(03)
「八郎はいずこに在りや?」
新介は大声で叫んだ。
木陰で休んでいる少年たちの中から一人が立ち上がった。
八郎は、14歳にしては大柄だ。
新介がゆっくりと歩み寄って、八郎の傍らに立った。
3歳年上の兄の新介の方が、八郎よりも背が低い。
「善右衛門兄様がお呼びだ、ついてこい」
八郎は、兄の新介と顔を合わせるのは、久しぶりだ。
ここ1年ほど、八郎は新介と会っていなかった。
八郎は、10日ほど前に伊勢尾張への汐汲み仕事を終えて帰郷したばかりだった。
新介は初陣として先日の戦に参加していた。
戦いはほとんどなかったはずだが、いつの間にか態度が大人びていた。
1年余り離れているだけで、こうも違うものなのか。
八郎は、兄の横顔を見て、ふと昔を思った。
幼いころからいつも、ふたりは一緒だったような気がする。
それとも八郎が新介の後を追いかけていただけなのか…。
そのとき、ぽつりと兄が、八郎おまえ大きくなったな、と声をかけた。
なんだかしっかりしてきたじゃないか、と兄はしみじみと言った。
兄の言葉は、八郎にとって意外だった。
俺も変わったのか?
俺もちょっとは、大人になっているのか。兄さんだけじゃないのか?
八郎は新介とともに、和田屋敷へ向かって並んで歩く。
八郎が屋敷に帰ると、そこには、佐五郎もいた。
佐五郎は、八郎と同じ14歳、在地の農家の子供から、和田の家人として取り立てられた若者だ。
八郎と同じく汐汲みに出ていて、美濃から戻ったばかりだ。
善右衛門惟増は、八郎に告げた。
「伝右衛門兄様より使いがあった。
伊勢尾張の情勢について、八郎から話を聞きたいとの仰せだ。
八郎には、急ぎ近江坂本へ向かってもらう」
「私は、追って近江坂本に行く。
ここにきて戦況が落ち着いたので、近江衆は全軍を引き上げることとなった。
伝右衛門兄様も、和田谷へお戻りになられる。
代わりに私が、将軍家や幕閣との繋ぎ役を務めることになった。
その後、近江坂本には私の配下の数人だけが残ることになる」
「佐五郎を私の従者として連れてゆく。
佐五郎の代わりとして、新介が美濃へ汐汲みに行く」
八郎は、新介兄さんとは、またしばらく会えなくなるなと、隣の兄を見た。
静かに話を聞いている新介の横顔は、穏やかな中に厳しさのある大人の表情だった。
この和田家には、男の兄弟が4人いる。
上から、伝右衛門惟政19歳、新介定利17歳、善右衛門惟増15歳、八郎定秀14歳だ。
だが実際は、惟政惟増2人兄弟と、八郎新介の2人兄弟は、従兄弟になる。
惟政と惟増が実の兄弟で、八郎と新介が実の兄弟だ。
八郎の父、和田貞秀は元々滝川氏の出身だったが、妻が和田本家の娘だったため、
貞秀を婿に取り分家を興し、和田貞秀を名乗っていた。
その後、貞秀は男子3人を得た。
だが和田貞秀と長兄は、八郎がまだ幼い時に戦で亡くなったのである。
さらに数年後には、八郎の母も病で亡くなってしまった。
そのため、新介と八郎は、母の実家である和田本家へ引き取られて育てられていたのだ。
和田本家のあるじ和田惟助とその妻は、4人を分け隔てなく育てたのだ。
だが八郎は、4人兄弟の末っ子として少々甘やかされたかもしれない。
学問を強いられることもなく、ほとんど毎日、和田谷のあちこちへ出かけて、友達と遊んでばかりだった。
八郎と同い年の、佐五郎、杢助、ひとつ下に、源三。
彼らは、和田谷で年の近い、仲の良い朋友だった。
今では、彼らもそれぞれ、汐汲み仕事に出かけている。
八郎は思う。
佐五郎は余り変わっていないようだったが、杢助と源三はどうだろう。
杢助と源三も、近江坂本へ向かっているはずだ。
次に会ったときは、大人っぽく成長しているのだろうか。
和田伝右衛門惟政は、近江坂本にいる。
将軍が近江坂本に到着してひと月もたつと、一方で京の状況も落ち着いてきた。
京からの便りも増え、人々にも動きがみられるようになった。
京に留まった伊勢貞孝からも、将軍へたびたび使いが来ているようだ。
また、将軍とともに近江坂本に来た者の中から、京へ戻るものも増えてきた。
近江衆の軍もすべて解散と決まって、それぞれ故郷に引き上げつつある。
さらに、近いうちに将軍も、朽木へ移られるそうだ。
惟政は、東近江の観音寺城に詰めている和田惟助からの手紙を読み返していた。
父親は今のうちに、将軍や管領、幕閣に 誼を通じておけ、というのだ。
実を言えば、足利将軍が近江に落ちて来たのは、
近江の中小国人にとっては、幕府と直接つながる良い機会だった。
甲賀衆には、自分たちは近江国人衆であり、
近江国の守護の被官ではない、という意識がある。
だが近年、近江守護の六角家の勢力が強くなって、
六角家の配下という立場に甘んじている。
そのため和田の大殿、和田惟助は、
和田家としては、将軍家に直接仕えたいと、常々考えていたのである。
そこで惟助は、今年の摂津出兵にも、六角勢の一員として積極的に兵を出し、
引き上げの際には、近江坂本に嫡子惟政を留め、
今また、惟増に近江坂本への出仕を命じたのであった。
和田伝右衛門惟政は、惟政は今までの成果を振り返って、まずまず良かったと自己評価する。
里へ帰るまでに、何とか高家や将軍に伝手をつけることができた。
和田の大人衆も、将軍にお目見えできるように、しきりに高家に依頼して回ってくれた。
その結果、将軍足利義藤様へのお目通りがかない、
前将軍義晴様や管領細川晴元様や幕閣の方々とも親しく交わることができるようになった。
だが、惟政は嫡男であるため、近く観音寺城へ行かねばならない。
その代わりに、弟の惟増を近江坂本に呼び寄せ、将軍義藤様の近くに使えさせる手はずをととのえた。
義藤様と年齢の近い惟増を、義藤様付きの小姓として仕えさせる。
幕閣高家の若者に加えて、朽木衆六角衆、他の甲賀衆の少年も、近習として働くのだ。
また、惟増とともに和田谷の佐五郎も、義藤様に使えさせる。
和田谷の少年の中で、最も剣の腕の良い男だ。
将軍家では、剣術の技量の高い者や膂力に優れた者を、義藤身辺の護衛として広く集めていた。
甲賀衆から取り立てられた者も多い。
佐五郎はまだ少年だが、そのうちの一人として、充分な技量を持っている。
今回、和田衆が義藤様近くで仕えることができたのは、良い先例になる。
惟政としては、期待以上に満足できる結果といえよう。
やがて秋風が吹いて涼しくなると近江坂本も静かになった。
近江衆の軍も引き上げてしまい、将軍家周辺の者だけが残り、すっかり寂しくなった。
和田谷から惟増が到着して将軍近くに上がり、
伝右衛門惟政も谷へ帰るため、諸家へ別れの挨拶回りをしている。
そのような中で伝右衛門は、
管領の御在所で鉄炮披露の会があるので、見に来ないかと誘いを受けた。
将軍をはじめとして、幕府衆、近江衆、大勢を集めて見物するそうだ。
鉄炮は南蛮渡来の新兵器で、弓矢よりもはるかに強力な武具だ。
数年前に渡来したのだが、日本の職人たちはすぐに製作方法を得て、
今では、鉄炮の生産が、畿内各地に拡がりつつある。
近江の国友村は、大名からの受注生産を中心に量産している。
紀伊根来でも量産されているそうだ。
さらに摂津和泉の堺でも、ようやく量産が始まったので、
その町から商人が、鉄炮を売り込みに来たのだった。
将軍家や管領家は早くから鉄炮に興味を示して、既にいくつか手に入れていた。
近江衆も大身の家では、鉄炮を手に入れているようだ。
だが、和田衆の若者たちは、鉄炮の噂話を聞いていても、実物を見たものは少ない。
近江坂本に留まっている和田衆もわずかになっていたので、
伝右衛門は、家中総てを引き連れて見物に出かけることにした。
侍衆が大勢居並ぶ様子は美しいものだ。
誰が誰だか見知らぬが、御歴々や高家の方々が、神妙な面持ちで座っている。
和田衆も末席に連なって座った。
鉄炮の射手として、数人の男たちが控えている。
準備ができたようで、どこからか、
射手は滝川左近にございます、と良く通る声が聞こえてくる。
その声を合図に、男がひとり、静かに立ち上がった。
年齢は20歳過ぎか、若く壮健な武士だ。
鉄炮を手に立ち上がったその男を見て、伝右衛門は驚いた。
親戚の滝川久助だった。
数年前に滝川家を飛び出して、行方不明になっていた若者だ。
伝右衛門は彼とは何度か、親戚の集まりで会ったことがある。
ただ、親戚といっても彼は、新介と八郎の父方の従兄弟にあたる。
伝右衛門と、新介八郎の兄弟が、従兄弟なので、更に遠い関係だ。
あまりよく知らない男だったが、
博打にはまって家を飛び出し、尾張あたりへ逃げたと聞いていた。
男は、細長い棒のようなものを顔の前へ捧げ、口元から前方に向けて高く掲げた。
棒の末端部分を右頬付近に当てているようだ。
弓につがえた矢の高さくらいか。
棒の先は、的へ向けられている。
静寂が広がる。
男は静か構えたまま、立ち続ける。
(続く)