第1話〜タナカ
アングラカジノ・・
僕がこの世界に入った時期は
まだ日本中がバブル経済の真っ只中だった。
不動産屋、証券マンが湯水のように金を遣い、
その金は彼らが使う水商売や飲食店だけでなく
回り回って至る所で人々の財布を潤していた。
当時まだ学生で、バブルの恩恵をさほど受けていなかった僕でさえ
アルバイトの時給という点においてはかなり恵まれていた。
使い走りと変わらないような仕事でも
一ヶ月やれば結構な額の稼ぎになったし
それが当然だと思っていた。
そしてある時期にアルバイトを探していた僕は、
とある求人雑誌でカジノバーの求人広告を見つけた。
「ディーラー募集」
破格の好待遇と、華やかな雰囲気を醸し出す写真。
それを見た僕は、ほぼ即決で応募してみることに決めた。
求人誌に書いてある電話番号に電話をかけ、
同じく求人誌に書いてあったシマダという担当者に、
まだ募集しているかどうか尋ねた。
「履歴書を持って明日の16時から20時の間に来て
店長のシマダいますかって言ってくれたら分かるから」
電話の向こうで、そのシマダという名前の担当者が言った。
翌日、僕は求人誌に書いてある住所を探して
とある雑居ビルに辿り着いた。
9階建てのそのビルには2つエレベーターがあって
僕は一瞬そのどちらに乗るか迷ってから
理由も無く、右側のエレベーターに乗って
店があるはずのフロアを目指した。
店のドアにはまだ看板も表札も無く、
僕はおそるおそるドアを開けてみた。
「ごめんください」
そう奥に声をかけると
「面接?こっち来て」
と誰かが僕に声をかけた。
その言葉で僕は店の奥へ向かう。
思ったよりもずっと広い店内にカジノで使うゲームのテーブルが並び
天井には仰々しいほどの大きさのシャンデリアが吊り下がっていた。
テーブルには男ばかり数人いた。
年の頃は40代前後だろうか。
皆が僕のことをじっと見ているようで
僕は一瞬たじろいだけれど
思い切って言葉を出す。
「あの、ヤマグチと申しますが、店長のシマダさんはいらっしゃいますか?」
すると男の一人が立ち上がって横にいる男にこう言った。
「シマダ、こいつの面接、俺がやるから」
「タナカさんやるんですか?すいません、じゃお願いします」
話しかけられた男が頷いて頭を下げ、
僕はシマダというのが誰なのか、ということと
この立ち上がった男がタナカという名前であることを、
さらにタナカは店長のシマダよりも上の立場であることを察した。
「うん、じゃ、そこ座って」
タナカが僕に横のテーブルを指差し、
僕は言われるがままにその席に座る。
「じゃ履歴書見せて。ふんふん。ヤマグチね。
で?未経験なんだろ?明日から研修来れるか?」
僕はとりあえず頷く。
本当は明日は友人と飲む予定があったのだけれど
何となく断れるような雰囲気ではなかったのだ。
「よし、じゃ明日の4時からな。時給は・・」
その後の条件については
僕はほとんど覚えていない。
気がついた時には面接は終わっていた。
「よろしくお願いします」
そう言いながら立ち上がって頭を下げた僕に
タナカがちょっと意外そうな表情で言う。
「お前、ずいぶんいい体してるな。何か運動やってんのか?」
「高校まで野球部でした」
と僕は答える。
タナカは満足そうに頷いてシマダに向かって言った。
「お、やっぱりか。野球やってた奴は根性あるからな。
おいシマダ、こいつちゃんと鍛えろよ。絶対モノになるから」
そして今度は
「じゃ、しっかりやれよ。期待してっからな」
と僕の尻をポーンと叩いてどこかに行ってしまった。
僕は店を出て、再びエレベーターに乗ろうとする。
今度はたまたま先に来た左側のエレベーターに乗った。
外に出ると、いつの間にかあたりはすっかり暗く、
先ほどまでは点灯していなかったネオンが煌いていた。
それを見て、まるで僕は違う世界に迷い込んだ気分になった。
違うエレベーターに乗り込んだような気さえした。
自分がどちらの方角から来たかさえ、分からなくなったのだ。
あるいは、本当にその時、
僕の世界は入れ替わっていたのかもしれない。
そして翌日、僕は前日訪れたビルに再び向かった。
実を言うと、心の中ではその店が本当にまたあるのか半信半疑だった。
もしかしたら、陰も形も無く消えているかもしれないと思っていた。
けれど実際にその場所に行ってみると
店は前日と同じようにそこにあり、
ドアを開けると中には随分たくさんの人が居た。
年齢は僕と同じくらいの若者ばかりで
僕は彼らも僕と同じ研修に来たのだろうと、心の中で当たりをつけた。
研修はルーレットのチップを扱うことから始まった。
まず、チップを素早く集めて20枚ずつにまとめるというのが
その練習の内容だったのだけれど
もたもたしているとすぐに教官役の男から罵声を浴びた。
怖いところに来ちゃったな・・
そんなことを思いながら
ゲームで使うチップを拾う練習をしていると
僕はいきなりシマダに呼び止められた。
「お前、オーナーに直接面接してもらったんだから、
頑張らないと駄目だぞ」
そうシマダに言われて初めて、
僕はタナカがオーナーであることを知った。
罵声や怒号が飛び交うピリピリしたムードに既に萎縮していた僕は、
自分が幹部に覚えられていたという事実だけで
さらに萎縮することになった。
結局、その日残った記憶と言えば
ただ目立たないことだけを意識して動く
自分の惨めさだけだった。
その後もタフでハードな研修は続いたのだが、
何よりプレッシャーだったのは、
タナカがちょくちょく研修を覗きに来て
「チップ拾いは今何秒くらいだ?」
などと声をかけていくことだった。
チップ拾いというのは
100枚のチップを集めて、20枚×5つにまとめる作業だが
これを最低30秒以内、というのが合格ラインだった。
やってみれば分かるが、そう簡単なことではない。
ともかく、店のオーナー直々に声をかけられて
体育会系の出身で上下関係にはかなり敏感だった僕は
それこそ必死で練習する日々を送ることになった。
おかげで数週間後には何とか客の前に出られる程度にはなったが、
その店は今思えばかなり風変わりな店だった。
この業界に長くいれば分かることだが、
普通オーナーは、店の現場に出てきて仕切ったりはしない。
万が一の摘発リスクもあるし
やはり使う立場と使われる立場には歴然とした違いがあるのだ。
けれどこのタナカというオーナーは連日のように店に出てきて
接客はおろか、ディーラーへの指導教育までもやっていた。
僕も何度か
「お前、こういう風に仕切れよ。そうすりゃ運が向いてくるから」
などと言われたりした。
カジノという確率の世界で勝敗を運で片付けるのは
人によってはナンセンスの一言で片付けてしまうかもしれないが、
当時は新人で右も左も分からなかったから
そういうものなのかと思って、一生懸命言われた通りにしていた。
ただ、今でも納得できるのは
「声にハリがないディーラーはうまく仕切れない」
ということだ。
言うまでも無く、カジノは
「チップを張ってもらってナンボの商売」
だ。
客が熱くならないとベットは大きくならないから、
うまく盛り上げる必要がある。
自信無さげな声でボソボソディールするのは、
客の心理が白けて、なかなか張りも大きくならない。
別に大声を出す必要はないのだが、
ハキハキ、キビキビとディールする方が
盛り上がりは大きくなるのは、人間の心理としては自然だ。
だから僕は、後年自分が店を仕切るようになってからも、
その点についてはけっこううるさく言っていた。
そしてタナカの一番変わったところは、
「店の調子が悪いと、自らディーラーとしてテーブルに入る」
というところだった。
僕のカジノ業界歴の中で、
自らディーラーをやったオーナーは後にも先にもタナカだけだった。
バブルの最中だった当時のことだから、
放っておいても店の売り上げはどんどん上がったはずだが、
負けることが我慢ならなかったのだろうか、
一番賭け金の大きいテーブルが負けていると
「俺が入る!」
と言ってオーダーメイドのスーツの上着を脱いで、
タナカはディーラーをやりだしていたのだ。
そのディーリングも非常に特殊で、
プレイヤーとバンカーのどちらかにベットが偏る
(仮にバンカーが大人気で全員バンカーにベットしている状態だとする)
と、過去の出目を記録した罫線と呼ばれるスコアをを眺めて
「よし、受けた!」
と言ってバランスを無視してスタートしてしまうのだ。
バランスと呼ばれる、店が受けるべき差額は
100バラ=100万だったが、
人気になっている方に200万以上入っていても
そんな調子でスタートしてしまったことが何度もあった。
そして、あろうことかプレイヤーサイドのカードを
「今回ハウスが絞ります!」
と言って自分でグリグリに力を込めて絞るのだ。
絞る、というのは、
トランプの札は数字が左上と右下の隅に書かれているのだけれど
その部分を見えないように指で隠して、
マークだけで数字を確認することだ。
A、2,3が「ノーサイド」、
4,5が「ツーサイド」、
6,7、8が「スリーサイド」、
9、10が「フォーサイド」と言う。
長辺の方から見た時に、
「マークがいくつ見えるか」でそのいずれかが判明し、
真ん中の方まで見ていって、
いくつマークがあるかで数字が確定する。
マークが見えるまで少しずつ見ていくのもバカラの楽しみだが、
もちろんゆっくり見たからって
欲しいカードに変化することはない。
「そんな気がする」だけだ。
カジノ遊びをなさる方ならお分かりいただけると思うが、
ディーラーが絞る店なんて普通ではあり得ない。
さらに、上記のケースで
プレイヤーに1人だけ小額をベットしていると、
勝負の前にベット分を付けてやって、
ベットを止めさせるという離れ業もやっていた。
わざわざオールバンカーにして差額を広げていたことになる。
当然プレイヤーサイドのカードを渾身の気合で絞るのだ。
シマダと話す機会があった時に興味本位で尋ねてみると
タナカはもともとお客さんからカジノに入った人で、
自分の引きに相当な自信があったらしい。
自分が本気の勝負で負けるはずが無い、
そんな風に思っているようだった。
それで負けると(当然負けることだってある)、
「この服がいけないんだよ!」と言って、
スーツ(見るからに仕立ての良さそうな高級品だ!)
を捨ててしまうのだ。
とにかくタナカという人間は今考えても変わったオーナーだった。
タナカは、僕が今まで見てきた大人に比べても
強烈な個性の持ち主だったけれど
熱くなる反面、人を惹きつける熱のようなものを持ったいたようで
店長のシマダなどは完全に心酔していて
他からの高給での引き抜きなどには脇目も振らなかった。
「昔な、別の店がパクられた時に
予め刑事から情報を取っていたんだけど
それがまるっきり裏切られたことがあったんだ。
その時にタナカさんはその警察署に怒鳴り込んだんだ。
そいつ出せって言ってな。
自分がパクられることなんて
全然怖くないみたいだった。
それを見て、俺はこの人なら着いていけると思ったよ」
一度飲みに行った時にシマダが語った思い出話だ。
僕はその話を聞いて俄かには信じられなかったけれど
タナカという人間を見続けているうちに
そうかもしれないという気持ちにはなった。
とにかくそういった侠気のある人間だった。
そして、一介のディーラーに過ぎなかった僕でさえも
ずいぶんと可愛がってくれた。
タナカが、儲けた金で新店を出す時には
「ヤマグチ、お前新店に来い。時給上げてやるから」
と言って連れて行かれたし、小遣いまでたまにくれた。
研修旅行と称してラスベガスや韓国にも連れて行ってもらった。
僕はポジションが違いすぎて話す機会もろくに無かったけれど
身近にいたらきっと惹かれていたと思うタイプの人間だった。
とにかく、熱量が並外れて豊富だった。
店の旅行で鬼怒川に豪華なサロンバスを仕立てて行った時に、
車内でチンチロリンをやったのだが、
タナカは親で2回続けて「一二三」を出してしまい
いきなり丼を叩き割ってしまった。
僕は度肝を抜かれていただけだったが、
周りの皆は慣れっこの顔で大笑いしていた。
風呂に浸かりながら店長のシマダに聞くと、
「タナカさんは博打は何やっても強いんだけど、
サイコロだけは弱いんだよ。
丼割るのなんか俺4回くらい見たことあるもん。
皆それ知ってるからさ。
予備の丼だって用意されてただろ?」
ということだった。
勝負事に自信を持っていたタナカにしては意外な弱点が
僕はかなりおかしかったのだけれど
同時に少し親近感も覚えた。
そしてタナカとの別れは突然やってきた。
僕が新店に移った後に最初の店が摘発を受け、
誰かがタナカの名前を出してしまったが為に
店自体が解散になってしまったのだ。
解散の時に、タナカに別のカジノのオーナーに口を利いてもらって
(そのオーナーも新店舗を出すところだったので、
タイミングが良かったのだ)、
僕は店を移ることになった。
そして、その後数年して、
それまでは時々耳に入ってきていたタナカの噂は
ある時を境に途絶えた。
最後の噂では、タナカは出す店出す店で失敗を重ねて
ほぼパンク状態になって飛んだらしい。
バブルの時代に成功した者の多くが
景気の動向を読み違えたように
タナカの勝負師としての勘も、欲の前に曇ったのだろうか。
あるいは、ただ単に
勝負事に自信を持っていたタナカは
確率が収束する、ということを受け入れることが出来ないままに
差額以上の勝負を受けて、連敗を重ねたのだろうか。
出来れば、前者であって欲しいと僕は思う。
あの、吸い寄せられるような磁力を持った人間が
連敗を重ねて萎れていく様など
見たい人間はいないのだから。