悪食令嬢と小人の裁縫屋(中)
大上雪子に裁縫を教えるようになって数日、私――高屋房に日課ができた。それは大上の愛猫である黒子が悪戯をせぬように見張ることである。
飼い主に似た艶やかな黒い毛に覆われたこの猫は、ひらひらと動くものに興味があるらしく大上が縫っている着物の端に飛びついたり、生地に爪を立てたりと数々の大暴れをした。その度に黒子は飼い主に叱られるのであるが、彼女はあくび顔をするだけで何が悪いことかさっぱり理解していなかった。
このあたり飼い主によく似てきたのではないか、と思う。が、当の大上はそのようなこと気づかぬようで「黒子は人の話を聞かぬのです」と怒りを見せた。だが、その台詞は私がよくよく彼女に言っていることである。
そんな訳で私はこの飼い主似の猫を膝の上でがっちりと捕らえたまま頭を撫でている。
黒子はそれが不満らしくみゃーみゃーとなにか不平をもらしたが、三日目になるころにはすっかり諦めたようであった。同じころ、私も心が折れかけていた。それは大上の不器用さである。仕付け糸と本縫いの糸が交差してしまい解きなおすのは当たり前、ヘラで印をつけたにも関わらず縫い目が外や内にうろうろするなんていうことも多い。
「大上さん、なんというかここまで来ると才能さえ感じるわね」
「級長。いろいろありますが黒子がじゃれついたり、爪を立てなければ解きなおすこともあと四回は少なかったのです。それを含めて裁定のやり直しを要求します」
愛憎の入り混じった瞳で彼女は愛猫を見つめる。私の膝でゴロゴロと喉を鳴らしている黒子は主人の気持ちなどわからぬようでなーん、と答えて目を閉じた。どうやら私と同じで大上の裁縫に飽きてきたらしい。
「そうは言ってもあなたが下手なのは事実なのよ。見てごらんなさいな。黒子も飽きて寝てしまったわ」
「まったく不義理な猫です。思いっきり水で洗ってやろうかしら」
八つ当たりもいいところだろうが効果は絶大だ。黒子に限らず猫は水が苦手なものが多い。いきなり、水で洗われたりしたら恐慌におちいることは間違いない。
「おやめなさい。猫は昔から三日で恩を忘れるもの。それを恩着せがましく言うのは女々しいというものです」
「あら、級長。私は女です。雄々しいより女々しい方が良くないでしょうか?」
ああ言えばこう言う口である。しかし、こうなると彼女の手が止まるので私はわざとらしくため息を漏らすと「どちらでもいいわよ。私が解いておくからあなたは糊と湯とこてを持ってきなさい」と言った。大上は糊ですか、と首を傾げていたが素直に部屋から出ていった。
私は膝上の猫を床におろしてやると、大上が縫いかけていた身ごろの返し留に糸切狭を入れる。次に糸が交差してしまい絡まった箇所をしごきながら糸を抜いた。身ごろが綺麗に二つに分かれたのを確認すると私は机の上に身ごろを綺麗に並べ背の部分を重ねた。
その様子を黒子が大きな瞳で見ていたので私はぼやいてしまった。
「本当は如何物の作り方で良くはないのよ」
黒子は訳がわからない、という顔をしたあと部屋の外へとゆっくりと出て行った。気まぐれなものである。そんなことを思っていると入れ違いで大上が米糊と湯の入った桶とこてを大きな盆に乗せてやってきた。
「持ってきましたが何に使うというのですか?」
「本当はあまり教えたくないのですが、如何物をしましょう」
「いかもの?」
大上が間延びした声で反芻する。
元々は江戸の頃、呉服屋が火事になると熱で駄目になった生地が巷に流出し、江島屋怪談に出てくるような粗悪な着物が作られた。これらは着るとすぐに裂けたり、ほつれたりするので如何物と呼ばれた。それが歌舞伎で早着替えが流行るようになると糊で貼り合わせただけの着物も如何物と呼ばれるようになった。
この如何物は糊で貼り合わせただけであるため、動いたり引っ張ればすぐにばらばらになってしまう。つまり見た目だけの張子の虎である。
だが、裁縫だけで考えると初めに糊で着物を貼り合わせてしまえば仮縫いの工程が省くことができる。そのため、横着者がよく使う手口となった。
私が説明すると大上は目を輝かせて「なるほど、裁縫における奥義のようなものですね」と喜んだ。実際には奥義どころか邪剣の類である。生地を張り合わせればそこからの修正は効かず。貼り合わせはこてを当てるので熱で生地も傷むのである。さらに出来上がったあとも糊を洗い流さねばならずさらに布が弱くなる。
「本当ならしっかりと仮縫いからやるのが正道ですが、仕方ありません」
私は目を伏した。正直、これ以上は見ていられないのである。
「まさに仕上げが肝心というわけですね」
「今回ばかりはそうするしかありません。九仞の功を一簣に虧く、と言えなくはありませんが、課題の提出を優先することにいたしましょう」
私の諦めとは反対に大上は喜々として糊を湯で溶いてゆく。そこからは裁縫というよりも工作である。折り目に合わせて糊を塗り、こてを当てるのだ。ものの半刻ほどで如何物は完成した。
「このままでも着れそうですね」
「別に止めないけど、あっという間に裂けて醜態を晒すことになっても知らないわよ」
「それは恐ろしいことです」
大上は平然とした顔で恐怖を口にした。
「そう思うなら、あとはしっかりと縫いなさいな。そうすれば手抜きをしたとは言え、自分で作った、とは言えましょう」
私はそう言って大上に針と糸を持たせたが、さらに完成まで四日もかかるとは思わなかった。
提出日、多くの女生徒が自分の作品を出してお互いに見せ合っていた。
おかげで教室のなかは色の洪水に飲まれたようで目が痛くなるほどであった。
咲き誇る桃の花が染め抜かれた京友禅は八木男爵の娘。空色の地に濃薄によって奥行さえ感じさせる牡丹や菊が花咲く加賀友禅は加賀に本店を持つ商家の娘。という具合にまるで高級な反物の博覧会が行われているようだった。少し考えてみれば分かったのだ。級友とは言え自分が作ったものを披露するのである。少しでもよく見られたい。家格に見合うものを。など考えるのは当然だった。
なかでも衆目を集めたものがある。
一つは女学校のなかでも一人しかいない伯爵家の娘である知足院幸子のもので、藤の花と蔓がたおやかに広がり、その間を金糸で輪郭を引いた燕が三羽飛んでいる。その陰影が染めたとは思えぬほど見事なものだった。
もう一つは、木部咲のものだ。白地に芽吹いたばかりの若葉と淡い赤で染められた沈丁花。鶯は羽の一枚一枚が丁寧に描かれ、今にも鳴き出しそうだ。漢詩の江南春の一節を生地に染め抜いたものだろう。
「千里鶯啼いて 緑紅に映ず、というところでしょうか」
振り返ると大上がとくに関心もなさそうに詩をつぶやいていた。私は頷くと「ここまで美しいと目に毒ね。生地だけでどれほどになるか」と苦笑いをした。これは裁縫の課題である。縫いや断ちが美しければ良いのである。それを忘れて生地の美しさを競うというのは本末転倒と言える。
「ああいう手も良かったかもしれませんね。木を隠すなら森の中。針仕事の悪さを生地の色合いや図柄で誤魔化す。次回はあの手をお借りする、としましょう」
私の頭には金糸の刺繍で分厚くなり針の通りの悪くなった生地を目の前に困惑する彼女が容易に想像できた。
「ああいうものは腕がないと縫うだけで苦労しますよ。柄があるので生地をどのように取るかも頭を使いますし、なによりあのような生地で如何物を作ればろくに糊付けもできしません」
友禅に押される金箔や細密な刺繍は糊に弱いのだ。
「難しいものですね」
「だから、習うのですよ。簡単にできるのなら習うことなどでしょう」
私が言うと大上が珍しく目を丸くして感嘆の声をだした。なにやら琴線に触れるようなことがあったのかもしれない。理由はどうであれ、大上が裁縫に興味を持つことはいいことだろう。彼女の趣味の多くはあまりにも乙女のものとは動く食指が違うのだ。
一般的な乙女達は、知足院や木部の周りに集まって美しいとか華麗と口々に賛辞を送っている。実際にあれらは良いものであるだが、それ以上に持ち主と友好的な関係を持ちたい、と思っている者も多い。特に木部の周りにはそういうものが潜んでいる。
彼女の家は三代前までは丹州八木藩の中間であった。それが明治に入って西洋建築の需要があると見越して石材の販売を行った。実際、京都や大阪、神戸では多くの建設需要があり一気に木部の家は財を成した。その富はかつての旧主である八木男爵をはるかに超えて三井や鴻池にはおよばずとも財界で大きな力を持つ、という。
その木部家の一つ種である彼女に取り入るのはそれなりに利益があるのだろう。
私が木部を見ているのを察してか大上が言った。
「我が家も豪商とは呼ばれますが、木部さんの家とは比較にならぬでしょう」
「そうなの。あなたの家も大概だと私は思うのだけど」
西洋屋敷に住む大上は私から見れば十二分に大金持ちだと思うのだが、上には上があるということなのだろう。逆に下には下があり、我が家のような官吏の俸給は彼女らから見れば実に貧しいに違いない。
「驕れる者は久しからず、ですよ。源平は既になく、そのあと高位にあった家も季節がうつろうように変わっていったことを思えば、我が家もいつ落ちぶれてもおかしくありません」
確かにそうなのだろう。二百五十年の太平を維持した徳川様もいまでは諸侯の一人にすぎない。登れば降りるしかない。それが早いと没落。緩やかだと衰退、と呼ばれる。それだけの違いなのかもしれない。
「うちはいいのかもしれませんね。まだ登りすらしていないのですから」
「そうですね。華族のお家でも家計に火が回って家宝を処分されているという話はよく聞く話です」
大上は控え目に言ったが、このところ競売会が開かれることが多い。その多くは旧大名家で、なかには聞いた名も含まれている。
しかし、この場では誰もそのことなど考えぬのか「八木様の京友禅。素敵です」とか「どこの呉服屋でお求めになられたのです。私もそこで生地を選んでみたいわ」と呑気な会話が繰り広げられている。
「この様子では午前の授業は皆、うわの空ですね」
大上が人の悪い笑顔を見せる。
「午後にはそこかしこで広げている着物の披露会ですからね。気持ちは分からぬことはありません」
「私はあまり分かりません。見せ合って何になるというのです」
「特に意味はないわよ。ただ、見せたいだけなのよ」
私が言うと、大上はまったく分からない、というように目を細くした。他を見れば木部も他の女生徒の着物を手で触り「良いものね」とか「色が映えますね」と微笑んでいた。私が知る限り彼女は裁縫が上手い。数ヶ月前にあった刺繍の課題でも難しい図案を仕上げていた。
「そう言えば、私は級長の着物を見ていないのですが」
彼女の着物は制作のころからずっと見ているが、私のものは見せていない。別に見せても良かったのだが、私のものは臙脂に木瓜という地味な小紋であった。一方、大上のものは染柄こそないものの立派な丹後縮緬であったためどこか気恥ずかしさがあって見せなかった。
「あなたを教えるのに必死でしたからね」
私が言うと大上が頬を膨らました。本当のことを言うのも気まずく視線を逸らすと木部がひどく驚いた顔をしていた。そのとき彼女が見ていたのは八木のものであったのだが、木部が驚くようなものではない。
「どうかしましたか?」
いつの間に回り込んできたのか、大上が私の前に顔を突き出す。
「いえ、木部さんが何かに驚いていたようだから」
「ここにある着物で彼女が驚くような一品があるとは思えませんけど」
「いえ、あるわよ。あなたの二十二回も解き直した着物とか」
私は自分の頭に浮かんだ悪魔的な台詞を大上の耳に吹き込んだ。すぐに大上の反論が響くだろうと覚悟していると、それよりも早く女性の金切り声がした。
「なんてことを!」
声の元は八木であった。彼女の視線の先には身ごろから裂けた着物があった。それは薄紅色の桃の花が描かれたもので間違いなく八木のものであり、それを手にしていたのは木部であった。
「申し訳ありません。誤って裾を踏んだまま引っ張ってしまいました」
木部はひどく落ち着いた様子で謝罪を述べた。彼女の足もとでは裂けた着物のすそが靴と床に挟まっている。事故なのかもしれない。だが、それをそうですか、と許せるような出来た人間は少ないに違いない。
八木は無言のまま木部の頬を張り手で引っぱたくと裂けた着物を手に自席に戻ると気が抜けたように動かなくなった。反対に木部は「先生に報告してきます」と言って教室を出て行った。
彼女の姿が消えると周囲の女生徒は口々に「あれはわざとではないの」とか「八木様の友禅が立派だから気に障ったのでしょう」と憶測をはいた。だが、私にはどこか腑に落ちぬものが残り疑問を大上に向けていた。
「どうして、木部さんは着物を裂いたのでしょう?」




