表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/35

第6話〜ヤグチ

その男が最初にやってきたのは、

もともと店の常連だったKという客に

連れてこられたのがきっかけだった。


新規の客は、いきなりテーブルには着かせない。

最初はソファに座らせた上で対応する。

一人だけで来た新規客であれば

入り口で対応するのだが、

常連が一緒であればそうもいかない。


常連の紹介と言うのはなかなか難しいもので、

断りたくても断れないことも結構ある。

「新規を一切受けてない」

と言ってしまえば何とかなるのだが、

そうではなくて、単に連れてきた客が

どうも胡散臭い場合は本当に困る。


ソファに座った男を観察する。

一見すると冴えない風体なのだが、

当然のことながら

店の黒服に暴力団関係者かどうかを確認させる。


そのやり取りを少し離れたところで聞きながら

僕はおそらくヤクザ者だろうと直感した。

ヤクザ者特有の話し方、というのがあるのだ。


「違うよ」


男が口にしたのは最初はそれだけだった。

吐き捨てるような、その喋り方が引っかかる。

連れてきたKも、友人を連れてきたなら

入れるように口添えするのが普通なのだが、

我関せずと先にテーブルに向かったのも気になる。

対応した黒服も引っかかったのだろうか、

困ったような顔を僕に向ける。


確かにこのケースの応対は非常に難しい。

常連が連れてきた客を

確証もなく、指の欠損なども確認できない時点で

断るわけにもいかない。本人が違うといっているのだ。


モタモタしていれば、それだけで揉め事につながりかねない。

すばやくKのところに近寄って小声で話しかける。


「K様、あちらのお連れ様ですが

組関係とかは大丈夫ですか?」


そう尋ねるとKは


「本人が違うってんなら違うだろうよ。」


と言う。責任は負わないよという言い方だが、仕方ない。

となるとこちらにできることと言えば

念を押すというか、予防線を張ることくらいだ。

それは一応僕自身が応対した方が良いだろう。

新規客用の規約書を持って近寄る。


「恐れ入ります。上からご新規のお客様には

必ず伺うように言われておりますので。

組関係などが大丈夫でしたら、こちらの会員誓約書に

組関係ではないとか、返金には応じないとか

色々書いてございますので、

ご覧になった上で同意のご署名をお願いできますか?」


そう言って規約書を見せる。

男はろくに見ようともせずにペンを取る。


「それではこちらにお名前をフルネームで頂戴できますか?」


僕が示した署名欄に、男は乱雑に名前を記入する。

もちろんその間も、観察は続く。

指、アクセサリー、入れ墨・・・何か手がかりは無いだろうか。

けれど外見的な特徴は、見当たらない。

ヤグチと書いてペンを置こうとした男に尚も重ねて言う。


「恐れ入りますがフルネームでお願いできますか?

同じお名前もいらっしゃいますので。」


軽く舌打ちが聞こえたような気がしたが、

これは譲れない部分だ。

男はさらに乱雑な字で記入する。

どうやらイチロウと書いたようだ。


「ヤグチイチロウ様でよろしいですね?

お手数おかけしました。

それではお席はお連れ様のお隣でよろしいですか?」


そして僕はしばらく遠目ではあるが

ヤグチと名乗った男のプレイぶりを観察する。

観るべきなのは平均ベットの額だけではない。

チップの扱い方、盆面・・・

違うと本人が言ったところで、

そちらに手がかりがあるかもしれないのだ。


小一時間観察していたが、特に問題は無さそうだった。

最初に感じた違和感はあるにせよ、

本人が組関係ではないと言い切って、

盆面にも問題が無ければ、これは受け続けるしかないだろう。

連れてきたKが、この辺では顔の広い客だと言うのもある。

変に機嫌を損ねたくは、もちろんない。


ただし、ヤクザ者を受けるとすると、

いつかは必ず揉め事になる。

半分返せだとか、そんな話が最後には出てくる。


違うと言って受けているのだから、

突っぱねるのはもちろんなのだが、

こちらに粗相があった場合には、

少々厄介なことになるのは覚悟しなければならない。


とりあえず、黒服用の連絡ノートに記入する。


氏名、人相、風体などを記入した上で

各時間帯の黒服が注意して対応するように書いておく。


「特に気をつけなければならない客」


という客がいるのだ。

お買い上げや注文に反応できなかったり

場面で粗相があった時に

冗談交じりにフォローすれば済む客と

機嫌が悪いとトラブルになる客がいる。


店側もわざとやるわけではないのだが、

緊張感が欠けてくると、ミスは出る。

その緊張感を保たせるには

しつこいくらいに伝達しなければならない。


「転ばぬ先の杖」


カジノではおそらく金言だろう。

普通の接客業よりも、その辺はシビアなのだ。

問題が起きたからと言って、

少なくともこちらから警察を呼ぶことは出来ない。

法律とは違うルールがあるし、金もかかる。

問題が起きないようにする努力は欠かせない。


そんなこちらの心中など

もちろん分かるはずも無いのだが、

ヤグチはちょくちょく来店するようになった。

ビッグベッターではなかったが、

長時間、おとなしく打つ客だったし、

問題を起こすようなことも無かった。


案の定、ある日までは、だったのだが。


ヤグチは平均すると週に3〜4日ほど来店し、

勝ち負けの金額もだいたい30万前後だった。

俗に言う「中堅どころ」に分類される客だ。


しかし、中堅どころと言っても、

トータルすればやはり負けの方が多くなる。

1勝2敗ペースだとしても毎週30〜60万負けるのだ。

これだけの金額を負け続けたら、

ヤクザ者でなくてもやはりおかしくはなってくる。


折悪しく、店も暇な時期だった。

摘発の噂が出回って、客数が落ち込んでいたのだ。

ピーク時にはそこそこの客が入るのだが、

暇な時間が少しずつ目立つようになっていた。

明け方にどうしても場面が冷え込むのだ。


そんな時でも変わらずに遊ぶヤグチは

店としては大事な客ではあったが、だからと言って、

過剰な経費も掛けられない。

正直言って、どこかの店が摘発されるまでは

客が戻らないかもしれないと思っていた。

もちろんそれが自分の店で無いと言う保証は

どこにも無いのだが。


そんなある日、ヤグチが大負けした。

いつもであれば30前後の勝ち負けのはずが、

その日は何故か100万以上負けてしまったのだ。


完全に熱くなってチップを叩きつけるように張るヤグチの姿は、

やはりヤクザのそれだった。


ひたすら粗相のないように気をつけさせながら場面が進行する。

他に居た客も櫛の歯が欠けるように帰っていき、

やがてヤグチだけが残った。

ディーラーの声とヤグチがベットを叩きつける音だけが響く。


けれどどれだけヤグチが威嚇し、気合を入れたところで、

当たりと外れは最初から決まっている。

そちらに張っていなければ、チップは無くなる。

極めて当然の、そして厳然たる事実だ。


やがてヤグチの手持ちは全て無くなり、

ヤグチはしばらくテーブルで固まっていた。

ゲームの進行も止まり、ヤグチの次の行動を黒服が注視している。

ゆっくりとヤグチは立ち上がり、 一言も言葉を発しないまま店を出ていった。

「お疲れ様でした」という黒服の声も

自然と抑え目になっていた。


そしてしばらくヤグチは店に姿を見せなかった。

店は暇ながらも何とか動いていたが、

しばらくしてヤグチが現れた時に、僕は薄々察していた。


おそらくヤグチは使ってはいけない金を使ってしまったのだ。


ヤグチの手には包帯が巻かれ、

良く見ると足にもガーゼが当ててある。

喧嘩や事故の可能性もあるだろうが、

直感的に僕は、ヤグチが「けじめを取られた」ことを悟った。

案の定、ヤグチの遊び方はそれまでと変わり、小さくなっていた。

使って10万程度のいわゆる「小者(コシャ)=小さい客」と変わらなくなっていたのだ。


これが意味するものはおそらくは二通りだ。

組に入れなければならない金を使ったが為に、

ヤグチは凌ぎを上に奪われたか、もしくは(シャク)を背負ったのだ。

どちらにしても、相当苦しくなっていただろう。


僕は覚悟を決めざるを得なかった。

近いうちに、ヤグチは何か言ってくるはずだ。

おそらくはケツ持ちを通した話になるだろう。


店のケツ持ちはD組という歌舞伎町が地元の組だったので、

退くことは絶対にないだろうが、

できれば何とかその前に収めてしまいたい気持ちは当然あった。

ケツ持ちを呼ぶと、「若い衆にメシを食わせるから」

とかいう口実でケツ持ち料とは別に10万くらい取られるからだ。


歌舞伎町はD組とK連合のどちらかがケツ持ちになっていることが多いが、

ヤグチはおそらく西のY組系だったろう。

名古屋にK会というY組系の組があるが、

そこの枝の組員という噂を聞いたことがあった。

どこだって関係ないのだけれど。


ともかく、そんなことだったら10万以下で収まるなら呼ばない方がいい。

僕はヤグチの今までの負け分を計算して頭に入れておいた。

通算で500万にちょっと欠けるくらいだったろう。

かと言ってヤクザの話で良くあるような

「半分は泣くから半分戻せ」という話になれば、

ケツ持ちを呼ばざるを得ないのだが。

落ち度も無いのにそんなことしてたら商売にならない。


ある日、ヤグチが来店し、8万ほど負けて席を立った。

扉を開けて見送った黒服が戻ってきて、僕に言った。


「あの、店の一番偉い人呼んでくれって言ってます」


形式上、店のトップは社長なのだが、

こんな時にあてになるような人物ではない。

言ってしまえばただの飾りなのだ。

最初から自分が出ていくつもりだったし、

僕はすぐに店の外に出た。


「なんでしょうか?」


僕が尋ねると、ヤグチは思ったより下手口調で話し出した。


「あのさ、俺さ、ここですげー負けてるよな」


ヤグチの声は特に怒っているようにも聞こえなかった。

もちろん警戒は解けないが、

いきなり吼えまくるようなことではないようだ。

僕は言葉を選びながら答える。


「そうですか。

勝負事なんで勝ち負けは僕らではどうにも・・、はい」


ヤグチはうなずく。

けれどもちろん完全に同意などしてはいないだろう。


「そりゃそうだけどさ、

俺もさ、使っちゃいけない金とか使っちまって、

組に追い込まれて大変なんだよ。

これ見てくれよ。けじめ取らされちまったし」


そういってヤグチは傷だらけの手足を見せる。

指まではまだ落としていないようだが、

いわゆるヤキを入れられたのだろう。

僕はその傷だけを見て何も言わずに立っていた。

まずは相手の要求を見極めたいのだ。


「でさ、今日も負けちまっただろ?

どうしても今日中に20万作らなきゃいけないんだ。

下に俺の車あるんだ。

それ置いてくから10万回してくれよ。

それでもう一回勝負させてくれよ」


「・・・・・・」


博打に嵌った人間の考えることというのは、

どうしてこうも似通ってくるんだろうか。

僕は内心で呆れる。

持ち金を簡単に倍に出来るとでも思っているのか。


第一車を置いていかれても困るのだ。

他人名義の車を処分するのは簡単ではない。

住民票、印鑑証明、委任状その他諸々の書類と手続きが必要なのだ。

それに中に拳銃や薬物が入っていないとも限らない。

素人がおいそれと預かれるような代物ではない。


「いや、それは勘弁してくださいよ。

車なんかお預かりできませんよ。

商売が違いますもん。

僕だって雇われなんだから上に怒られちゃいますよ。

勝手なことすんなって」


怒らせないように、かつきっぱりと断る。


「絶対後で持ってくるからさ、頼むよ。

自分は朝何時まで居るの?

帰る時間に間に合うように持ってくるから」


懇願するようにヤグチは言うが、

言ってることがめちゃくちゃである。

博打で金を作ろうとする人間が、

何で他のところで金を作れると言うのだ。

だんだん腹が立ってくる。

ヤクザ相手だろうがそんなこと出来るわけがない。

持ってこれるはずがないのだ。


「無理ですよ。こっちが首になっちゃう」


押し問答はしばらく続く。

ケツ持ちを呼んでもいいのだが、妥協点はもう見つけてある。

もったいをつけているだけだ。

頃合を見計らって、渋々といった体で言う。


「わかりました。後で持ってくるっていう話なら、

僕が今持っている分を貸しますから、

それで勝負してくださいよ。

今3万8千円あるからこれで5点出します。

それで納得いかないなら、別の人間と話してください。

組どうのこうのっていうお話を聞く人間を呼びますんで」


この場合の「別の人間」がケツ持ちを指すのは、

流石にヤグチも分かっているはずだ。

そしてケツ持ちを呼べば、

1円にもならないのも分かっているはずだ。

ヤグチはうなずいて、その金を受け取り、

店内に戻ってテーブルに着き、ゲームを再開した。


勿論その金は自腹ではない。

交際費という名目で、伝票を切るのだ。


キャッシャーには事情を説明しておくし、

オーナーサイドにも事後報告の形で済む金額でもある。

VIPならサービスで言われる前に出すような額でもある。

だいたいこんな形で5点くらい引っ張ったって、

増えるはずがないのだ。


案の定、ヤグチは1時間ももたずにチップを溶かしてしまい、

今度は何も言わずに帰っていった。

これでヤグチに対して上から見下ろせるなら

5万分のチップなど安いものだ。しかも速攻で回収である。

言うことはない。

とりあえずその場はそれで済んだと思っていた。


ところが数日後、ヤグチがまた来店した。

そして読者諸氏の予想通り、

今度は相当てこずることになったのだ。


その日のヤグチの様子は、来店した時点から少しおかしかった。

チップは以前のように20〜30点と買ったので、

前回の貸付について尋ねる。


本来は来た時点で返済させるのだが、

前回は個人的な貸しという形を採ったために、一応


「この間のお約束ですが、お帰りの際ってことでいいですか?」


という言い方をする。言い方は大事なのだ。

帰りにしてくれということで、そのままゲームはさせる。

勝たないかぎり返ってくるとは思ってないのだが、

思い出させるのも大事なことだ。


ところがその日のヤグチには、実に落ち着きが無い。

電話が頻繁に入り、

その度にコソコソとトイレや店外で話している。

こっそり聞いた者に尋ねてみると、

今別のところにいることにしているようだ。

その話を聞いて、僕はすぐにピンときた。


また使ってはいけない金に手を出しているに違いない。


博打で切羽詰ってきた人間は、

他人の金と自分の金の区別もつかなくなるのだ。


「ちょっと借りて打つだけだ。増えたらすぐに返す」


そんな、保証など何一つ無い、というよりはリスクしかない発想で、

自分をどんどん窮地へ追い込んでいく。


これさえ当たれば、ここを取れたら・・、


そしていよいよどうにもならないところまで行き着いてしまう。

ヤグチのチップは一瞬数万ほど増えただけで後は減る一方になる。

バカラという言葉に含まれる「破滅」という意味が、

ヤグチの背中に拭いようもなく張り付く。


電話の音に慌てふためきながらベットしても

冷静に盆など見ていられないだろうに、

落ち着き無くチップを手にしては数え直すその様子は、

正直見ていられなかった。


やる前から結末は見えている。

そんな男には幸運は決して微笑まない。

数え切れないくらい見てきた、博打打ちのなれの果てだ。

けれど止める者はいない。それが僕らの商売だ。


渾身の勝負で手にしたはずの勝利は

13分の1の確率で零れ落ち、

最後の大勝負は見るべきところも無くあっさりと負ける。


周りの客も、貧乏神から逃れるかのように次々に帰っていき、

またしてもヤグチだけが残った。


そしてヤグチが僕を呼んだ。


「なぁ、サービス出してくれよ。

いくら負けてると思ってんだよ」


来るだろうと思っていた。

予想通りの要求だからこっちの対応も予定通りだ。


「わかりました。少々お待ちください」


そういってキャッシャーから

5万分のサービスチップを出して、ヤグチの前に置く。

とにかく通常では考えられないレベルのサービスを、

今回はもったいつけずにスパッと出す。

そうすることで、相手の要求を呑んだという事実を

明らかにするのだ。


「店としては気持ち良く出したじゃないですか」


どのみち出さざるを得なくなるのだ。

だったらチマチマ出しても仕方が無い。

通常であれば、30万程度使っただけでは

サービスは出しても1〜2点だ。それを敢えて5点出した。

ヤグチもおとなしく礼を言って再びベットしだす。


けれどこれで済むとは思えない。

この後の展開も大体の予想はつく。

もう一山、必ず来る。

そんなチップ、どうせ無くなるに決まっているのだ。

後はどこまで突っ張れるかだ。


一瞬増えたチップも、やがて無くなる。

最後のチップを張った勝負が、

あっけなく終わるのを見届けると、Yの視線が宙を彷徨う。

さて、いつ切り出してくるだろうかと思う間もなく、

ヤグチが僕を呼んだ。


「俺の車をさ、預かって・・・」


最後まで言わせることなく、僕は答える。


「それは無理ですよ。

こないだもそう言ったじゃないですか。

僕にできることとできないことがあるんですから。

すいません。勘弁してください」


そう言って頭を下げる僕にヤグチは尚も言う。


「そう言わないで頼むよ」


こちらの手持ちの札は何枚かある。

それをちょっと使ってみることにする。


「そう言いますけどね、前回僕の手持ちの金を回した時だって、

後で持ってくるって言って持ってこなかったじゃないですか。

それで今日お見えになった時にも


お帰りの際で良いですか?


ってお尋ねしましたよね?

いいって言って結局詰めないままじゃないですか。

それであんまり無理言わないでくださいよ」


するとヤグチが開き直る。

ヤクザ者というのは、言葉尻を捉えたり、

自分の土俵に持ち込むのが仕事だ。

無理が通れば道理が引っ込む。

彼らはそうやって凌いでいるのだ。


「つうかよ、お前が最初っからそうやってアヤつけるから

おかしくなるんじゃねぇか。

人が気分良く遊ぼうって時によ」


はいはい、お約束ね。僕は内心で思う。

こんな話は数え切れないくらい聞いてきた。


「アヤって何ですか?そんな話と違いますよ。

もともと自分で約束された話じゃないですか。

それをアヤどうのこうのは筋が違うんじゃないですか」


こんな時には決して退かない。

ここで突っ張れないなら

最初からケツ持ちを呼んだ方がいいのだ。

その代わり自分の裁量権の範囲を削られることも

覚悟しなければならないだけだ。

道理はこちらにある。落ち度は、無い。

ヤグチは一瞬黙るが、今度は別の所から攻めてくる。


「だから車置いてくって言ってんじゃねぇか。

俺の車はそんくらいの価値も無いって言うのかよ」


「価値のあるなしは僕にゃ分かりませんよ。

うちの商売じゃないから勘弁してくださいって言ってるんです。

雇われが畑違いのことするわけにいかないんですから。

それで首になったらこっちが痺れちゃいますよ」


瞬間、ヤグチの顔色が変わる。少し言い過ぎたような気もする。


「なんだそりゃ。お前俺と話してて痺れんのかよ」


しまったなと思うが、多少は仕方が無い。尚も突っ張る。


「そらそんだけ無理言われたら痺れますよ。

ホント勘弁してくださいよ。

できることはしてんじゃないですか。

駒だって回したし、サービスだって出してんじゃないですか」


「何だよ、恩着せがましく言いやがって」


「別に恩なんか着せてないですよ。

これ以上は無理なんで勘弁してくださいって言ってるだけですよ」


押し問答は続く。正直だんだん頭にくる。

もともと僕はヤクザ者が大嫌いなのだ。

ヤグチはまだ食い下がってくる。


「お前よ、こんだけ頼んでんじゃねぇか。

お前の金でもないのに、なんでそんな突っ張んだよ。

ヤクザもん一人助けると思って回してくれりゃいいじゃねぇか。

俺が社長宛にお前責めんなって一筆入れっからよ」


ヤクザもんとはっきり言い出したヤグチに、

こちらも対応を少し変える。


「ヤクザもんって言うんでしたら、ケツ持ち呼びますんで、

そっちと話してもらえますか。

代紋の話は僕じゃお返事できないですし」


するとヤグチは白々しく言う。

ヤクザというのはつくづくしたたかだなと思わされる。


「俺はお前と話してんだよ。

男がこんだけ頭下げてんのに

お前は別の人間出してそれでおしまいかよ、え?

俺がお前に下げた頭はどうなんだよ?」


全くもう。僕は内心で呆れながらも、

その一方でどこまでいけるか確かめてみたくなる。


「じゃ、どうしろって言うんですか。

頭下げられてもできないことはできませんよ」


そう言うと、ヤグチは黙って僕のことを睨み続ける。

重苦しい沈黙が流れる。

数十秒、せいぜい一分くらいの時間だったが、

果てしなく続くように思える。

そしてヤグチが思いっきり睨みを利かせながら、僕に凄む。


「そうかよ。どうやっても突っ張んだな。

分かったよ、お前も大したもんだよ。

ヤクザもん相手にそこまで突っ張るんだから。

俺もよ、どうなるかわからねぇけど、

お前のことは覚えておくからな。

お前も忘れんなよ。俺は絶対忘れねぇからよ。

俺にも意地があるんだからよ」


今度は脅迫である。しかし、目つきを見ると本気そうだ。

完全に目が据わっている。

自暴自棄になりかけている人間の目だ。


店ではなく僕個人に恨みを抱かれるんじゃ、

こっちもやってられない。

せめぎ合いの勝敗が決する瞬間だ。

大きく溜息をつき、ヤグチの目を真っ直ぐに見て言う。


「だからどうしろって言うんですか。

また駒を出してもキリ無いですよ。

無くなったらまた次、また次ってなるだけじゃないですか。

戻せとかそういう話はどっちみち僕じゃできないんですから、

ケツ持ちと話してくださいよ」


僕がそう言うと、ヤグチは今度は少し柔らかい口調で話す。

飴と鞭、硬軟と剛柔の使い分け。


「戻せなんて言わねぇよ。あと10万、

いや、5万でいいから気分よく打たせてくれ」


そんな程度でいいのか。僕はヤグチの底を見たような気がして、

少し気分が楽になる。


「分かりました。

じゃぁこれで勝っても負けても納得づくってことで

良いんですね。これ以上は僕にもどうもできないですよ。

こっちもケツ捲くるしかなくなっちゃうんだし」


そう言うとヤグチはにやりと笑って言う。

意地が通ったことで、気が晴れたのだろうか。


「そんな脅すなよ。心配すんな。

社長にもちゃんと一筆入れてくからよ」


そしてキャッシャーから5点分のサービスチップを出し、ヤグチに渡す。

しばらくの間、ヤグチはチマチマと遊んでいたが、

ほとんど増えることも無く、すべてのチップを溶かした。

そして何やら紙に書いていたが、

やがて席を立ち、僕にその紙を渡して言った。


「じゃこれ、社長に渡しといてくれ。

もういいや。気が済んだよ」


そしてヤグチが出て行った後、その紙を開いてみると、

汚いながらもきちんと事情を説明し

(もちろんヤグチからみた理屈だったが)、

謝罪の言葉と二度と来ないということも書いてあった。


そんなものは必要ないのだが、一応キャッシャーに渡す。

オーナーサイドの人間がキャッシャーに入っていて、

一部始終を見ているのだ。

素人から見れば感心するだけだろう。

その時もそんな反応だった。


「店長さんは良くあんだけ突っ張れるよね。

怖くないの?」


僕はそれには答えなかったけれど。


それからYは二度と店には来なかった。

僕は密かにどうなったかと案じていたのだけれど、

なんと数年後、ヤグチの姿を歌舞伎町で見かけた。


一瞬分からなかったのは、頭が丸坊主になっていたのと、

顔に大きな傷跡があったからか。

どういう顛末になったのかは、

もちろん僕には分からない世界では、ある。

ただで済むはずは無いけれど、

何とかなったのも事実なのだろう。


それ自体はもうどうでもいい。

ヤグチは僕の横を通り過ぎていった無数の客の一人として、

記憶の片隅に残っているだけだ。


けれどあの時最後まで突っ張ったら、

あるいは最初から要求を呑んでいたら、

どうなっていただろうか。


僕はたまにそんなことを考える。

もちろん意味など無い。


でも、選ぶことの無かった道を見てみたい、

そんな気持ちになることは誰の人生にもあるはずだ。

というよりも、人生はそもそもそういうものだろう。

選択しなかった道が気にならないとするなら、

選択する意味自体が無いようなものなのだから。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ