悪食令嬢と小人の裁縫屋(上)
洋書といえばかつては蘭学者の専売であり医学に関するものが多かった。それが御一新の前後からは英語に仏語、独逸語と様々なお国言葉が入ってきて大いに混乱したという。それでも入ってくる本の内容は医学や数学、化学というもの市井に暮らす身からはほど遠いものだった。
それがこの頃は、多くの娯楽本が入国している。江戸の頃から貸本に戯作に親しんだ人間がそれらに飛びつくのは当然な成り行きであった。なかでも西洋の御伽噺はあっというまに童や女子の心を掴みとってしまった。
目端が利く噺家なぞはこれを上手く取り込んで落語を仕立てて大いに人気を博した。かくいう私――高屋房もそれらに親しんだものである。
なかでも『小人の靴屋』の一遍は繰り返し読んだ。貧しい靴屋の仕事をどこからともなく現れた小人が助けてくれる、という物語であるのだが、当時の私には自分が寝ている間に難題を片付けてくれる小人がとても羨ましかったのだ。このころ私は母から裁縫を指南されている途中で「縫い目が荒い」とか「縫い目が曲がっている」と文字通りに躾られていた。おかげで寝ているうちに誰かが縫ってくれないものかと本気で願ったほどである。
幼い頃の縫い物を見れば自分でも笑ってしまうほどにたどたどしいのだが、いま目の前でちまちまと手を動かしている彼女はそれよりもひどい。彼女の名は大上雪子という。丹州が豪商の娘である彼女が凛と背を伸ばし着物の身ごろに針を通す姿は遠目に見れば絵になる。彼女にはそういう美しさがあるのだが、手元では糸がとぐろを巻き縫い目は源義経の八艘飛びのように勢いよく散らばっている。
「見てくれだけは上手なのに、どうして手は不器用なのかしらね」
私が呆れ声をあげると、大上は恨めしそうにこちらを見た。どうして、私が彼女の裁縫を教えているかといえば実に簡単な話である。買収されたのである。
一刻ほど前のこと。一日の授業を終えて帰り支度を整えていると背後から鈴のなるような声がした。
「級長。お帰りですか?」
振り返るとそこには伏し目がちにこちらをうかがう大上がいた。それは狼が獲物を狙うときのようにゆっくりとしかし確実に迫ってくるものだった。こういう場合、彼女の続く言葉は予想がつく。そして、それこそが彼女が『悪食令嬢』と呼ばれる所以である。
「兎をとろとろになるまで煮込んだシチゥを出す店があるのです」とか「仏人好みの蛙をばりばりになるまで揚げ焼きにした料理があるのです」というのである。だから、私は機先を制してはっきりと言った。
「行きませんよ」
百歩譲って兎は良しとしても蛙はいただけない。あのお堀や川でげこげこと喉を膨らましているあれを喰らうというのはいかにも気味悪く、野蛮である。そもそも欧州の人々があのような生き物を食べるのか理解しがたい。
「そうですか。それは残念なことです」
大上は驚くでもなく落胆するわけでもなく私を見つめたまま首を横に振る。
「ええ、私も残念だわ。次の機会にお願いするわ」
「分かりました。神戸風の金つばが届いておりましたのでご一緒にと思ったのですが仕方ありませんね。紅華堂の金つばは厳選した丹波の小豆を指で挟むだけでほろほろとほどけるくらいに煮詰め。それをたっぷりの砂糖を加えた寒天で固めたものを餡とします。この餡にほどよい弾力が有り、よーくにつめた小豆の香りと甘味が口の中で蕩けるのです」
東京で金つばといえば単に餡子を四角に握り、水に溶いた小麦粉の生地をさっとつけて炙った銅板の上で一面づつ焼いていくものである。これはこれで良いものである。だが、寒天餡というのも実に口当たりが良いのである。それは餡子を握ったものとは格段の違いと言って良い。
「そ、そう。それは残念だわ」
「あ、そうです。この金つばの生地というのが小麦だけはなく米粉をひと握り混ぜてあり、何とも言えぬもちもちとした食感がするのです。それがまた寒天餡と相性が良い。しかし、級長は来られぬということですので、愛猫と寂しく分け合うことといたします」
大上は人の悪い笑みを浮かべると深々と私に頭をさげるとくるりと踵を返した。私はそれを呼び止めずに見送るべきかと思案したが、金つばの魅力はあらがいがたく私は彼女の背に声をかけていた。
「大上さん……。そこまで寂しいのでしたらお付き合い致します」
声に反応して大上は歩みを止めたがすぐには振り返らなかった。
「いえ、寂しいというだけでお忙しい級長のお時間を割いてもらう、というのは心苦しいので大丈夫です」
「別に忙しいとはいってないわよ」
「あら、では忙しくもないのに私は断られたのですね。級長は実にお人が悪いことですこと」
振り返った大上はじっとりとした目をこちらに向けると頬を膨らませた。
「悪かったわ。きっといつものように下手物料理への招待だとおもったのよ」
「下手物とはひどい言われようです。兎や鹿、蛙にしてもきちんと料理として成立しているものばかりです。西洋文化を取り入れよう、というのが当代風でしたら異なる食文化も認めるのが道理というものです」
正論であるように聞こえる。だが、聞こえるだけだ。
彼女は単に食べてみたいだけなのである。
「はいはい、あなたが正しいです。私が悪うございました」
今度は私が不貞腐れてみせると大上は少し楽しそうな顔をした。
「悪いと思っておられるのでしたら金つばと交換で一つ頼みがあるのです」
彼女が頼みごとをするというのは珍しい。だからこそ不気味であった。しかし、私に退路は見当たらない。
「どんな頼みかしら?」
「裁縫を教えていただきたいのです」
裁縫という言葉が大上から出たことを私は目を白黒させて驚いた。それは頼みというには実にささやかなものであった。女性のたしなみとして裁縫は必須であり、女学校でも国語や算術と合わせて裁縫の授業がある。
「……それなら、構わないけど」
応じると大上は童女のようにくったくなく微笑むと私に向かって手を出した。
「行きましょうか」
私は自分の敗北をため息でしめして彼女の手をとった。こうして私は金つばで買収され、彼女に裁縫を教えることになったのである。このとき握り締めた彼女の手は本当に白く美しかった。だが、それが針を持たせれば実に不格好に動くのである。
私が呆れてみせると表情だけは涼しく繕っていた大上が口をへの字に曲げて不平を漏らした。
「紡績機が自動で布を織り上げる時代に手ずから着物を仕立てるとか必要ですか。こういう物こそ専門の職人に任せるべきです」
釣り目がちの瞳がこちらを見つめる。彼女が住む西洋屋敷の広間は、着物になる前の反物が広げられ、卓上 ( テーブル )には鋏や糸が散乱している。針山などは暖炉の上まで侵攻し絵皿を押しのけつつある。
「任せてもいいでしょうけど、裁縫の評価は丙で決定ね」
女学校では成績を甲乙丙で審査するが丙は一番下である。特に裁縫の科目は課題の提出がそのまま評点になるので下手は下手なりに着物を仕立てるしかない。
「別に裁縫など学業と関係ないではないですか。それよりも算術や語学を学ぶべきなのです」
「まぁ、学業とは関係ないでしょうが良妻賢母としては、必要なことだと思いますよ。あ、そこ糸がだまになっています。解いてやり直し」
私が手元を指差すと彼女は狼が縄張りを荒らしに来た人間に牙をむくように低い声で唸り声をあげた。それも長くは続かず、大きな溜息とともに縫いかけの身ごろのともども机に突っ伏した。
「級長はよくこのような細かい作業ができますね」
「それはもう母から厳しく躾けられましたからね。子供のころは嫌で仕方ありませんでしたが今となればそうでもありませんよ。大上さんも諦めずに続けることです」
大上は机から上半身を起こすと無表情に近い顔をすると少し黙ったあと口を開いた。
「意外です。級長は針仕事が昔からお好きなのだと思っておりました」
「できるようになるまでは嫌で仕方なかったわ。でもね、母が口煩いくらい教えてくれて、だんだんと好きになっていたのよ。あなただってお母上から何か教わったりしたでしょうに」
私が言うと大上は少しだけ寂しさを感じさせる柔らかい微笑を浮かべた。
「ええ、母はとても大切なものをくれました。針仕事や料理などは教えてくれませんでしたが」
なにを教えてくれたのか。私は尋ねようと思ってはたと気づいた。私は彼女の家族についてあまり知らない。兄がいることは彼女から聞いているのだが、彼女の父親のことや母親のことは聞いたことすらない。旧友たちがまことしやかに言う彼女が妾の娘だということも真偽を知らないのだ。
「……それは良いことです」
少しの沈黙のあと私は短くそれだけ言った。大上は少しだけ苦笑いをした。
「級長はやはりお優しい人ですね。尋ねてみたいこともありましょうに」
「それを言えば言いたくないこともあるでしょうに」
私が応じると彼女はわざとらしく胸の前で両手を握り締めた。
「だからこそ心配です。級長のような気づかいの上手な女子は、碌でもない男にころりと騙されてしまうものです。本当にいまから心配でなりません」
どうにも大上は私に男性を見る目がない、と思っているらしい。あるいは男運がないとでも言いたげである。私から言わせれば大上の方がよほど変な男に捕まるのではないか。風変わりな大上に好意を寄せる、というのは少なからずその素養が必要なのだから。
「余計なお世話です。あなたこそよほど変なのに好かれるわよ」
「そうですか? でも私の占いでは級長は、線が細いくせに身長の高い目つきの悪い大切なことはさっぱり語ろうとしない男に騙される、と出ているのです」
妙に具体的な占いである。そもそも彼女がそんな巫女のようなことできる、という話は知らない。
「大上さんに占いができるなんて聞いたことがないわ」
「間違えました。占いではなく勘でした」
悪びれずに片目をつぶってみせる彼女に私は肩をすくめた。
「ほら、休憩はもういいでしょ? はやく着物を縫いなさいな」
私が促すと大上は手元に広がる身ごろを眺めて数拍おいて手を動かし始めた。着物は基本的に一反の布から二つの袖と二つの身ごろを切り出し、残った生地から衽と地衿、共衿を切り分けることで成り立っている。あとはそれらを縫い合わせるのだが、身ごろの合わせがずれたり、縫いが荒いと不格好になる。いま、大上は二つの身ごろを縫い合わせる背縫いをしているのだが仮縫いから歪んでいるせいでうまくいっていない。
「級長。私、思うのです。これはこのまま完成しても乙どころか丙なのではないでしょうか?」
「そうね。確か提出前に皆でそれぞれ作ってきた着物を着ることになっているからそこで笑われるでしょうね」
課題になっている着物をそれぞれが着て見せるのである。このときに背縫いが曲がっていたりすると柄や織りが合わずに見苦しい。これが袖であればまだごまかしようがあるが、背のような縫い幅がひろく、隠しようがない場所であるとごまかしもできない。
おそらく、大上がいまのまま提出すると少なからず笑われるのは間違いない。
「金つば三つくらいで縫っていただけませんか?」
大上が冗談ともつかない真面目な声を出す。私は鯨尺でぴしゃりと机を叩いた。
「袖を縫う前に袖の下で買収しようとは何事です。下手でも自らの手で行うのが大切なのよ。あと二週間は猶予があるのだから手を動かしなさい」
「そうは言いましても」
「大丈夫よ。ちゃんと私が何度でも教えてあげるから」
私が言うと大上はじっと私の目を見つめると「私、嫁を貰うなら級長がいいです」と恥ずかしげもなく言った。
「嫌よ。あなたの嫁なんて気疲れで早死してしまうもの」
大上は目じりを険しく吊り上げて怒ったが、私が「背縫いに集中しなさい」と優しく諭すと借りてきた猫のように静かになった。




