第23話〜ナカヤマ
「もしもし。お久しぶりです。ナカヤマですけど」
見覚えの無い電話番号からかけてきていたのは
僕が仕切っていた店で働いていた一人のディーラーだった。
僕と働いた頃には既にベテランと言ってもいい年代だったが
決して黒服にはなろうとしない男だった。
おそらくナカヤマは経営や接客に心を砕くよりも
気楽に言われた事だけをこなしていたかったのだろう。
こういった稼業に時々いるタイプだ。
けれど相手が誰であれ、アンダーグラウンドの世界から離れてからは
僕の方から電話をかけることなど皆無に近いし
かかってくることも滅多にない。
だから少し意外に思って返事をした。
「おお、久しぶりだな。元気か?どうした?」
そう問いかけながら、彼が電話をかけてきた用件を想像する。
金の無心ではあるまい。
そんな頼みを受け入れてくれると思うほど、
僕と彼は親密ではない。
要は電話番号が変わったことを教えない程度の仲なのだ。
そんな相手が突然電話をかけてきたということは
仕事に困って紹介を依頼してきたか
あるいは表の世界の相談や悩みがあるのか。
実際のところ、稀にかかってくるカジノ関係の人間からの電話の大半は
そんな類のものであることが多い。
ただ、同じ店に居た当時でさえ
それほど親しくなかった僕と彼の関係を考えると
そういった相談事でさえちょっと想像しにくく、
僕は若干嫌な直感を持たざるを得なかった。
「いや、実はちょっと話を聞いて欲しいんですけど
今度時間作ってくれませんか?」
悩み事でもあるような台詞だったけれど
実際の口調はやけに明るくて
僕はそのことも少し訝しく思う。
「時間作るのは構わないけど何か相談でもあるのか?
先にある程度の概略だけ言っておいてくれよ。
俺は今カジノ業界じゃないんだし
調べないと答えられない事だってあるんだからさ」
彼に会って相談を持ちかけられるにしても
やはりいい加減な答えをしたくはなかったから
僕は彼に先に概略の説明を求めた。
法律がらみのことであれば
条文や判例を当らないと返事が出来ないことだってあるし
電話で済む話のためにいちいち時間を作るような仲でもない。
「・・・お会いしてから話したいんですけど。
つっても悪い話じゃないですよ。
うまく行けばすげぇ美味しい話です」
一瞬口ごもった後、彼はそう言った。
そしてその瞬間、僕の中にあった嫌な直感が
急激にその大きさを増し始めた。
カジノ関係の人間が持ち込む電話では話せない話。
疎遠だったにも関わらず、会う事が前提。
特別なスキルもコネも無いのに、美味しいという話。
この事実を総合すれば、大体の予想はつく。
僕は心の中の苛立ちを懸命に抑えて、彼に言う。
「あのさ、俺もまるっきり暇ってわけじゃないからさ
しょうもない話をしに時間作るのは嫌なんだよ。
相談ならある程度内容聞かないといい加減な答えとかしたくないし
他の話なら他の話で、時間作る意味があるかどうかは聞いておきたいね」
少しきつくなった口調に、彼が黙る。
僕は追い討ちをかけるように言葉を重ねた。
「会って話すってさ、マルチか何かの勧誘じゃないのか?」
「あ、いや・・マルチかどうかは
会って話を聞いてから判断してもらえると・・」
語るに落ちるというやつだ。
電話でマルチの勧誘などしても誰も乗りっこない。
あれは会って一種の催眠状態などを作り上げてこそ
それに引っ掛る人間が出てくるのだ。
おそらく行けば複数の人間がいるだろう。
そしてなんだかんだと言葉を並べて
何かの集まりに連れて行こうとするだろう。
ナカヤマがそのビジネス(と呼べればだが)で成功しているのかは
最初から聞くまでもなかった。
ネットワークビジネスで成功できるのは
それを最初に始める人間だけだ。
それなのに、カジノ業界の人間で
マルチまがいの商売に手を出す人間は多い。
浮利というか、不労所得が何より好きな人種が集まる世界なのだ。
けれどもし、彼がそれを最初に始めたのなら
何年も疎遠だった僕になど声をかける必要は無い。
彼の身近な人間数人を「子」にしてその下の「孫」まで拡大できれば、
その先は自然と利益がねずみ算のように膨れ上がっていくだろう。
そこに至るまでがネットワークビジネスの肝なのだ。
とどのつまり、ネットワークビジネスというのは
自分がそれまで築いてきた信頼と人間関係を金に換える行為だ。
それに加わる人間全てが成功することが原理的に有り得ない以上、
最後に誰かが必ず貧乏くじを引く。
誰しも貧乏くじは引きたくないからこそ
こうやってほとんど接点の無い人間にまで声をかけるのだ。
それ以上、ナカヤマと交わすべき言葉は無かった。
僕はナカヤマにアポイントを取る意思が無い事を告げ電話を切った。
苛立ちも、怒りも既に無かった。
終ってしまえば、それは今の僕の日常の一こまだ。
何かの不利益を蒙ったわけではない。
けれど彼の電話は僕に、
かつて自分が属していたアンダーグラウンドの世界での
自分の日常を思い起こさせて
僕はこうして日記のような文章を書くことになったのだ。
アンダーグラウンドの住人だった頃の僕の日常。
辺りが薄暗くなってからが僕が目を覚ます時間だった。
普通の人間とは全く逆の生活サイクルを
僕は何年続けたのだろうか。
のそのそとベッドから這い出して
熱いシャワーを浴びて髭を剃る。
シャツとネクタイを適当に選んで車に乗り込み
依然として混雑している道路をノロノロと走らせながら、
自分の店のことをぼんやりと考えるのが、僕の習慣だった。
車の中で何度も独り言を言っては
通行人や対向車に見られてはいないかと
首をすくめていたことを思い出して
僕の回想はさらに深くへと入っていく。
僕が当時仕切っていた店が開店して、
入客もだいぶ安定してきた頃だったか。
前月は単月度では黒字だったものの、
初期投資金額はまだ丸々残っていた。
何とか今月で回収しきって来月から配当につなげたいな。
そんなことを考えているうちに、車は歌舞伎町へと着き、
けばけばしいネオンが、歌舞伎町が夜の顔に変わったことを思わせる。
店に入って様子を見渡す。
客は30バランスに5人、15バランスに10人。
まずまずの入りと言っていいだろう。
キャッシャーで確認した朝からのインは600、
集計用紙をみるとこの時間で150ほど上がっている。
これだけ抜けていれば上出来の部類だろう。
テーブルの傍に行って、常連客に挨拶をする。
常連の何人かはサービス欲しさに寄ってきて、
自分がいかに負けているかを力説するが、
いつものことなので機嫌を損なわないように適当にあしらう。
他の客の目もあるので「言えばくれる」と思われてはいけない。
逆に何も言わない時にさりげなく出すのがコツなのだ。
シャッフルの合間にソファで休憩している何人かの常連とも談笑する。
他の常連客に連れられてきた新規の客がいたので、挨拶がてら話しかける。
店の長に挨拶されて気分の悪い客はいないからだ。
ゲームが始ってから遊び方を見ると、なかなかの張りっぷりだった。
こういう客なら是非リピートさせたいと思う。
とは言え様々な客それぞれに、こまめに気を使うのが基本中の基本だ。
贔屓はする側よりされる側の方が敏感なものだ。
ただしずっと店内にはいないように、僕自身は心がけていた。
たとえ暇でも忙しく見せておかないと、
客が甘えて要求がエスカレートしかねない。
その後、休憩室でディーラーやウェイトレスとコミュニケーションを図る。
アングラとは言え組織だから、彼らのメンタルケアも大事な仕事で、
ちゃんと見てるよ、ということは折に触れて伝えなければいけない。
その中にいたのが、当時入店したばかりのナカヤマだったのだ。
他愛も無い話で盛り上がっている彼らに
僕のできる範囲で話を合わせる。
インドに行きたいとしきりに口にするナカヤマに
「インド行ったら帰ってこなさそうなタイプだよな」
などと突っ込みを入れ、話題が性格の話から血液型の話へと移っていく。
どこの世界にもある世間話の類だが
そんな会話の中にも、その相手の精神状態は現れてきたりする。
そもそも若い子は精神状態が接客に直結しやすいので、
使う側が気をつけてやらなければいけない。
イライラしたまま接客に当たってトラブルを招いては目も当てられない。
跳ね返ってきて困るのはこっちだというのもある。
もちろん勤務状態や成績に応じて、当事者ごとに話し方を変える。
単に叱るのも、ただおだてるのも良い方法とは思えない。
時に厳しく、時に励ます、そういうやり方を心がけてはいた。
うまくできない事ももちろん多かったが。
そして昼番の責任者を事務室に呼んで軽いミーティングをする。
気づいた点は遠慮なく報告させるようにしないと、
24時間店にいるわけにはいかないのだ。
となると現場の意見はかなり重要になってくる。
責任者からは、中国人常連が朝から大負けしていて、
だいぶ熱くなっているとの報告がある。
もともと特別サービスを責任者の裁量で出していい
と言ってあるので、その点は責任者がうまくやるだろう。
後でチェックすればいいだけのことである。
責任者クラスには、先月の数字と今月の目標値を伝える。
それくらいのポジションであれば、ある程度の数字を教えて、
ノルマ的な値を課すようにしている。
配当をもらえるのだから、彼らもその方がやる気になるのだ。
ミーティングが終ってしばらくすると、常連客の一人から電話がある。
彼女はホステスをしているので、営業電話をかけてきたのだろう。
世間話をしながら収支をPCで確認すると、
先月はトータルで100ほど負けている。
一度同伴で行ってやってもいいだろうかという数字だ。
ただし、今日すぐに行くわけではない。
月の初めと月末は出かけられないということにしてあるのだ。
そうでもしないと営業費が抑えられないからだ。
少ない投資で大きな回収を見込むには、営業費だって抑えたい。
日曜を除く日が毎月25,6日あるが、
そのうち営業に行くのは15日くらいに抑えるようにしている。
その辺の兼ね合いはこちらの腕の見せ所である。
「今日はちょっと月初めで忙しいんで」
そんな言い訳をしながら数日後に約束をして僕は電話を切った。
またもや別の常連客から電話がかかってくる。
用件は先程と全く同じで同伴を求めるものだ。
彼女もホステスだが、収支は先月はちょいマイナス程度。
これならとりあえず放置しても大丈夫だろうと僕は判断する。
「来週にならないと予定が分からないから、来週また電話して」
と言って先送りにしておく。
いつかは行かなくてはしょうがないだろうけれど
優先順位としてはそこまで高くはない。
ただし誰に対しても、一度行くと言った時は必ず行く。
そうすることで、納得して先送りを受け入れてくれるのだ。
営業電話と言えど嘘はつかない。いや、つけない。
信用は何よりも大事なものなのだ。
リップサービスやおべんちゃらしか言わない相手が
「うちはイカサマなんて一切ありませんから」
なんて言ったところで説得力が無い。
その後しばらく、僕は事務所でモニターの映像を眺める。
ほんの2時間ほどで数字がチャラにまで落ちた。
カメラを動かすと、画面にはチップを増やして嬉しそうな客の顔が映り
彼らを前にしながら、ナカヤマが無表情にカードを配っていた。
途中の勝ち負けにいちいち一喜一憂しているようでは
ディーラーや黒服は務まらない。
そういう意味では、ナカヤマは優秀なディーラーだった。
心から笑っているわけではないけれど
悪印象を与えない程度には、表情を作らなければならない。
結果として、丁寧な物腰と柔らかな表情を浮かべていても
見る者が見れば、そこに作り笑いしか見出せなくなる。
作られた表情しか存在しないことが分かるようになる。
それは、この世界の人間にとって
自衛の為の、あるいは世渡りの為の道具なのだ。
ナカヤマも、その必要悪を身につけているというだけに過ぎない。
客の人数が一定以上あって、ベットが一定額以上張られるのであれば
胴元側には自然と利益が出てくるようになる。
それがこの世界の原理原則であって
客が勝ったら一緒に喜んでやるくらいでちょうどいいのだ。
たとえそれが「喜んでやるふり」に過ぎないとしても、
それが出来ない人間は、この世界で長くは生きていけない。
不機嫌になって態度に出すなんて論外なので、
僕も、インカムで責任者にその旨を念押しする。
客に不愉快な思いをさせて来なくなったらその方が痛いのだ。
しばらく画面を見た後、深夜になって僕は店を出る。
飲み屋には行かないが、雀荘に顔を出すつもりだ。
途中で他店のシキテンと立ち話しながら情報交換をする。
言ってみれば、そういった情報収集も外出の目的だ。
お互い歌舞伎町は長く、顔なじみなので貴重な情報もたまに入る。
雀荘に着いて東風戦を8回ほど打つ。
1−3−6のビンタありのレートなので
それなりの額の勝ち負けになることも多いが、
それほど大きな金額を負けたことはなかった。
そもそも雀荘の勝ち負けの金額は「営業費で落とせない」ので、
愛想良くしながらもかなり真剣に打っていた。
打ち終わって店に戻る。
その後また数字が上がって200ちょっと上がっている。
客は2台がほぼ一杯。上々の入客である。
インも1200まで伸びた。
シフトの入れ替わりで既に顔ぶれが変わった
夜番のディーラー、ウェイトレスとも同様にコミュニケーションを取り
その後夜番の責任者とも同様にミーティングをする。
突然スポンサーから電話。
数字と状況を報告すると上機嫌で
「じゃよろしく頼むよー」
と言っていた。結果がすべての商売だから当然の反応だろう。
とはいえあまりの現金ぶりに少し苦笑したものだ。
その後は従業員のタイムカードを持ってきて給料計算。
エクセルに関数を入れてあるので、
時間数を計算して打ち込むだけである。
週払いなので30分もかからない。
作業の最中、ナカヤマの分を計算し忘れていたことに気づく。
入ったばかりの人間の分は表には含まれていないから
新たに名前と通勤の最寄の駅を記入した表を作る。
わざわざ最寄駅を調べるのは、こちらで定期代を調べておかないと
新宿ではなく渋谷までの定期を買ったりしてごまかす者もいるからだ。
ナカヤマの最寄駅は・・鷺宮と書いてあった。
ネットで定期代を調べて、それも表に記載しておく。
ここまでやっておけば、後はキャッシャーで金を詰めるだけで済む。
その後スポンサーに提出する月報の作成。
これも日報から数字を引用するように関数を入れてあるので、
数字を見直すだけだ。
モニターに映る店の様子を横目に見ながら
僕は自分に課されたルーティンをこなしていった。
一日の締めに入る。結局その日は320万ほど上がっていた。
毎日これが続けば笑いが止まらないが、そんなわけはない。
出足が良かった、それだけの話である。
キャッシャーから出された日報をPCに打ち込んで終了だが、
客一人一人の収支を計算するのが結構大変だ。
これはどこかから関数を引っ張ってくるわけには行かない。
ただ、溜めるともっと大変なのは小学生でも分かることだ。
夏休みの宿題と一緒である。
作業を終えて店を出る。空はもう明るい。
肌寒さを感じながら車に乗り込む。
今日も無事に終わった、そんな安堵感がため息になって出る。
警察の摘発も無かったし、ヤクザも来なかった。
店の中でトラブルも起きなかった。
どれも頻繁に起きるようなことではないけれど
いつ起きてもおかしくない世界だ。
車を運転して自宅に戻る途中の信号待ちで
不意に今日は燃えないゴミの日だったことを思い出すこともあった。
寝る前に捨てておかなければ、妻の機嫌が悪くなるのだ。
全部終ったと思っていたが、
もう一仕事残っていたことになる。
「やれやれ」
思わず苦笑いして、車を再び走らせる・・
それがかつての僕の日常だった。
生き馬の目を抜く夜の世界でギラギラした欲望の相手をすることも、
ゴミを分別し、決まった日に捨てることも、
たぶん、僕にとっては同じルーティンだったのだろう。
そこまで思い返して、僕は、今のナカヤマの年齢が
当時の自分の年齢であることに思い当たった。
僕と一緒に働いた当時でさえ
既に6,7年のキャリアを持つディーラーだったナカヤマ。
客の顔も良く知っていたし、接客だって下手ではなかった。
けれど、黒服になるかと尋ねると、決して首を縦には振らず
ディーラーとして気楽に働きたいと言っていた。
そのナカヤマが、わざわざ疎遠な仲の人間にまで
必死で電話をかけるようになったことに、僕は暗い気分になる。
緊張と不安の繰り返しの日常の中のつかの間の安堵。
僕はその生活から離れ、ナカヤマはまだそれを繰り返しているわけだ。
そして歳月が瞬く間に流れ、いわゆる潰しの利かない年齢になって
ナカヤマにはナカヤマなりの不安を抱えるようになったのだろう。
そのために、マルチのような浮利を求めるのだろう。
もちろん、マルチであっても、上手く行けば
もしかしたら彼はその先に、何かを手に入れられるのかもしれない。
けれど、失うものにも気づくことを、
できるなら、それが失う前であることを、僕は、少しだけ願った。