第26話〜ハシモト
少しだけ、想像してみて欲しい。
もしあなたが、数千万単位で金を出している
アングラカジノのオーナーだったら
どういう人間を現場で使うだろうか。
考えるまでも無いはずだ。
カジノのことに精通しているというだけでなく
いざという時に裏切ったり逃げ出したりせずに、
持ち逃げをしたり使い込んだりしないような人間を置くはずだ。
できれば、昔から知っている人間であれば尚望ましいだろう。
もちろん、そんな人間は多くはいないし、
忠義心ではなく金のための共同戦線にすぎないのだけれど
長いことカジノをやっているようなオーナーであれば
自分の下で長く働いている子飼いの人間というのがいる。
信用というものは実績の積み重ねから成り立つ。
江戸時代の譜代と外様のようなものだ。
同じオーナーの下で長く働くことで
そのオーナーとの間には何らかの信頼は生まれる。
基本的には誰かの紹介で入ってきているにせよ
どんな人間性の持ち主か分からない新入り、
いわば外様をいきなり要職に付けることはまず無い。
少なくとも、ある程度の期間、様子を見て
本当に信頼に足る人間であるか
あるいは仕事の出来る人間であるか見極めてからになる。
同じオーナーの下で長く働くということは
ハコを替えたり一時的に閉めたりはあるにしても
店を長く運営できているということだし
それはすなわち経営が上手くいっているということでもある。
だから、あえて外様を抜擢しなくても、ということにもなるのだけれど
逆に、長くいる譜代ばかりで固めていると
馴れ合いや惰性といった弊害も出てくる。
情勢が変わっているのにもかかわらず
従前のやり方に固執したりすることも出てくる。
組織が腐ってくると言ってもいいかもしれない。
かつて僕も、その言わば外様のような形で
ある店で仕事をしたことがあった。
それまでの僕のカジノ生活と同じような、
変わり映えのしないある冬のことだった。
それは、とある繁華街にあるカジノだった。
その店で仕事をしないかと僕に声をかけてきたのは
ずいぶん昔、同じ店で働いたことのあるハシモトという男で
その店である時間帯の責任者をしていた。
僕が働いていた店に、時々客として遊びに来ていて
何か用事のある時だけ電話をかけてくる間柄だったのだけれど
(ディーラーやウェイトレスの募集をかけたりするような時だ)
ちょうど僕がいた店が用心のために閉めている時に
仕事の話を持ち込んできたのだ。
「新宿が寒くてこっちに客が流れてきたのか
人が足りなくてさ、ちょっと手伝ってよ」
正直に言うと、僕はハシモトという男に対し
あまり良い印象は持っていなかった。
僕よりも10歳ほど年上のハシモトは
一緒に働いた時には黒服で、僕はディーラーだったのだけれど
自分より上の人間・・オーナーや店長などだ・・には
大げさなくらいへりくだる一方で
ディーラーやウェイトレス、あるいは新入りの黒服には
横柄な態度で接するような人間だった。
カジノの世界に限らず、どこの世界にもそういう人間はいる。
上司に見られているところでは真面目なふりをしているが
目が届かないととたんにサボるようなタイプだ。
もちろん、誰しもそういう一面はあって
ハシモトだけに見られる一面ではないのだけれど
あまりにも露骨だとさすがに辟易はする。
ただし、当たり障り無いように接する知恵くらいは
当時の僕でも持っていたから
おそらくハシモトは僕を味方とまではいかなくても
敵だとは思っていなかっただろう。
だからこそ、職場が別々になった後でも
連絡をしてきたりするわけだし
こうして自分の店に誘ったりするのだろう。
そのせいか、ハシモトが出してきた条件はやけに良く、
聞いた直後は断ろうかとも思った僕は、結局その話を受けた。
給料は10時間労働の日払い(相場よりも1割ほど高かった)、
辞める時は一週間前の申し出だったろうか。
金額はともかく日払いと言うのが何より魅力的だったし
一週間前でに申し出ればいいのであれば
再開の目処が立った時に余計な軋轢を避けることもできる。
「こっちの都合で上がらせてもらえるなら」
念のため僕はそんな話をして
僕はハシモトの指定した時間にハシモトの店に行った。
店のルールや仕事のやり方は店によって若干違いがあって
あらかじめ説明を受けておかないと混乱するだけでなく
使えない奴、というレッテルを貼られかねない。
当日、店のすぐ近くまで行ってからハシモトに電話を入れる。
いきなり行っても、シキテン(見張り役だ)に話が通っていなければ
怪しい人物だと思われてしまうからだ。
ハシモトの指示に従って場所を少しだけ動き、
電話を切って少しその場で待つ。
とある雑居ビルの陰にいた男が近づいてくる。
黒のロングのダウンジャケットを羽織り、
耳にインカムのイヤホンを挿しているところを見ると
この男がシキテンなのだろう。
僕の名前だけを確認すると、男は頷いて
エレベーターに乗るように無言で示す。
店に入って店内を見回してみると、確かにハシモトの言うように
店は非常に混雑していたし、客の中には見知った顔も何人もいた。
かなりのハイベットをしている良客も何人もいた。
「いや、ディーラーが弱くて全然数字が上がらないんだよ。
知ってるディーラーで強いのいたら呼んでよ」
そんなことをハシモトは言っていたのだけれど
数日間、店の様子を見ているうちに
僕はかなり強い衝撃を受けることになった。
ハシモトの紹介で入ったとある店のアングラカジノ。
その混雑ぶりを見て、僕はハシモトに尋ねた。
「一日にどれくらいインがあるんですか?」
ハシモトによれば、客数は一日60人から70人ほどで
イン(客がチップ購入総額)の平均も1500万ほどということだった。
それを元に計算してみると
弱い弱いとハシモトが嘆くディーラーの数字も
僕が入った月は決して悪くはなく、
アウト率の平均(客が換金した金額の割合だ)も85%程度だった。
これはアングラカジノ的にはごく標準的な数値だ。
アウト率が80〜90%の間であればそう言ってもいい。
では今月だけまともな数字で前月までは低かったのかと思って
僕はある時ハシモトに尋ねてみた。
何と、ハシモトは責任者でありながら
イン総額、アウト率の平均だけでなくディーラーの成績すら
全く把握していなかったのだ。
では彼が上がらないと嘆く数字はどこから出てきたのか。
それは、店の最終的な純利益の話だった。
「いや、台上(粗利益のことだ)で5000万くらい上がっても
経費考えたら赤字だから」
こともなげにハシモトは言ったが
インが1500万の店で15%を抜いても
月の粗利は7000万以下だし、抜けたのが10%なら4500万だ。
その数字で赤字になるのであれば
それはやり方がおかしいということに他ならない。
粗利で5000万でも足りないくらい経費をかけていては
バブル期ならまだしも、不景気の時代には追いつくはずがない。
そう思って店全体を見回してみると
確かにおそろしく無駄の多い店だった。
ハシモトの店にはテーブルが3台あったのだけれど
これくらいの規模の店で24時間で回すのであれば
ディーラーは20人、黒服は10人が最低限の人数だ。
忙しさを考慮しても、それぞれ22人と12人いれば十分だろう。
ウェイトレス、キッチン、キャッシャー、シキテンを入れて
人件費は何とか1800万以内、最大でも2000万を切るようでないと
固定費の重みがのしかかってくるようになる。
もちろん僕は、個々の給料の額を知っていたわけではなかったが
ざっと概算しただけで、ハシモトの店の人件費は
軽く2500万を超えていた。
それはそうだ。
黒服が16人、ディーラーが26人もいて
ウェイトレスやキッチンも余剰人員を抱えていた。
暇な時間帯でも忙しい時間帯と同じだけの人数を抱えていれば
人件費はどんどんと膨れ上がる。
僕に出してきた条件のように相場よりも高めであれば、
総額は3000万近かっただろう。
もちろん誰だって忙しい思いはしたくはない。
特に、この世界に入ってくる人間であれば
楽をしたがる傾向は非常に顕著だと言っていい。
それでも、固定費を削っていかないと
店自体が成り立たなくなっていく時代であることを
彼らにきちんと自覚させることも
上の人間の重要な役割なのだ。
それを怠ったハシモトの店は人が無駄に溢れ返って
譜代の黒服は1時間のうち半分以上は休憩していて
(ホールにいなくても何とかなるからだ)
外様で入った僕を含む数人だけが
ホールで客やテーブルを監視している状態だった。
彼らはモニター室を休憩場所にして
そこに頻繁に溜まっていた。
漫画を読み耽る者、居眠りをする者、
そしてそれを糾すべきハシモトは
むしろ率先してそこに入り浸っていたかもしれない。
「この店はやたら緩いですよね・・
あんなのに給料払うなんてオーナーもお人よしっていうか」
僕と同じ頃に入ってきていた新入りの黒服が
僕にこそっと耳打ちしてきて嘲笑した。
彼が言う「あんなの」が譜代の黒服を指しているのは分かったけれど
確かに、彼の方が仕事に関しては遥かに真面目にやっていたし
そういう者からみれば、譜代の黒服は給料泥棒としか言えなかっただろう。
ハシモトの店の無駄はそれだけではなかった。
むしろ、無駄が人件費だけであれば
入客数から考えても利益は十分確保できたかもしれなかった。
カジノでは、客寄せのために様々なイベントを打つ。
パチンコ店と同じようなものだ。
ビンゴや抽選会、つかみ取りやスクラッチ、ジャックポット・・
射幸心を煽ることで客の心に眠る獲得欲に火を着ける。
ただ、イベントは打てばいいというものではない。
客寄せのために打つのか、
あるいは常連に対する還元のために打つのか、
そこをはっきりしてから行わないと、狙った効果は出てこない。
ただで貰えるチップ目当てで店に来て
もらったチップで少しだけ遊ぼうと思っているうちに
いつの間にかその数倍の金を落としてしまう客を狙うのか、
あるいは、負けが込んでちょっと控えようと思っていたのに
負けの何分の一かが戻ってくるがために
結局また足しげく通ってしまう客を狙うのか。
さらに、イベントに使う原資の額は
当然そのリターンに見合うように決めなければならない。
5万、10万しか使わないような客を狙って
数百万単位でのイベントを打っても無駄になるし
1万2万のチップの抽選会で数百万使う客を引こうと思っても
同じように効果は薄いということになるからだ。
原資100万の抽選会と一口に言っても
1人に100万が当たるのか、10人に10万が当たるのか
あるいは100人に1万が当たるのか、
やり方も異なれば効果も異なる。
ハシモトの店のイベントは
そういう意味で、全く意味が無かった。
一日二回、一人に一枚の抽選券で行われる総額20万の抽選会は
集団で来るガジリグループに抽選券の大半を占領されていたし
各テーブルで毎シュート行われるジャックポットは
ろくにゲームをしないで座っているガジリが時折当てて
それで得たチップを巧妙に換金して帰るだけだった。
このイベントだけで毎月1500万ほどが消えていたのだ。
僕は少しどころではなく呆れたけれど
それは顔には出さないようにしながら
こっそりと、言葉を選んで、ハシモトに言った。
(顔に出せば下に見られているかのような印象を与えるし
他の譜代の黒服がいるところで言えば
彼らの嫉妬や反感を買いかねないからだ)
「ミーティングでイベントの打ち方は議論されてるんでしょうけど
抽選会はもう一工夫あってもいいかもしれないですね。
金を使う客に当たりやすくするような感じとか。
ジャックポットで当たるチップも
換金できないサービスチップにしようとかはもう出てますよね?」
外様である僕は、ミーティングに出席すら許されていなかったが
アイデアを問われれば答える用意はあった。
第一、ろくにホールに出て仕事をしていない譜代の黒服は
現状の問題点を把握しているかさえ、甚だ疑問だったのだ。
ところがハシモトは、僕の言葉に対し
怪訝そうな表情をしてこう言ったのだ。
「何で?別にこのままでいいだろ?」
「いや、でもガジリにサービスガジられるだけならまだしも
イベントの分まで持って帰らせるってのは・・」
口ごもった僕に、ハシモトは笑って言った。
「ガジリが持っていくのは宣伝費だと思えばいいんだよ。
うちは今までこれで結果出してきてるんだから。
そりゃ最近インが少し落ちてるしディーラーも弱いから
あんまり抜けてないけど、7,8000くらい抜けた月もあったし
店が沸いてるの見て太い客が来れば億も行けるよ」
何にもわかってないんだな・・
僕はそう思って、それ以上口を挟むのをやめた。
人件費とイベントで毎月数千万もの無駄を垂れ流して
一人や二人のビッグベッターから幾ら抜けるというのだろう。
一昔前の、鞄やアタッシュケースから札束を出して
勢い良く盆に張り付けるような時代ではないのだ。
丼勘定で、何に幾ら経費が出ているかさえ定かではない状態で
ディーラーが弱いだの気合だの言ったところで
それは鉛筆を転がして試験に臨むのと変わらない。
第一、結果を出していると言ったところで
ここ数ヶ月はろくに結果も出ていないのではないのか。
それに、従業員の給料を日払いで出すということは
毎日数十万の現金が出て行くということを意味する。
店が少し負け込めば、現金ショートのリスクは相当大きい。
この店のオーナーがどれくらいの資金力があるか
もちろん僕は知らなかったけれど
このやり方で店を続けていけるとは僕には思えなかった。
ただ、それを口にするのをやめただけだ。
おそらくこの一ヶ月以内に
自分がかつていた店も再開するはずだったし
もともとそれまでのつなぎだったのだ。
変にコミットすることはない。
僕はその後は特に口を出すこともなく
自分の与えられた仕事を黙ってこなした。
平の黒服は、そういう意味では気楽なものだ。
明確な目標も無く、遣り甲斐も無い日々。
ずっとそのままでいれば、いつか腐ってしまうが
一時的な避難だと思えばそれもまた良し、なのか。
そんなある日、店で事件が起こった。
ある日、僕が出勤し、キャッシャーに挨拶をしに行くと
雰囲気がただ事ではなかった。
ハシモトがどこかに電話をかけて、店の現状を必死で説明している。
「いや、今お客さんが持っているチップが200から250あって
現状で店にあるのが・・」
途切れ途切れにしか聞こえなかったけれど
僕はすぐにピンと来た。
資金ショートを起こしているのだ。
確かにここ数日、数字があまり良くなかった。
日々の給料を支払って、その他に仕入れの経費を考えたら
毎日現金は100万以上出て行く。
客が確実に100万以上落として行けばいいが
客が勝つこともあれば、100万まで届かないこともある。
その代わり、何日も続けて数百万抜けることもある。
その波は人智の及ばないところだし
それを前提として資金繰りをしないと
カジノなどできるものではない。
この一週間ほど、店が負ける日があったり
いくらも上がらない日が続いていたから
おそらく現金は1000万以上出ていっていただろう。
やれやれ、この辺で目を覚まさないと手遅れになるな・・
その場を離れながら、僕はそんなことを考えた。
今回はすぐにオーナーが金を持ってきて急場を凌ぐだろうから
立て直すなら今のうちしかない、
そんな風に考えていたのだ。
やり方さえ工夫すれば、この店は利益を出せそうだったし
もしかしたら店の運営を見直すいい機会になるかもしれない。
少なくとも、店が客のベットを受け続けている以上
金は間もなく届くはずだ。
客の手持ちのチップの総額が店にある現金を越えている状況で
ベットを受け続けているというのは、それしか考えられない。
店は表面上、いつもと同じように動いていた。
客がやってきてチップを買い、ゲームをする。
チップが無くなって買い足す者もいれば
チップを換金して帰っていく者もいる。
金が届いたのかどうかは分からなかったが
僕は僕の仕事をするしかない。
ちょうどその時、そこそこのベットをする客が来て
立て続けにチップを買い足した。
この客を仕上げてしまえば、一息つくかな。
僕はそんな期待を抱いたのだけれど
一時100万以上負けていたその客は
最後に買ったチップを急激に増やし、元まで達した。
「これアウト(換金)して。やっとこさ戻ったよ」
安堵したような表情で客が言う。
僕はそのチップをカウントし、キャッシャーに持って行く。
「アウト、123.8です」
するとキャッシャーに入っていた人間が
困惑したような表情で首を横に振る。
奥に座っていたハシモトが、曖昧な笑いを浮かべて言った。
「いや、今現金無いからそう言ってきて」
僕はさすがに呆れて言った。
金が足りないこともその原因だったけれど
問題はそれだけではなかった。
「アウトって言われて金が無いから出来ませんって
僕みたいな下っ端が答えて
それでお客さんが納得すると思いますか?
少なくとも、上の人が出てきて頭下げて
いつ届くのか説明しないと収まるわけないでしょう」
少し口調が強くなったかと一瞬思ったけれど
それを抑える気持ちも沸いてこなかった。
観念したのか、ハシモトはキャッシャーから出てきて
アウトを頼んだ客の席に行って、何事か囁いた。
客はそれを聞くとすぐ、大きな声を出した。
「金が足りないってふざけんなよ、そんなはずないだろ。
今俺が100使ったばかりじゃないか。
俺別に勝ってないぜ。チャラなのに。
その金どこに行っちまったんだよ」
何事もないかのように動いていた店の空気は
その客の声を聞いた瞬間一変した。
「これアウトして!」
「こっちが先よ!あたしが先に言ったんだから!」
中国人やガジリ連中が口々に喚きながらチップをテーブルに置く。
誰かが大声で叫ぶ。
ウェイトレスが怯えたような表情で立ち竦んでいる。
ディーラーはゲームを止めて固まっていて
他の従業員は控え室から出てくる気配すらない。
「おい、店から誰も出すなよ!金持って逃げさせるな!」
銀行の取り付け騒ぎのような様相を呈した店内で
僕はハシモトがどう宥めるかを待っていた。
僕ら下っ端が何を言ってもこの騒ぎは絶対に収まらないし
これにケリをつけられるのは、ただ一点、
金がいつ届くか、ということだけだからだ。
ただ、人間の怒りはいつまでもは持続しない。
もともと欲から来ている怒りだから
その欲がどう満たされるかの方が大事なのだ。
怒って金になるわけではないのなら、と
誰かしら冷静になってくるものだ。
「で、金はいつ付くわけ?」
案の定、一番最初にアウトと言った男がハシモトに尋ねる。
ハシモトは困惑した表情を浮かべながら
先ほど僕に見せたような曖昧な笑いで答える。
「もうオーナーには連絡してあるんで
間もなく届くはずなんですが・・・」
「だから間もなくっていつだよ!」
怒りが収まらない誰かが怒鳴る。
また騒ぎが再燃しそうな雰囲気になった。
仕方ない、これじゃどうにもならないしな。
僕は覚悟を決めて、ハシモトの傍に行き
怒鳴った客に向けて言った。
「とりあえず一旦ゲームを止めていただいて、
皆様のお手持ちのチップをカウントさせてください。
うちもこのままなんてことはしませんので」
助け舟を出したつもりは無い。
けれど、そう言って前に出ないと
ハシモト一人ではいつまで経っても収拾は付かないだろうし
それは結局僕自身がこの場から解放されないことを意味する。
いわば自衛のためだった。
そして僕は、ハシモトと一緒に
20人ほどいた客のチップをカウントして回った。
紙に名前とチップの額を控えて、客に確認させる。
そうしている間に、ほぼ全員が落ち着いてきた。
「これこのまま待ってるの?用事あるんだけど」
誰かがポツリと言う。
チャンスが来た。
僕はハシモトに小声で言う。
「携帯教えて後で来てもらったらいいんじゃないですか?
どうせこのままじゃ営業できないんだし
帰せる人間は客も従業員も帰してしまいましょうよ」
ハシモトは頷いて、こう言った。
「お急ぎの方は私と社長の連絡先を教えますので
後でまたお越しいただければ。
今日はこのまま閉店しますので」
その提案に何人かが乗り、何人かは乗らなかった。
取りっぱぐれを恐れる人間は、普通は乗らない。
利に聡い誰かが、周りの客に声をかけ始めた。
「急ぎの人、10点までは8掛け、10以上は9掛けで買うよ」
要は、チップを換金してやって後で店からは満額取ることで
ちょっとした小遣いを稼ごうとでもいうのだろう。
この辺はその人間の力量次第だが
こういうことをすぐにできる人間は、取り切る自信がある者だ。
不良ではないだろうが堅気でもないだろう。
こじれればその人間のケツ持ちが間違いなく出てくるだろうし
駒を付け残したという事情で、店のケツ持ちが動くことはない。
店の権利金と、備品などを売り払って金にすれば
数百万にはなると踏んでのことでもある。
もちろん僕らはこの状況ではそれを止められない。
債権の買取が一通り済んだ後、
大口債権者になった一人がハシモトに言う。
「ディーラーやウェイトレスは帰してもいいや。
いたってしょうがないし。
でも社長とアンタはここから一歩も出さない。
あぁ・・でも何かの時に走る人間がいるな・・
じゃあさ、誰か一人黒服置いて黒服も帰していいよ」
それを聞いて僕は、やっとこの展開になったか、と思った。
ようやく解放されてこの場から逃れられると思ったのだ。
それはそうだ。何の権限も持っていない新入りの下っ端など置いても
言ってしまえば何の意味もない。
対外的に示しているかどうかは別としても、
副責任者などという役職もちゃんと存在しているのだ。
ところが、ハシモトは僕に寄ってきてこう言った。
「悪い、しばらく付き合ってくれるか?」
「え!?僕、ですか・・」
僕は絶句した。常連の客の一人がすかさず突っ込む。
「ハシモッちゃん、普段威張ってるのがいっぱいいるでしょ。
最近入ったばかりのお兄ちゃん残すなんてずいぶんじゃない?」
ハシモトは苦笑いを浮かべながら言う。
「いえ、これはかなりしっかりしてるってことでわざわざ呼んできたんで。
仕事見てれば分かるでしょ?」
何言ってやがる。
僕はうんざりしながらも承諾せざるを得なかった。
ここで店側がゴタゴタしているところを見せたら
まとまった話もまたこじれてしまう。
現に、ハシモトにそう提案した男はどこかに電話をかけて
何かあったら連絡するから、そしたら若いの何人か寄越せ、
などとと人手を確保している。
ハシモトはモニター室に行って何事か言うと
中にいた黒服・・ほとんど譜代だ・・が4人ほど
そそくさと店を後にして行った。
何のことはない、僕は人身御供にされたのだ。
正直に告白すれば、残らされることになった瞬間は、
この後、憂鬱な展開が待っていると思っていた。
まさか金が届かずに拉致されたりはしないだろうが
届くまで軟禁状態になるのは間違いなかったからだ。
そして、それまでに受けるであろう罵詈雑言の嵐と
もしかしたらちょっとした暴力を考えないわけにはいかなかった。
ところが、店にいるのがハシモトと社長、そして僕だけになると
店の空気は思いがけない方向へ変化していった。
どういう風の吹き回しなのか、
彼らは一様に僕に対して同情的になったのだ。
「お兄ちゃんも可哀想にな、入ったばっかりなのに」
常連の何人かにはそんなことを言って慰められる始末だ。
その空気の変容ぶりを見て
まさかハシモトはこれを狙ったのかと僕は一瞬勘繰った。
常連は、馴れ合った顔であれば言いたいだけ文句を言うだろう。
あまり馴染みのない僕が残らされることによって
言いたいことを言いにくい状況を作り
僕に同情させることで、僕もハシモトも使われている身だということを
言外にアピールしたのかと思ったのだ。
更にうまいことに、譜代の黒服に対しても
自分が体を張って彼らをこの場から解放したことを主張できる。
もしかしたらそれは、単に僕が勘繰りすぎただけだったのかもしれないが
計算であればその保身の技術に舌を巻かざるを得ないし
偶然であったとしても、その生き残る嗅覚には驚嘆せざるを得なかった。
深夜になって、ようやく金が届いた。
どこかに走らされるかと思っていたが、使いの者がちゃんと持ってきた。
僕が出勤してから5時間ほど経過していただろうか。
彼らは店が本来取っているアウトコミッション=換金手数料を
当然のように負けさせて、ニヤニヤしながらハシモトに訊いた。
「で、店はいつから開けるの?」
ハシモトはすぐに答えた。
「一両日中には開けると思います」
この資金繰りの状況で、ここから更に数百万の胴金を
そんなにすぐ用意できるとは考えにくかったし
この際、店を何日か閉めてでも
立て直すための方策をここで決めておくべきだと思ったけれど
僕は何も言わずに、店をさっさと後にした。
その日の給料をもらいそびれていたことに気づいたのは
自分の部屋に着いた後のことだった。
次の日、ハシモトから電話があって
店でミーティングを行うと言う。
給料ももらえるのかと思って、僕は指定された時間に店に行った。
店にいたのは、譜代の黒服ばかりが7,8人ほどで
僕と同じように入ってきていた新入りの黒服は一人もいなかった。
既に話し合いが持たれていたらしく
彼らの前にある灰皿には
煙草の吸殻が山のように重なっていた。
僕が端っこに座ると、副責任者という肩書きを持っている男が
僕にこう言った。
「うちもね、やっぱりこのままじゃなかなか抜けないから
思い切って人を入れ替えていこうと思うんだ。
で、誰を残そうかっていう話になった結果
君に残ってもらおうかってことになってね。
ディーラーも黒服も入れ替えるから
使えるのがいたらどんどん呼んでいいよ」
恩着せがましく、とまでは行かないまでも
名誉に思えと言わんばかりの口調だった。
それに憤慨したわけではなかったが
僕はすぐに答えた。
「いえ、今日で上がらせてもらいたいんで辞退します」
するとハシモトが取り成すように言う。
「そう言うなよ。そりゃ昨日は大変な思いさせたけど
こっから立て直してうまく軌道に乗せられれば配当だって出すし
頼りにしてるんだからさ」
配当なんて言ったって上が吸い尽くした後なんでしょ。
流しそうめんの一番下にいる人間に
麺なんかいくらも流れてこないでしょうよ。
ろくに仕事もしないで店にしがみ付いてるだけのアンタ達と
この先ずっと馴れ合ってくつもりなんかこっちは無いんだよ。
僕はそう言いたかったけれど、それは抑えた。
その代わりに、自分のいた店が近々開くからという口実で
そのまま店を上がることを納得させた。
彼らから古参意識が抜けない限り、外様の立場で頑張ったところで
苦労が報われるとは思えなかった。
一週間前の申し出という約束はあったけれど
資金ショートを起こした時点で、それは反故になって
残ろうと辞めようとこちらの自由、というのがこの世界の常識なのだ。
後日、僕が自分の仕切る店を再開させた後、
風の噂でハシモトたちの店の話を聞いた。
結局、彼らはポンコツ(=イカサマ)で抜く店を立ち上げた挙句
誰かにめくられて大変な騒ぎになったらしい。
立て直すだけの知恵も才覚も無い彼らは
どんどんと細くなって行く胴金に焦り
手っ取り早く数字を上げるために
ばれさえしなければ確実なポンコツに手を染めたのだろう。
「いや、多分あれは身内に寝返られてますね。
客がいきなり天井ぶち破って、カメラズルズル引っ張り出して
てめぇらこれ何だってやりだしたらしいです。
100%の確証が無ければそんなこと出来ないですからね」
明け方、外に立つシキテンにコーヒーを差し入れて話しているうちに
ふとそんな話が出てきたのだ。
実のところ、カメラを使ったイカサマはコストとリスクが見合っていない。
手短に言えば特殊塗料でバーコードのようなものをカードの端に入れ
それを天井やディーラーの後ろからカメラで読み取って
それを離れた所で解析して、次にどういう目が出るかを予め把握する。
この機械の仕込が結構な値段なのだ。
また、それだけでは客が当たる方へベットしたら避けられないから
吊りやパームといった手仕事を結局混ぜることになる。
外れる方へ張っていればそのままカードを出し、
当たる方に張ればカードの順番を操作したり別のカードを混ぜて
どっちに張っても外れるように勝敗を操作するのだ。
塗料、カメラ、本来入るべきでないカードなど
証拠が残ってしまうのもデメリットと言えるだろう。
堅気の客では分かるはずもないし
分かったところでめくれる(暴ける)はずもないけれど
分かっている人間がケツ持ちをちゃんと付けて、
カメラやカードといった証拠を先に押さえてめくりにかかれば
証明するのは容易にできる。
確証がないのに動くのはリスクが大きすぎるから
ハシモトの店の裏を知っている人間が
それを流している可能性は大きい。
金を追い求める者だけを集めて店をやれば
中には目先の金で転ぶ者も紛れ込む。
あるいは分け前の額に不満を持つ者も出てくる。
そんな誰かが店をめくって金にしようという誘いに乗ったのだろう。
ケツ持ちも交えて相当揉めたはずだが
最終的には金で解決しただろうし、そうするしかない。
いくらかかったかはもちろん漏れては来ない。
そっちに手を出したんだ・・
僕はそんなことを思っていたが
ふと、僕は結局あの時の給料をもらっていないことに気づいた。
その時までまるで頭から消えていたのだ。
あんな大変な思いしてただ働きか・・
苦笑いが浮かんできた。
そう、僕だって金のために働いているのだ。
冷え込みの厳しい中、辺りを見回すと
ビルの外に出されたゴミに、カラスが群がっている。
いつ見ても気味の悪い生き物だけれど
金に群がる僕らも、カラスから見れば相当気味が悪いはずだ。
どっこいどっこいだなどと言えば、
気を悪くするのは、むしろ、カラスかもしれない。