第4話〜カナエ
日本の社会において
男女平等ということが叫ばれてから久しい。
選挙権のような政治の分野だけでなく
雇用においてもそれは声高に叫ばれるようになった。
現実として、僕の知る限り
その理念が具現化されている場面と言うのは
非常に稀である事が多いけれど、
アングラカジノというのは、その意味においては
非常に平等な世界だ。
というより、差別も無いが区別も無いのだ。
ディーラー、黒服、ホール、キャッシャー・・
その業務を「ちゃんとできる」のであれば
そこに性別は問われない。
同じ仕事なら給料も同じだが
生理休暇も産休も認められない。
それが本当に平等と言えるかどうか、というのは
ここで述べるところでは無い。
事実としてそうだ、ということを知っていただければそれでいい。
僕はただ、その現実を知っていただきたいだけだ。
女のディーラーなど決して珍しくはない。
黒服は少し珍しいが、
それは女性が差別されているからではなく
アングラカジノの黒服の業務に
女性が不向きであるだけが理由だ。
極道やヤカラのような客に対しても
しかるべき対応をできるのであれば
女性であっても黒服にはなれる。
しかるべき、というのは
男と同じ対応をすればいいというものではない。
自分が女である事を前提としての対応と言う事だ。
かなり困難である事はお分かりいただけると思う。
当然、それをこなせる人材など
そうそうはこの世界には入ってこない。
「女である事」を武器にする、できるのであれば
水商売の方がずっと金になる。
客を店に呼んで金を落とさせると言う意味では
あまり違いは無い。
逆に、男と同じ土俵で戦える、戦いたいのであれば
専門職か外資系などの企業の総合職を目指す方がいいだろう。
結果的に、この世界に入ってくる女性は
「普通のOL」にはなりたくないが
かといって必死で努力して専門職を目指すのも嫌、
水商売の世界で色恋の営業電話やノルマなどに追われるのも嫌、という
ちょっと中途半端なメンタリティの持ち主が多くなってくる。
もちろんその中途半端さは男も同じなのだけれど。
同じようなタイプの人間が集まってくるわけだから
そこにはやはりある種の傾向が強く出てくる。
お決まりのパターンと言うのがあるのだ。
アングラカジノの世界における女性従業員のお決まりのパターン。
それはこんなケースだ。
デビューは大体十八歳から二十歳くらいだ。
高校を出て、あるいは中退してフリーター。
大学や専門学校に通いながらのアルバイト。
最初はウェイトレスとして入ってくる子も多い。
その年代で、喫茶店や雀荘のウェイトレスとほぼ同じ仕事をして
収入は段違いに多いのだ。
しかも男が多い世界だから、若い娘がちやほやされるのも
他の業種と変わらない。
「美味しいバイト」感覚で入ってきて、ちやほやに慣れてしまって
そのままどっぷりと浸かっていく。
ディーラーとして入ってくる子も似たようなものだ。
日本のアングラカジノのディーラーは
他の国の合法カジノとは違い
ディールできる種目などいくつも無い。
置いてあるゲーム自体が多くても3,4種目なのだが
ディーラーの90%くらいはバカラしかディールできない。
バカラのディーラーなど一週間もあれば
最低限の事はできるようになる。
場慣れする事も含めても、数ヶ月もすれば
もう一人前のディーラーのつもりになっている。
新人がなかなか入ってこないから
競争や淘汰も無い。刺激も受けない。
使う側もそれ以上の事など求めない。
求めたところで無駄だからだ。
指示に従って、粗相の無いように
バカラテーブルでディールしてくれれば十分なのだ。
駒として扱う側と、指示待ち人間の組み合わせということだ。
男のディーラーであれば
黒服の素質があるかどうかも見極めて
モノになりそうであれば、黒服にしてしまうこともあるし
場合によっては責任者、店長クラスの仕事を教える事もある。
(もちろん滅多にいない。大体はその他大勢の黒服までで終わりだ)
女のディーラーの場合、
本人の素質以前に、そこまでなる気がそもそも無いから
ウェイトレス同様、どっぷりぬるま湯に浸かったまま
何年もこの世界にいるようになってくる。
それが思うほど楽なものではないことに気付く頃には
既にちやほやもされなくなっている上に
修正も利かなくなってしまっているのだ。
時々ウェイトレスをやっている間にディーラーを覚えて
ディーラーになる子もいるけれど
それはせいぜい潰しが利くと言った程度の理由に過ぎない。
ウェイトレスを置かない店はあるけれど
ディーラーを置かない店は無いから、
仕事にあぶれるリスクは少しだけ減るのだ。
あるいは自分がバカラが好きになってしまうパターンだ。
ディーラーが彼氏で、彼氏が手ほどきしたりするのだ。
(極めて閉鎖的な世界だから内部で付き合うケースは非常に多い)
カナエもそんなディーラーの一人だった。
カナエは僕がいた店でディーラーとして働いていたのだけれど、
年は僕よりも5つ下だったと思う。
美人でも、可愛いとも言えなかったけれど
小柄で、愛敬のある女の子だった。
この世界で8年ほど働いていただろうか。
ディーラーとしてはベテランの部類だった。
若い頃にこの世界に入ってきた女の子にとって
年齢を重ねると言うのは想像以上に重い現実だ。
それは普通の世界の女性以上かもしれない。
そもそもディーラーと言えども
アングラの世界で働いている以上
摘発のリスクは免れない。
男女問わず、まずそのストレスが付いて回る。
僕だってそうだった。
腹をくくってやっているつもりでも
摘発されることを想像すると憂鬱にはなった。
まして、親にこの世界に居る事を言っていないケースが
女の子の場合かなり多い。
当然、「オヤバレ」に対するストレスがそこに加わる。
それは日頃は気付かないふりをして
目を背けていることもできる。
むしろ必死でそうしようとする。
でも、他の店の摘発があると
あるいは、ほんのちょっとした噂だけでも
その恐怖は心に染みのように広がり
拭いきれなくなっていく。
それなのに、その世界から足を洗う事もままならない。
今さらOLなんてできない・・
水商売なんて無理・・
生活の糧を自分で稼がなければ
誰も助けてくれない。
福利厚生なんていう単語は存在しないから
退職金も失業保険も無い。
そこへ年齢的なストレスが加わるのだ。
「あたし、どうしたらいいんでしょう」
だから、カナエが僕の携帯に連絡をしてきて
相談があると言った時
僕は大体その中身を想像する事ができた。
「もうあたし29じゃないですか。
ってことは来年は30ですよ、30。
それなのにいつまでこんなことやってるんだろうって思うと・・」
カナエは憂鬱そうにそう言ったが
僕はカウンセラーでは無いから
そんなカナエに対して効果的な助言はできなかった。
ただ、カナエの愚痴を聞いてやるだけだった。
「お前、彼氏は何やってるんだっけ?」
僕はふと気になってカナエに尋ねた。
僕に相談するよりも、まず彼氏に相談すべきことだろう。
確か、一緒に住んでいる彼氏がいたはずだった。
「彼氏は・・○○で黒服やってます」
カナエは別の街のカジノの名前を挙げた。
「結婚しようとかそういう話はしないのか?
彼氏は将来どうするつもりなんだ?」
僕は重ねて尋ねる。
その質問は、ある意味においては
僕自身に投げかけられるべきものでもあった。
自分がこの先どうしていくのか。
誰にも相談こそしなかったけれど、
当時の僕もあれこれと模索していたのだ。
「結婚しようって話はしてくるんですけど・・
貯金は無いし、打ちにも行っちゃうし・・
あんなので結婚とかできないですよ」
カナエはポツリとつぶやく。
そうなのだ。
この世界の人間同士で付き合っている女の子には
その命題もついて回る。
人生を共にすべき伴侶を選ぶ上で
アングラカジノの従業員をわざわざ選ぼうという者はいない。
誰だって安定や安心を得たいと思う。
でも、そんなものから最も遠い位置にある世界なのだ。
そして業界そのものにある不安定さに加えて
本人が博打好きだったりすると目も当てられない。
自分が客の負け分で得た給料を
他所の店に落としに行くようなものだからだ。
カジノ業界人同士のカップルがいたとして
二人ともそういう人生を好み選ぶのであれば
周りがどうこう言うことはできない。
それも一つの生き方だ。
と言うよりも、カジノ業界同士で付き合うカップルのほぼ全てが
他所に博打を打ちに行った事があるはずだ。
そして、行ってしまえば博打は楽しい。
二人とも勝ったりすれば尚更だけれど
二人とも負けても楽しかったりするのが厄介なのだ。
あるいはあなたは彼らを愚かだと笑うかもしれない。
博打に嵌まったりせずに貯金でもしておけばいいのにと。
アングラ業界でいつまでもずるずる働いていないで、
目標に向かって生きて行けばいいのにと。
それは正しい。彼らは愚かなのだろう。
けれど、彼らを笑う者もまた、愚かなのだと
やはり僕は言わざるを得ない。
人生において、博打を打たない人間などいない。
配当も控除率も分からないままに
僕らはみんな博打を打つ。
進学、就職、結婚・・
それらに賭けの要素は全く無かっただろうか?
結婚に失敗した人を
職場に失望して転職する人を
あなたは愚かだと笑えるだろうか?
もちろんそれは屁理屈だ。
けれど不透明な将来に身を委ねる。
それは人生そのものでもあるのだ。
彼らの愚かさは、あなたの、僕の愚かさでもあるのだ。
彼らは、ほんの少し弱かっただけなのだ。
そしてその弱さを露にしたのは
ほんの些細なきっかけなのだ。
両親や恋人との小さな衝突だったかもしれない。
仕事の失敗だったかもしれない。
体調や天候だったかもしれない。
ちょっとした歯車の狂いが
大きな破綻をもたらす事例など
誰にでも思い当たる節があるだろう。
もちろん彼らだって目を覚ます事もある。
大敗して空になった財布を抱えて辿る家路の途中で、
あるいは職場で同じように大敗して自棄になっていく客に
昨日の自分を重ねて、
我に返って愕然とする事もあるだろう。
不幸なのは、それが二人同時ではないことであり、
たいていは女の方が先であることである。
誕生日に、クリスマスイブに、正月に、
故郷の同窓会の帰りに、友人の結婚式の最中に、
あるいは二人の記念日に女はふと我に返る。
こんなことをしていていいのかと。
そして女は、賢ければ賢いほど、博打を打たなくなる。
今の楽しみよりも将来の安定を考え始める。
すると突然不安になる。
自分の恋人が相も変わらず数枚の札に一喜一憂している事を。
そして、彼女の賢明さはその局面では発揮されない。
彼女は恋人に対して、博打を打つ事を非難し、禁止しようとする。
それが火に油を注ぐようなものであるにも関わらず。
もちろんやめっこない。
本人が目を覚まさない限り、隠れて嘘をついてまでも行く。
そしてそれが露見し、諍いになり、
彼女はどんどん思い悩むようになる。
「そんな男とは別れればいいのに」
そう言うのは簡単だが、
それは今度は彼女に対して、火に油を注ぐようなものだ。
禁止されるから、余計燃えるのだ。
それがまさにカナエの置かれた状況でもあった。
もちろん僕は、カナエに彼氏と別れろなどとは言わなかった。
「あたし、最近ミンザイ飲んでるんです。結構強いヤツ」
カナエは僕にそう言った。
ミンザイ、というのは要は睡眠薬のことだ。
医者に処方箋を書いてもらって手に入れるのだ。
最初は弱い薬だったのが、段々強い効果を求めるようになる。
どこの医者なら簡単に処方してくれるか、
どんな薬なら効果的か、
そんな情報をあちこちから集めるのだ。
非合法のドラッグよりはもちろん遥かにマシなのだが
仕事をする上では支障もある。
効き目が持続してしまって起きるべき時間に起きられない、
ぼーっとしてしまってミスを連発する、
などということも結構ありがちなのだ。
「二人で何とか折り合いの付くような方法を考えて
あんまり追い詰めすぎるなよ、彼氏も自分も」
僕はそんな当たり障りの無いことしか言えなかった。
そして、カナエはどんどん壊れていった。
遅刻や欠勤が目に付くようになり
出勤しても、しばらくはぼーっとして使い物にならない。
僕がいた店はそれほど人員的な余裕は無かったから
そういう者が一人でもいると、周囲に相当な負担がかかる。
「カナエを何とかして下さい。
他のディーラーがパンクします」
責任者が悲鳴を上げたのも無理の無い事だった。
先にも書いたが、アングラの世界において、
下っ端の従業員は駒だ。
使い物にならない人間に無駄飯を食わせることはない。
さっさとお払い箱にしてしまえばいい。
いや、しなければならない。
それがなかなかできないのが、僕の欠点だった。
カナエの手首に傷跡が絶えないのも
僕が首にしにくい一因だった。
見捨ててしまったら自殺しかねないんじゃないか。
そんな思いがあった。
「遅番は昼にあんまり寝られないんだろうから」
僕はカナエを比較的出勤の楽な中番の時間帯に移してやることで
負担を減らそうと思った。
カナエを事務所に呼んで、シフトの交替を告げる。
「お前、来週から中番な」
カナエは何も言わず頷くだけだった。
けれど、出勤状況が好転する事は無かった。
8時間3交替の店であれば、中番は15時が出勤時間だ。
その時間にまともに出勤できないようではどうにもならない。
他の従業員の管理にも支障が出る。
切らなきゃしょうがないか・・
頭を抱えた僕に
カナエがメールを送ってきた。
「いろいろ迷惑かけてすいません。
これ以上迷惑かけられないので今日で辞めさせて下さい」
正直に告白すると、自分から辞めてくれたことで
僕はかなり安堵した。
首を通告するのは相手が誰であれ、
良い気分のものではないからだ。
悪者に好き好んでなりたいなんて人間はいない。
僕は責任者に急いで代わりのディーラーを探すように言い、
カナエには給料を保証してやる事だけ返信した。
実は店の退職規定は2週間前に申し出る事になっていて
それに違反した場合には減給などのペナルティがあった。
僕はそれを免除して、給料を全額支払うことにしたのだ。
つまり、僕は自分が感じた安堵の後ろめたさから
ペナルティを免除する事で逃れようとしたということだった。
「カナエはさ、ミンザイだけじゃなくて
多分抗鬱剤も飲んでたんですよね。
彼氏とうまく行かなくなって鬱になっちゃってさ。
あたしあんな男とは別れろって言ったのに。
あいつ絶対シャブ中だから」
カナエと比較的親しかったディーラーから
そんなことを後で聞いた。
「え?彼氏はシャブ食ってるの?」
僕はそう聞き返した。
この業界では珍しくない話だが、
それはそれで心配だったのだ。
「シャブかどうかは分かりませんけどね。
でも大麻は絶対やってます。
もしかしたら売人もやってるかもしれないです。
トランスのイベントとかしょっちゅう行ってるし。
でも店長大丈夫ですよ。
あたしあの子に暇な店紹介してあげたから。
いつ潰れてもおかしくないような店だけど
給料は日払いだし、お店で寝てればいいんだから」
そのディーラーがいくつか挙げたカナエの彼氏の行動は
確かに典型的な薬物常用者のそれだったが
僕はそれ以上はあえて聞かなかった。
深入りしたところでいいことなど何も無いからだ。
そして、それからしばらく
僕はカナエの事を忘れて、
店の仕切りに忙殺された。
店は24時間、年中無休で稼動している。
平和である事があらかじめ分かっている日など一日たりとも無い。
結果的に平和に終わってほっと一息つくような日々なのだ。
辞めていった従業員のことを振り返っている余裕は
僕にはまるで無かった。
ところが梅雨も終わったある日、
僕はカナエと再び会うことになった。
カナエが辞めていった日から、
数ヶ月しか経過していなかった。
店で短期の欠員が出て
ヘルプと呼ばれる短期を条件とした求人をかけたところ
またカナエが働きたいとやってきたのだ。
「もう彼氏とも別れたし大丈夫です。
働かせて下さい」
そうやって言われると
ヘルプというのが見つかりにくい事もあって
僕は頷かざるを得なかった。
そして、夏のある日、僕は従業員数人と軽い食事を摂りにいった。
黒服が1人、ディーラーが数人だ。
カナエとカナエの友人のディーラーも一緒に居た。
食事を終え、解散した後で
カナエたちが僕をカラオケに誘った。
僕は滅多にそこまで付き合う事は無いのだが
その時はなぜか参加したと思う。
「暑ーい」
4人ほどで入った区役所通りのカラオケボックスで
カナエはそう言って羽織っていた長袖のシャツを脱いだ。
僕の目に、黒々とした模様が飛び込んできた。
「お前、入墨入れてたの?」
驚いた事にカナエの二の腕には
まだ完全には色の入りきっていない
輪郭だけの入墨が描かれていた。
「今入れてる途中なんです」
カナエは照れ臭そうに答えた。
「タトゥーならともかく
なんでまたその年になってそんな大物入れるんだよ。
若気の至りじゃ済まないだろ」
僕は思ったままを口にした。
そういう部分で、僕が遠慮する事はあまりなかった。
基本的なスタンスとして、僕はそれを貫いてきた。
人間の表裏が混在するこの世界では
その方が信頼関係は築きやすいと考えていたのだ。
「もちろんそれはそうなんですけど・・。
あたしがリストカット繰り返してたの知ってますか?」
カナエは僕に尋ね、僕は頷いた。
「見れば分かるよ。
この業界、人見るのが商売だからな」
「まぁそうですね」
カナエはそう言って笑った。
「彼氏とうまくいかなくなったせいもあって
あたし、鬱になってたんです。
気が付くと手首切ってたりして・・。
彼氏と別れたのも、彼氏がクスリで捕まっちゃったからです。
警察にさんざん調べられました。
お前もどうせやってんだろって。
それであたし、生まれ変わろうと思ったんです。
入墨は確かに痛いけど、これを入れたら
自分が変われるんじゃないかって。
お金なくてまだ入れ終わってないんですけどね」
僕はカナエが考えた事は理解できたが
それは違うんじゃないかとも思った。
外見の変化によって内面を変化させるのは
結局のところ一時的なものではないかと思ったのだ。
事実、カナエの手首の傷は
その後店を閉めるまで絶える事は無く
カナエは相変わらず抗鬱剤やら精神安定剤を飲んでいた。
レギュラーの従業員よりも短い勤務時間のヘルプだから
穴を空ける事無く続いたのだろう。
店を閉めると、僕とカナエの接点もそこで途絶えた。
僕はカジノ業界を辞め、
カジノ時代の知人にこちらから連絡する事も
よほどの事が無い限り無くなった。
そこまでして保っていきたい人間関係を
僕はカジノ時代の十数年間で
ほとんど作れなかったのだ。
カジノ業界を退いた後、
僕はカジノ時代の人間関係を
なかば拒絶するかのような生活を送っていた。
友人の一人も、自分を向上させられるような相手もいなかった。
ところが、二年ほどしてから
カナエから連絡があった。
五月頃だっただろうか。
世間話をしているうちに、
今度お茶でも飲もうという話になって
僕らは約束を交わし、
当日僕は待ち合わせ場所へ向かった。
新宿のデパートの屋上という
ちょっと予想外の待ち合わせ場所で
僕はカナエを待った。
しばらくしてカナエが現れた瞬間、
僕はまたしても驚いた。
カナエはベビーカーを押しながら現れたのだ。
げっそりとこけていた頬も、ふっくらとしていた。
いや、はっきり言えば大幅に太っていた。
「お前、いつ子供産んだんだよ」
挨拶もそこそこに僕はカナエに尋ねる。
「去年かな。今一歳だから」
ベビーカーに直射日光が当たらないように
日よけをかけながらカナエが答えた。
「結婚したの?」
「してないですよ。シングルマザーです」
そしてカナエは飲み物を飲みながら話し始めた。
「お店閉めたでしょ?
あの後彼氏が裁判終わって、執行猶予もらったんです。
それでお願いだからやり直してくれってきて。
もう俺はカタギになるからって土下座までして。
それであたしも寂しかったしまた付き合い始めたんです。
そしたら結局またシャブで捕まって。ホント最低でしょ?
執行猶予中の再犯だから今度は実刑ですよ。
ハイサイナラって感じですよね。死刑にしちゃえばいいのに。
頭がおかしくなりそうだったんですけど
そう言えばあたし生理ずっと来てないな、って思って調べたら
ナイスビンゴ!ですよ。
病院行ったら、はいおめでたです、3ヶ月ですって。
でもね、そしたら急に元気になっちゃって。
もういい、誰の手も借りないでやってくんだって。
シャブ中の父親になんか認知もさせるもんですかって。
まぁ実家に戻って親に助けてはもらってるんですけどね。
鬱になってる暇なんかないですよ」
明るく笑うカナエはまるで別人のようで
実に生き生きとした表情を見せていた。
僕はこまごまとした育児の愚痴や不安を聞いては
自分の知っている事を教えてやった。
別れ際、僕はふと思いついてカナエに聞いた。
「そういや入墨はどうしたんだ?完成したのか?」
カナエは笑いながら答えた。
「完成なんかしませんよ。未完成のまんま。
入墨なんか入れなきゃ良かった。
お金もったいなかった。
ねぇ、不思議じゃないですか?
入墨入れてもリストカットは全然治らなかったのに
妊娠したの分かったらピターッて治まったんです。
ミンザイも全く飲まなくなりました。
ていうか毎日眠くてしょうがないんですけど」
そして僕らは別れた。
少し暑いくらいだった日差しが
ようやく暮れかかった時間だった。
カナエは時々僕に子供の写真をメールで送ってくる。
どんどん大きくなっていくカナエの子供を見ながら僕は思う。
物語としてはハッピーエンドではないかもしれない。
シングルマザーにとって
この国は決して住みやすい国ではないし、父親は刑務所の中だ。
カナエは母親一人でこれから苦労していくことになるはずだ。
けれど、カナエの人生にとってはどうだろう。
もちろんそれを判定するのは僕ではないのだけれど。