表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/35

第21話〜マキ

その日、僕はとある雀荘にいた。


繁華街であっても、雀荘に貸してくれるような物件は

いわゆる「何業可」であることが多い。

特に違法な事業で無い限りどんな商売にも貸す、ということだ。


結果として雑居ビルというよりはピンクビルと言った方がいいくらい

ピンク産業が入り込んでいるビルの一角に雀荘がある、

ということも多い。


5階建てのビルの3階にあったその雀荘も

1階にラーメン屋が入っている以外は

上から下までピンク産業の店子が入っていた。


その日の遊戯を終え店を出て、エレベーターに乗ろうとした僕は

上のフロアにエレベータが止まったままなのを見て

すぐ脇にある階段で外に出ることにした。

いちいち待っているよりその方が早い。


階段を降りて1階に着くと、

ちょうどエレベーターも1階に着いたところで

中から若い女の子が一人出てくるのが視界に入った。


ピンク産業しか入っていないフロアから女の子が降りてくれば、

それはそこで働く女性であろうという推定が働く。


僕は今までにたくさんの風俗嬢を

博打場の客として見てきた。

場合によっては、最初は学生だったのに

いつの間にか風俗嬢になっていた女性もいた。


彼女たちが風俗の現場で働くようになった背景は

もちろん人それぞれであり、簡単に類型化は出来ない。

人はそれぞれ、自分だけの事情を抱えているのだ。


僕の少し前をゆっくりと歩き出した彼女の出で立ちは

アイボリーの春物のハーフコートと

膝丈より少し長いフレアのスカートに黒のミュール。

ストッキングは履いていないように見える。


ごく普通の外見とLとVを組み合わせた柄のバッグと

何か買い物でもしたのだろうか、

横文字の並んだ紙袋を持っている。


僕が歩くのが早いせいもあるけれど、

ビルを出た時にあった数メートルの差はあっという間に詰まって

僕は彼女に並びかける。


僕の知る限り、店の出入りの場面以外で

足早に歩く風俗嬢というのはあまりいない。

彼女たちの多くは、いささかだるそうにゆっくりと歩き、

少ししか離れていないところでもタクシーに乗る。


そしてちょっとした面倒になりかけると

出せる範囲であれば金で解決しようとする。


「あぁもういいわよ、払えばいいんでしょ?」


店のテーブルの一角で、

携帯電話で面倒そうに話していたのは誰だっけな・・


僕は一瞬そんな回想に耽りかけたが

アンダーグラウンドの世界を離れて久しいせいか

その場では詳細を思い出すことが出来ずに

駅へと向かう道で、目の前をゆっくりと歩いていく

見知らぬ彼女を追い越した。


駅へ着き、帰路を急ぐ人が溢れるホームに立つ。

数分後、電車が着き、まるで呼吸するかのように

大量の人を吐き出し、大量の人を飲み込んでいく。


降りる乗客が多いせいか、車内には空席がいくつもある。

僕はその一つに腰を下ろし、

携帯電話のメールで妻に帰宅を知らせる。


今から帰る。

はい。


わずか数文字で構成されるコミュニケーション。

ドラマも、ロマンスもそこには無い。

ただの日常に過ぎない。

昨日も、おそらくは明日も繰り返される日常。


そして携帯電話を仕舞い、僕はふと正面に目をやる。

そこには、先ほど追い越した彼女が座っていた。


あのペースで歩いていた彼女が

まさか僕と同じ電車に乗れるとは思っていなかったので

僕はいささか意外に思ったけれど、

良く考えてみれば、あのビルから駅までは

歩いて数分の距離なのだ。

ホームで待っている間に追いついても全く不思議は無い。


彼女は、先ほどの僕と同じように

携帯を取り出していじっている。

少し斜めに伸びた白い脛がやけに艶かしくて

僕は首を傾げて車内の吊広告に目をやる。


と、そこへ携帯の着信音が鳴る。

機械音声でメールの着信を知らせる声だ。


「You've gotta mail・・」


音のする方向へ反射的に目を向けろと

それは彼女が持っている携帯電話だった。


彼女はすぐに折り畳まれた携帯電話を広げて

届いたばかりのメールを読む。


どんな内容のメールをやり取りしているのだろうか。

相手は友人だろうか、恋人だろうか、

あるいは家族だろうか。


そんな想像をしている僕をよそに

彼女はひとしきりメールを読んだ後

嬉しそうに、本当に嬉しそうに、

まるで携帯そのものが恋人であるかのように

携帯電話を胸元で抱き締めた。


そして、その仕草を目にした瞬間

僕の中のかすれかけた記憶が蘇った。


あの夏の午後、新大久保の喫茶店で

僕の向かいに座ったマキは

電話で手短に用件を話した後

最後に、同じように携帯電話を抱き締めた。


嬉しそうに。

自分が世界一幸福な人間であるかのように。


マキは、僕が仕切っていた店の客だった。


歌舞伎町の飲み屋でホステスをしていたマキは

それを知っていたシキテンが連れてきた客だったのだけれど

他の客とは、最初に来た時から少し違っていた。


カジノに来る客は、来店した瞬間からそうであるが、

テーブルに着いて打ち始めるまでに

黒服によって気づかれないように観察されている。


極道ではないか、警察関係ではないか、ガジリではないか・・

そういった「店にとって害である客」でないか見られるのはもちろん

どの程度の単価の客になるか、どんな素性であるか

黒服は観察によってできる限りの情報を集めようとする。


財布を出してチップを買う段階であれば

この時には財布の中身を出来る限り見る。

それがカジノの黒服の習性というべきものだ。


パッと見れば大体分かるものなのだが、

厚さやクレジットカードの色などでもある程度の判断は出来る。

カードの類を一切財布に入れていない客もいるが、

それはそれで怪しいわけだ。


普通に社会生活を送っていれば、

カードを一枚も持たないなんてことはあまり考えられない。

キャッシュカードくらいは入っているものだからだ。


もちろん財布を持たない人や

遊びに使う専用の財布を持っている人もいるが

あくまでそれは例外的な存在だ。


財布にお守りを入れる人が多いことや、

開運や風水などで扱われやすいアイテムであることを考えれば、

財布を頻繁に変える人間は少数派だろう。


そして、海外旅行でもなければ、

お金をあちこちに分けている人はそうそうはいない。


財布が空になったからと言って、腹巻から別の財布が出てくる、

なんてことはそうあることではない。

とにかく、いくら持っているか、というのは結構大事な要素だから

黒服は、財布の中身をこっそり盗み見る。


なぜなら、所持金と平均ベットは無関係ではないからだ。

例えば何百万も持っていて平均1万しか張らなければ、

それはカジノにとっては良い客ではない。

手ごわい客かただの見せ金かのどちらかだ。


本来、正しいバンクロールは所持金の1〜2%とされているのだが、

サービスチップが出る日本のカジノの場合、

初回のお買い上げ分の5%くらいの平均ベットがないと

サービス目的のガジリである可能性がある。


サービスチップが無ければもっと低くても構わないのだが、

サービスがある場合はプレイ時間が2シュート以下では

サービス分を控除しきれないからだ。


所持金が数百万であろうと、チップをいくら買おうと、

店に落とさないなら良い客とは言えない。

それがバンクロールをキッチリ管理できる客でも

あるいはガジリでもだ。


だから黒服は客の所持金を見ることで

そういった客を判別する手がかりを得ようとするのだ。


ところがマキは、財布を持っていなかった。


ハンドバッグはいつも持って来ていたが

その中を決して見せないようにしながら金を出した。

封筒にも入れていなかった。


帰りかけたのを見て、金を使い切ったのかと思ったら

踵を返して再びテーブルに戻り、また金を出すこともあった。


そして本当に帰る時には、どんなに負けていても


「ありがとう。おやすみなさい」


そう言って帰った。


最初のうち、バッグの中身を見せないようにすることで

注射器やらクスリのパケのような「危ない物」でも持っているのかと

僕は密かに案じていたのだけれど(そういう客もいないわけではない)

そういうわけでもないことにやがて気づいた。


ベットする金額の大きさを見れば

金を持っていることは容易に推察出来たけれど

それを他人に見せるのは美しくないことだと

どうやらマキは思っていた節があった。


そして、奇妙なことに、

あれだけの遊び方をする割に

マキは他の客の誰とも関わろうとしなかった。


カジノにおいては、他の客との関わり方も

黒服にとって重要なチェックポイントになる。


普通、カジノで遊ぶような客は、

一つの店にしか行かない、ということはまず無い。

たいていはあちこちのお店に行くものだ。


ということはこっちが知らなくても

周囲の客とは顔馴染みだったりすることが多い。


顔馴染みであれば、同じテーブルに着けば

挨拶や会釈程度はするものだ。

誰ともそういった交流をしない客というのは、

それだけで要注意なのだ。


誰も知らない客か、誰も関わりたくない客のどちらかだからだ。

いずれにしても、気をつけて観察しておく必要がある。


もちろん要注意ではなくても、新規客の遊び方は必ず気をつけて見る。

何を根拠にベットを決定しているのか、

平均ベットはどれくらいか、

罫線の付け方やカードを絞る手元や視線の先をそれとなく見るのだ。


例えば、シューターからカードが出てくるところばかり見ている客は、

イカサマに嵌められないように用心している場合と、

自分がゴト師でゴトを仕掛けにきたかのどちらかだ。


さらにカードの絞り方も見る。

どういう風に絞っても構わないのだが、

絞る時の手元は必ず見なくてはならない。


カードを握りこんですり換えるマジシャンのようなゴト師もいるからだ。

斜め後ろから見るのが一番発覚しやすいので、

後ろをやたら気にする客はモニター室に連絡して、

ズームでしばらく追いかけることになる。


とにかく、人間の目というのは嘘がつけないことが多く、

薬物でキメている客も、目で分かるものだし、

テーブルを見ている黒服と頻繁に目が合う客も要注意だ。

ゲームに集中していないから周りが気になるということだからだ。


また、罫線を見ながらベットを決めるのが一般的な中で、

他人のベットばかり気にしている客は

「人目=ついてないと思われる人の反対ばかり張ること」

をしている可能性がある。


それ自体は店がどうこう言うような問題ではないのだが、

反対に張られた客とトラブルを起こすケースがあるので、

気をつける必要はある。


マキはそのどれにも該当していなかったが

他の客と会話をしようとしなかった。

誰かが話しかけても、最低限のことしか答えなかった。


そのくせ、自分と同じ方向に張っている誰かが

首尾良くナチュラルナインなどを出したりすると

にっこりと笑って拍手を送ったりもしていたから

人と関わることを嫌っているわけでもなさそうだった。


僕はそれが不思議だった。


ある日僕は、店の外で偶然マキに会った。

ちょうど僕の店から出てきたところらしく

僕が


「お疲れ様でした」


と軽く声をかけると


「あら。今日はいないなって思ったら外にいたのね。

おかげさまで今日は少し勝ったわ」


と微笑みながら近寄ってきた。

その頃にはマキが上客の部類であることを知っていた僕は

好機と見て、マキにさらに話しかけた。

店の中では話かけにくい雰囲気をまとっている分

こういう機会を逃すべきではなかったのだ。


「これからお仕事ですか?」


「そうよ」


そう答えたマキから、自然を装って店の名前を聞きだした僕は

翌日、マキの店に行ってマキを指名した。

いわゆる営業という行為だ。


席に着いたマキと話す間に

マキが相当なお嬢様育ちであることに僕は気づいた。

ちょっとした所作、言葉遣い、

そういった部分には育ちと言うものが如実に現れる。


そんなことを装うのは簡単だという見方もあるかもしれない。


けれど、一番ボロが出やすいのは

そういった細部でもあるのだ。


穏やかで、丁寧な言葉遣いで話すマキは

むしろ、なぜこういった水商売をしているのか

僕にとっては不思議ですらあった。


その日以降も、マキは僕の店に来て

僕は月に1、2度マキの店に行った。


「僕のところでお客さんにばったり出くわしちゃったら

ご商売的には拙くないんですか?」


僕がそう尋ねるとマキは


「いいのよ、それが気に入らなければ

私のこと指名しなければいいだけじゃない?


私ね、別に指名していただかなくてもいいのよ。

指名するからって私のプライベートまで

どうのこうのっていうお客さんは要らないの」


僕はその考え方は理解はできたけれど、

客の落とす金で成り立つ商売である以上、

現実にそれを実践して行くのはなかなか難しいことも知っていた。


「それはそうですけど・・ノルマとか無いんですか?」


そう問いかけた僕にマキは


「あるわよ。でも、私のこと指名してくれるお客さんは

私が私らしくいてくれればそれでいいっていう人ばかりなの。

そのお客さんだけで私はノルマをクリアできるの。


時々ね、ママが一見さんの席に私を着けてくれるけど

向こうが私のこと気に入っても

私が嫌な印象を受けたら私はもう着かないの。

二度と指名していただかなくて結構ですってはっきり言うわ。


俺は高い金払ってるんだとか言うお客さんには

お代は結構ですからって言って自分で払うの」


ニコニコと笑いながらあけすけに語るマキに

僕は正直羨ましさを覚えた。

それでやっていけるならどんなに楽かということを

僕は嫌と言うほど思い知っていたからだ。


そして、マキがそのやり方でやっていけているのは

おそらく「パパ」の存在があるであろうことも想像できた。

ノルマの大半は、パトロンとパトロンが連れてくる客だけで

クリアできてしまっているのだ。


もちろん、僕は自分からそれを切り出したりはしなかったけれど

やがてマキ自身がこっそりそれを打ち明けてきた。


「最初のうちね、カジノの人たちは

みんなすごく悪い人たちだと思ってたの。

パパはそう言ってたわ。


バカラしたっていいけど、

お店の人にもお客さんにも気を付けなくちゃダメだって。


だから自分から仲良くする気なんて全然無かったんだけど

不思議なもので、こうして店長さんと仲良くなって来ると

お店にいる人たちも悪い人とは思えなくなってくるのよ」


「いや、パパの仰っていることが正しいんですよ。

気を付けられた方がいいですよ。

僕が言うことではないんですが」


苦笑いしながら言った僕の言葉は

マキにはどう聞こえていたのだろうか。

マキはだんだんと従業員や周囲の客と打ち解けていった。


ふんだんな資金を持ち、鷹揚な遊び方をするマキの周囲には

やがていつも誰か他の客がくっついてくるようになった。


最初信用していて、後から猜疑心が芽生えると

人はなかなか払拭できない。


逆に、最初は警戒していたのに

一旦それが解除されると

人は無条件に信じるようになる。


疑うべき理由があっても

わざわざ自分でそれを否定する理屈を作り上げてまで

一度築いた信用を維持し続けようとする。


おそらくマキは、最初は僕の店で出会う人全てに対して

強い警戒心を抱いていたはずだ。

ところが、店の人間である僕と親しくなることによって

その警戒心を解くようになった。


すると今度は、僕と無関係な人間まで

信用するようになっていったのだ。


いつも周囲に人が絶えず、

華やかな雰囲気をカジノでも持つようになったマキ。


時には、僕から観ると眉をひそめるような客とも一緒にいたけれど

マキが僕の店に来ることで、他の客も店に来るのだ。

あえてそれをやめろと言うことは僕には出来なかった。


けれど、僕には分かっていた。


マキの周りに集まる人の、ほとんど全ては

マキが無一文になれば鼻も引っ掛けない。

僕とて例外ではない。

客で無くなってしまったら、営業費など出ない。


お嬢様育ちで、チヤホヤされることに慣れていたマキにとって

周囲の人々が発する言葉の真実は見えていたのだろうか。


ある日、黒服の一人が僕に言った。


「マキさんはAとBに駒を回してますね。それもかなり」


ついにそうなってきたか。


僕は歯がゆい思いをしながらその話を聞いていた。

博打に嵌まって金を失った人間は金のある人間にすり寄る。

運良くご祝儀がもらえればいいし

適当な物語を拵えて、金を借りてもいい。


もともと彼らに失うものは無い。


使ってはいけないお金に手を出して・・

来週になったら金が入るから・・

この間一緒にいたアイツに金を貸してるから、それを代わりに・・


ちょっと気の利いた人間であれば耳も貸さないような話に

世間知らずのお人よしはコロリと引っかかる。

借りた瞬間に彼らから発せられる感謝と賞賛の言葉は

返せない時には、嘘と言い訳で塗り固められる。


一人目でそれを学習すればいいのに、

お人よしは、次の誰かは前回とは違うと思い込む。


あの人は逃げたりしないから大丈夫。


そんなことを、半ば自分に言い聞かせる。

具合の悪いことに、何度かは事実返済されるのだ。

10万返した相手が、次に20万返せるとは限らないのに

お人よしは、それを信じて疑わない。


けれど、僕がマキにそれを言ったところで

僕の言葉はマキには届きはしない。

僕としても、疎んじられるリスクを背負ってまで

マキをそれ以上たしなめるような真似は出来ない。


そしてマキは、どんどん金を失っていった。


バカラは非常に控除率の低いゲームだ。

プレイヤーに賭けても、バンカーに賭けても

1%強の控除率しか負担しない。

しかも2回に1回は当たりの快感を味わえる。


自分が負担していた控除率の大きさには

破滅の一歩手前でなければ気づかないものなのだ。

そして、さらに恐ろしいことに

その時には、もう止めることは出来ない。


バカラというゲームそのものが持つ破滅へのステップに加えて

マキは別の要因まで抱えてしまうようになった。


マキは高利貸しの保証人にまでなっていたのだ。


博打場に巣食う高利貸しは

ある意味においてはババ抜きのようなものだ。

トイチ(10日で1割の利息だ)の金に手を出して

必勝法の無い博打を打つ人間が

トータルで所持金を増やすことなど皆無だ。


博打打ちに必要な冷静さも、理性も何も無いのだ。

まともに借金を返せるはずが無い。

だから、最後は必ず飛ぶ。逃げる。


元金を回収するまでに、9回回ればいいのだけれど

(最初に1割引くから、9回でいいのだ)

それすらも危うい人間が多いから

高利貸しは極力保険をかける。


自分の顔の利くカジノに行って

サービスチップを利息代わりに取り上げるのもそうだけれど

マキのようなお人よしは絶好の鴨だ。


「マキが保証するなら貸してもいいよ」


そんなことを言えば

借りたくて仕方の無い人間は必死でマキに頼む。

保証人なんて、自分が借りるより酷いものだけれど

マキのような世間知らずが、軽率に承諾したりする。


「絶対に迷惑はかけないから」


保証人になってくれと頼む時点で

既に十分迷惑をかけているのだけれど

世間知らずはこう考える。


「私はもう貸してあげられなくて可哀想だから」


彼らとて、最初から逃げようと思っているのではないだろう。

でも、返せるはずが無いのだ。

トイチの金が借りられなくなったら、

次はもっと高利の金に手を出す。


そんなことを繰り返せば

一ヶ月もしないうちにパンクするだろう。


そして、借りた本人が逃げれば

高利貸しはマキに返済を要求する。

それも、利息もひっくるめた総額をだ。


「そんなになるわけないじゃない」


携帯電話で言い争うマキは、最後には


「わかったわよ。払えばいいんでしょう」


と面倒そうに言って電話を切っていた。


とはいえ、何度か諌め、忠告した僕に

マキは本当の事情を打ち明けなくなっていったから

それがどういった内容の電話か、正確なところは知らない。


でも、行き着く先は僕には分かっていた。


マキは今度は保証人ではなく、

自分自身が高利貸しから金を借りるだろう。

金利が滞れば、高利貸しは平然と職場にも行くだろうし

パトロンの元にも行くだろう。


事実、いつの間にかマキは店を辞めていた。

噂では、パトロンといる時に追い込みをかけられたらしい。

そんな女はもう知らんとパトロンは言い放ったようだった。


そしてマキが僕に電話をかけてきて会おうと言った。

用件は聞かなくても分かっていたが

僕はマキと新大久保の喫茶店で待ち合わせた。


夏の昼下がりのことだった。


僕の向かいに座ったマキはしばらく黙っていた。

僕も何を言えばいいか分からずに、黙って額の汗を拭いていた。


グラスの水滴が、紙で出来たコースターをしっとりと湿らせた頃

言いにくそうに、少し恥ずかしそうにしながらマキが話し始めた。


「実はね、Aさんにお金を貸してたんだけど・・

それで・・来週返すっていう話が・・」


見栄なのか何なのかは分からないけれど

何かを隠そう、何かを装おうとしながら饒舌に話すマキ。

その冗長な話を要約すると、結局は金を貸してくれということだった。


「貸す、貸さないは別としていくら必要なんですか?

いくら借金があって、どうやって返すんですか?」


そう聞き返した僕に、マキは言った。


「とりあえず50万、50万あれば何とかなるの」


絶対に何とかならないのはすぐに分かった。

そんな額で何とかなるはずが無い。


50万やそこらで何とかなるなら、

僕に借りようとはしないだろう。

頼めそうなところは全部当たった上で

僕が貸しそうな額が50万だと踏んだだけだ。


それは、ある意味では

マキが付けた、僕とマキとの関係の値段だ。


「そんな大金、僕には無理ですね」


僕はそう言いたいのをこらえて、もう一度マキに尋ねた。


「で、いつまでに、どうやって返すんですか?」


「今月中に働いて返すわ」


「お店、辞めちゃってるじゃないですか。

それに、50万の給料なんて返済に回せるんですか?」


マキは黙った。

そして、今度は少し口ごもりながら言った。


「実はね、知り合いの人がお店を紹介してくれてね。

そこで給料をバンス(前借)させてもらうの」


嘘、では無いだろう。

けれどそこには絶対に裏があるはずだった。

もしそれがそのままの話なら

僕でなくても身近な誰かが貸してくれるはずだからだ。


ということは、身近な人間には言えないか、

明かされていない事実があるかのどちらかになる。


僕を騙そうとでもいうのだろうか。

少し頭に血が上り、思わず詰問口調になる。


「どこの、なんていうお店ですか?」


マキは再び黙った。

沈黙が流れ、僕はウェイトレスにコーヒーのお代わりを頼む。

コーヒーが届いてしばらくしてから、

マキは恥ずかしそうに話し始めた。


「歌舞伎町のお店じゃないの。

普段は事務所みたいなところで待ってるだけで

電話があったら、待ち合わせて相手の人と会うの」


ああ、と思った。

ついにその日が来たのだろうか。


マキの言う仕事は、要するに風俗嬢だ。

いわゆるデリヘル嬢というものだ。

間違っても、会うだけ、ではない。


「会うって・・マキさんそんなことできるんですか?」


何度目かの沈黙が流れ

今度はマキは泣き始めた。


「・・だって・・こうしないともうどうしようもないもの・・

みんな誰一人助けてくれないし・・」


すすり声を上げて泣くマキを見て

周囲のテーブルの客の視線が僕に突き刺さる。


「男は上り詰めないと金を持てないが

女は落ちても金を持つことがある」


誰かがそんなことを、若かりし頃の僕に言っていた。

マキが本当にその世界で生きていくのであれば

借金ももしかしたら返済できるかもしれない。


おそらくは無理だろうと思ったのだけれど

僕は立ち上がって言った。


「分かりました。貸しましょう」


僕が近くの銀行から金を下ろして戻ると

マキは誰かに(おそらく金貸しだろう)電話をしていた。

そして、僕が銀行の封筒を差し出すと、

マキは嬉しそうに、本当に嬉しそうに電話を抱き締めたのだ。


苛烈な追い込みから逃れられるだけで、

こんなにも人は、喜べるのだろうか。


僕はそう思って、少し切なくなって

まだ暑さの残る店の外へ出た。


けれど、案の定、約束は果たされることはなかった。

マキが指定した期日に僕が電話をかけると


「今日はこれしか用意出来なかったの」


そう言ってマキは10万だけ僕に返し

改めて指定した期日を待たずに、飛んだ。


彼女のメンタリティで

コールガールが務まるとは思えなかったから

飛ぶことはある程度覚悟していた。

むしろ10万が返ってきたことの方が驚きだった。


マキが今、どこで何をしているか僕は知らない。

噂では、逃がしたのはパトロンだとかいう話だから

調べようと思えば調べられるのだけれど

もとより、追い掛ける気もない。


金貸しは血眼で捜していたようで

僕のところにまで情報を求めて来たけれど

もちろん何一つ教えなかった。

高利貸しを助けるなんて真っ平だから。


できればマキが、これ以上落ちて行くことなく

うまくリセットできればいいとは思う。

落ちても金を持つことがあるからと言って

高利貸しのために働く必要なんて無いのだ。


いわんや、博打の種銭のためになんて、だ。


そこまで思い起こして、

僕は自分が無意識の間に列車を降りて

改札を出ていたことに気づいた。


変化の乏しい日常を生きていて、

あの頃から上ったのか落ちたのか、

僕には、自分自身のことも良く分からないのだけれど。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ