小さいおじさんと厚切りトンカツサンドイッチ,
やっと髪を乾かした七海は、大急ぎで仏間の座布団の上に座る小さいおじさんに声をかける。
「娘よ、このミカンはとても甘くて美味しかったぞ」
「小さいおじさんを家に置いてゆけないから、仕事場に連れて行く。私の仕事中は静かにしていたら、ランチは近所で評判の厚切りカツサンドイッチを買ってあげる」
七海はそう言うと小さいおじさんを摘んで、鞄の中に入れた。
家の戸締まりをして自転車かごに小さいおじさんの入った鞄を乗せると、ミカンを口に放り込みながら自転車のペダルを踏んだ。
「それじゃあ、あんずさん、いってきます」
自宅から自転車で十五分、さびれた駅前商店街の中にあるディスカウントストア。
事務所でタイムカードを押した七海は、制服エプロンのポケットにそっと小さいおじさんを忍ばせる。
「今日の特売セールは台所用洗剤。商品はちゃんと準備されているね」
そう呟きながら店の入り口に回った七海は……。
普段は人気のないシャッター商店街に、五十メートルほどの長蛇の列ができていた。
七海は慌てて店内に戻ると、自分より小柄で四歳年上の店長の奥さんに声をかける。
「店長の奥さん、開店待ちのお客さんがこんなに並ぶなんて、いったいなにがあったんですか?」
「それが七海さん、私も全然わけが分からないの。とりあえず店を開けたら速攻でレジに入ってください」
七海と店奥さんが焦っているそばで、普段は開店前に新聞を読みながら缶コーヒーを飲んでいる店長が、せわしく店内をかけずり回り特売洗剤の箱を山積みにしている。
そしてついに午前九時。
開店の音楽が鳴ると同時に、待ちかねた先頭客が店の中になだれ込む。
客は普段より少し安いだけの台所用洗剤を目の色を変えて奪い合い、レジ前には長蛇の列ができた。
七海は必死でレジ打ちをしながら、顔見知りの常連客に声をかける。
「お客様、この特売洗剤って特別汚れが落ちるんですか?」
「特に何もないよ。茶碗を洗おうとしたら、台所用洗剤が切れたから、買いに来た」
「母さんがチラシを見て、台所用洗剤を買って来いと言われたの」
「コンビニで台所用洗剤買おうとしたら売り切れだったから、この店に来た」
常連客の返事はごく普通のありふれたもので、偶然に偶然が重なって大勢の客が押し寄せたらしい。
それから約一時間、特売台所用洗剤は完売した。
「本当に、今朝の騒ぎはなんだったの?」
潮が引くように客がいなくなった店内で、七海はぐったりと商品棚にもたれかかりながら呟くと、エプロンのポケットから小さいおじさんが顔を出した。
「よかったのぉ娘。これはワシが食べたミカンのご利益だ」
「ええっ、これって小さいおじさんのご利益? そういえば居酒屋バイトのぽっちゃり女子が、小さいおじさんを見たら良いことが起こるって話していた」
しかし今回の特売台所用洗剤は原価ぎりぎりのセール品で、大量に売っても儲けは少ない。
在庫が無くなって後から来たお客様に迷惑をかけるし、ご利益と言うより無駄に忙しくなった。
「それはミカン一個分のご利益だから仕方ない」
ポケットから出てきた小さいおじさんは、七海の手のひらの上で偉そうにあぐらをかく。
「つまり小さいおじさんがご飯を食べると良いことが起こる。でも私には、今のところ何のご利益も無いよ」
「そんなの当たり前だ。物が散らかった汚屋敷では、奇跡など起こらない」
小さいおじさんの言葉に、七海はぐうの音も出ない。
「七海さん、仕事中に私用の電話は……。あら、今の話ひとりごとなの?」
無意識のうちに小さいおじさんとの会話が大声になって、それを聞いた店長の奥さんはスマホでおしゃべりをしていると勘違いをした。
七海の両手が空いているのを見て、奥さんは驚く。
彼女には、七海の手のひらに座っている小さいおじさんが見えなかった。
「すみません奥さん、私少し寝不足で、ひとりごとしゃべっていたみたいです」
夜の居酒屋バイトと深夜の大掃除で寝不足で、目の下にうっすらとクマが浮いている七海を見て、店長の奥さんは早めにお昼の休憩に入っていいと告げた。
***
普段のお昼はコンビニ200円サンドイッチ。
しかし今日は小さいおじさんのために、商店街の中にある評判のトンカツ屋の『厚切りトンカツサンドイッチ』を買いに行く。
トンカツ屋は七海が働くディスカウントストアの向かい三件目にあり、香ばしい揚げ物の香りを周囲に漂わせ、通行客は思わす足を止める。
七海がトンカツ屋の店内をのぞくと、まだ十二時前なのにほとんどの席が埋まっていた。
レジ前のショーケースにはお持ち帰り用のカツサンドが並べられ、七海はできるだけ分厚い肉を選ぶ。
「普段は200円サンドイッチしか食べない私が、大奮発してお値段三倍もする厚切りトンカツサンドイッチを買った!!」
「やったぁ、お昼はトンカツじゃ」
「小さいおじさんのご利益は、みかん一個で買い物客が長蛇の列なら、厚切りトンカツサンドイッチならきっと千客万来ね」
厚さ一センチの豚ロース肉は、周囲はしっかりと火が通り中央部分は肉のジューシーさを保った赤茶色の断面が見えた。
こんがり揚がったトンカツの衣と食パンに甘辛いトンカツ屋特製ソースが染み込み、塩もみしたキャベツがギュッと挟まっている。
「カツサンドは四等分に切られているから、三切れは小さいおじさんのランチで、私は一切れ味見する」
「こら娘、ワシより先にごちそうを食べるとは何事だ。ぱくっ、むしゃむしゃ、柔らかい豚ヒレ肉の旨味と、パンにしみこんだ甘辛いソースが絶妙なバランスで、これは美味い!!」
「はむっ、ラードで揚げた衣がサクサクで香ばしい。やっぱりこのお店の厚切りカツサンド最高」
小さいおじさんは厚切りカツサンドイッチに覆い被さると、美味しい美味しいと言いながらサンドイッチを食べている。
サクサクとトンカツの衣を食べる音が聞こえるけど、三切れの厚切りカツサンドイッチに食べられた痕跡はない。
小さいおじさんの食事が終われば、七海は残りのサンドイッチを食べることができる。
お預け状態は七海は、目の前の激うま厚切りカツサンドを見つめながら耐えた。
しばらくして食事を終えた小さいおじさんは、大きなあくびをすると目をこすりながら七海のエプロンのポケットに潜り込む。
「ごちそうさま、ワシは大満足じゃ。ワシはこれから昼寝をするから、娘は午後の仕事頑張れ」
「ちょっと待って小さいおじさん、厚切りカツサンドイッチのご利益を忘れないでね」
七海の声かけも聞こえない様子で、小さいおじさんはポケットの中のハンドタオルに包まると、気持ちよさそうに眠ってしまう。
七海は小さいおじさんが残した、パンの表面が乾いて少しぱさついた厚切りトンカツサンドイッチを食べた。