第10話〜ミズノ
日本のアングラカジノの歴史は
元を辿ればやはりそれまでの「博徒」に始まるのだろう。
用語やしきたり、行儀や作法に至るまで
その影響を実に色濃く残している。
日本の「その筋」にもルーツになるものがあって、
テキ屋系や、愚連隊の発展系などいろいろあるのだが、
中には「博徒系」とも言えるような組織もやはりある。
だから「その筋」が自分でアングラカジノを経営するケースも
決して少なくは無いのだが、
上記の経緯を考えれば、自ら経営していなくても
その影がちらつくのはむしろ必然と言えるかもしれない。
店のケツ持ちだけでなく、客としても出入りするケースは
やはり少なからずあるのだ。
もちろん、基本的に堅気の人間しか受けないのだが、
オーナーの意向次第では、そういった現役の極道を
客として受けるケースもままある。
一般的に極道と言うのは、
一見してそれと分かる風体をしていることが多い。
指の欠損、入れ墨の有無、所持品や言動・・・
手がかりは幾らでもある。
そして一度受けてしまえば、
仲間や知り合いの極道を呼んできて
気付けば極道ばかりになって
「ヤ○ザ箱」の様相を呈してしまうことも結構ある。
そうなると堅気の客は
恐れて寄りつかなくなりそうなものだが、
気にしないで遊ぶ客も決して少なくは無い。
アングラカジノに出入りしている時点で
堅気とは言え、少なからずつながりがある人間も
やはり相当数いるからだ。
盆で堅気(胴元は含まれない)に迷惑をかける、というのは
渡世人にとってはやはり誉められたことではないから、
舐めた態度をとらない限り、別に恐れる必要は無いのだ。
もちろん何かの拍子にトラブルに巻き込まれることもあるから
近づかないのが賢明なのだが、
不思議なことに、そういう任侠の雰囲気を好む客もいる。
自分にもケツ持ちのような存在がいれば、
尚更恐れる必要がなくなるわけだし。
特に歌舞伎町のような、巨大な繁華街においては
ドコドコの縄張り、といった線引きも曖昧になってきて
地回りに話を通せば、どこの組がシノギをかけようが
あまり関係なくなってきているから、
微妙なバランスが保たれるようになってくる。
それこそ、ビルのテナントごとにケツ持ちが異なる
という状況も特に珍しくはなくなってくる。
猥雑で危険で、それなのに魅力的で・・・
歌舞伎町と言う巨大な繁華街の側面の一つだろう。
店のケツ持ちをどこに頼むか、というのは
基本的にはオーナーのつながりで決定されるが、
稀にオーナーが表には出てこない関係で
こちらで決めなければいけないことがある。
そんな時はどうしても、かつて縁があったところに
頼んでしまうことになりやすい。
その時も、こちらでケツ持ちを決めることになり、
僕はとある「その筋」の幹部と連絡をとることになっていた。
ミズノ、というのがその幹部の名前だった。
ちょうどそろそろ師走の声を聞く頃の話だった。
できればこういうのは
オーナーサイドで決めてくれるのがいいのだけれど、
これも仕事みたいなものだから、
嫌々ながらも風林会館の喫茶店で相手を待ちながら、
僕はミズノと最初に出会った頃を思い出していた。
当時、僕はまだ二十代の半ばだった。
ディーラーを始めて4〜5年といった時期だったはずだ。
もうかなりの場数をこなしていたし、
技術的にもかなりの自信があった。
その店ではチーフディーラーという立場で
ディーラーの管理と黒服業務の両方をやっていたと思う。
もちろんテーブルに着いてディーラーをやることも
結構あった。新人に任せられないような場面では
入らざるを得なかったと言うのが実情だけれど。
その店で、ある極道を受けていたのだ。
店のケツ持ちとどういう話になっていたかは分からないが、
明らかにその筋と分かる風体なのに、
普通に遊ばせていた。
使いっぷりも結構な羽振りだったように記憶している。
普段はおとなしく遊んで、
勝ったり負けたりを繰り返していたのだが
熱くなると本性と言うか、抑えが利かなくなることがあった。
ディーラーを怒鳴りつけたり、凄んで見せたり。
やはりそうなると流石に現役の極道だから
相当な迫力があった。
手を出すことは決してなかったが
キャリアの浅いディーラーでは
到底場面に入れるような相手ではない。
粗相の無いように、
ベテランが相手をするように自然となっていった。
ある日、その男が一人で遊んでいた。
他のテーブルには客が数人いたのだが、
彼が遊ぶテーブルは彼一人の状態だった。
怖がっていたのではなく、
それは単にレートの違いだったと思う。
彼はずいぶん調子が良くて、
4,500万はチップを積み上げていただろうか。
ところが、僕が入ったシュートで
彼はその大半を失ってしまう。
毎シュートの収支をテーブルごとに記入するのだが、
そのシュートの店のプラスは400万を越えていたから、
相当負け越した計算になる。
次のディーラーに交代する時に、
彼の視線が突き刺さるようだった。
そしてその次のシュートが終わって、
再び僕がテーブルに着くことになった。
彼の手持ちは・・・100万ほどだったろうか。
シャッフルをしている最中に
「この野郎、さっきはぐっちゃぐちゃの目を出しやがって」
などとブツブツ言っていたのを、
僕は耳の端で聞いていた。
特に何も思わなかった。
勝負なのだから、仕方がない。
ミスの無いように、ディールするだけだ。
そう思っていただけだった。
ところがその次のシュート、
彼はまたしても大負けする。
店と彼のサシ勝負だから、
彼がベットしていない方のカードは
ディーラーが開くことになる。
僕が開くカードは、
絵に描いたように彼の持つ数字の上だった。
8の時は9、7の時は8・・・
8対5という状態で3枚目を引くような場合でも
(つまり1/13の確率でしか負けない)
カードをめくるとそこには4があるのだ。
彼の態度がみるみる荒れてゆく。
チップをベットする時も、
まるで叩きつけるかのようにテーブルに置く。
店の中は静まり返って、
僕がディールする声と、
彼がチップをたたきつける音、
そして時折混じる、お買い上げの声。
シャッフル中に時折覗きに来ていた客はもちろんのこと、
ウェイトレスまでも怯えてしまって
側に寄ってこようともしなくなった。
黒服と、僕だけが彼の目の届くところに存在しているような
そんな時間が過ぎていった。
そしてシュートも終わりに差し掛かった時、
そのシュートだけで何回目かのお買い上げをして、
そのチップをそのままベットした彼は、
カードを絞りもせずに放り投げた。
「プレイヤーはスタンディング・セブン」
カードを拾い上げてコールした後、
今度はバンカーのカードを自分で開く。
「バンカーサイド、カードオープンいたします。
・・・バンカーはスリー」
そして3枚目のカードを僕が出そうとした瞬間、
彼が口を開く。
「ちょっと待て」
そして彼は上着のポケットから何かを取り出して
それをテーブルに置いた。
黒く光るそれが何か気づくのに、
そう時間はかからなかった。
ゴトッという音と共に、僕の目の前に置かれた黒い塊。
それは鈍い光と、不思議な存在感を
その場所で静かに放っていた。
・・・拳銃だ。
僕は一瞬息を呑んだ。
まさか本物の拳銃だろうか。
社長が飛んでくる。
「そ、そんなもの出さないで下さいよ」
少し離れたところから、社長が声をかける。
彼は社長を横目で睨んで、吐き捨てるように言った。
「何も無きゃ撃ちゃしねぇよ。
おい、カード出せよ。ゆっくりな。
おかしな動きしやがったら分かってるだろうな」
もちろん不正は何も無い。
僕は3枚目のカードをゆっくりと出し、静かに開いた。
不思議と怖くは無かった。
そこに置かれた拳銃は、何と言うか・・・
現実のものには思えなかったのだ。
本物か贋物かも分からないし、
弾が入っているのかも分からない。
このカードを開いて、5や6だったら・・・
そんなことを考えることも全く無かった。
とにかく現実感が無かったのだ。
頭はクリアなのに夢の中にいるようだった。
声がうわずるようなことも無く、僕はディールした。
開いたカードは・・・4だった。
「バンカーは・・・メイクセブン。今回タイゲームです」
彼はしばらく僕の顔を睨んでいたが、
やがて罫線に結果を乱暴に記入して
拳銃をそこに置いたまま、ベットを続けた。
僕も淡々とディールを続けた。
恐怖も何も無かった。
拳銃で撃たれるという光景は
僕にはまるで想像もできなかったのだ。
現実感を喪ったまま、僕はゲームを続けた。
客がカードを絞る間は
ディーラーは手持ち無沙汰になるのだが、
その間に拳銃を観察した記憶さえある。
本物か贋物かは最後まで分からなかったのだけれど。
ゲームが進み、
彼はチップを全て失って
静かに席を立った。
拳銃を無造作にポケットにしまって。
彼が帰った後、店のケツ持ちだったミズノがやって来た。
社長から事情を聞いた後、ミズノは僕を呼んで言った。
笑いながらだったから、
そんな深刻なことでもなかったのかもしれない。
「お前が撒いてたの?
極道ってのは行く時は御託は並べないでいきなり行くからな。
だから本気で撃つことは無いだろうけど、災難だったな。
でもずいぶん肝が据わってるじゃねぇか。
今度うちの盆にも借りてこうかな。
うちの盆ならチャカだのドスだの出すやつもいねぇし」
それが、ミズノとの最初の出会いだった。
ケツ持ちというのは自分がケツを持っている相手には
驚くくらい気さくだし優しいということを、
僕はその時初めて知った。
「ま、また何かあったらすぐ呼んでよ。
こうやって修羅場潜って本物になるんだから
兄ちゃん、頑張って社長儲けさせてやんなよ」
僕は自分の肝が据わっているとは思っていなかったが、
現役の極道にそう言われたことで、
少し調子に乗ってしまった。
オレは修羅場を潜ってるから怖いモンなんか無い。
そんな心理が自分自身の中にはあったと思う。
大間違いだった。
拳銃事件から1年近く経ったころだろうか、
それまでいた店が摘発を受けてしまって
僕は別の店で働いていた。
それまで働いていた店が摘発を受けたのは
僕がちょうど休みの日だった。
その幸運を当然であるかのように受け止めて
僕は依然としてアングラ業界に居座っていた。
「肩が強い」
こんな表現がカジノ業界にはある。
要は何故か成績が良いディーラーのことだ。
カードを誰がどう配ろうが、
長期的には収益は変わらないはずだが、
不思議と数字の良い悪いが出てくる。
そんな強運の持ち主を「肩が強い」と言うのだ。
おそらくは多少の技術の差があるのだが、
大体はただの巡り会わせである。
僕もかつてはそんな風に呼ばれていたのだけれど、
摘発時にたまたま休みだったという幸運さえも
「俺は肩が強いから」
などと嘯いて、また別の店で働いていたのだ。
その時は番の責任者という位置だった。
以前から顔見知りだった人が
自分が社長になって店をやるから
責任者として働かないかと誘ってくれたのだ。
二十代後半に入ったばかりの小僧を責任者に据えるのだから、
やはりそれは抜擢と言って良いだろう。
天狗になりかけていた僕の鼻っ柱を
ものの見事に折られる出来事は
店を移って2ヶ月ほど経った春先のことだった。
一人の中年の男が、店に入ってきた。
黒の鞄を持ち、髪を短く刈り込んだその男は
一見して「その筋」の雰囲気を漂わせていた。
「当店にはいらっしゃったことは?」
そう尋ねると男は首を横に振る。
お絞りを差し出した時に見た手には
一目で欠損と分かる小指があった。
「失礼ですが、組関係じゃないですか?」
そう尋ねる僕に、その男は
「いや、違うよ。この指は違うから。
これは昔ちょっとあってさ」
そういう答え方をした。
昔ちょっとあった、ということは、
かつてそうだったということだろう。
僕は少し迷った挙句、キャッシャーにいた社長に判断を仰いだ。
指の無い客というのは場の雰囲気に影響を及ぼすし、
実際には今でも現役であることも結構良くある話だからだ。
今回の店では極道は受けないことになっていたから、
やはりここは独断は控えるべきだったろう。
社長が出てきて男と話をする。
しばらく問答を繰り返した後に、
その客をテーブルに案内するように言われた。
「今は板前やってるっていうし、
絶対トラブルを起こさないって言うから打たせちゃって」
その社長を僕は密かに慕っていた。
侠気に溢れた好漢だった。
自分を買ってくれたという恩義も感じていたし、
いろいろと学ぶ点も多かったのだ。
男はしばらくの間、普通に遊んでいた。
勝ったり負けたりそ繰り返していたが、
買ったチップの額に比べて、
平均ベットがやけに高いことが、印象的だった。
10点買った客は、
普通はせいぜい1,2点しかベットしないのだが、
男は平気で5点ほどを張っていたのだ。
30点くらい買った客のベットである。
ひょっとしたら、相当金を持っているのだろうか。
僕はそう思いながら、テーブルを見つめていた。
何かあってからでは遅いから、いつもより注意しながら
テーブルの上で進められるゲームや客の様子を見つめる。
最初のうち男は好調で、
順調にチップを増やしているかのようだった。
もちろん「最初のうちは」だったに過ぎなかった。
一時的に50点以上チップを積み上げていた男は
何度か連敗するうちに、
手持ちのチップを全て失ってしまった。
追加のお買い上げがあるだろうか。
そう思いながら、テーブルのやや後方に立つ。
お買い上げを直ぐに受け取れるようにだ。
反応が遅れただけで罵声を浴びる世界なのだ。
客が財布を取り出した時点で
すぐに近づける態勢になければならないが、
かと言って、待ってましたとばかりに近寄っていっても
待ち構えてんのかと絡まれかねない。
さりげなく、注意深く。
この世界の基本でもある。
男はしばらくゲームを見ているだけだったが、
やがてポケットから紅白の熨斗模様が付いた封筒を取り出した。
ディーラーが手を上げて黒服を呼ぶのと同時に、
すっと近づいて、男が出した金を受け取って数える。
紙幣は新札で3万円あった。
封筒から出てきたまっさらな新札というのが
少しだけ引っかかったが、
どんな事情の金だろうと、それを斟酌する立場には僕らは無い。
「4番のお客様に前から3点お願いします」
僕がそうディーラーに言うと、ディーラーから
男の前に3万分のチップが置かれる。
男はそれをゆっくり数えると、
一瞬躊躇した後で、全て賭けてしまった。
ディーラーがカードを出してゲームが進む。
力を込めてカードを絞っていた男の首が力なくうなだれる。
男はしばらく罫線を眺めていたが、
やがて店の隅にあるソファに腰掛けた。
その店はL字型の作りになっていて、
入って直ぐにソファやテーブルがあり、
奥に行くとゲームテーブルが置かれている。
ゲームテーブルからは死角に入る位置なので、
あまり頻繁には見ていられなかったが
しばらくの間、男はソファで新聞や雑誌を眺めていた。
僕もさほど気にも留めずに、他の業務に追われていた。
そして不意に男が声を上げて僕を呼び止めた。
「兄ちゃん、ちょっと」
そういう男の傍に、僕はひざを屈めて近寄る。
男はぼそぼそと尋ねてきた。
「この時間で一番偉いのは誰だい?」
男に尋ねられて僕は返事をする。
「先ほど応対した社長がおりますが、
現場に関しては私が責任者ということになってますが」
僕がそういうと、男はさらに声を潜めて話す。
「そっか。実はよ、明日の朝一番で田舎に帰るんだけどよ、
その電車賃まで使っちまったんだよ。
電車が走るまでちょこっと遊ぼうと思ってたんだけど、
土産買う金どころか電車賃やら餞別まで無くしちまってよ。
使った分返せなんて言わねぇけど、
せめて電車賃だけでも貸してくんねぇか?」
何を言い出すかと思いきや、そんなことか。
社長に判断を仰ぐまでも無い。
僕は即座に答えを返す。
「いや、それはちょっと・・・。
すいません、そういうご要望には・・・」
ある程度の経験を積んだのと、
責任者という気負いがあったのかもしれない。
そんなことをいちいち聞いていたら商売にならないという思いが
僕をいつもより少しだけ傲慢にしていた。
態度に出したつもりはない。
けれど相手の心理を汲み取るという細心さが
おそらく欠けていたのだと思う。
男はさらに下手に出てきた。
「そんなこと言うなよ。
兄ちゃんを偉い立場だと見込んで頼んでるんじゃねぇか。
社長に聞くだけ聞いてみてくれよ」
僕はさらに突っ張った。
誰に頼まれようと、そんなことは聞いてられない。
「いや、そう仰られても・・・。
使われたのが13点ですよね・・・、
さすがにそれは勘弁していただけませんか。
どういうお金をお持ちになるかはお客様自身の問題ですから・・・」
少し突き放した言い方をしてしまったような記憶がある。
今なら同じことを言うにしても、
もう少し柔らかい対応をできるだろうが。
男は黙り込んだ。
握りこんだ拳が小刻みに震えているのに
僕が気づいた瞬間だった。
男は鞄に手を突っ込んで、
何かを取り出して喚いたのだ。
「んだよてめぇ。
人が下手に出てりゃ偉そうに。
ここでやっちまうぞ、こら」
握られていたのは、刃渡りが30cmはあろうかという柳刃包丁だった。
シャンデリアの光に照らされて、ギラリと光る包丁を見て
僕は息を呑んだまま、その場に立ち尽くした。
言葉が出ないどころか、その場から動くことさえ出来なかった。
拳銃を見ても普通の精神状態から
さほどかけ離れていなかったはずなのに、
包丁を見ただけで、僕の平常心はどこかに行ってしまったのだ。
男は包丁を振り回して
言葉にならないことを喚き散らす。
それを見た女性客が、悲鳴を上げる。
それほど客の多い時間帯ではなかったが
店内は軽い騒ぎになった。
キャッシャーから社長が飛び出してきて、
男に声をかける。
その内容は僕の記憶からすっぽりと抜け落ちている。
気づいた時には、男は店の外に出ていた。
社長とミズノが外で話していたのだ。
いつの間にか客もそれまでと同じようにゲームを続けていた。
ただ僕だけが休憩室に入れられて、
茫然としていただけだった。
社長が戻ってきて、外の喫茶店に連れて行かれる。
僕が入ると社長は椅子を勧めて、詳しく話を聞かれた。
ミズノも一緒だった。
僕はその時に初めて、この店もミズノがケツ持ちであることに気づいた。
僕が一通り事情を説明すると、社長はうなずきながら言った。
「ま、間違ってはいないんだけどな。
でもよ、考えてみなよ。
あの客にとったらお前なんか息子くらいの歳なんだぜ。
そんな若僧にピシャッと撥ねつけられてみろ、そりゃ切れるって。
なけなしの銭を無くしちまったんだから」
「それで、どうしたんですか?」
僕が尋ねると、社長は小声で言った。
「俺がポケットマネーから5万くれてやったさ。
こっちに出てくることがあったら返してくれればいいからって。
まぁ戻ってこなくたって仕方ないだろうな」
「すいません」
うなだれて謝る僕に、ミズノが言った。
「ま、でもあんなもん振り回されて災難だったな。
チャカだのドスだのっていうのも付き物だけどよ、
チャカよりドスの方が怖ぇだろ?」
確かにそうだった。あの包丁の鈍い銀色の光は
刺された時の痛みまでも容易に連想させるのだ。
僕がうなずくとミズノは笑って言った。
「まぁ、堅気の人間には、
チャカが本物でも贋物でも分からないもんな。
でも刃物は分かるだろ。だから怖いんだよ。
いきなり鞄の中身見せられて
これが原爆だって言われても誰もピンと来ないけど、
爆竹山盛り見せられたら、結構おっかないだろ?
それと一緒だよ」
・・・あれからずいぶん時が流れた。
世間知らずの生意気な小僧も、三十路を越え
所帯を構えるようにまでなった。
ふと気づくとミズノがやってきていた。
改めて見ると、当時に比べればやはり歳をとった。
短く刈り込んだ頭には、白いものが混じっている。
店の場所、オープンの日程・・・
事務的に話を進め、手付け代わりに半金を渡す。
軽くうなずいてからそれを内ポケットに突っ込んで
ミズノは立ち去り際に言った。
「ウチの方に何か情報が入ったら電話するから。
まぁ、十年以上やってんだから、
あんまりウチが出る幕は無いだろうけど」
ミズノが喫茶店を出て行った後、
一人席に残って、冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
彼が言う通り、一通り経験した今は
流石に簡単には動じなくなった。
僕が身につけた経験という名の防具。
代わりに失ったものを一つ一つ数えあげることさえ
僕にとっては簡単なことではないけれど。