゆきこはひどくたのしそうに微笑ほほえんだ。それは教室に数多あまたある着物よりもあざやかで可憐かれんで、恐ろしかった。


「級長は木部さんがわざと八木やぎさんの着物を引き裂いた、と思われるのですね」


 彼女の言葉に私は首だけでうなずいた。

 自分でもどうして木部が八木の着物を裂いた、と思ったのかは分からない。だが、どうにも私にはあれが事故には見えなかった。木部は「誤って裾すそを踏んだまま引っ張ってしまいました」と謝罪をしていたが、私には空々(そらぞら)しい言葉に聞こえた。


「しかし、そんなことをしても木部さんに利益などありませんよ」


 そう言って彼女は耳元に片手を当てて見せた。耳をませ、ということかと口を閉じて集中すると教室のあちこちで交わされている言葉が入ってくる。


「なんですあの態度は。八木様は旧主でしょうに」

「だからじゃないですか。自分が成り上がったから増長しているのです」

「金にあかして京友禅きょうゆうぜんを見せびらかしていたら、八木様も同じ京友禅だったから目障めざわりに思ったのでしょう。成り金らしい下卑げびたこと」


 いたるところで発せられているのは木部への非難や悪態あくたいだった。それらを口にしているのはすべて先程さきほどまで木部の着物を美しいとか華麗かれいだと褒めていた者たちだ。歌舞伎の早着替えよりも早いのではないかと思える程の変わり身に嫌悪けんおを覚えた。


「級友にこのようにののしられることに利益があるとは思えません。木部さんが被虐趣味ひぎゃくしゅみ逆境ぎゃっきょうにひどい快楽かいらくを感じられるという可能性はありますが」


 しいたげられることに興奮こうふんするという人種は少なからずいるのであろうが、木部がそういう嗜好しこうの持ち主とはいまいち考えられない。なによりもそういう趣味があるのであればこれまでにも似たようなことがあっただろう。だが、思い出せる限り彼女がそのような立場にわざと身をさらしている場面はない。


「そんな馬鹿ばかなことあるものですか」

「ないでしょうね」


 自説をあっさりと否定すると大上は視線を動かして八木の方を見た。着物を裂かれた八木は、木部の悪口を言う女生徒と交わるわけでもなく、ただ黙って机に座っていた。その顔からは一時いちじの怒りは消えており感情を読み取ることはできない。


「八木さんは木部さんと仲が悪かったのでしょうか?」


 軽い調子で訊ねる大上の問いに私はすぐに答えられなかった。


「どうかしら? そんな印象はないけど本人たちがどう思っていたかなど……」


 分からないのである。うわべだけで付き合うことはひどく簡単だ。それこそこの教室内でこそこそと木部の悪口を吐いている連中のようにしていればいいのである。逆に親密な関係というものの方がよほど難解なんかいで分からない。


「では、直接お聞きすることにいたしましょう」


 言うが早いか。大上はするりと私をかわして八木のもとに近づくと天気の話をするかのように言った。


「八木さんは、木部さんからうらまれていたのですか? かつて権力にまかして木部さんの家にひどい仕打ちをしたとか。家禄かろくを不当に引き下げたとか」


 あまりに率直な質問に私は慌てて駆け寄ると大上のえりを掴んで後ろに引っ張った。


「ごめんなさいね。いまの大上さんのは病気みたいなものなの」


 私は必死で誤魔化そうとしたが、うまい口上こうじょうがあるわけもなくひどく狼狽うろたえた姿を見せただけだった。八木はその様子を見て何かを察したのか、少し侮蔑的ぶべつてきな瞳で私と大上を眺めた。


「級長と言うのは官憲かんけんの如く尋問じんもんまでするの。大変なお役目ね」

「いえ、そんなわけではないのよ。……でもあまりに不自然な気がして」

「質問には答えるわ。私は木部と仲違なかたがいしている気はないけど、彼女がどのように思っていたかは分からない。あの子の家は衣紋方えもんがた中間ちゅうげんとして仕えていた。役高やくだかは低いでしょうが衣装の細々(こまごま)を引き受け、裁縫屋さいほうやと呼ばれ重宝されていたはずです」


 藩主はんしゅ側から見れば裁縫屋と呼んで親しくしていた、と思っても反対から見れば位が低いとは言え武士は武士である。それを裁縫屋とあだ名されるというのは屈辱くつじょくではないだろうか。そのような鬱憤うっぷんが今になって吹き出した、と言われれば納得できる気がした。


「いまでは木部さんの家のほうが金満家きんまんかであるようですがそこは気にならぬものですか?」


 私の背を超えて大上が訊ねる。彼女の質問はあまりに歯に衣着きぬきせぬもので私は気が気ではなかった。それでも八木は怒りを見せることはなく淡々と答えた。


「時代が変わったのです。はんけんに変わり、大名は家臣を養えなくなった。そんななかで臣下がその才幹さいかんを活かして旧主よりも成功することは喜ばしいことです。うらやんだりそねむようなことはしません」


 時代が変わったとは言えやはり八木は大名の姫様なのだ。


「意地の悪いことをお聞きしました。しかし、真実が知りたいのです」


 大上は頭を下げた。八木はそれを黙って受け入れると私たちに言った。


「級長のお仕事かはわかりませんが、できるだけ穏便にすむように取り計らってください。私もその場ではかっとなって彼女を叩いてしまいました。木部が言うとおり事故であったならひどい仕打ちでした」


 八木の願いに対して私は頷きこそしたものの必ずしも叶えられるとは言えなかった。


 もし、木部が悪意をもって凶行きょうこうにはしっていたのなら、それは罰せられるべきなのである。私がそんなことを思っていると大上が袖を引いた。彼女に促されるまま教室の端に向かうと大上が口を開いた。


「級長はどう思われましたか?」

「ご立派だと思いました。あのようなことがあっても加害者のことを思いやれるというのはなかなかできぬことです」

「そうですか。私は傲慢ごうまんに感じました。木部さんが如何いかなる感情であのような行いをされたかはまだ分かりませんが、八木さんは木部さんが何を思っていたかなど関係なく許す、と言っているように聞こえました。それはあまりに上からの物言いなのです」


 なるほど、大上の言うことは分からなくはない。悪意にも好意にも理由がある。だが八木はその根本こんぽんが何かわからぬまま許す、というのだ。それでは木部が行動した理由は最後まで彼女には伝わらない。


「でも、知らぬ方が良いということもあるでしょう」


 知ってしまうことで世界が一変してしまう。知らなければ良かった、ということは世にいくらでもある。覆水盆ふくすいぼんかえらず、という言葉もあるように知れば知る前には戻れないのだ。


「事実を伝えられなかった者は幸せかもしれません。ですが、相手はどうです。ずっと自らのなかに真実を隠し通すのです。それはあまりにむごいではありませんか」


 酷いことは酷いのであろう。


「それで誰かが幸せでいてくれるのならば、それが報酬と思うこともできる方もいるでしょう」

「級長。そんなものは自己満足かただの被虐趣味です。気味が悪いとしか言いようがありません」


 私は返す言葉もなく押し黙っていると教室に木部が戻ってきた。教室の空気が冷え込むのが分かる。あちこちで会話がとまり、様々な視線が木部に注がれる。彼女はそんなこと気にせぬように教室を見渡すと、私たちの方へと歩いてきた。


「級長。先生からの伝言です。裁縫の課題提出は次週まで延期するとのことです。私の不始末でご迷惑をかけして申し訳ありません」


 木部は淡々とした様子で謝った。


「……分かりました」


 私が頷くと木部は返す刀で八木のもとに近づくと口を開いた。


「八木様、このたびのことは私の不注意で弁解の余地もありません。つきましては、裂いてしまった着物の生地を弁償させていただきたいのです。同じものと言うのは難しいですが、着物を貸していただければ柄や色彩の似たものを用意いたします」


 真摯しんしに自らの非を認める木部の姿は誠実に見えた。彼女がわざと八木の着物を裂いた、という考えをした私が間違っていたのかもしれない。八木は頭を垂れる木部に頭を上げるように言うと手ずから着物を彼女に渡した。


「過ちというものは誰にでもあるものです。一つ間違えば私が逆の立場ということもありえたでしょう。ですからあまり気負わないでくださいね」


 八木が言うと教室のいたるところで「流石は八木様」とか「生まれが違いますね」というざわめきが起こった。木部は受け取った着物をぎゅと握り締める、と安堵した表情を見せた。


「はい、八木様のご厚情、終世しゅうせい忘れません」


 そう言った彼女はどこか嬉しげであった。だが、その表情を一瞬で曇らせた者がいた。大上である。


「ご厚情を覚えておくのは木部さんではなく八木さんの方です」

「な、なにを言っているの? 八木さんが恩に感じるようなことはどこにもないでしょう」

「いえ、あります。木部さんはどうしてもその着物を八木さんの手から取り上げたかったのです」


 大上は喜ぶわけでもなく悲しむわけでもなく、無機質に裂けた着物を指差していった。木部は着物を強く握り締めるとひどく憎々しい瞳で大上を睨んだ。


「私が八木様の着物を欲してこのようなことをしたというの? とんだ言いがかりだわ」

「誰もあなたがその着物を欲しがっていた、とは言っていません。ただあなたは八木さんがその着物を着ることを止めたかったのです。だから、次の提出日までに別の生地を用意してまで、その着物を八木さんから遠ざけたかった」


 意味が分からなかった。

 どうして八木があの着物を着ることを阻止そしせねばならないのか。


「大上さん、どうして木部さんがそんなことをせねばならないの?」

「簡単なことです。八木さんの着物が着ればすぐに裂けるような如何物いかものであったからです。木部さんはそれに気づいたからどうしても着せたくなかったのです。かつての主君のお姫様が人前で醜態しゅうたいを晒す。それが許せなかったのでしょう」


 大上が言うと木部は、着物を打ち捨てて鬼のような形相で彼女に掴みかかる。


「黙れ! この人の心がわからぬ禽獣きんじゅうめ。そこまで分かっているのならなぜいう事がある」


 木部の手は大上のえりを掴むことなく弾かれた。大上は木部の腕を引くと、そのまま彼女を引き倒した。床に倒れた木部を一瞥いちべつすると大上は、落ちていた着物を拾い上げてそでを両手で引っ張った。するとあっさりと袖口から肩に向けて大きな穴が空いた。


 私は慌ててその着物を掴んだ。

 友禅とは思えぬほどざらついた手触りがした。それは熱にあたり劣化した絹のものだった。


「級長。お分かりになりましたか。もし、これを八木さんが着ていればどうなるかは明らかです」


 私が見た木部が驚いていた理由はこれだったのか、と私はようやく合点がてんがいった。


「八木様、申し訳ありません。私がもっとはやくに気づいていればこのような恥を……」


 木部は倒れたまま謝った。その声は乱れて最後まで聞き取ることはできなかった。だが、彼女にって裁縫屋、と殿様から呼ばれることは決して屈辱などではなかったのだ。むしろ、そのことを彼女の家は誇りに思っていたのだろう。時代が変わってもそれは変わらなかった。


 だから、彼女は自分が非難されても着物を裂いたのだ。

 童話の小人は主人のために靴を作った。だが、彼女は主人のために着物をやぶいた。


「そんな私の着物が……」


 八木は机にもたれかかったまま焦点が定まらぬ眼を揺らしていた。彼女がどうして如何物をつかまされたのか。それは簡単なことだろう。八木の家の家政かせいは火の車なのである。ここ数年だけで二回も競売会きょうばいかいで家宝を手放している。


 それは級友であれば皆知っていたのだ。だが、呑気に見ぬふりをしていた。


「安物買いの銭失い、といえば残酷な気もしますが見栄を張って友禅に手を出されたのが失敗だったのです」


 大上の言葉は確かに残酷だろう。八木はまがりなりにも華族なのである。それが安い生地を披露することは出来ぬことだった。だが、彼女が友禅に手を出さなければ木部もこのようなことをせずに済んだに違いない。


「大上、私はいくら恨まれても良かった。主君が恥をかかなければ誰に知られることがなくとも良かったのに。それをどうして……」


 木部はゆっくりと立ち上がると大上を恨めしげに見つめた。


「あなたはそれでいいでしょう。でも、勝手に救われた八木さんはどうなのです。助けられたことも気づかず、あなたを恨んで。そしていつかどこかで気づくのです。あのとき、私は救われていたのだと。それがどれだけ薄情なことか。あなたは率直にいうべきだったのです。あなたの着物は如何物です。着てはなりません、と」


 大上がいうことも正しい。だが、木部のいうことも私には理解できた。


「……大上は生まれわるし、その質はどんであり。まさに大噛おおがみ禽獣きんじゅうである。実の母の()()むさぼって生き残った鬼子おにごには人の忠節ちゅうせつが如何なるものか分からないのでしょうね」


 木部は毒でも吐くように大上をなじった。


「自己満足の忠節にすがるような小人しょうじんのことなど理解したくもありません」


 大上は木部に微笑んで見せたが、それは真冬の雪のような冷たさだった。


「止めなさい。二人とも口を閉ざしなさい」


 私は二人に言うと席につかせた。教室の中はひどくざわつき八木は放心したままであった。

 この日、私は諸方に報告をしたり、木部の放った言葉が脳裏から離れず級長としての仕事がはかどらず帰るのが遅くなった。大上は授業が終わると消えており、彼女と話をすることもできなかった。考えてみれば今日の彼女はおかしかった。


 あそこまで辛辣しんらつに木部を責めることなどなかったはずなのだ。それどころかひどく感情的であったようにさえ感じる。私は問いようもない疑問を考え続けていると校門の前で声をかけられた。


 声の主は、二十代中ごろの背の高い紳士であった。洋装を着こなししわ一つなくぱりっと仕上がった襯衣シャツがとても似合っている。目元は吊り上がっていてきつい印象を受けるが、陰険いんけんさは感じなかった。


「君が高屋房君だね」

「そうですが、あなたは?」


 釣り目の男は私の問いかけに愛想笑いを受けべることもなくただ短く答えた。


「僕は大上実次おおかみ・さねつぐ。雪子の兄だ」


 なるほど、確かに目元などよく似ている。だが、どうして彼女の兄がここにいるのか私にはすぐに理解できなかった。


「留学されていると聞いておりましたが」

「今日、戻ってきた。君のことは九木くきから聞いている。妹に良くしてくれているそうだね」

「はい、大上さんとは親しく……」


 私が答えることなど気にならぬのか彼は言葉を遮った。


「もう妹に関わらぬようにしてくれ。あれと親しくして良いことなど一つもない」


 それだけを言うと彼は校門の近くに待たせていた人力車に乗り込むと夕闇が迫る街に消えていった。残された私はどうしてよいか分からず、茫然ぼうぜんとその場に立ち尽くしていた。

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