初めての御利益
七海の自転車が住宅街の坂道を下り、国道に出て十字路を通り過ぎた頃。
それと入れ替わるように、この辺の住宅街では見かけないシルバーの最新型ハイブリット車が坂道をのぼり、黒塗りの塀に囲まれた一軒の古民家の前に横付けされた。
車から降りた恵比寿青年は、錆び付いて半分しか開かない門をすりぬけると玄関前の呼び鈴を押す。
しかし呼び鈴は壊れているらしく、音が聞こえない。
ドアを何回か叩いて声をかけるが、中から返事はなかった。
「この家の住人はディスカウントストア店員の天願七海。タイミングが悪かったな、どこかに出かけているようだ」
さわさわと竹林の木々がすれるさわやかな音がして、建物の敷地に足を踏み入れた時から聖域のような清浄な空気に包まれる。
しかし、ふと庭の方に目を向けると、雑草が生い茂る庭に大量のゴミ袋が転がっていた。
半分開いた雨戸から部屋の中が見えて、薄汚れたカーテンの向こう側はガラクタが散乱している。
恵比寿青年は呆れた表情でこめかみを押さえると、じっくりと古民家を眺めた。
「女子の一人暮らしと聞いていたが、ゴミだらけの汚屋敷とは思わなかった。こんな場所に……様を置いてはおけない、なんとしても自分のところへ来ていただかなくては」
汚屋敷の住人が帰って来るまで車の中で待つつもりでスマホを開いた瞬間、職場から大量のメッセージが届く。
アメリカから帰国したばかりの彼は重要な仕事を抱え、緊急の案件で職場に戻ることになった。
「仕事を片づけてきたのに、このタイミングでトラブルがあるとは、まるで見えない力が僕と……様を会わさないように仕組んでいるみたいだ」
恵比寿青年はため息をつきながら竹林に囲まれたボロ古民家を一瞥すると、急いで車に乗り込んだ。
七海が子供の頃から通う近所のおばちゃん美容室は、流行の髪型はイマイチだが、カットの腕はとても良い。
「ふうっ、すっきりしたぁ。髪を15センチも切ると頭が軽い」
肩より少し長めのラインで美しく切りそろえられ七海の髪は、栗髪でセミロングの人気女優に少し似ている。
「髪を切るだけで三時間もかかるとは、女は面倒くさい」
「これから本屋をのぞいて、夕方五時から居酒屋バイトだから、このまま家には帰らない。小さいおじさんも一緒にバイトに行こう」
「どうしてこのワシが娘のアルバイトにつきあう必要がある。ワシは家に帰る!!」
「でも小さいおじさんを家に一人で置いたらクーラー代がかかるし、晩御飯も作れないよ」
食事を一番楽しみにしている小さいおじさんは、ふてくされて七海の手のひらの上で大の字に倒れ込む。
「でも小さいおじさん、バイト先の店長は元有名料亭の料理人で、夜食のまかない料理はとても美味しいよ。先週はじっくり煮込まれた和牛すじ肉のシチューと、カンパチのアラ汁料理が出た」
「なんと、和牛のシチューにカンパチ汁とは、豪勢なまかない料理だ!!」
「シチューは、和牛スジ肉が赤ワインで長時間煮込まれて、箸で簡単に千切れるくらい柔らかいの。味噌を隠し味に加えた和風のシチューを、白いご飯で食べると最高だった」
激ウマ和牛シチューの話をしていると、その味を思い出してゴクリと唾を飲む。
それを見た小さいおじさんは、体を起こすといそいそと鞄の中に移動した。
「アルバイトなら仕方ない。娘が働いている間、ワシは鞄の番をしてやろう」
こうして七海と小さいおじさんは、家に戻らず居酒屋バイトに直行した。
バイトを終えて家に帰ったのは深夜十二時過ぎ。
しかしそのことを知らない恵比寿青年は、仕事を片付けた後再びボロ古民家の前に戻り、夜十時まで家主の帰りを待っていた。
そして三日後、七海は早朝六時半に襲来した客に叩き起こされることになる。
***
休日が明けても、七海の汚屋敷掃除は続いていた。
昼と夜のダブルワークを終えて家に帰ると、掃除に取りかかる。
庭に放り投げた十個のゴミ袋はすでに片付き、次は家中の古新聞古雑誌、着古した洋服などをまとめて資源ゴミとして処分予定。
そして玄関先に集められた資源ゴミは、玄関を腰の高さまで埋め尽くした。
「一箇所に集めたのはいいけど、この資源ゴミ、どうやってリサイクルセンターまで運ぼう?」
「よくここまでゴミを溜め込んだのぉ。ところで娘よ、ワシの小槌と頭巾と福袋は見つかったか?」
「小さいおじさんの荷物は、あんずさんの部屋にあると思う。これを片付けたら次はあんずさんの部屋をお掃除しよう。汚屋敷脱出まで先は長いっ」
天願家ボロ屋敷は、一階は台所と二間続きの仏間とあんずさんの部屋、二階は七海の部屋と客間二室。
増築を繰り返した古民家はやたらと部屋数が多く、そして荷物も多い。
大量の資源ゴミと格闘した七海は、仕事と掃除の疲れで自分の部屋に戻る気力も無く、仏間の畳の上に倒れ込むと泥のように眠った。
だから古新聞古雑誌の山が玄関をふさぎ、人の出入りできなくなっていることをすっかり忘れていた。
ドンドンドン、ドンドンッ
しつこくドアを叩く音に、七海は夢うつつから醒める。
(誰かがドアを叩いている? そういえば家のインターフォン、壊れたままだ)
体を起こした七海は眠気まなこで時計を見ると、二本の針はほぼ真下、六時三十四分を示していた。
頬に思いっきり畳の跡がついて髪は寝癖がついてバサバサ、昨日大掃除の後、力尽きて倒れるように寝たので着替えもしていない。
ふと横を見ると、小さいおじさんは座布団の上で気持ちよさそうに大の字に寝ている。
「こんな朝早く、どちらさまですか」
七海は不審に思いながら声をかける。
玄関は磨りガラスの引き戸で、向こう側に背の高い男性のシルエットが写っていた。
「おはようございます、天願あんず様にお届け物があります」
「あんずさん宛に宅配便? うわっ、玄関前が全部古新聞で埋まっている」
祖母あんずさんはとても交友関係が広くて、今でも時々知らない人から贈り物が届く。
「すみませーん、今玄関は出入りできないので、庭の縁側に来てください」
玄関は無理と判断した七海は、慌ただしく仏間に戻るとがたがたと雨戸を開く。
庭に生い茂る雑草を踏みしめて現れたのは、宅配便業者ではなかった。
見上げるほどの長身で、一目で一級品とわかる涼し気な灰色のスーツを着た銀縁メガネの男性が、黒いアタッシュケースと小さな箱を抱えて立っている。
鼻筋の通った優しげな顔立ちの、超絶イケメン。
誰もが見惚れるその姿に、しかし七海は不審げに眉を寄せる。
「あなたは誰? とても見事な作り笑い、アルカイックスマイルね」
「初めまして天願七海さん。僕はこちらにいらっしゃる、大黒天様をお迎えに参りました」