第16話〜破滅の淵で僕が見たもの
日本のアングラカジノには
「バランス」と呼ばれるシステムがある。
今までブログをご覧になってきた方は
既にご存知だとは思うが、
二者択一のゲームであるバカラにおいて
甲と乙(バカラではP=プレイヤーとB=バンカーだ)に
それぞれ賭けられたチップの差額が
ある一定額以内に収まっていれば
その差額は店が負担するというものだ。
例えば100万バランスと呼ばれるテーブルでは
Pに150万分のチップが賭けられていれば
Bには最低でも50万分は賭けられていなければならないし、
最高でも250万分までしか賭けられないことになる。
仮にこの状況で、Bに250万賭けられていたとすれば
もしPが勝てば店には差額の100万が入るけれど
Bが勝ってしまえば、100万の損失になってしまう。
もちろんBにはコミッションがかかるから
250万分賭けられていれば
コミッションは12万5千になる。
ルール上、Bは確率的にはPより少しだけ有利になっているから
Bに賭けておけば、勝利の可能性は少しだけ高くなる。
経験的には、ほとんどの打ち手がBを好むのだけれど、
その理由はそこにもかなりあると思う。
余談だが、「カードを引くのはBが後」というのも
理由に含まれると思う。
野球のせい、もっとはっきり言えば
PL学園のせい(笑)なのかもしれないが、
後攻を好む人が多いのと同じ理由だと思う。
ただし、Bの有利さはコミッション分の5%を凌駕するものではない。
これが、P、Bのどちらに賭けてもマイナスになる理由であり
これこそが「控除率」と言われるものの正体である。
この「どちらに賭けてもマイナスになる理屈」
を積み重ねることによって、
店側は利益を出していく。
当然、賭けられる金額が大きければ大きいほど
店側の利益は大きくなる。
極端な話、100万バランスであっても
毎回2000万対1900万以上ベットが賭けられる勝負になれば
どちらが勝っても店は儲かることになるからだ。
毎回2000万がPに賭けられ、
1900万がBに賭けられているとすれば
Pが永遠に勝ち続ければ店側には利益は出ないが、
もちろんそんなことはある話ではない。
(確率的にあり得ない話ではないけれど
無視していいということだ)
僕がアングラカジノ業界に入ったばかりの頃は
まだバブル真っ盛りで、
歌舞伎町や赤坂、六本木あたりには
毎回1000万以上賭けられるような、
そういう場面がいくらでもあった。
わずか1回の勝負に
PとB、それぞれ1000万近く賭けられるような時代。
客はヴィトンのボストンやアタッシュケースに
帯の付いた札束を詰め込んで、
毎晩のようにカードの合計の数字に狂奔していた。
そんな状況だから、店は幾らでも儲かった。
カード捌きやチップを扱う手先の器用さよりも
チップの総額を読み取る技術の方が重要だったし、
さらに言えば、客に嫌われないような
愛想の良さの方がもっと大事だった。
客の心理を煽れるようなトークの方が
ずっと重視される時代だったのだ。
実際問題として、僕はそれほど器用な方ではない。
一緒に麻雀を打ったことのある方ならお分かりであろうが
僕はしょっちゅう牌や点棒をこぼすし、
和了した時の倒牌(手を公開することだ)だって
気をつけてやらないと「グワシャッ」ってなってしまう。
だから、単純なディーラーとしてのディール技術は
僕などよりも上手な人間はいくらでもいた。
でも、僕は客の心理を読むことやトークの技術は
かなり秀でていたと思う。
日本の違法カジノで大金を賭けるような人々は
いろんな意味で個性的だし
それなりの威圧感やアクの強さがあるけれど
僕はずいぶん若い頃から
その手の人々と渡り合うことは苦ではなかった。
どんなに手捌きなどの技術が優れているディーラーであっても
客が白けてしまっては何もならないし
「コイツ、むかつくから代えろ!」
などと言われれば、
大口の客であれば聞き入れざるを得ない。
それぐらいなら、最低限の技術がありさえすれば
礼儀正しく客あしらいのうまいディーラーの方が
比較にならないくらい価値はある。
技術的なものは訓練次第の側面があるから、
僕はそれほど酷いものではなくなったし、
結果として、かなり良い待遇を受けていた。
客をいかに巧妙に煽り、焚き付けるか。
これがディーラー(特に大きなレートのテーブルを扱うディーラー)
の至上命題だったのだ。
そして、その命題を突き詰めていくにつれて
各地の店で、ある特殊な賭け方がされるようになった。
その賭け方は
「オープン」
と呼ばれるものだった。
どういうことかというと、
Bに300万賭けられているとする。
対してPにはまだ数十万しか賭けられていない。
大幅に差額をオーバーしている状況だ。
こんな時、ディーラーはBに賭けるのを止めさせて
Pに賭けたい者だけに賭けさせる。
これを呼び込み、と言う。
「バンカーサイドは一旦クローズです。
受けてプレイヤーに大幅です」
大幅、というのは大幅に足りないということだが
差額を正確に呼び込むこともある。
「受けてプレイヤーに○○点出ませんか」
こんな感じで、足りない分を告げることで
Pに賭けさせるベットをコントロールしようということだ。
もちろん、正確に呼び込むのは間違いではない。
けれど、あまりに大幅な差額を呼び込むのは
かえって賭けたい心理を抑制することになる。
「みんなそんなにBに自信があるのか。
だったらPに賭けるのは止めておこう」
こんな心理だ。
それに100万以上不足しているのに
1万2万の単位まで呼び込んでなどいられない。
ある程度、概算の呼び込み方をしないと
「みんな何十万単位で張ってるのに
チマチマ細かい呼び込みするなよ」
というような白け方にもなる。
気風の良さというのは博打場ではそれなりに重要なのだ。
だから、とりあえず最初のうちは
賭けさせるべき方向(Pということだ)だけを告げて
もう少し差額が縮まってから
足りない分を呼び込もうとするのが
場数を踏んだディーラーの技術だ。
もちろん、この差額を読み取る技術は
不正確であってはならない。
こっちに60万、あっちに45万と賭けられていくチップの額を
瞬時に読み取って、総額をそれぞれ算出する。
自分が読み取った差額と
実際の差額が小さければ小さいほどいい。
少なくとも、2〜3万以内に収めるのが
最低のレベルということになる。
ちなみに、チップ1枚の厚みは数mmほどしかない。
つまり24・5cmと25cmの違いを
見分けなければならないということになる。
だから、実際にはこれはかなり難しい作業だ。
これも訓練次第だけれど。
ということで、差額をはっきり言わずに
ある程度煽らなければならない状況というものがある。
そして、「オープン」という賭け方は
こうやって煽っているうちに
大勝負に出ようとする客の賭け方なのだ。
上記の状況で、ディーラーがこう呼び込むとする。
「現状はバンカーが大幅人気です。
受けてプレイヤーのベットは出ませんか」
そこへある客の一人が、こう叫ぶ。
「よし!プレイヤーオープンだ!」
どういうことだろうか。
これは、こういうことなのだ。
正確な差額は知らないけれど
その差額全部を自分が賭ける。
その時点でBに賭けられたチップの総額が347万で
Pに賭けられているチップが65万だとする。
厳密に呼び込むならば182万が不足したチップであるが
ほとんどのディーラーはこのケースなら
呼び込むのは180万か185万だろう。
もしかしたら190万と呼び込む者もいるかもしれない。
その呼び込む額ではなく、実数の差額を賭けるというのが
オープンという賭け方なのだ。
一見、いかにも勝負師の賭け方のような
この「オープン」という賭け方であるが
各地の店に大混乱をもたらすことになった。
各地のカジノ、特に大きな場面が立つような店で
頻繁に起きるようになり、
やがて大混乱を巻き起こした「オープン」という賭け方。
これが起きるのは、
人気が大幅に偏っている状況に限られる。
PとB、それぞれに賭けられたチップの総額の差が
店が受けるべき差額の何倍もある状態だ。
「よっしゃ!オープンだ!」
実はこのオープンには3種類ある。
仮に前回のようにPに65点、Bに347点賭けられていて、
(現状の差額は282点ということだ)
Pにオープンをかけるものと仮定しよう。
1・足りない差額分を全額受ける。
上記なら182万ということだ。
これを「下でオープン」と言う。
2・相手方と同額になるまでの差額を賭ける。
上記なら282万ということだ。
これを「当たりでオープン」と言う。
3・相手方の総額に加えて、店が受けるべき100万分も
上乗せした額を賭ける。
上記なら382万ということだ。
これを「上でオープン」と言う。
だから、オープンというコールを聞いたディーラーは
このどれを意図するのか、確認しなければならない。
でないと、結果が出てから揉めることになるからだ。
勝った時は
「張れるだけ張ったに決まってるだろ」
負けた時は
「足りない分だけに決まってるだろ」
こうなるに決まってるからだ。
この場合、店側に落ち度はある。
争う余地も無いわけではないが
この手の揉め事は店側が弱いものなのだ。
場面が白けるというのもあるし、
客同士というのは「VS店」で連帯しがちだから
「それはお前、店が確認しないのが悪いんだろう」
などと無関係なのに言い出す客も出てくる。
結果的に、店はどちらに転んでも
100万損するという羽目になってしまうのだ。
それから、テーブルに賭けられているチップは
PとBだけではない。
ドローにも賭けられているチップがある。
これは勝敗に関わらず
ドローが出なければ店のものだ。
だから、オープンがある時には
勝負が付いたら、まずドローベットを下げなければならない。
ドローベットを片付けてから、
外れたチップを集める。
仮にオープンで賭けた方が外れたら
そちらに賭けているチップを全部集めて
オープンをかけた客に足りない分を出してもらう。
オープンで賭けた方が当たったら
外れたチップを全部集めて
オープンを賭けた方に張っているベットに配当を付けて
Bであればコミッションを店が取り、
残りをオープンをかけた客に渡す。
当然、オープンが上か下か当たりかによって、
店が100万出すこともあれば
100万をもらうこともある。
この手順が非常に問題になるのだ。
例えば、ディーラーが勝負の結果
外れたチップを集める時に
ドローのチップも一緒に積み重ねて
集めてしまうことがある。
これはドローに賭けられていたチップ分
店が損をしていることになる。
さらに、ディーラーと言うのは
常に作業効率を意識して仕切るように訓練されているのだけれど
それが裏目に出ることもある。
コミッションを取る時に取ったコミッションは店のものだから
外れたチップとは別に収納しなければならない。
ところが熟練したディーラーであれば
「外れたチップを集めながら当たった配当を付ける」
ことが出来るようになる。
つまり、外れたチップとコミッションが一緒くたになってしまい、
今度はコミッション分、店が損をすることになる。
結局、店からすれば手間のかかる割に
手順ミスが誘発されやすくなるというリスクを
背負うことになるのだ。
僕もこの手のミスを犯したこともある。
熟練した者ほど犯しやすいミスでもあるのだ。
ほとんど反射的に
作業効率を重視したディールをしてしまうのだ。
問題はそれだけではない。
この手順については
熟練したディーラーであれば慣れるに従って
何とかこなすことは出来る。
それだけの経験も積んできているわけだし
それだけの待遇も得ている。
そうではなくて、もっと根本的な問題があるのだ。
オープンを賭けた方が外れれば
その分は当然オープンをかけた客が負担しなければならない。
客がチップをそれだけの額、持っていれば問題は無い。
足りないことが出てくるのだ。
オープンというからには、
相当な額を賭けることになる。
ということは、手持ちのチップでは足りなくなるということが
割と頻繁に起き得るのだ。
そして、足りるか足りないかは
勝敗が決してから判明する場合もある。
その場合、足りない分は
客にチップを買い足してもらうのだけれど
ここで手持ちの現金も足りない客がいるのだ。
熱くなっていて
所持金を把握していないこともあるだろうし
故意に(足りないのを知っていて)やっている場合もある。
一か八かの「テッポウ」だ。
店側にとっては、このリスクも大きい。
足りなければ、店は店の負担で
勝った客に配当をつけなければならない。
「客の勝ち駒は最優先でつけなければならない」
これはどんな賭場にも共通する常識だ。
結果的に、オープンをかけた客に
貸し付けを行うことになってしまう。
そして、この手の貸し付けは
ほぼ間違いなく回収できない。
踏み倒したり、警察に通報したり。
中には、これを専門にやる輩まで出現したのだ。
何食わぬ顔をして、オープンをかける。
そのままゲームが始まって、
首尾よく勝てば勝ち分を堂々と手にし、
負けたら「あ、無いや」などと言って店に貸し付けさせて
踏み倒してしまえばいい。
もちろん店側も、自衛はする。
手持ちのチップが足りなそうなら
あらかじめチップは買い足してくれと客に言う。
そうすれば、足りないということは無くなる。
でも、実際には金を出すふりだけしたりして
ゲームをとにかく始めさせたりするのだ。
その芝居はどんどん巧妙になっていった。
ケツ持ちや金貸しを巻き込んだ
大掛かりなトラブルを巻き起こした客もいた。
こういったテッポウを打つ客というのは
大抵は一筋縄でいくような客ではないし
実は極道だったりすることもかなり多い。
店側がミスをして
ディーラーや黒服が小突き回された挙句に
「誠意、気持ち」と称される解決金を取られたり
逆に、ケツ持ちがその客を
ボコボコにしてしまったこともある。
堅気でも極道でもない、いわゆる「半端者」などが
この手のテッポウを打ったりすると
話がこじれればケツ持ちは平気で攫ってしまう。
後はそのケジメを取るまで
阿鼻叫喚が待っていたりするのだ。
何とかプロレスなどの流血騒ぎや乱闘など
目ではないようなものもあったと思う。
そして、これだけトラブルが続出すれば
やがて店側はオープンという賭け方自体を
規制せざるを得ないようになる。
オープンという賭け方が通用していたのは
ほぼ2年くらいだったろうか。
大勝負に出るにはうってつけの賭け方だったけれど
ほとんどの場合は、分不相応な額のベットであるとも言える。
総額全てと同額を賭けてしまうような賭け方をすれば
たとえその時勝っても、
行き着く先は「Baccarrat=破滅」なのだ。
実は、僕も一度だけオープンをかけたことがある。
と言っても、何百万も賭けたわけではない。
30万バランスで、およそ100万ちょっと賭けただろうか。
当時のカジノ関係者は
そのほとんどが自分の働く店とは別の店に行って
バカラなどをやるのが一般的だった。
どう考えても錯覚なのだが
自分が得ている給料は客の負け分なのに
自分だけは客としても勝てると思ってしまうのだ。
僕も例外ではなかった。
結構な額の給料を貰っていたし、
いっぱしの業界人の振る舞いをして、
あちこちに博打を打ちに行ったりもしていた。
当たり前だが、勝つこともあれば負けることもあった。
10万の勝ち負けで満足していたのが
だんだん麻痺してきた頃だったと思う。
漠然と、金を溜めて留学したいという思いがあったのに
惰性で博打を打ち続けていた。
まだ20を幾つか過ぎたばかりの小僧が
100万単位で収入を得ていたのだ。
僕自身、闇金やオレオレ詐欺の連中が
阿呆みたいに散財しているのをずいぶん見たけれど
そういうものなのだ。
金の使い方を知らない人間が大金を持っても、害しかない。
ある日、僕は渋谷にあるカジノで大負けをする。
実は、その前日に200万ちょっと勝ったのだ。
やることなすこと全てうまくいく、
そんな一日だったのだ。
俺はバカラで食っていけるんじゃないか・・・
そんな勘違いすらしかけていたかもしれない。
そして僕は、その勝ち分のうち100万は取っておいて
残りの浮き分を持って、次の日も勝負に行ったのだ。
翌日は見るに耐えない惨敗だった。
最初に持っていった分はあっという間に溶けて
わざわざ家に取りに帰ってまで
(当時はまだ銀行は24時間営業ではなかった)
さらに負け分を増やしてしまった。
前日の浮き分を全て吐き出して
手元に20万ほどのチップしか無くなってから
一時的に僕は持ち直す。
そこから何回か連勝して
100万強までチップは回復していた。
20枚ずつ積み上げたチップの山が5本と少し、
それくらいの量だった。
あるシュートの途中で
プレイヤーが4回続けて勝ち
ベットがプレイヤーに偏る。
差額が100万くらいあっただろうか。
つまり「当たりでオープン」を賭ければ
負け分が取り戻せる状況だったのだ。
そこで僕は大勝負に出る。
プレイヤーが4回続けて勝ったのが
そのシュートで数回あったのだけれど
なぜか全て4連勝で終わっていたのだ。
こういう日というのは不思議と結構な頻度で存在する。
ところが、その時張っていた客の中で
場面を引っ張るような言動をする客がいて
みんな、何とはなしに、その客に影響されていた。
その客がプレイヤーに張ったのが
ベットが偏った原因だろう。
ここは勝負だ。
「バンカー、オープン。当たりで」
渾身の気合で、僕はディーラーに告げた。
そしてゲームが始まる。
プレイヤーの最初の2枚の合計は3、絵札と3の
「絵にならない」組み合わせだ。
僕のカードは7から引き、フォーサイドの9。
これも絵になるとは言い切れない組み合わせだ。
「プレイヤーはスリー、バンカーはシックス。
ワンモアプレイヤーにカード。条件は6の条件です」
ディーラーが3枚目のカードをプレイヤーに出す。
6の条件は、プレイヤーの3枚目が6,7以外のカードなら
勝っても負けても終わりだ。
つまり、4,5ならプレイヤーの勝ちで終わり、
3ならドロー、1,2、8,9,0ならバンカーの勝ちだ。
「ピクチャー(絵札)を引けっ」
僕は心の中で念じる。
(自分の願望を口にするのはご法度だ。
非常に嫌われるどころか、喧嘩に成りかねない)
プレイヤーのカードを引く50代くらいの中年男性が
実況中継をする。
やけに賑やかなその男は
ベットもそこそこの大きさだったが
その言動で、場面に大きな影響を与えていたのだ。
「足あり!」
ということは4から10の間のカードだ。
フォーサイドであってくれという僕の願いとは裏腹に
男は実況を続ける。
僕は平静を装うので精一杯だ。
テーブルの下で握り締めた手が
じっとりと汗ばむ。
「うわ、スリーサイドだよ」
ということは6か7か8だ。
プレイヤーは3から引いているから
6なら9になってしまうが
7なら0だし、8なら1だ。
ただし、6,7ならもう一枚引くのだが。
「一個消えた!」
僕は半ば観念する。
もう6か7のどちらかしかない。
しばらくカードを絞った後、
男はそのカードをクシャクシャにして放り投げる。
ディーラーがそのカードを広げて言う。
「7は決まらないカードです。
プレイヤーはメイクナッシング。
ワンモアバンカーにカードが出ます」
よっしゃ、負け無し!
僕は心の中で叫び、テーブルの下でさらに強く手を握り締める。
今度はガッツポーズだ。
そして僕はディーラーにカードをそのまま開くように身振りで伝える。
相手が0なのだから、僕の側に負けは無い。
負けの無い状況でカードを絞るのは
マナー違反とは言えないが、無粋とされるのだ。
ディーラーが無言で頷いて
ゆっくりとカードを表にする。
開かれたカードを見た時に
僕の視界は、文字通り真っ暗になった。
そう、まさかの4だ。
「バンカーもメイクナッシング。
今回ドローゲームでした」
ディーラーの声がやけに遠く聞こえた。
頭にカッと血が上る。
僕は、20枚ほどのチップを握り
さっきと同じバンカーに叩きつけるように張る。
ゲームが始まって、すぐに僕は気づいた。
俺以外、全員プレイヤーに張ってやがる。
何人かは見に回っていたが
それ以外のベットは全てプレイヤーだったのだ。
僕も業界人だったから、その意図はすぐに理解できた。
あいつ、落ち目だからバンカーは出ないだろう。
そう考えた者がプレイヤーに張り、
バンカーだと思うけど、落ち目のあいつが張ってるからな。
そう考えた者が見に回っているのだ。
場慣れしたものが集まれば
落ち目の人間はすぐに見分ける。
博打場の人間ほど、
水に落ちた犬を叩くのが好きな人種はいないのだ。
案の定、勝負はあっけなかった。
プレイヤーは8から絵札を引き、
僕は絵札から絵札を引く。
3枚目のカードも引けない一発負けだ。
さらに熱くなった僕は
今度は40枚ほどのチップを
三度バンカーのボックスに叩き付けようとして
ふと、僕は我に返った。
それは半ば直観的な悟りだったかもしれない。
俺は完全にホシ=目印になってるんじゃないか。
今度は先ほどは見に回っていた客も
ほぼ全員がPに張っている。
しかも大幅にPが人気になっている。
Bに張っているのは今回も僕一人だ。
ディーラーが僕の方を向きながら言う。
「プレイヤー、大幅人気です。
受けてバンカーありませんか?」
まるで客にもディーラーにも
嘲笑われているような気がして、
僕は頭ではなく、今度は顔が熱くなった。
嘲笑われているような気がする、どころではなかったのだ。
間違いなく嘲笑われていることを僕は良く知っていた。
だって同じような状態に陥った客を
毎日のように、自分が心の中で嘲笑っているのだ。
行儀が良くないことを承知の上で、
僕はベットを全て下げて(キャンセルして)、
80万弱ほど残っていた手持ちのチップを換金し、店を出た。
タクシーに乗ってもさほどかからない距離だったが
僕はすぐに家に帰る気分になれず、
渋谷から当時住んでいた初台まで歩いた。
まだ肌寒い3月のことだった。
家に帰ってからも、
自分が嘲笑われたという屈辱が浮かんできて
僕はなかなか寝付けなかった。
僕は数学に疎くてキチンと計算できないが
プレイヤーが3枚目を6の条件で引いて
決まらない6,7のカードを引いて0になり、
さらにバンカーが4を引いてドローになる確率は
おそらく10000回に1回あるかないかだと思う。
何というアンラッキーとその瞬間は思ったけれど
実際には、僕は幸運だったのかもしれない。
もし勝っていれば、自分の強運を根拠も無く信じ込み、
そのままバカラを打ち続けていたかもしれない。
そして、今度は立ち直れないくらいの大敗を喫していたかもしれない。
もし負けていれば、いよいよ熱くなって、
金を借りてまで打つようになっていたかもしれない。
行き着く先にある破滅の淵に、いつか身を投げていたかもしれない。
あの時、僕は確かに
どちらに進んでも破滅に行き着く別れ道にいたのだ。
引き返す以外に、それを避けることはできなかったろう。
あの時、稲妻のように閃いた悟りが
勝負を司る神の言葉だったとするならば。
あるいはその言葉の真意は
「勝負などするな」
だったのかもしれない。
それが、僕が打ち手としてバカラを打った最後の機会だった。
その後、仕事上の付き合いや偵察で行くことはあったが
そのほとんどは交際費や営業費として
あらかじめ予算を組み、経費に計上されるものだった。
勝負に身を焦がすだけの狂気が
自分に無くなっていることは自分でも分かっていた。
狂気を持たない者は
ギャンブルに惹かれることは、無い。
ギャンブルをやる上で、狂気こそが
動機であり、勝因であり、敗因なのだから。