第12話〜ヤマシタ
「カジノ」という単語から連想するイメージは
人によって様々だろう。
モナコなどのドレスアップした紳士淑女の社交場を
連想する方もいれば、
ラスベガスの華やかなエンターテインメントを
イメージする方もいるだろう。
ひょっとしたら、映画の中の
ギャンブラーやハスラーを
イメージする方もいるかもしれない。
ところが、それが「アングラカジノ」という単語になると
殺伐とした鉄火場や極道の溜まり場も
そのイメージの中に入ってくるようだ。
喧嘩や暴力事件などは
実際にはほとんど起きないのだが
そんなイメージを持たれる人がいても
もちろん全く不思議ではない。
通常の感覚とは異なる世界である以上
そういった影の部分は間違いなくあるのだ。
そして、大抵の場合、その影の部分は前触れも無く訪れる。
その日、店はそこそこの賑わいだった。
特に問題も無く、それぞれの客が思い思いに遊び
人数の割に落ち着いた状態だった。
何より綺麗に遊んでくれる客が多かったのだ。
こういう状態が店としては一番理想的である。
大勝と大敗がくっきり分かれるよりは
広く浅く抜きたい。
100万の売り上げを一人の客から抜くよりは
100人から1万ずつ抜く方が
対応も経営も遥かに楽なのだ。
もちろんそんなにうまくいくものではないのは
百も承知なのだけれど、
その日はそんな雰囲気のまま
時間が静かに過ぎていっていた。
そんな時、インカムで連絡が入る。
外に立っている「シキテン=見張り役」からだ。
「お客様一名様です。」
モニターに映ったその客には見覚えがあった。
風体、顔立ち・・・ヤマシタだ。
このヤマシタという客は、この辺ではそこそこ有名な客なのだが
経験の浅いシキテンの彼は知らなかったらしい。
大して良い客でもない上に酒癖が悪く、
酔っ払っては盆を荒らすのだ。
手を出すのも早く、
殴られた従業員も決して少なくない。
ケツ持ちにこっぴどくケジメを取られたこともあるはずだが
酔うと気が大きくなって忘れてしまうのだろう。
他の客に対する態度もやけに尊大で
はっきり言えば嫌われ者に近かった。
その時僕がいた店を開けた当初から、
この店では入店を断るつもりでいた。
ただ、本人が現れなかった為に
通告したことはまだ無かった。
「もしかして飲んでるの?」
そう聞き返すと、やはり酔っているようだと言う。
「参ったな。どうするか・・・」
心の中で思案を巡らせる。
この状態で入り口で揉めて、騒ぎを起こされるのは困る。
どんな時であってもそういう客は困るのだが、
静かに遊べるのを好む客が多い状態であれば
一人の酔客がもたらす悪影響は決して小さくない。
選択肢はいくつかある。
とりあえず入れてみて、
騒いだりして周囲に迷惑をかけないように
最大限の努力を尽くす。
適当な理由を作って店に入れないようにする。
今日はもう店じまいだ、
満員で座れない、
新規の客は受け入れてない・・・
嘘というよりは方便だ。
そして最後は入れない旨をはっきりと伝える。
断るなら初回の来店時だ。
一度入れた客を断るのは、余計なトラブルの元なのだ。
もちろん客商売であるからには
最初の方法を採るべきなのは言うまでも無い。
けれど実際にはなかなか難しい。
仮に騒いで迷惑をかけたとして
努力したけど駄目でした、という理屈は
他の客には通用しないのだ。
努力と言っても、要は
騒ぐ→注意する→一瞬静かになる→また騒ぐ→注意する・・・
という作業を延々と繰り返すだけなのだ。
予防ということが出来ない以上
対症療法のようにならざるを得ない。
その過程で何らかのトラブルが起きないとも限らない。
かつてトラブルを起こしたことも
何度となくあるのだ。
盆が白けてしまって客が帰ってしまったら、
そのせいで足が遠のいてしまったら・・・
客商売をしたことがある人なら
誰もが考えるだけで嫌なものである。
フォローの電話を入れたり
菓子折をぶら下げてお詫びに伺ったりできる世界ではないし、
他にも店は幾らでもあるのだ。
かと言って、適当な嘘をつくわけにもいかない。
極道でも警察関係でもない以上
打たないけど水だけ飲ませろ、
あるいはトイレを貸せなどと言われたら
断れる相手ではないし、断るべきでもない。
嘘がばれた時に酷いことになるのは
店と客の間でなくても同じだ。
新規を入れていないという言い訳をしたところで
何度も来店するだけのことで、
解決を先送りにするだけに過ぎない。
となると、後は面と向かって言うしかない。
僕は意を決して外に出た。
ヤマシタを中に入れないように素早く外に出た僕の目に
年齢の割には大柄なヤマシタが映った。
赤ら顔でそっくり返りながら
「何やってるんだよ、早くしろよ」
などとシキテンに悪態をついている。
僕は努めて笑顔を作り、ヤマシタに近寄る。
「ああ、ヤマシタさん。ご無沙汰してます。
今日はどこかで一杯いかれたんですか?」
その声でヤマシタがこちらを見る。
彼が僕のことを知っているかどうかは分からないが
こちらが知っているのをアピールしておくのは
いわばセオリーのようなものだ。
「んー、ちょっとその辺だよ。
何だよ、モタモタして。客いないのか?」
いつものように尊大な口調でヤマシタが言う。
従業員に尊大な態度を取る客は決して珍しくもないし、
そういうのはこっちも慣れているから何とも思わない。
ヤマシタの欠点はその態度を使い分けない点なのだ。
「何様だよ、あのやろう」
かつてそんな言葉を吐き捨てるように言って出て行った客の姿が
僕の脳裏に甦る。
やはり入れないに越したことは無いな、
そう思って、極力下手に出ながら言う。
「いや、お客様はいるんですが・・・。
実はウチではちょっと受けられないんですよね。
申し訳ないですが、上から言われておりまして・・・」
大抵の相手であれば、これでほとんど終わりである。
文句を言う者はあまりいない。
一度も来たことの無い人間を入れる入れないは
店側が決めるのが、この商売の常識でもあるのだ。
何度か押し問答になることもあるが、
そうなったらそうなったで、対処の方法は無いわけではない。
ところが今回は違った。
僕がそう告げた瞬間、頬がカッと熱くなり
耳の奥がキーンと鳴る。
ヤマシタにいきなり頬を張られたのだ。
「なんだと、てめぇ。俺を入れないってのか」
僕の胸倉をヤマシタが掴む。そして胸や腹を数発殴られる。
全身に力を入れて耐えるが、一瞬呼吸が止まる。
「今までてめぇの店でどんだけ負けたと思ってんだ。
人から散々むしっておいて、今更入れねぇだと」
「申し訳ありません。
僕が店の主じゃないんで」
僕の言葉にはまるで耳を貸さず、
ヤマシタは尚も僕のことを小突き回す。
コンクリの壁に体を押し付けられ、拳が飛んでくる。
僕は時折手が離れた時に
「すいません、そういう事情なんで」
とだけ言って頭を下げる。
ヤマシタが何かを喚いて、また拳が体にめり込む。
反撃されるとは思ってないのだろう。
ヤマシタは容赦なく僕を殴り続ける。
計算しているのだろうか、
顔はほとんど殴らず胸や腹ばかりだ。
もちろん切れて反撃するのも、
ケツ持ちを呼んでしまうのも簡単だが、
僕としては何とかこのまま収めたかった。
殴られて済むならいいやという気分ももちろんあった。
辺りを歩く歌舞伎町の夜の住人たちが、
道端で殴られる僕を見る。
止めに入る者はもちろんいない。
見知らぬ他人を無償で助けるお人好しは
この時間にこの場所にはいない。
やがてヤマシタは僕の髪を掴んで吐き捨てるように言う。
「それが客にモノを頼む態度かよ、こら。
頼みたいことがあるなら土下座せんかい」
ここで初めて僕は安堵した。
こういう言葉が出てくるなら、
これは振り上げた拳の収めどころを探しているということであり
これ以上ごねることはあまり無いからだ。
それくらい何と言うことも無い。
冷たいアスファルトに膝をつき、僕は頭を下げる。
「申し訳ございません。よろしくご了承ください。」
数十秒、頭を下げ続けた僕に、ヤマシタは蹴りを入れて言った。
「てめぇ覚えとけよ」
ヤマシタは立ち去り、僕は立ち上がった。
店に入るとモニターで見ていたのであろう、
黒服がお絞りを持ってきてくれる。
ひんやりとしたお絞りで、火照った顔と手を拭く。
ボタンが取れてしまったシャツを着替えに更衣室に入る。
体が真っ赤になっているが、不思議と痛みは感じなかった。
店は相変わらずで、淡々とゲームが進行していた。
何事も無かったかのように。
まるで時間が過ぎない部屋にいるように。
光が当たる部分においては
カジノはそういう場所なのだ。
時計も置かず、窓も無い。
日付も曜日も昼夜の区別も無い。
浮世から隔絶されていることこそ
カジノの存在する条件なのだ。
時間の経過を思い知らされたのは
実は僕自身だった。
翌日に僕は高熱を発した。
体の節々が痛み、フラフラになった体を引きずって
僕は店へ出勤した。おそらく全身打撲のような感じだろう。
その日は全く仕事にならず
僕はただモニター室で画面を眺めるだけだった。
幸運なことに、その日一日は無事に終わった。
幸いにして、骨や内臓には異常は無かったらしく、
しばらくあちこちが痛んだけれど
時間が経過するにつれて
僕の体は自然に治っていった。
気づかれないように隠していても
気づかないように目を背けていても、
光も影も関係なく時間は流れる。
実に、当たり前のことなのだけれど。